傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 11 [ 2003年9月 ]


Ariyo and Carlos Johnson
Photo by Chiaki Kato, All rights Reserved.

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2003年9月1日

眠いいぃぃ・・・

先週末予定していたスタジオが流れたので思わぬ3連休となっていたが、金曜はロザのジミー追悼ライブ、土曜は友達のバンドのライブにお呼ばれしていたので、結局ゆっくりしていたのかどうか分からないまま週が明ける。

正午から3時間、シャロン・ルイスのバンドでリハーサルが入っていた。普段午前6時までに就寝することがないので辛い。夕方に少し仮眠してサウスサイドのアーティスへ。

ヨーロッパで体調を崩して以来、ビリーはオープニングをSOBだけに任せている。大将は後から登場する方がスッキリするのだが、SOBのオープニングが長い(時に30分以上)ので、1セット目は大抵3曲程しか演奏しない。2セット目(アーティスではこれが最終セット)に大量のゲスト(要するに店に遊びに来たミュージシャン達)が演奏するので、今日のビリーは全5曲しか唄わなかった。働けビリー!

ドラムからハーモニカまで、演奏したい人は多いのでメンバーは休憩する機会も多いが、鍵盤奏者が来ることはほとんどない。唄えビリー!当然オレは休みなく演奏しているが、捌き切れない程演奏者がいる時は、後半が2時間近くなることさえある。その間の仕切りはSOBの番頭さんであるドラムのモーズが務める。仕切れビリー!

ダレダレのセッションで、大阪から来ていた若者がハーモニカを一つだけ持って登場した。「ハープ一つだけしかないの?」と尋ねると「はい!」と元気良く答える。こりゃ言ってやらないと、出来ないキーで立ち往生すると可哀相。唄とギターのクエイン(ジョアンナ・コナーのサイドギタリスト)に、「彼ハープ一つなのでよろしく」とお願いしてキーを限定。次に登場した唄とギターのスペイン人エドワルドにも伝え、その次にも伝え・・・。

いつもは五万と登場するハーピストも今日は彼一人で、オレの伝言力も効力が消えゆき、次第に若者も立ち往生し始める。ようやく事情を理解したモーズは唖然とした後、カカカカカと開けた大きな口を上に向け、

「この子はセッションに上がるのにハープを一個しか持って来てないんだって!最低12種類は持ってこないと」

と大笑い。でもマイクで皆にアナウンスしなくてもいいでしょうよ・・・、早く下ろしてあげれば良いものを。幸い若者はモーズのミシシッピー訛の言葉が理解できなかったらしく、落ち込んだ様子はなかった。はい!旅の良い想い出にしてください。

結局ビリーは伴奏も含め、計7曲に出演しただけだった。働けビリー!


2003年9月3日


Photo by Hiroshi Bob Sato

ボールゲーム ボールゲーム

シカゴ生まれ日本在住の日系3世B君が遊びに来ていたので、SOBのリハーサルをブチしてリグリーフィールドへ、15年振りのMLB観戦。球場近隣の駐車場は$20-30もするので電車で向かう。

シカゴ・カブスが珍しく地区優勝やワイルドカード争いをしているので、ウイークデーにもかかわらず凄い人出。駅を出るとチケットの束を片手に、「当日チケットは売り切れてるよ」と早速話し掛けてくるダフ屋達。こそこそとしながらも、警官に咎められる境目を知っているのか、意外と大胆に金のやり取りを路上でおこなっている。

最後は彼らに頼むしかないと$50-60の出費は覚悟してきたが、もしもと思い球場の窓口で問い合せると、Club Box席の前から4列目が一人$32で取れた。年下ながら高給取りのB君が支払う。ありがたや。胸踊らせ席に着くと3塁側ブルペンから4mの距離。ありがたや、ありがたや. . . . ..。ホットドッグ(炒めた玉葱が上に乗ったマクセルストリート・スタイル)と飲み物を買って観戦準備完了。ブルペンで投球練習をする先発ピッチャーの息遣いまで感じる近さに、高揚感を抑えられない。

