傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 25 [ 2004年11月 ]



ROB "SHIROTAPPU" BLAINE used chopsticks.
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2004年11月1日(月曜日)

今年もあと2ヶ月。この一年何をして何を残せたのだろうか。

愛車のマキシが9月の排気検査で不合格になって、マフラーや落ちていたグランド(アース線)の交換を経て、コンピューターに走行データが揃うまで距離を稼がねばならず・・・って車を運転しない人には分りにくい話。

地球温暖化を防ぐ京都議定書発効の最大障害国(CO2最大排出国にして議定書を反故にした)であるアメリカは、何のことはない、企業を保護したいだけで、消費者にはCO2排出検査を厳密にしている。

99年以降の車には走行データを集積するセンサーが取り付けられていて、検査はそのデータをコンピューターで読み取るだけ。どこが悪いとかどこを直せとかではなく、項目毎の数値が出るだけで、排出制限基準に満たない車は90日以内に修理して、修理内容を記載した書類を持ち検査場へ再度赴かねばならない。

日本のように車検制度がないから、それはそれで良いのだが、コンピューターがよろしいというまでは、いろんなところに手を加えねばならず、真冬には常に雪対策の塩が道路に撒かれていて、見えない下腹が痛みやすいシカゴの車は難儀なことこの上ない。ゴージャスな2000年モデルのマキシマSEがとんだ不手際なのだが、お上のおっしゃることに逆らえるはずもない。

3年前にSOBのギターリストの丸山さんから紹介された親切な腕の良い車の修理屋さんは、アパートから徒歩12分のところにあり、年に何回かはお世話になっている。その修理屋さんと約束した日が今朝の7時半。先週の金曜日の早朝にも行ったが、肝心の部分だけデータが不十分で、あと100マイルほど走ってから来て欲しいと言われていた。そしてまだデータ不足・・・。『再検査は早い方が良いから、明日の朝また来て欲しい』と言われすごすごと帰ってきた。

ここ最近、ずっと週4.5日のペースで仕事が入っているから、早朝に30分ほどでも時間を取られるのは体調に悪い。だから目覚めが悪くいくら寝ても熟睡感はないし、いつも頭の中にかすみがかかったような状態が続いている。ただ不思議と、ピアノを演奏しているときだけは調子が良い。


2004年11月3日(水曜日)

昨日の休みは、遅れ気味の日記を数本一気に更新した以外は一日中寝ていた気がする。いやいや、早朝に車の修理屋さんへマキシを持って行き、『もう100マイルほど走って、金曜の朝持ってきてくれる?』と申し訳なさそうに宣告されたんだった。『ホントは何百マイルも走ってからでいいんだけど、その間に別の、走行とは関係ないコンピューターミスで不良データが出るのが怖いんだよ』と説明されて、毎朝無料で検査してくれる修理屋さん(アース線の取付けもタダだった)に文句も言えず、まだ修理屋参りの続く嫌な予感がした。

夜、ジェネシスの休憩中にニューオリンズの山岸さんと電話。

『週末以外にレギュラーが3本になって、やっつけ仕事でかないませんわ』
『アリヨも頑張るなぁ、でもワシはそんなんもうせんわ』
『山岸っさんは単価が高いし、ツアーの多い週末だけで暮らせるからいいですやん』
『ふふふ・・・まぁなっ』
『オレ、こんなに演奏してるのに、全然金貯まりませんよ』
『まぁ、ローカルはなぁ・・・』

中庭にプールのある快適な2ベッド・アパートメントで寛ぐ、オッサンのニヤ気顔が目に浮かんだ。

その日9個注文したBBQウイングは、『ちゃんとコールスローも入れてね』と頼んだ甲斐あって、チキン11個とコールスロー3個が入っていた。


2004年11月4日(木曜日)

ブッシュになったねぇと、大統領選の話題が続いているように思える。イリノイ州は民主党が強いから、みんなよっぽど悔しかったのだろう。早々と敗北宣言をした大金持ちのケリーには、みんなの痛みなんかは分かるわけないとも言っている。でもあんたらがあの人を候補にしたんでしょうと、何度も口から出かけた。

