傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 39 [ 2006年1月 ]


Blues Calendar January
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2006年1月1日(日曜日)

明けましておめでとうございます
本年もよろしくお願い致します

ああ、それにしてもアメリカ人はいい加減。

大晦日のSOBホストのロザでは、司会をボブ・ロペスというローカルなベースのオヤジが務めていた。晴舞台の進行を引き受けて張り切るのは良いが、カウントダウンの予行を何度も客に押し付け、バンドには『おれの合図で蛍の光を始めてくれ』と煩い。そこまできっちりするつもりなら、ちゃんと時計の時間を確かめて欲しい。オレの携帯電話は自動的に時間を調整するので、このiMacと同様に秒単位の狂いもない。オヤジに『あんたの時計は正確なのか?』と訊くと、彼は横柄に『当たり前じゃないか、ちゃんと合わせてきたさ』と応えたが、オレの携帯とは一分以上の狂いがあった。

この時期の日本ではよく掛け持ちをした。元憂歌団の木村さんとバンド(ブルース・ギャング)をしているときは、主宰者が有名人の木村さんにカウントダウンをしてもらいたいがため、オレたちは一番良い順番で演奏することが多かった。ところが何バンドも出演していると、その思惑が外れることもある。

ある年、大阪の大きな会場で前のバンドが押した(遅れること)ので、結局そのセット中で木村さんだけが上がる段取りになった。ところがそこのボーカルは、熱演のあまり木村さんを呼ぶことを忘れてしまった。慌てた主宰者は強引に演奏を止めさせたが、カウントダウンが始まったのは0時を5分も過ぎてからだったので、少し白けたものになった覚えがある。 

昨夜11時54分に始まった2セット目は、演奏中にもかかわらずオヤジがいきなり登場し『あと6分!』とアナウンスする。その時点でオレの携帯は11時56分。もう2分遅れている。ついに新年が明けた瞬間、オヤジは自分の時計すら見ていなかった。

彼はようやくバンドの音を止めさせ、腕時計を見ながら、おれに合わせろとばかりに『テン・ナイン・エイト・・・』と叫び始める。

『ハッピー・ニュー・イヤー!』

と叫ばれた時、世の中(中西部時間)はすでに元旦の0時2分36秒だった。

SOBの演る蛍の光をBGMに、そこここで抱擁とキスが始まっていた。多分、会場のほとんどの人は正確な時刻に興味がなかっただろう。ご託を並べているオレでさえ、その場が一緒に盛り上がれば文句はない。では何故オレは携帯の時計を確かめていたのだろうか?

数年前の大晦日のロザでは、やはり同じオヤジが司会をしていて、そのときも『ちゃんと正確な時刻を合わせてきた、あと残り・・分だ』とうそぶいたので、計ったら2分丁度遅れた。やったー、ボブ・ロペス記録更新!

ボブ・ロペスに、JRをはじめとする日本の正確無比な公共鉄道の真髄を体験させてやりたい。でもオヤジのことだから、3秒と3分の誤差を『変わりない』と言い張るに違いない。


2006年1月2日(月曜日)

さすがに昨日はほとんどの商店が休んでいたが、今日が振り替え休日であるにしても、世の中は普通の日々に戻っているので、オレにすれば正月自体が存在しないに等しい。街は相変わらずクリスマス用の飾り付けが氾濫しており、こいつらは一体クリスマスをいつまでやっておるのだと訝(いぶか)しがる。

元旦はまるで夜勤明けで、午前4時前に帰宅してからせっせと年賀メールを送り、日記も更新した。京都の実家へ電話して昼前に床へ就き、夜の早いうちに起きて鍋をつつき、ニューオリンズの山岸さんに電話で新年のご挨拶。その挨拶にうだうだと一時間も掛かってしまって、気が付けば日付けは二日になってしまっていた。

加入していたケーブルテレビの会社を昨年11月に変えてから、映画専門チャンネルが30局以上に増えたので、あちらこちらの映画を拾い観していると時間はすぐに経ってしまう。また昼前に寝て目が覚めると、はて今日は何日だったか覚えがない。取り敢えず月曜日なので、アーティスへ出向かねばと用意しながら、まだ松の内だと思い到った。こちらへ移住して以来、この時期には毎年何か損をしている気分になる。

重いキーボードを担いで外へ出ると小雨が降っていた。雪にならないこの数週間は、真冬のシカゴとは信じられない。

記憶だけが正月ボケした頭で運転していると、高速を降りた信号には物乞いが立っていた。暖かいといっても、気温は2℃ほどで雨も降っている。物乞いは傘もささず、上半身はランニングシャツ一枚の姿だった。それで風邪も引かず街頭に立つとは・・・健康やん。


2006年1月4日(水曜日)