アメリカ国歌斉唱。思ったより大合唱にならなかったが、中東や朝鮮半島の緊張など、世界の情勢を考えるとその場に立っているのはちょっと複雑。野球を純粋に楽しみたいとは思うものの、ここは唯一の超大国アメリカ合衆国。人種のるつぼの、国民として拠る象徴が国旗と国歌では仕方がない。B君をそっと見ると口ずさんでいる。見た目はまったく日本人だが、彼もやはりアメリカ人だと認識させられる。

サミー・ソーサは全速力でライトの定位置まで走ると左へ急ターンし、センターの位置まで来てまた元に戻った。ライトスタンドは総立ちで大喝采。ベン・ジョンソン並の早さにちょっと度胆を抜かれる。

対戦相手のセントルイス・カ−ジナルスのユニフォームや帽子を身に着けた、10名弱がすぐ後ろの席に陣取った。その中の二人の女性がスコアブックまで付けている。かなりのファンと見受けられた。シカゴがホームチームの、ましてやカブスのベンチ側スタンドではさぞ肩身が狭かろうと思ったが、結構大声を上げて声援する。

中盤の5回表までカージナルスが6対0で圧倒していたので、カブスファンはグーの音も出ず、孤軍奮闘かと思われたカージナルスファンは付け上がるばかり。再三のピンチに投球練習を繰り返す中継ぎ投手陣に対し、「はーい、メジャーデビューおめでとおー、サンチェース」とか「セルジオー、2A(3軍)に帰りたいんじゃないのぉー?」とファーストネームで呼んでヤジを飛ばす。敵なのにかなり詳しい。

甲子圓の阪神側スタンドで巨人ファンがユニフォームを着て声援を送っていたら、それだけで刑事事件に発展する可能性が高い。ましてや目の前で地元チームをヤジられたら試合どころではなくなるし、誰もが結末を確定出来る。ところがアメリカ人のおおらかさかカブス劣勢のためか、敵ファンに応えて喧嘩ごしになる輩は一人もいない。

「お前ミズリー州(カ−ジナルスの本拠地)に戻って応援しろよ」
「いや、オレはシカゴのイーストサイドに住んでるんだ」
「イーストサイドはシカゴじゃねぇ!」
(シカゴは大きくノース・サウス・ウエストサイドの3地域に分かれていて、住所にイーストと付く地域は僅かに存在するものの、一般的にはノースかサウスに含まれてしまう)

周囲はそんなやり取りを笑って聞いているが、試合に集中する姿勢は変わらない。鐘や太鼓、旗などもなく、オレは本場の臨場感をゆっくりと楽しんでいた。

試合は中盤からカブスが盛り返し、観客は立ったり座ったりの大忙し。7対7の同点で迎えた8回の裏、アルーのレフト前ヒットが守備要員として入った元オリックスの田口の所へ飛ぶ。3塁ランナーが最後は歩くようにホームへ帰り、結局これが決勝点となる。ホームラン4本、カブス大逆転、田口の出場と、B君にとっては久しぶりの帰郷が嬉しいものとなった。

さて、かのカージナルスファンはと振り返ると、マンガに描いたようにがっくりと肩を落としている。追い討ちをかけるように、今まで黙っていた前列のカブスファンが饒舌になる。しかし「前半にぬか喜びし過ぎだよ」「最後にはオレ達が祝杯をあげるんだ」など、挑発して喧嘩となるような汚い言葉はない。個々のアメリカ人には、相手に対する敬意が感じられ好感が持てる。夜の酒場ではない、昼のボールパーク。子供と一緒に楽しめる、アメリカが世界に誇れる場所である。

田口は守備機会2回、打撃機会なし。ジャムセッションに呼ばれ長く待たされた挙げ句、1曲だけサイドギターを弾いただけのミュージシャンのように目立たず、活躍する機会も与えられなかった。ナイターゲームの少ない3A(2軍)上がりの特徴である日焼けした顔が印象的で、今は試合に参加出来ることが嬉しいに違いない。