ブッシュがこれからますますぶち壊す世界秩序や(戦費で)自滅しゆくアメリカ経済を、4年後には初の黒人大統領になるパウエルがちょっとだけ元に戻すってことで、アメリカ一国主義(ユニラテラリズム)は続くのでしょうか?パウエルも民主党から出馬したりして・・・。

シロタップのロブが明日から3週間のツアーに出かけるという。初めての長いツアーに、少し上気しているように見えた。日本へ戻ったベースのHが、『あいつ音楽をやってなかったら、ただのレッドネック(無教養な貧困白人:大抵保守的で排斥・差別主義者が多い)ですよ』とかつて言っていたが、ドイツにアイルランドの混じった彼が『くそブッシュ!』と言っているのはどこか可愛い。

今日のロザ初顔。50才は過ぎているのだろう、バンダナで頭を被い、イヤリングにヒップホップな格好は、えらいハッタリを感じたが、嗄れた上に張りのある声と、ハウリング・ウルフから3曲メドレーにしたZ.Z.ヒルのナンバー、最後はストーンズのミス・ユーで締める、なかなか楽しいステージだった。

ロザ・ママに『シュガー・ブルー以来だよ、そんな名前は』と冷やかされていた彼の名は、「ドクター・ブルー」・・・。オレも「ピアノ・ブルー」って名前にしなくて良かった。


2004年11月5日(金曜日)

サウスサイドのアートギャラリーのレセプションにて、デロリスとデュオ。

いっやぁー、お金持ちのアフリカ系アメリカ人も、いるところにはいるんですねぇ。延べ100人近く見た黒人客全員が、小金以上の持ち主だと思いました。$1.000以上の絵画、彫刻がばんばん売れてってましたもん。

しかしアフリカ系(実際のアフリカ人も含めて)アーティストを専門に扱うギャラリーに初めて入って驚いた。ごく普通のギャラリー。確かに黒人を描いたものが多いのだが、金持の住む地域に良く見られるようなギャラリーの、ありふれたディスプレーと作品群なのだ。まぁ黒人芸術家でもほとんどがアメリカ人で、作品を見る限り黒っぽさ(!?)が感じられない。昔見た本場のアフリカン美術の強烈な土俗性とは、比べるべくもない印象だった。

ニューヨークのソーホーは知らないし、オレの審美眼そのものに問題があるのだろうが、シカゴは美術の盛んなところだという認識もないので、こんなものかと思って大判ポスターになっている廉価な作品をペラペラめくって眺めていた。ある一枚に目が止まり係の人に値段を訊ねると、$40だと応えたあと、壁に飾ってある原画を指差してくれる。

背広にコートの黒人男性4人が、あるものは跪(ひざまず)き、あるものは帽子を胸に当て、みな一様に俯いて祈っている。人物が画面のほとんどを占めるので背景が分りにくかったが、右手のわずかに見えるモーテルに覚えがあった。

ロレイン・モーテルはメンフィスに在り、公民権運動の指導者マーチン・ルーサー・キング牧師が、1968年4月凶弾に倒れたところだ。オレはこの夏かの地を訪れ、現在も営業を続けるモーテルの、その向いに建つ「国立公民権博物館」の門扉に刻まれた、彼の演説の有名な一節を何度も読み返していた。

「いつの日か奴隷の子供と奴隷の持ち主だった子供が友人として同じテーブルに付く」「肌の色ではなくその内面で評価される日が来る」と吟ずるように語ったキング牧師の夢は、今ではそれなりの社会の成熟と共に(完全ではないにしても)実現されている。

『このとき私は女子大生で、彼の演説を聞きに行く予定だったの』

絵の中の4人を見つめながら枠外の風景を想像していたオレの横には、いつの間にかデロリスが立っていた。

『でも飛行機が取れなくて・・・最後の演説になってしまったわ』

言い様は悲しげだが、歴史になってしまった黒人運動指導者と同時代を生きた彼女は、過去を懐かしく語っている。

ふと周りを見渡すとすべての人が黒人で、すべての人がオレより豊かに思えてきた。そしてゆっくりと寂しくなっていった。


2004年11月6日(土曜日)