SOBのドラムのモーズは、バンドの番頭さんである。大抵の場合、現場には一番先に来て、搬入路の確保に持ち込み音響機材の設置、演奏開始時間の管理やMC、オープニング曲の確認・通達(自分が決めるのではなくオレか丸山さんに訊く)、休憩中のCDやTシャツの販売など、裏でみんなを支えている。丸山さんやオレが加入するまでは、後片付けも彼一人がやっていた。

だから音楽のことは別にして、人(主にビリー)の気が付かないところへの気配りに長(た)けている。(2005年2月12日参照

今晩も、バンドの並びにセッティングしたキーボードが、テーブル席と近いことに気付いたようだった。オレにすれば演奏に何の支障もないが、モーズは黙ってテーブルの位置をずらし始める。それほどの間を空けなくてもよかろうと思ったが、彼の見えない親切に対し、こちらも分からないように心の内で感謝した。

開店時に等間隔で置かれたテーブルと椅子は、ひと組でも移動すると、そのバランスが崩れてしまう。かのテーブルは店の両側を仕切る線上に位置し、オレから見て、こちら側とあちら側をつなぐ通路の縁(ふち)でもあった。やがて店内は満席となり、大柄なウエイトレスはお尻を何度もテーブルに打ち付ける。その度に客から睨まれていた。

彼女たちはモーズがオレのためにテーブルを離したことを知る由もなく、彼は店内を横切る通路のひとつが狭まったことを知らない。

モーズは、バンドになくてはならない番頭さんである。


2006年1月8日(日曜日)

SOBが毎週水曜日に出演している南の郊外に在るクラブ、ジェネシスのキッチンのオヤジ(2005年9月7日参照)の従姉妹で、ついこないだまで彼の手伝いをしていたマーゴの姿が見えないと思っていたら、ワーナーかどこかからのデビューが決まったという。同じアフリカ系だということを除けば、太ったオヤジとは体格から顔つきまで似ているところがなく、若くて可愛くスタイルの良いマーゴが芸能界デビューを果たしても不思議ではない。

去年の夏頃、オヤジは休憩中のオレを呼び出した。『実は、マーゴは歌手で、オレがマネージャーなんだ』とデモテープを聴かせながら、『まだどこにも出演したことはないけど、今やってるレコーディングに協力してくれないかな?』と頼む。

自作曲の音源の演奏に粗(あら)は見当たらず、マーゴも声量や音程など、それなりの力量は感じられた。しかし、この程度のコンテンポラリー音楽(最近流行りの黒人歌謡)なら掃いて捨てるほどあるだろうし、小さなクラブの奥で細々とチキンを揚げているオヤジがマネージャーをしていること自体うさん臭い。『おう、いつでも連絡してくれ』と言っておいたが、話半分に聞き流していた。

あれから随分と経つが、オヤジとは毎週顔を合わせるのに、スタジオへ呼ばれるような気配はない。だから、マーゴが休み始めて間もなくデビューが決まったと聞き、すっかり驚いてしまった。すでにヨーロッパと全米ツアーが決定しているらしい。

そのオヤジが、マーゴのビデオ・クリップの撮影があるので観に来てくれという。もし知り合いが本当にメジャーで活躍するのなら喜ばしい。マーゴのデビューに関れなかったことは残念だが、レギュラーバンドに現場仕事で忙しいオレには制約も多いし、あの種の音楽に見合うキーボードなどゴスペル界に大勢いる。ただ、貧相なオヤジの言葉がどこか浮いて聞こえるので、マーゴは本当にその規模でデビューするのか確かめたくて、3日間あるという初日の今日、ダウンタウンの撮影現場である老舗レコード店へ様子を見に行ってきた。

車を停め難いダウンタウンをぐるぐると回って漸く駐車スペースを見付け、一歳一ヶ月の子供を抱き、麗しい奥様を従えて颯爽と店へ入ろうとすると、想像通りドアには鍵が掛かっていた。中を覗くと、奥の方でマーゴがニコニコと白人監督の指示に頷いているのが見える。

日本の超有名ロックバンドから大阪城ホールに招待されたとき、そのバンドの超有名曲のレコーディングでピアノを弾いたKが、武道館だかどこかであったコンサートに招待されたので、彼女を連れて行ったら招待リストに名前が載っていなくて入れてもらえず、すごすごと暴れながら帰ったという話を同行の奥様には言い含めていたが、幸いにもオレたちの名前はリストに載っていたので、みっともないことにならず済んだ。

その時のことを思い出し、今回も奥様には『中へ入れないかも知れませんが、一応様子を見に参りましょう』と保険を付けておいたので、ドアをドンドン叩いてマネージャーのオヤジを呼び出したり、マーゴに迷惑の掛かるような真似はせず、実際に撮影は行われていたという確認も出来たことで目的は達せられ、ビル群の夜景を堪能しながら大人しく帰宅する。ただ、誘っておきながらオレたちが入れる手段を講じなかったオヤジを恨み、とりあえず、この水曜日にオヤジの首を絞めようと思っている。