日本人だからという理由だけで闇雲に応援することは、物事を純粋に楽しみたいオレの本意ではないが、頑張っている人には応援したい。学生時代に阪神の指名を受けそうになり、阪神に入団したくない理由を並べ立てた田口であってもだ。

芝の緑の鮮やかさが眩しかったのと、天気が良かったのでサングラスを外さなかった。家に帰って鏡を見ると、スキー帰りのようなパンダ顔になっていた。夏なのに恥ずかしい・・・、って暦は既に秋。


2003年9月4日

9月11日の午後10時30分(日本時間9月12日昼12時半)より、ストリーミングでキングストンマインズでのビリー・ブランチ&SOBのライブが生中継されます。
http://www.kingstonmines.com/flash/main.html

http://www.BluesExplosion.com/
で聴けます。


2003年9月9日

今日は一日休み。北西の郊外にある大型日本スーパー「ミツワ」へ買い出しに行くが、先週末の疲れがまだ残っているのでちょっと辛い。

木曜のロザの仕事の翌朝10時過ぎに家を出発。途中メンバーと合流し、オレの愛車とビリーのツアーバンの2台で、シカゴから300km程南に在るイリノイ州立大学シャンぺ−ン校へと向かう。会場である大学のミュージアムに到着したのが午後3時。往路のほとんどを丸山さんに運転してもらい小一時間程車中で眠れた。

機材搬入後ホテルにチェックインするが35分で再集合。隣接するレストランでクラブサンドを注文するも得るまでに25分も要し、部屋で二口程食べたのみで着替えて出発。

会場では最上級のセミフルコンサート用スタインウエイ(¥5.000.000はするでしょう)を利用出来たが、貧弱な音響設備により終始力を込めて叩かねばならずエネルギーを消耗する。

しかしミュージアムのアジアコーナーに、大きな六曲一双の屏風が陳列されていたのには驚いた。古代中国の青銅器や書は硝子ケース等に納められているのに、金屏風は目立つ位置にもかかわらず丸裸で置かれている。解説を読むと17世紀の作で岩佐又兵衛派のものらしい。

源氏物語の「空蝉」と「須磨」を題材にした一双の六枚折りは、金箔が剥がれ落ちたり牛車の構図の一部が不自然に見えるが、全体的には素人目にも豊かな筆致に思えた。戦前にその価値が分からないまま海外に流出した日本の文化財は多い。作者不詳なのに17世紀の作と限定するのなら、せめて柵でも施してもらいたい。せめて「何でも鑑定団」で鑑定してもらいたい。

ミュージアムでの2時間の演奏を終え機材搬出。ホテルに戻り(食べかけのサンドをもう二口)近くのクラブで2本目の仕事。12時には終わると聞いていたのに終演は2時前。私用でそのまま帰宅する丸山さんに付き合うため、ホテルには泊まらず帰り支度。20分でシャワーを浴びサンドを食べ終える。度重なる機材の運搬に疲れ果てながらも3時前にはホテルを出発。帰路はオレが運転して彼を愛妻の元へと送り届け、自宅へ戻ったのは朝の6時前だった。

その夜のバディガイズ・レジェンド、翌日のカンカーキー(南へ100km)のフェスティバル、翌々日のアーティスと続いての今日の休日。全ては金曜の無理がまだ効いている気がする。

ミツワの帰りに、信号で前に泊まった車のリアウインドウを見ると漢字で「速」のシールが貼られていた。ご丁寧にも"Hayaime"と振りローマ字が添えてある。速い目?・・・他の車よりもちょっとだけ速いんや。


2003年9月10日

SOBのリハーサルの帰り、先月末の仕事のギャラを受け取るためウエストサイドに住むボニー・リーを訪ねて来た。もとよりギャラだけを受け取って帰ろうとは思っていない。

小さな一軒家のポーチに置かれた椅子に座って、オレは彼女の話に耳を傾けた。自分を初めて海外に連れて行ってくれたのはサニーランド・スリムで、その時はゾラ・ヤングとビッグタイム・サラが一緒だったとういう話は3回目だったし、日本公演の時の幼女の話は電話も含めて4回目だった。ゴスペルピアノは習ったが、ブルースピアノは弾けないという話も前に聞いていた。