土曜日は一時間の営業延長が許されるので、大抵のクラブは2時半まで演奏を続けさせている。開演時間が厳密に決められている B.L.U.E.S. やキングストンマインズ、レジェンドなどは煩いが、ロザはシカゴ随一の家庭的でフレンドリーなクラブのため、時間通りに始まったことがない。だから時間延長があっても、休憩時間の長さやバンドによっては普段と同じセット数(大抵3セット)しか演奏をしない。そしてSOBはそんな怠惰なバンドのひとつであった。

いつもの演目で1セット目が終わり、表でタバコを吸っていると、『もうお帰りですか?』という声が聞こえた。

『ああ、9時過ぎから来て待っていたのに、ビリーが登場したのは11時過ぎだ』

携帯の時刻を見るとディスプレイは11時45分を表示している。今晩の開演が10時30分。長いインスト1曲に、ドラムのモーズが2曲唄って、丸山さんがまた1曲唄いようやくビリーがステージに上がった。

『またお越しください』と言うドアマンのお愛想には応えず、その客はオレに近寄って来た。『もっと頑張って働けとビリーに言っておいてくれ』と吐き捨てる彼に、『私はそのことでいつも彼と言い合いになるんですがね』と言い返すのが精一杯だった。オレから言うよりも、客から直接言われるのが一番応えるのだが、大将を甘やかすファンはいても苦言を呈する人は少ないようだ。

2セット目は12時20分から1時間、3セット目は1時45分から50分で長い夜は終わったが、結局オレは客からの伝言をビリーに伝えていない。事実は効果的に利用しなければいけないからだ。

先ずオレと客とのやりとりを見ていたドアマンからマネージャーのトニーに報告させ、トニーを焚き付けて<客が帰った事実>を基に店からのオーダーとして時間割りを徹底させる。そこに決してオレの影を見せてはならない。オレの存在をビリーが認めると、オレに言い訳して済ませようとする。オレたちの申し開きは客に対してであって、それは常に最良の音とパフォーマンスでなければいけない。そして<時間>も、パフォーマンスの要素として介在することは言うまでもない。


2004年11月8日(月曜日)

いつものアーティス、いつもの演奏。ラップ好きそうな今風の若い黒人の兄ちゃんが寄って来て、くしゃくしゃの1ドル札を2枚くれた。おひねりなんやろなぁ、でもコインでなくて良かった。


2004年11月10日(水曜日)

ハルステッド通りの老舗クラブ "B.L.U.E.S." の25周年記念ライブ週間。毎日3バンド(日曜のみ4バンド)が出演する。SOBもピストル・ピート、ジョアンナ・コナーズと共に一セットのみの演奏。客が一番賑わう2セット目(午後11時から12時まで)の出演だったので、キーボード持参(ドラムセット、Gアンプ、Bアンプは店が用意していた)のオレだけ次が始まる前に急いで搬出せねばならず、汗だくになってしまった。

そして日替わりで、(ブルースに関する)生涯の業績を讃える "LifetimeAchievements Awards" という賞が、クラブオーナーのロブ・ヘッコより送られる。本日の受賞者はアリゲーター・レコード社長、ブルース・イグロア。クラブ手作りの賞だがよっぽど嬉しかったのだろう。アメリカン・ミュージック・アワーズを模したような、上部が透明の結構立派な楯を受け取ったヒゲ面のブルースは、子供のようにはしゃいでいた。


2004年11月11日(木曜日)