2006年1月11日(水曜日)

クリーブランドに住むロバート・ジュニア・ロックウッドのレコーディングだと思っていたら、長年ロックウッドのサイドマンを務めたクリーブランド・ファッツのレコーディングで、彼のスポンサーである医者が出資してCDを制作するということだった。サポートはファッツのバンドではなく、リズム隊とキーボードをシカゴで調達するため、彼らはわざわざこちらのスタジオまで足を運んでいる。

愛弟子のために数曲参加するというロックウッドは今回シカゴへ来ず、スタジオには見知った数人のミュージシャン達がいた。5.60年代の音を創りたいためか、時間の制約があるためかは分からない、「せいの」のセッション形式で一緒に録音していく。昼の12時にスタジオへ入り、4時半には5曲を録り終えていた。

そこから60マイル(100キロ弱)離れたジェネシスまでは、夕方のラッシュ時のダウンタウンを通らねばならず、どこかでゆっくり夕食を摂っている暇はない。小規模だが寿司コーナーのある食料品店の「天助」に寄り道をして、運転しながらでもほお張れる寿司パックを買う。

高速は思ったより混んでおらず、2時間余りで店に着いた。機材をゆっくりセッティングしながら日曜日のこと(2006年1月8日参照)を思い出し、キッチンへ駆け込む。コックのオヤジがオレを見て愛想の良い声を出した。『へい、アリヨ、マーゴのビデオ録りに姿を見せなかったな・・・』オヤジの太い首にオレの両手は半分も回り切れず、絞めても大して効き目はなさそうだった。

まるで子猫を戯(じゃ)れ付かせるように、首を絞められていることを意に介さず、オヤジはニコニコとオレから詰(なじ)られている。『携帯へ電話してくれりゃ良かったのに』オヤジの電話番号など知らない。確実にマーゴのプロモーション撮影を見学したかったのなら、彼の携帯番号を最初から聞き出している。面倒な休日の外出を当日に思い立ったのは、去年のジャズフェスのとき観に来てくれたこと(2005年9月7日参照)へのお礼から、「行った」というアリバイを作りたかったに過ぎない。

終演後、車のエンジンが暖まるまでの間、いつもの持ち帰り用チキンウイングをつまんでいると、急に右の奥歯が痛みだした。通勤も含め、今日は午前中からずっと働いている。さすがに疲れて眠たいが、歯の痛みで家までは持ちそうだ。帰宅するまでが労働だと自分に言い聞かせ、ひとつ背筋を伸ばせた。


2006年1月13日(金曜日)

強力女性ボーカリスト、シャロン・ルイスと久し振りのライブ。アンディズというジャズの老舗クラブだが、オレは初めての出演になる。

環境保護団体に勤めるバンマスのクレイグが離れてから、シャロンもそれほどライブはしていなかったので、どんなメンバーが呼ばれているのか不安だった。全員がそろってオレは小躍りしてしまう。

ドラムがシャイライツのトニー・デール、ベースとMC担当のC.C.はR&Bソウル系で、元プリンスの様な長い裾のスーツにバンダナと帽子、ギターのブルースは身長が195センチで最年長。これまでシャロンと一緒に演った中で、オレにとってはベストのメンバーだった。何よりも爆音がなく、技術に伴うメリハリがあって音のバランスが良いミュージシャン達だ。

開演寸前に全員がステージ上に呼ばれる。トニーが右手を差し出すとシャロンが続いた。オレもその上へ片手を添え、もうニ本の手が重なり、最後に再びシャロンの左手が蓋をするように覆った。おっ、体育会系バレーボールチームの試合前の掛け声かと一瞬思ったが違った。シャロンがキャプテンの口上の代わりにお祈りの言葉を呟き始めた。

バックが真っ白だったときは、こんな儀式なかったのに、無宗教で日本人のオレはこっ恥ずかしい。そりゃ客席から見ていたらカッコいいと思ったかも知れないが、ひとり浮いている意識が強く、腰は次第に退けていった。

『今私達がここにあるのも神の思し召しによりウンヌン、神の加護に拠り私達は音楽を演奏することができカンヌン、今日のステージも最後まで大過なくコロコロ』

ブギの曲3コーラス分はあろうかと思うほど彼女の祈りは続く。最後にまた『エーメン』とか言わされたらどうしよう(2004年11月25日参照)と心配したが、シャロンのバンド名「テキサス・ファイヤー」と一段高い声で彼女が言うと、みんなが一斉に「テキサス・ファイヤー」と叫んだ。オレは突然のことに出遅れ、ようやく最後の「イヤー」だけへろへろくっ付くことだできた。

ダウンタウンに在って観光客の多い店にしては客受けも良く、13日の金曜日でありながら何事も起りそうにはない。ところがこんな日に限って、普段なら軽く受け答えするのに妙に突っかかりたくなる気分にさせる奴が現れる。