どの話も初めて聞くという顔を作ったが、考えてみればこうしてゆっくりと老ブルースマン(ウーマン)の話を聞く機会が最近は滅多にない。日常に追われ、休みの日はクラブに顔を出すこともためらっている。仕事先で音楽的な話をすることは多いが、先達の想い出話に付き合うことはない。問わず語りの想い出話なんて、プライベートで会わないと中々聞けるものでもない。

オレはブルースの何を愛しているのだろう?

シカゴにやて来た20年前、黒人ブルースマン達に混じり演奏出来るだけで幸せだった。本場のブルースに憧れて、ブルースマンと呼ばれる人々の全てを鑑賞したかった。今では音楽的な質の高さだけを求めている自分がいる。非黒人のオレがブルースを演奏することは、黒人街で見た目の浮いた存在だと感じさせられる疎外感と対峙する。音楽性のみを求めることで自分を納得させてきたが、そんな相克をいつか克服出来るのだろうか?

道ゆく人がボニーに挨拶をしていく。夜に足を踏み入れたくはない地域だが、夕方の黒人住宅街は、道で遊ぶ子供達や仕事帰りの人々で賑わい、懐かしい日本の下町を思い出させた。

ボニーの話は延々と続き、僅か2畳程の広さのポーチには悠久の時が流れている。大都会の住宅街なのに、そのポーチから眺める風景は南部の田舎町にしか見えない。きっとボニーとポーチのせいだろう。黒人街にいる時にいつもどこかで感じている「落ち着かない感情」がなければ、そのまま暗くなるまで彼女の話に付き合っていたかった。


2003年9月11日

キングストン・マインズ、インターネット・ライブ中継。

具合を悪くされて入院中の、ビリー・ブランチ公認「世界一のビリーファン」である日本人のOさんが、この中継を病院で楽しみにしてるとビリーに伝えたら、彼にメッセージを送るから本番で忘れないように合図してくれと頼まれた。大きめの紙にOさんの名前を書き、業界で言うカンペ(カンニングペーパー)を作っておいた。

司会者がいよいよ「では大きな歓声でお願いしまぁーす!ビリー・ブランチ&ザ・・・」と叫び上げる。この機を見計らってカンぺをビリーに見せる。大将、大きく頷く・・・。演奏が始まりOさんの名を言ったのは聞こえたが他はよく聞こえなかった。

収録が終わりビリーにもう一度カンぺを見せた。
「大丈夫、ちゃんと言ったから」
「なんて言ったの?」
大将、目を宙に泳がせて少し考えてから一言。
「忘れた」
「・・・」


2003年9月13日

朝10時出発。車を運転しながらマックンの朝食セットを啄む。インディアナ州の"Bean Blossom Blues Fest."にSOB出演。メインアクトは"The Marshall Tuker Band"。 ステージ裏に停められた彼らの大型ツアーバスが非常に邪魔でした。ホテルに部屋はあるものの、先々週と同じ理由で演奏後即シカゴへ戻る。途中マックンのシーザーサラダを頬張る。だってそんな時間どこも開いてないねんもん。帰宅が午前4時。エエのんかオレは?こんなんで・・・


2003年9月15日

阪神優勝!ゆぅーしょぉー ドンドンドン・・・

前回優勝の85年時もオレはシカゴ在住で、日本から何本かの電話で優勝を知らされた。今はネットがあるため故国の情報は過剰すぎる程で、入ってくるメールも「祝阪神優勝」の文字が踊っている。

しかし昔からのタイガースファンとしては、今年のように外様の多いチームによる優勝には少し複雑だ。特に監督は中日時代から嫌いだった星野なので、応援はしていたもののどこかで冷めていたかも知れない。そういや野村が監督に招聘された頃からその気持ちは続いている。