来駕されていたC嬢の母君のお土産ウナギで、特上うな重を腹一杯食べた。まるで専門店で食べたようなお味だった。

早朝の7時半、マキシちゃんの修理・整備終了ぉおお・・・そして本番である排気ガス検査場へ行くと、州民休日でお休みだった。

ロザのジャムホストのジェームス・ウィラーは何故かお休み、シャロン・ルイスの仕事で一緒になるクレイグ(ギター・ボーカル)が来ていた。昼間は環境団体の職員で立派なカイザー髭の彼は、少し堅いが真面目にブルースを演奏する姿勢に好感が持て、オレとの相性も良い。そして、クレイグの慣れないジャムホストをオレたちがサポートしていたとき、ハーモニカ・カーン(2003年1月30日及び2月4日参照)はやって来た。

ロザジャムの夏頃は大盛況で、2時間も待たされた挙げ句ようやくステージに上がって2曲しかリズム・ギター(つまりソロなし)を弾かせてもらえず、『次のギターの方ぁ』と(『誰某さんでした』の紹介なく)下ろされるギタリストもいたことを考えると、ジャマーにとっては今がロザの来時(きどき)だ。待ち時間が少なく、呼ばれればそのセット中ステージで遊ぶことができる。それだけミュージシャンのゲストが減ったということなのだが、名の知れた人や店が認めた常連たちは、混んでいるときでも優先して呼んでもらえる。カーンもそのひとりであった。

仕切りのトニーが早速カーンをステージへ上げると、初顔合わせのクレイグは少し強ばった表情になった。それはカーンの素性を知っているからではなく、彼がどんな曲をどう演奏するのかが分からず、未知の場面への恐れと緊張だったに過ぎない。もっとも、他のジャマーにしてもクレイグにはほとんどが初顔だっただろうが、クレイグに畏怖の念を与えるような雰囲気をカーンは醸(かも)し出していた。

その時のバンドは、大抵のローカル著名ブルース・ミュージシャンとは仕事経験のあるドラムのツイスト・ターナー、メルビン・テイラーの爆音を引き受けてはいるがセッション慣れしていない若いベースのヴィックに、カーンが名前を覚えている数少ないミュージシャンのオレ。

カーンはステージ中央に持参のタップ・ダンス用板を置き、椅子に座って足を踏みならし、カスタネットを弾(はじ)きながらハープを吹き歌を唄う。曲名とキーを告げるといきなり始めるので、それもどこが最初か分からない出だしなので、集中して聴いていないと頭を合わせられない。勇み足からギターで出だしを先行したクレイグは、『オレから始める!』とカーンに一喝された上に、想像通り出だしに付いて来れなかった。

何コーラスか唄うと客席に下りて床に寝転び、足を回転させてカスタネットを鳴らし・・・つまりこれがカーンの大道芸的特技なのだが、このとき彼はバンドに対し『ブレイク』と叫ぶ。みんなの演奏を止め、バンド消音の引き続くリズムの中で「ひとり芸」を披露するのがお決まりなのだ。

何かを挽回しようとしたのだろうか?クレイグは『ブレイク』を『プレイ』と聴き間違え、ギターソロを弾き始めた。人にソロをくれてやることの滅多にないカーンを良く知るオレは、苦笑しながらもそのコーラスを付き合ってやった。2コーラス目の手前で再びカーンはクレイグを指差し『ブレイク!』と叫ぶ。ベテランのツイストまで耳(勘)が悪いのか誰もブレイクはしない。クレイグは当然の如くソロを続ける。

身を乗り出して床に仰臥するカーンを窺うと、今さら起き上がるような不様なことも出来ず、意味のない寝転びを続けねばならない自分を呪っていた。集音もされない床のじたばた音やカスタネットなど、バンド音とギターソロに勝てるはずもなく、客から観れば子供が床に寝転んで駄々をこねているように映るだけだ。

オレは笑いながらベースの方を見て、首に指を当て横線を引いた。ヴィックはようやく気付いたようだが、カーンが再び『ブレイク!』と叫ぶと、クレイグは意地になったように音量を上げソロに熱を込めた。カーン自身がもっと早くに、『プレイ』と間違われたことを気付くべきだったのだろう。無駄に2コーラス以上寝転び待たされた彼は、終に『ストップ、ストップ』と絶叫した。

「カーン殺し」現(あらわ)る


2004年11月12日(金曜日)