その若いオシャレな黒人は、前触れもなくオレの前に立って唐突に日本語で話しかけてきた。

『アナタノナマエハ、ナンデスカ?』

『何ですか?』は「物」に対して使う言葉でしょ?第一、アメリカでも見知らぬ者にいきなり"What's your name ? " とは訊かないでしょうが。

怪訝な表情で首を傾げるオレに、彼は『すみません、正しく丁寧な日本語を教えてください』と英語でお願いしてきた。そこで丁寧で失礼のない名前の尋ね方を示してやる。『不躾で大変失礼だとは存じますが、あなた様の御芳名を伺ってもよろしいでしょうか?』では長過ぎて覚えられまい。だから短く簡単にした。

『ナヲナノレ』


2006年1月15日(日曜日)

今月の休みはもう日曜日しかない。20本の現場が入っているが、前半がゆっくりしていたため後半にしわ寄せがきている。

いつも言っていることだが、オレたちの仕事は日本の勤め人に比べ拘束時間は短いし、ラグジュアリーな通勤車中も楽しいので、たとえ毎日演奏していてもそれほど苦ではない。ただ時間を有効に使えず、ベッドで起きるときにしんどいだけだ。それはオレ個人の問題であって、帰宅後風呂も入らずご飯を食べたら直ぐに寝て、万年寝不足のまま、起床後30分もすれば玄関で靴を履かねばならないような忙しさではない。自宅へ戻ってから翌日の出勤までは少なくとも15時間以上あるし、ケーブルテレビに映画専門チャンネルが30数局なくて、DVDやビデオ、コンピューターを持たず、こんな日記も書かなかったら、逆に暇を持て余しているのではないだろうか。ぎりぎりにならないと床に就かないのは、子供時代からの往生際の悪い習慣でしかない。

もしかしたら結構暇かも知れないオレは、そんな寂しい日本人のオアシスであるミツワ詣でに出遅れたため、刺身コーナーに食指の動くようなネタを見付けられなかった。ところが、その近くの別の店で脂の乗ったハマチを見付け、調子に乗り真鯛の刺身までカゴへ入れてしまう。

秋限定の「キノコの山」を帰り道にほうばり、奥歯が痛みだしたときには遅かった。前歯でちょこちょこ噛む程度でしか食べられない。奥歯で噛み砕き、舌の付け根から咽喉頭の味覚を察知するところに楽しみを預けることが出来ないということは、つまりは味が半分も分からないということである。刺身数切れに手を出した後は、みそ汁に残りの飯を投げ入れ啜(すす)り込んで休日の夕飯を終える。そして歯医者へ予約を入れることを考えると憂鬱になり、痛みは少し和いだ。


2006年1月16日(月曜日)

手元に"Blues with the Girls"というCDがある。チェックの支払いを後日精算(2003年9月10日参照)したとき、ボニー・リーがオレに渡したものだ。彼女とゾラ・ヤングとビッグ・タイム・サラが唄っていた。

あのときボニーは何の脈絡もなく『なくさないのならアナタが持っていていいわ』と家の奥から持ってきた。咄嗟に『聴いたらお返しにあがります』と受け取ったが、『なくさないのなら』という条件が付いていたので、早く返して重荷を下ろそうと考えていたのに、2年以上も過ぎてしまっている。

オレは借りたものをいい加減に放っておく人間ではない。ウエストサイドのボニーの自宅までわざわざ届けるのが面倒で、彼女が出演しているノースサイドの店へ持っていけばよいと思っていたが、結局その機会がなかっただけだ。否、CDラックとは別の棚の隅に置かれたCDを見る度に、(早く返さねば)と胸を傷めながら今に到ったのだから、やはり相当いい加減な人間なのだろう。かといって、彼女の出演しているクラブやバンドメンバーに預けるほどの無神経な人間でもない。

先週のレコーディングで一緒だったドラマーのデイブが、毎週月曜日にハルステッド通りの「ブルース」でボニーと演奏しているので、彼女はいつも何時頃に現場入りするのか訊いてみた。『それがさ、ボニーは7時頃、遅くても7時半にはクラブへ来ているみたいなんだ』

思い立ったときに行動を起こさないと、また徒(いたずら)に時が経ってしまう。月曜日はレギュラー仕事の前にピアノレッスンがあり、どうしようもなかった。しかし、そんなに早く店へ出てくるのなら演奏には間に合う。レッスンを断わり「ブルース」へ立ち寄った。

開店前のひっそりとしたクラブのカウンターで、ボニーはドアマンのマット相手にゆったりとした時間を過ごしている。オレの姿を認めると目を細めて手招きした。忘れやすい彼女に恥をかかせないよう、『数年前にご一緒したピアノのアリヨです』と名前を告げた。『覚えてるわよ、久し振りね、元気なの?』と応える。話し方がゆっくりで抑揚がないため、本当に覚えているのかどうかは分からなかった。