そう思いながらも、マックに取り込んである音源をバックに「六甲おろし」を取り敢えず唄う。そしてインターネットで見られる限りの記事を読み漁り、シャワーを浴びながらもう一度「六甲おろし」を唄う。仕事に向かう車中では大声で「六甲おろし」を唄い、ちょっと目頭が熱くなった。阪神ファンは阪神が存在するだけで嬉しいものだが、勝負事なのでたまには勝って欲しい。

今日だけはタイガースの法被を着て演奏したかったが、優勝なんか予想していなかったので手元にはない。仕方がないので、自分のマイクに携帯用阪神ストラップを取り付けた。休憩中にクラブの外に出て小声で「六甲おろし」を唄う。それでも何か物足りなかったので、留守電になっていたチャールズ・マック(ジェームス・コットンバンド)の携帯に「六甲おろし」をフルコーラス録れておいた。


2003年9月19日

この3日間でABCプロジェクトのレコーディング作業は終えるつもりだったのに、結局思ったようには進まなかった。最後にはこちらのやる気が失せ兼ねない問題まで持ち上がり、精も根も尽き果てる。

疲れていたのが逆に夜遊びするエネルギーとなって、ジェームス・コットンを観に北の郊外へ向かった。クラブに足を踏み入れると、夕方まで共に苦労していたビリー・ブランチが飛び入りしてハープを吹き捲くっていた。ビリーも何かで今日の憂さを晴らしたかったに違いない。店内にはバンド仲間や知り合いが多く、会う人あう人に愚痴を聞いてもらい自分の憂さも晴らして回った。

ジェームス・コットンは喉を2回手術して声が潰れ、MCさえ何を言っているのか聴き取り難い。歌うこともほとんどなく、大抵はゲストやバックバンドがボーカルを担当する。オレが入店したのは遅かったので、コットンの演奏も一曲しか聴けなかった。

バンドリーダーは本来リコ・マクファーランドだが、代わりにマイク・コールマンがステージにいた。他はあのマック兄弟と、今年の前半毎週火曜日にキングストン・マインズでオレと演奏していたスラム・アレン。ああ・・・この紹介の仕方は煩わしい!ドラムのマークがニューヨークで知り合ったスラムをシカゴに呼んで、弟でベースのチャールズとオレを誘いスラムバンドを結成。オレ以外がコットンバンドに参加した後、ビリーの仕事の合間だけでも良いからと、リコを始めメンバー全員がコットンにオレを推賞してくれていた仲良し達。SOBのメンバーである限り現実的ではないし、もとよりビリーにはその件を伝えていないが、彼らの気持ちはとても嬉しい。終演後にはそんな仲間とのバカ話で癒された。

ただコットンが耳元で、「オレのバンドに来てくれ」「ほらっ、マネージャーはあそこにいるからヤツと話をしろ」と、ビリーの横で囁くのには顔が引きつってしまっていた。


2003年9月20日

今日の夜のSOBの予定表には、エディ“チーフ”クリアウォーターのお店「リザベーション・ブルース」が記されている。店が潰れたのを聞いたのは10日程前だった。

著名ブルースマンの名を冠した(経営参加)お店が長続きすることは少ない。ココ・テイラー、ジェームス・コットン、アイザック・ヘイズなど、シカゴではバディ・ガイのお店(レジェンド)以外終わっている。

数日前にメールで今週末のSOBの予定を確認してきた日本の友人に、「店は既に潰れた」と返信すると、慌てた再返信が返ってきた。その友人の知り合いがネットでビリーのスケジュールを調べ、「リザべーション」目指しシカゴへ向かったが連絡が着かないらしい。運がないとしか申し上げられない。そしてお得意先(出演先)が潰れるのはかなり悲しいことである。

しかしマネージャー様は慌てることなく、「代わりにもっと良い仕事をブッキングしたから」とおっしゃっていた。どちらかといえば「時間も短く、クラブ仕事よりはかなり良い仕事」だと言外に仄めかしあそばす。