オレがジミー・ロジャースに雇われる前のピアニストで歳も近く、また互いのスタイルを認め合っているバレルハウス・チャックが、本日珍しくロザで主役を貰ったので、昨日の演奏後に調律をしてあげて、貴重な今日の休みに再びロザへ参上した。

調律と偉そうに言っているが、大スターであったオレ様は日本では常に調律師が控えており、また斯様な技を磨く必要もなく、ギター程度にしか調律など出来ようはずもない。

かつてブルースやキングストン・マインズに設置されていたピアノが、質屋で買ったばかりのボロギターの如く音の外れた弦が多く、ある鍵(けん)など隣と同じ音程といった凄まじさに閉口し、一応の調律セットは手にしていた。その後オレの専属となった調律師中谷様のご厚意でセットも充実し、現在は僅か一軒となってしまった、生ピアノ常設ブルースクラブのロザのためにだけ使用している。

一度弾けば直ぐにホンキートンク・ピアノに成り変わるロザ・ピアノを、最初の数曲だけのために調律代をトニーに用立てさせるのも頼み辛く、パイントップ・パーキンスのステージを除いては彼も敢えて自分から調律師を呼ぶこともなく、ド素人のオレが適当に格好を付けて事なきを得ていた。

1セット目を終えたチャックは破顔でオレを迎えてくれた。調律を訊ねると一音だけ既に狂っていると言う。調べると一音どころではない、オクターブを弾けば誰の耳にも不協と分かる音が5音以上ある。

短い休憩時間と雑音の中で懸命に調律していたが、時間に煩いクレイグ(お前今日もおったか・・・2004年11月11日参照)が無情にも『残り3分』と告げ、中途半端にピアノを離れるしかなかった。

サニーランド・スリムの愛弟子、チャックが叩く華麗なバレルハウス・ピアノの中高音が気持ち悪く波打っている。(ああ、そこをオクターブでトレモロするな)(その音を連打しないで)と、他人の演奏の調律にかかわってしまった己の迂闊さを恥じていた。そしてチャックが誇らしげにオレを紹介する。

『私の大好きな凄いピアニストで、今日の調律までしてくれたアリヨです』

トニーのケチ・・・


2004年11月13日(土曜日)

一晩で他所のバンドの週末平均の倍額を稼げるレジェンド。いっやぁー、ビリーさんは面倒見がよろしいようで。

珍しくドラムのモーズがダブルブッキングでお休み。マネージャーがまたもやしくじり、彼はジョー・ドラムとヨーロッパへ行ってしまった。代わりの太鼓にSOBは苦労する。

しかしビリーの個人番頭さんのようなモーズ、SOBの24年間で穴を空けたのは今回が2度目だったらしい。よほどビリーに傾倒しているのか前回の穴は20年前で、誰某の当時10才の息子がモーズの代役を務めたそうな。

務まったんや・・・。


2004年11月14日(日曜日)

居眠り運転だったに違いない。夕刻の買物帰りの3車線ハイウエーの真ん中を走っていて、100メートルほど前方の同じ車線を走る車が蛇行し始めたのに気付いた。多分時速は120キロほど出ていたと思う。反射的にアクセルから足を浮かせたそのとき、蛇行していた車は大きく右に曲がったかと思うと左に急反転し、大音響と共に壁に激突した。

危急のとき、人間の脳の働きは異様に活発になる。僅か数秒の間でオレはいろんな場面を想定し考えていた。

蛇行車がどう破壊され、反動でどこに転がるか予想ができない。その車とオレの間には何台もの車が走っているし、慌ててブレーキを踏んでもこちらが後続車に追突されかねない。

他の車が巻き込まれ、思わぬ大惨事に広がる可能性もあるので、先ず、右側の路肩に逃げられるよう、後左右を確認しながら右端のレーンへ車線を変更した。右車線前方にはトラックが走っている。事故車が仮にこちらへきてもトラックにぶつかる。そして大きなトラックは、すぐには止まらない。