レッスンを休んでまでCDを届けたのは、彼女のためを思ってのことではない。今まで返却の催促もなかったし、自分のアルバムをオレに貸したこと自体覚えていない可能性もある。それは僅かでも残っている己の義務感、責任感からの解放のため、いわば自分のための返却なのだ。

『これをお返ししようと思いながら、何年も経ってしまい申し訳ありません』

できるだけ卑屈にならないよう、でも失礼のない笑顔でCDを差し出した。するとボニーは悲しそうな表情で『気に入らなかったの?』と問いかける。

『いえ、なくさないように持っていてとおっしゃったから、聴いてすぐにお返しするつもりだったんです』
『それはアナタのモノよ、私は一枚別に持っているから』
『・・・私はてっきり借りたものだとばかり思っていました』

ボニーは頷きながら"You can keep it"と繰り返している。(どうしてあのとき『アナタがなくさないのなら』って付け加えたのですか)とは訊けなかった。伴奏を務めたとき(2003年8月27日参照)彼女の姪が『おばさんは物忘れが酷くなって困るのよねぇ』と打ち明けたが、ボニーはすべて覚えている。オレの問題は英語ではなく、心の機微を読み取る姿勢に欠けているのだと知った。彼女は『大切にしてくれるのならあげるわ』と言ったのだ。

改めて礼を述べその場を辞する。あの夏、ボニーの昔話に耳を傾けたポーチを思い出していた。彼女と対面していると、南部の土の香と共に、悠久の時間が流れていく。ふと、毎週ボニーに付き合っているドアマンのマークは、オレと同じような気持ちになっているのだろうかと思った。


2006年1月18日(水曜日)

モノラルのAMラジオから流れる音楽って、どこか哀愁があって懐かしく響くから、電波の具合さえ良ければ好き。

ロザ終わりで車のエンジンを暖めていると、最近たまに合わせているAM局から、オーティス・ラッシュのようなギターが聞こえてきた。オーティス・ヨーロッパ公演(1988年)の同行メンバーだったジェームス・ウイラーとオレは、ツアーの面白ネタをトニーに話したばかりだったので、目の前の大型バンに乗り込んだジェームスのところへ歩み寄りAM局に合わせてもらう。

『おっ、確かにオーティスっぽいが、どうかな・・・』
『でも、このフレーズや音質とかオーティスみたいでしょ?』
『うむ、でも唄が出てこないと・・・』

やがて歌声が聞こえてきた。

『あっ、オーティスじゃありませんね』
『ああ、でも聴き覚えのある声・・・』
『ジミー・ジョンソンですよ。ジミーはオーティスが彼のアイドルだったって言ってたから、昔はオーティスそっくりに弾いてたんです』

彼らと知り合う前の日本での会話なら、ブルース好きのただの音楽談義だっただろう。でもここはシカゴで、オレたちが話題にしているのは、個人的に知っているブルースマンだ。ラジオから流れるブルース曲は誰かの友人・知人である場合が多く、つまりオレとジェームスは、内輪話をしているに過ぎない。贅沢なことだ、羨ましい限りだと思う方もいらっしゃるだろうが、事実だから仕方がない。

『なぁんだ、じゃぁまた来週ね』と言い残して、ジェームスはドアを閉た・・・ド、ドア!?ジェームスさん、あなたも世界のブルースファンの憧れの対象のひとりなんですから、車の窓が上げ下げできるように早く修理してくださいよ。


2006年1月20日(金曜日)

SOBで週末のキングストン・マインズ。久しぶりに積もるほどの雪が降り、ようやく冬のシカゴらしい。でも気温はマイナス3℃、まだまだ暖かい。

ピアノのデトロイト・ジェームスが揺曳(ようえい)しながらすり寄ってきて、オレにタバコをねだった。新(さら)をそのままやるのが癪だったので、吸いかけを渡す。彼は悪びれずに眠そうな目を更に細めて、オレのだ液が染み込んだ短いタバコを口へと運んだ。

ピアニストに相応しい最低限の演奏が出来ないからか、いつも酔っぱらい然としているからか、実は嫌なヤツだからなのか、クラブやミュージシャンはジェームスを疎んじている(2004年12月16日参照)。それでも入場料を取られることなく主な店に出入りできるのは、ミュージシャンと認めれば表向きは歓迎する、シカゴブルース業界の不文律による。

デトロイト・ジュニアが昨夏逝去して、シカゴ在住で名前にデトロイトが付くのは、オレの知る限りジェームスひとりになってしまった。メンフィス・スリムやミシシッピー・ジョン・ハートなど、ブルースマンで地名を頭に添えて名乗る人は少なくない。しかし、自らシカゴ何たらとかニューオリンズ某とか名乗るって、恥ずかしくないのだろうか?有名になれば良いが、何かで新聞沙汰になったとき、「自称テキサス誰某」と書かれたら格好悪い。