ふむ・・・家を出発したのが午後1時20分。ステージ30分。帰宅7時10分。

州境を僅かにミシガン側へ入った所に位置する、ゲィリーという小さな町の野球場。その綺麗な芝のど真ん中にステージが組まれ、本格的なカメラ中継がセンターボードの大画面に映し出されている。何組ものバンドが30分単位で次々に演奏していく、鉄鋼関係の組合のイベントであった。

前のバンドは鉄鋼労働者の作業服とヘルメットを身に着け、時折「外国の鉄鋼」と大書されたボードを放り投げては、「自前の鉄鋼で充分じゃないかぁ!」と会場を盛り上げる。ほれっ?鉄鋼緊急輸入制限(セーフガード)問題で、日本は珍しくアメリカ様とやりあっていたのでは・・・?

丸山さんにそのことを告げると、「ビリーが僕たちを日本人だって紹介するとヤバいですね」と笑顔で答えた。「オレらはミュージシャンやから関係ないよ」と言って観覧席を見渡す。地方の球場とはいえ数千人が収容出来そうな広さだが、閉会間近なのか人はまばらで、そもそも親睦的・家族的なイベントようだ。何かあれば「世界の労働者は連帯すべきで、オレたちもその労働者の一人ですよ」と訴えるつもりでいたが、催しは淡々と地味ぃに終了した。

マネージャー様よりいつもの週末の倍額程の現金を慇懃に手渡され、ほのぼのとした気分で機材を片付け始めた。まだ明るい間に帰宅出来ると気持ちが軽くなり、次いでに口も軽くなって、「これなら夜の仕事があれば2本請け負えましたね」とマネージャー様と語り合う。

丸山さんには、「もしもまだリザベーション・ブルースが潰れていなかったら、夜も仕事が出来たのに」と残念そうに話し掛けると、「えっ、誰と演奏する予定だったんですか?」と尋ねてきた。

「・・・アンタとや!」


2003年9月21日

ずるずるとただ時間だけが過ぎてゆき、ますます泥沼にハマって抜けだせない境遇を思い知らされた先週のスタジオの3日間。毎日寝付きが最悪で、ようやく眠れても直ぐに目が覚めてしまう。少しでも楽になるために、他人のことより自分のことを考え始めていた。

それでも周りのスタッフや家族、仲間に励まされ、そして今晩P-VINEの担当者である高地さんと話ができて、またやる気と情熱が湧いてきた。


2003年9月25日

2週続けて木曜日に別バンドの仕事が入っていたので、今夜は3週間振りのロザ。エディの機嫌がボチボチなこと以外は、ジャムのホストに何も変わりなかった。

実は先日手に入れたCDを聴いて以来、ライブで演奏することが少し恐くなっている。それはソルトレイクシティのクラブ"ZEPHYR"で1984年に演奏された、ジミー・ロジャース・ブルース・オールスターズの海賊版(盤)CD。ジミーやワイルドチャイルド・バトラー、ヒップ・リンチェンと共に、オレやロザの現マネージャーのトニ−がバックを務めている。このサイトの管理人様がネットオークションで競り落とし、コピーして送ってくれたものだ。

オレが演奏している音源の海賊版を初めて手にしたが、自分がメインではないこともあって、著作権や版権のことをとやかく言うつもりはない。違法なものをよく公のオークションに出品したなと、却って感心する程だ。

オレがショックだったのは、むやみに音数の多いピアノを弾きまくる自分の演奏が酷過ぎたことだ。誰が唄っていようと、誰がソロを取っていようとお構いなしに弾いている。あれじゃ、ただ邪魔をしているとしか思えない。おまけに下手くそ・・・。いくら若いとはいえ、およそCDとなって人様に聴いてもらえる演奏ではない。

そんな音源の質とは関係なく出回るのが海賊版であろう。ましてやオレなど一介のバックに過ぎない。翌年85年のロバート・ジュニア・ロックウッドの日本公演のビデオ(DVDになって再版)は、今観ると恥ずかしい演奏だがそれなりの韻を踏んでいるし、レコード会社が発売に耐え得ると判断したのだからよろしかろう。しかし海賊版はこちらが介在する機を与えない。