オレはトラックの後ろに退避する恰好で、既(すんで)のことで難を避けてすり抜けることが出来た。

後ろを振り返ると一台の車も続いて来ない。結局事故車は左2車線を塞ぐ格好で止まっている。何台が巻き込まれたのかは分からないが、誰も死んでいないことを願った。目の前の事故はテンションが下がる。

その話を友人のMさんにしたら、

『僕もいっぺん高速で居眠りしてて一回転したことあります。他に車走ってなかったんで助かりましたけど・・・』

これからは、アンタの後ろは走らない。


2004年11月17日(水曜日)

ジェネシスのコック、通称 "G-PaPa" に注文したのは、いつものように「BBQウイング9個」だった。そして持ち帰り用パックの中には、最高数の15個が入っていた。

嬉しいけど、そんな一杯要らんて・・・。


2004年11月18日(木曜日)

80年代から90年代にかけて、オーティス・ラッシュ・ブルースバンドを仕切っていたジェームス・ウイラーは職人さんだ。2週間振りにロザで会う彼と、殊勝にも音楽の話がしたくなった。

『あなたとは88年のオーティスとのヨーロッパが始めてのツアーでしたね』
『楽しいツアーだった。ノルウエーでは記者会見もあったしね』
『ええ、私まで同席させられて』

記者会見と言っても、20人程の記者の質問はほとんどがオーティスに対してであって、オレは自己紹介させられた記憶しかない。

『あれがツアー最後の夜で、夜行列車に乗せられてストックホルムまで移動したな』
『すみません。私が翌日シカゴで大切な演奏があったから、間に合うようにプロモーターがスケジュールを調整してくれたんです』

お陰で、白夜に近い「真夏の北欧・夜汽車の旅」を堪能することが出来たのだ。それも各人にトイレ付きコンパートメントの個室があてがわれ、オレは夜通し、薄暗闇に映(は)える白糸の滝や針葉樹の森を眺めて過ごした。

『ニューヨークの空港でアリヨが出て来ないから、みんなでどうしたんだろうと言っていたんだ』
『ご迷惑をお掛けしました。でも私にとっては一大事だったんです。結局、ノルウエーでの写真入りミュージシャン証が決め手となって、入国できなかったんですよ』
『ああ、知っている。ブルースクラブは君の噂で持ち切りだったからね』
『イギリスの雑誌にまで「アリヨが本国へ帰された」と紹介されていましたから』
『今は大丈夫なんだろう?』
『ええ、高い弁護士費用を払ってますから。でも今回の延長申請の結果はまだ出てい
ません』
『大変なんだな』
『外国人が海外で正規に働くのは大変ですよ』

1988年7月、6ヶ国9コンサート1ライブの20日間。ビザの件で一旦国外へ出ると再入国できない可能性もあったが、当時オレが在籍していたバンドのリーダー、バレリー・ウェリントンが、『オーティスのようなビッグネームのブルースマンとの海外ツアーは、アリヨにとっても良い経験になるから、ウチは休んで是非行ってきなさい』と勧めてくれたので実現できた。そして恐れていた通り再入国を拒否され、以後10年間アメリカへは戻れなくなってしまったのだが・・・。

『ところで、あのときの演奏を聴いて驚いたのですが、あなたは見事なまでに、バッキングに撤しますねよね。』
『ああ、サポートと言うのはそういうことだからね』
『でも最近のミュージシャンは、ギタリストに限らず自分を主張することばかりのようですが』
『オレは人のサポートをするとき、相手が何を望んでいるかを考えるんだ。そのために、大抵の曲は何種類かの演り方を知っている』