武士以外が苗字の公称を禁じられていた頃は、江戸の誰某とか遠州の某(なにがし)とか名乗ったのであろうが、名前など自分が誰かを知ってもらう道具のひとつで、ありふれた名だと同名の他人と間違われるから、差別化をするために工夫していた。

確かにジェームスはよくある名前だし、何とかスリムや何とかファッツも、本名を訊いてみればエディやボブだったりするので、ニックネームがそのままミュージシャン名になることもあるのだろう。でもオレと歳の変わらぬ白人のデトロイト・ジェームスは、格好付けに出身地の名前を付けているのが明らかだ。それでも、彼の演奏がそれっぽかったら納得できようが、20数年前と変わらぬ下手なままだから、デトロイト・ジェームスと呼ぶこちらまでが恥ずかしい。

認知されれば、どんなにみっともない名でも美しく響く。B.B.キングにしてもバディ・ガイにしても、業界のスターになって名前が死なずにすんだ。

「アリヨ」は、小学生の時、同級生の誰かが苗字から取って付けたあだ名である。それ以来、気に入って名乗っているし、親しい友達はアリヨと呼ぶ。日本はもとより、(ヨーロッパは別にして)アメリカでもアリヨという名前は他で聞いたことがない。だから業界において自分の固有の名だと考えていたが、「有吉須美人」という立派な本名も珍しいではないか。シカゴではビリー・ブランチと故バレリー・ウェリントン以外、オレの名をフルネームで紹介する人はいない。どうして「アリヨ」だと言い張っているのだろうか?

顧(かえり)みるに、ええ格好しいで、実は他人から見れば格好が悪いことなのかも知れないのに、そちらの方が体裁良く感じたからだ。かといって、今さら本名を周知させるのもややこしくなってしまう。結局はデトロイト・ジェームスと「目くそ鼻くそ」の違いしかない。しかし今なら新聞沙汰になっても、「自称ミュージシャン」とは書かれないはずである。とにかく「自称」とか「元」とか付けられるのは嫌・・・ん!?何でオレが新聞沙汰になるの?


2006年1月21日(土曜日)

昨日に続いてマインズでのライブ。

昨年のMLBワールドシリーズ覇者であるホワイトソックスの投手が来店していて紹介される。球速96マイル(約154キロ)の速球派だが、今シーズンのドラフトで入団したばかりなので顔が知られておらず、あまり人は近寄らない。彼のプライベートを尊重したアメリカ人のエチケットなのかも知れないが、MCのフランクや向かいの店(B.L.U.E.S.オーナー)のロブといった、シカゴ・カブス大ファンと3人だけでテーブルに座っている様が可笑しかった。

昨日たまたま時事通信の取材がマインズ内であったが、もし記者の方がいれば、プライベートに話のできる機会だった。いや、名も忘れた彼がひとりポツンとしているときに話しかけて、『井口(ホワイトソックスの二塁手)に、「せっかくシカゴに住んでるんだから、たまにはブルースクラブにでも遊びに来い」と伝えてくれ』と名刺でも渡しておくんだった。

リコ・マクファーランドが最後のセットで顔を見せる。ビリーは当然呼び出したが、フランクもキーボード席へ上げねばならず、それを知ってリコは『アリヨ、どこ行くんだ』とオレの腕を掴んだ。フランクはデトロイト・ジェームス(昨日の日記参照)と同様に大して弾けないが、クラブの経営者の息子だから無視は出来ない。

リコが演奏を始めるとギターは火を吹き、フロアーで踊っていた客の何人かは棒立ちになって彼を見つめた。ロザの準従業員であるロブ・ブレインが顔を紅潮させて聴き入る。SOBのギタリストのMさんが『とても真似をしようという気にはなれません』と溜め息をつく。リコとメルビン・テイラーに並んで「シカゴブルース界三大早弾きギタリスト」と称されるチコ・バンクスは、『オレ、家帰ってもう一度練習しなおすよ』と目を丸めていた。いつもなら嘘っぽい台詞に聞こえるが、チコの表情が珍しく真剣だったので何故か安心する。

リコはラッキー・ピーターソンやジェームス・コットンのバンドリーダーとして何度か来日しているが、オレとは彼がシュガー・ブルーや故バレリー・ウエリントンのギタリスト時代から親しく、大好きなミュージシャンのひとりである。ソロアルバム(Disc guide 参照)も出しているので自分のライブをやって欲しいのだが、シカゴのクラブは安いからしないと言う。レコーディングもそうだが、決して安売りをしない。

ううう・・・週3本のレギュラーにほとんどの週末を地元のクラブで演奏しているオレは、彼にすれば大バーゲンの大安売りってことになるのか???立ち場なし!