シカゴのクラブで一部の観客が密かに録音しているのをオレは知っている。ファン心理として録っておきたいのは分かるし、演奏のコピーをする教材にもなるだろう。何より厳密に持ち物検査が出来る程大きな仕事場(人気ロックバンドのコンサート等)でもない。つまりオレたちは、無名ではあっても人に観られる立場である限り、いつも誰かが隠し録りをしていると思って演奏した方が良いということである。

ライブとは、間違えてでも、無理矢理でも、スタジオ録音では採用されないようなキズを作ってでも、思いっきり弾けた演奏をする気構えが大切である。その日の気分で演奏の善し悪しが表出してしまう、それがライブである。ところがその音源が世の中に出ると独立したものとなって一人歩きする。真っ裸のあられもない姿が、不特定多数の人の前に曝け出されるのを覚悟しなければならないのだ。

誰に聴かれても恥ずかしくない演奏を常に出来るよう、自分の技量を高めるしか方策はない。

海賊版の件をトニ−に話したら、そのCDがもっと普及しないものかと言われた。少ぉーしでも自分の名前が世に広まるからだと。なる程、海賊版のミュージシャンへの貢献はその一点に尽きる。

世の中の隠し録り愛好家の皆さん。もしオレの演奏の音源を持っていたら、どうかあなた方が良いと思った演奏のみを流通させてください。


2003年9月26日

キングストンマインズでSOBのライブ。週末のマインズは、1セット目は盛り上がるが2セット目以降の拍手がまばら。しかしステージから客席を眺めていると、音楽をちゃんと聴いている人は後のセットの方が逆に多いように見える。他所の店でも感じるが、本当のブルースファンは遅いセットまで残って静かに楽しんでいる。

ところで昨日の日記の不正確な記述を管理人様より指摘され、訂正しながら妙なジレンマに襲われた。

かの海賊版(盤)CDを管理人様が「競り落とした」とオレは記したが、実際は「競る」までもなく「入札即落札」となるらしい。そして翌日同じCDが再び出品されているのだという。つまりオークションに見せ掛けて単に売り捌いているのだ。

じゃ、「競り落とし」を「手に入れ」にしましょうと返信しかけて・・・?

オレは貴重な一枚を「競り落とし」たと思ったからこの話題を書く気になった。管理人様が、その膨大なコレクションを充実させるだけのために手にされ、封印してくださると信じていたからこその告白だった筈だ。

ところが、この輩がオレの恥部を含んだ稀物を複数ばらまくつもりなら、昨日の日記はこのCDを宣伝しているようではないのか?オレは自分の首をぎゅっと絞める助けをしているじゃないか!こういう場合の「聴くな」は「聴け」になることが間々ある。

「ああ、あのCDのピアノは私ではありません」と今さら言っても、本編ではジミ−が「アリヨッ」って叫んでいるし、何よりジャケット擬にはご丁寧に「Ariyo:piano」と記されている。大体が日記で自分が演奏してますって証言してるわな・・・。

この話題を引きずること自体が、非合法の複製販売に手を貸すことになるのは仕方ない。しかしオレが公にされたくない音源を広めようとするのは許せない!オレは一介のバックミュージシャンかも知れないが、少なくともオレの名前を記す以上、こちらには怒る権利がある筈だ。決して海賊版に怒っているのではない。

出品者はオレの出身地・京都の人間らしい。マイナーな世界だから大して売れるとは思えないが、狭い世界だからこそ誰かはすぐ分かる。他は黙認するけど、このCDだけはどーしたらエエか分かってるやろな?


2003年9月29日

ぐふぉおお・・・夕方起きたら右手首様のご様子がへん・ヘン・変

無理して仕事には行ったけど、家に戻ったら痛くて動かせない

右手では歯も磨けない
箸も持てない
頭も掻けない
御用後の始末も出来ない

明日が休みで良かったものの明後日からの4連ちゃんはどーなる!
左手のみのタイピングでこの日記はどーなる!