これはこういうリズムでこう演奏した、この人はこれが好きなのを知っていたからこう演奏したらとても喜んだと、ジェームスは何曲もの例を挙げて説明してくれた。

『そしてオーティスのときは、ホーンが入っていることを想像して演奏したんだ』
『ああそれ、オレも同じですよ。徹底することは出来ませんが、バッキングを意識するときはホーンをイメージすることが多いですね』
『ビッグバンドの感じだな』
『でも、自我を押さえるのは難しいでしょ?』
『昔はどうだったか忘れたが、今は(自我が)あまり出ないな。歳かも知れない』
『みんなが同じスペースに音を埋めようとして、ぶつかるときが多いのですが』
『人の音をちゃんと聴いていれば、ぶつかることはないんだがね』
『人の音を聴いていないというより、余裕がないのか聴こえない人もいますよね。それと全体的に音が大きい』
『だからオレは、小さな音でもダイナミックに演奏できるよう心掛けているんだ』
『音のメリハリですね。時おりあなたがわざとマイクから離れて唄うことで、バンドは極端に音量を下げざるを得ませんものね』
『それと、バランスが大切だよな』

常識的なことばかりだが、演奏で示す彼の言葉には説得力がある。

「少しのことにも先達はあらまほしきことなり」(些細なことでもその道の案内者はいてほしいものである)


2004年11月19日(金曜日)

わーい、わーい 今日から3連休

・・・何して遊ぼ


2004年11月21日(日曜日)

連休も終わりに近付く。しかしこの3日間でしたことは、買物、買い食い、ビデオ映画観賞、友人の個人録音の手伝い、買物、ビデオ映画観賞・・・あとは寝ていた。

いいのか? こんなことで・・・


2004年11月24日(水曜日)

午前中に雑用があり、分割睡眠の2度目の就寝が午後2時半。ギリギリまで寝ていてギリギリにアパートを出て、キーボードを抱え駐車場に廻って気が萎えた。ご機嫌マキシちゃんは真っ白に化粧されていて、水分をたんと含んだ重い雪で覆われている。

初雪。

時間がないので取り敢えずエンジンを暖めながら雪落としを・・・うっ、冷たい!手袋手袋。あっ、部屋へ取りに戻る時間がない。溜め息が眼前を白く漂い、マンガの吹き出しになった。『もう今日行くの止めたろか!』

シーンズン最初の積雪は街中を大渋滞にさせる。夕刻の帰宅ラッシュとかち合い、94号線は予定通り牛歩の如し。行程の半分にも満たないダウンタウンまで1時間掛かり、本日2回目の『もう今日は仕事止めじゃ!』

南郊外のジェネシスにはギリで間に合ったものの、モールの駐車場で車から足を踏み出しキレかけた。パチョッティ(イタリア製高級靴)がびしょびしょ。地面は、海の家で頼んだかき氷が5分ほど待たされた如きに。本日3回目『もう仕事止めじゃ!』現場に着いてしまってから吠えても面白くない。

靴が傷むのは諦めて、高級機材を濡らさないように用心して搬入。楽しみは空腹を満たす、恒例のBBQウイングのみ。はて、キッチンが暗いように見受けられるが・・・マネージャーの一言。『コックのサンクスギビング休暇でお休み』

『止めじゃ!止めじゃ!』


2004年11月25日(木曜日)

サンクスギビングでロザはお休み。ロザ・ドアマンのDJとその彼女にディナーを招待された。

DJは父親が1954年に購入したウエストサイドの家に今も住み、隣に住むジャニスとは幼馴染み。大きくなって彼女は30年近く他所の街で暮らしていたが、お互いの両親も亡くなり、最近戻って来て付き合いが始まったという。50才を過ぎた二人の関係は初々しく、傍で見ていて微笑ましい。

聾唖者ではないがジャニスは生まれつき耳が不自由で、常にDJが労っている。話す方は問題ないので、どの程度聴こえないのか想像はできないが、読唇も併用して会話する。オレのような間違いだらけの英語でも、唇の動きで理解出来るのだから、それはとても素晴らしい能力に違いない。

ジャニスが3日間かけて作った伝統的「感謝祭料理」が食卓に並べられた。ターキー丸ごと。ハム太もも丸ごと、ラザニア風のもの、緑野菜煮、ポテトサラダ、茶色のポテトサラダみたいなもの、チョコレートケーキ、アップルパイなど等。