2006年1月24日(火曜日)

ハウス・オブ・ブルースで宴会仕事。日本人ベースのS君といつものようにキッチンを抜けて関係者用の階段を上り、楽屋へ向かっていると、追い掛けてきたのか見知らぬ誰かが呼び止めた。

『どこから来たんだ?』

どこからって、ステージからですと答えるのは間抜けだと一瞬思った。しかし語気は咎めている風でもある。

『へろっ?「私がどこから来たのか」ですか?』
『そうだ』
『日本からです』
『はぁ?』

その男のすぐ後からウエイトレスの女性が現れ『彼らはミュージシャンよ』と告げ口してくれたので、それ以上面白い展開には発展しなかった。男は謝りもせずドアを閉めると周りは静寂に包まれ、何事もなかったようにオレたちは楽屋へ戻った。


2006年1月26日(木曜日)

その男は右膝が悪い様子で、足を引きずっていた。

シカゴは相変わらず暖かいので、交差点では物乞いの姿をよく目にする。彼(彼女)らは、断わっても滅多に悪さをしない。目を合わせないようにするか、近くへ寄ってきて話し掛けられても、済まなそうに肩を窄(すぼ)めて顔を傾(かし)げると離れていく。

ロザへ向かう途中、高速を降りてすぐの交差点に男は立っていた。ここは、足首に包帯を巻いた松葉杖の中年白人女性の出没することが多かったが、何年も同じ場所で怪我を装おうことができないのか、最近は姿を見せない。どうやって場所取りをするのか分からないが、物乞いがダブって立っていることはなかった。

オレの車からニ台前の車が金を渡したようだ。男はそれを押し頂いてこちらへ向かってくる。それで男の右膝が悪いのを知った。包帯をぐるぐる巻いているのが見える・・・それもGパンの上から。おい!


2006年1月27日(金曜日)

「ハウス・オブ・ブルース」でよく一緒に演奏する、唄って(ハーモニカを)吹ける高校教師(歴史)のロブ・ストーンが、『今度ウチの学校でデュオしない?』と誘ってくれていた。

小規模な課外活動の延長だと思っていたら、入り時間が授業時間内の朝9時と聞いて首を傾げる。その上会場は、500人規模の立派なホールだった。学園祭かと尋ねると、通年で週3回、生徒や職員が芝居、詩の朗読、演奏会、講演など、単位に組み込まれる一時間枠の発表会のようなもので、参加する生徒は準備に授業を抜けることもできるという。

ロブの通う "Francis Parker School" は、4才から18才までの私立の一貫校で、ミシガン湖沿いのリンカーンパークに位置する。お金持ちの子女ばかりでもなく、郊外の有名私立校に比べて庶民的な雰囲気があった。校風はいたって自由。学業と遊びの切り替えのできる、しっかりした子供が多い。教師はアシスタント(助手)付きで各々の部屋が与えられ、そこで授業も行われる。隅に小さなピアノやソファーの置かれたロブの部屋は、机も一方向ではないサロン的雰囲気に配置されていた。

一時期教師を目指したオレにとって羨ましかったのは、授業が15-18人と小クラスで、個々の生徒の顔が良く見える仕組みになっていることだ。日本もせめて35人学級にという声が出始めて久しいが、これだけ少子化が進んでもその気配はない。大本(学習指導要領)は詰め込みや競争を進め、子供に考える力を養わせることに熱心ではなさそうなので、アシスタントどころか、教員の定員数を維持することさえ難しいだろう。

大体が指導要領に逆らえば、私立は援助金が削られ、公立なら教師は処分される。教科書検定・選定もさることながら、授業とは直接関係のない学校行事の何がしかに、起立や斉唱をしなかったことで行政処分を受けるに至っては、自分の良心に従えない教師の心中を察すると胸が痛む。

「内心の自由」を優先して、アジアの国々ばかりか、大親友のアメリカにまで小言をいわれている我が国の宰相とダブるが、処分する側の頂点に立つ彼には何の同情も生まれない。言葉の上では被害者・弱者を装っても、弱肉強食の競争社会を目指して失業者を増やし、貧富の差を広げ、近隣諸国ばかりか世界から孤立しつつある元凶と、教師の理念や良心を奪う教育行政とは一体のものだからだ。「子供達に競争させず落ちこぼれも作らない」ことで、去年、「学習到達度調査義務教育世界一」になったフィンランドとはエライ違いである。

大きなセミコンサート用グランドピアノを舞台の中央にセッティングしながら、『ここが満員になるよ』とロブは言った。授業なので当たり前だとは思うが、実際に立ち見が出るほど盛況になったのは、職員の多くも来場したからだ。普段とは異なった催しに、みんなが楽しみにしていたらしい。

『ここの生徒は良い子たちばかりだ』

ロブは"Great"という言葉を使った。日本と比べ高等部の生徒はお世辞にも行儀が良いとはいえない。それでも押し付けられたのではない、大人の振る舞いが見られる。素直で主体性があり、積極的に学習する態度は、この学校の理念や幼少からの一貫教育だけではなく、家庭環境にも負うのだろう。

彼のクラスの16才と18才の生徒がギターとドラム、音楽教師がべースで、途中から参加した。ロザへセッションに来るミュージシャンたちよりしっかりと演奏する。技術もさることながら、オレやロブの指示を飲み込み、即座に反応するだけの姿勢に感心した。リハーサルもほとんどなく、簡単な打ち合わせだけでプロのセッションのような演奏をするには、ベースの音楽教師は別として、二人の高校生が音楽というものを良く理解しているということなのだ。歴史教師のロブが常から趣味で啓蒙しているのだろうが、彼の「グレート・キッズ」という意味が理解できる。

高校教師が外部からピアニストを呼び、授業で教え子と共にリトル・ウォルターやサム・クックの曲を演奏して、生徒や職員たちが喝采を送る。同じ学内の演奏でも行事や単なるイベントではなく、「授業」に参加できたことが嬉しかった。

昼には仕事を終えて、バディ・ガイの前座をする明日の午後9時半までは、丸一日以上の時間があると思うと気分が良い。朝早かったのでかなり眠たかったが、行付けの美容室へ電話すると空いていたので、そのまま郊外へ車を走らせる。ついでに洗車もしてミツワへ寄った。

帰途、高校生のときの進路相談担当を思い出す。テレビドラマの学園もので女性ながら森田健作に憧れ、N先生は教師になったと説明した。『アンタなぁ、教師になりぃ、扱う商品はいきもん(生き物)やねん、おもろいでぇ、アンタ向いてるわぁ』眠気で朦朧となり始め、運転中なので目を固め無理に覚醒しようとしている脳裏に、ロブの言葉が被ってきた。『ライブの次の日でも朝7時前には起きるんだ』

N先生、オレにはやっぱり先生向いてませんわ・・・。


2006年1月28日(土曜日)

バディ・ガイのキーボード、マーティ・サモンの厚情で彼のキーボードを使うことになり、オレは手ぶらでレジェンドへ向かうことが出来たばかりではなく、演奏終了後急かされるように搬出しなくて済んだので、久しぶりにバディ・ガイのステージを観ることも出来た。

ふと先日の日記(2006年1月20日参照)を思い出し、楽屋にいた弟のフィル・ガイにお兄さんの呼び名に付いて訊いてみた。フィルが物心付いた頃には、お姉さんが「バディ」というニックネームを既に与えていて、彼はそれ以外の名前で兄を呼んだことがないと言う。人には不自然でも、本人にはそれなりの事情があるのだと理解する。

そのバディさんは70才を過ぎ、足下のマイク脇へ設置された、液晶モニターに映し出される歌詞を盗み見していた。80を過ぎたB.B.キングは、今のツアーが終われば引退すると宣言したそうだ。バディさんの演奏は想像以上に厳しかったので、引退は近いかも知れない。

そういやウチの年寄りは最高齢がニックの62才とまだ若い。ただドラムのモーズが少し心配なところだと、前座の最中の彼を思い出した。

進行係も務める音響のデイブが、舞台袖からSOB番頭さんのモーズへ向けて両手を広げた。残り10分の合図である。ビリーは自らの独演に夢中でそれに気付かない。間もなくデイブの片手5本が見える。モーズは頷いているが、ビリーのソロはまだ続く。曲が終わり、ビリーは振り向いてモーズに残り時間を尋ねた。彼は片手を広げると『5分』と告げた。オレがすかさず『2-3分』と割って入る。ここはキングストン・マインズと同じく時間に煩い。バディ・ガイの前座のときは尚更である。

モーズは自分の認識が疑われたと勘違いし、『さっきデイブが指を5本出してたじゃないか』と強気になった。『そのさっきから既に2-3分経ってるでしょ』とオレに諭され『ぐふっ!』と萎えた。

モーズは、まだ61才になったばかりである。


2006年1月30日(月曜日)

普段と変わらぬ月曜日。早出で出張ピアノ教師をしてアーティスへ。

ダグなんたらって人がジャムで丸山さんと代わった。唄もギターも野太く、ついでに体つきまで野太い。原生的なブルースの中にモダンなフレーズを覗かせるのは、どこか繊細な心の持ち主なのかも知れなかった。アンプの上に置かれたハンカチで、時折汗だらけの顔を拭くからだ。太って汗掻きの人でも、ハンカチを用意しているのは見たことがない。大抵タオルだが、持たない人も多かった。

終演後の片付けの最中に、丸山さんが手に持った何かを見つめて首を傾げている。

『どうしたんですか?』
『いえ、僕のハンカチがベトベトに濡れてるんですけど、誰かが飲み物をこぼしたのかな・・・』