アメリカ政府の食料安全政策やその態度に憤慨し続け(レジスタンス:狂牛病感染を恐れているのではない)、いまだ米産牛肉を食べていないオレは、全種類を皿に取りながら牛の片鱗に用心した。しかしメインはターキーだしハムは豚。あとは野菜やマカロニなので安心する。

皿に盛り終えたところでDJが一堂を集め、輪になり手を繋いでお祈りを始める。おお、映画とかで見た風景。これまで幾度か呼ばれた宴会も、手までは繋がなかった。疑似家族になった気分で自然と神妙になる。各々が俯き彼の言葉を聞き入る、その敬虔ぶりに、浮かれたイベントではないことを思い知らされる。

DJは祈りの最後に『エーメン』と呟いた。オレはその瞬間迷っていたにもかかわらず、みんなと同時に『エーメン』と吐(つ)いていた。人の信心を敬い、内心の自由を尊ぶからこそ、何とも言えない自己嫌悪に陥ってしまう。

『神の存在を信じていなくても、たとえ無宗教であっても、お前はオレの友達だ』というDJの言葉が心に残る。食べる前に手を合わせて、『戴きます』と言うことで相殺するしかなかった。

黒人料理は日本人の口に合うものが多い。かつて最貧困層だったときに、安い食材を工夫して食べた歴史があるからだろう。ジャニスの料理はどれも美味しかった。

一皿目を食べ終えようとしていたとき、隣から『このラザニアに牛ミンチが入ってなかった?』という声が聞こえた。ハッ!

「覆水盆に返らず」

「嚥下物皿に返らず」


2004年11月26日(金曜日)

週末のキグストン・マインズは、サンクスギビング休暇の州外客でごったがえし、コンベンションがあったのか日本人の団体も相当いたようだ。第一セット後の休憩中は向いのブルースで過ごしていた。ジミー・ジョンソンは若いユニットを引き連れ、音楽的習熟度の高い演奏で魅せてくれる。

サイドギターがチコ・バンクス、キーボードのルーズベルト(ハッター)にベースのスリムとドラムのビッグ・レイ。ビジュアル的にもカッコが良い。エンターティメントなのだから、やはり見た目も大切に違いない。客の聴き込み方が、SOBのときとは違って映るのが悔しいったらありゃしない。ウチのメンバーで、女性との浮いた噂が出る人なんておりませんもの、おホホホ・・・ボスッ、ドコッ。

マインズに戻ると、SOBの番頭さんのモーズがぽつねんと座っていた。少しはヤツらを見習って女性客に声でも掛けたら?まだ独身なんだから。彼はニ度の結婚生活で女性はもう懲り懲りだと言っている。確かにこの春に出来た彼女とは、まだ茶飲み友達らしい。

2回目の休憩中に珍しくヴィンス(ギター・ボーカル)が現れた。彼も昔ヴァレリー・ウエリントンバンドに在籍していたので、2年振りの再会が互いに懐かしい。今年結婚したというがツレの女性は奥方ではなさそうだった。そうでなくっちゃ、ミュージシャンはね。あっ、そこの良い子。下手に真似すると音楽どころではなくなるから・・・ドスッ、グフッ。

ヴィンスはマインズMCのフランクに煽られ、隣のステージで演奏していたリンゼイ・アレキサンダーのギターで、文字どおり火の吹くようなギターを弾いてくれた。『伝説のギタリスト』とアナウンスされるに相応しい。ヴァレリー時代の同窓生と演奏することは(SOBのニック以外)滅多にないが、会えばいつも『いつかまた一緒に仕事したいね』と口に出てくる。みんな各々腕は上がったが、いろんなしがらみがトランプ・カードの巡り合わせのようで、時宜(じぎ)に適わないとどうしようもない。

別れ際、『直ぐに連絡するから』と言っていたが、忙しい日々に追われていつになるか分からないのも知っている。加えて『Oh, My Baby Boy』(末っ子)とも呼んでいたが、それはヴィンス、オレの方が年上やて。


2004年11月27日(土曜日)

マインズの長い夜を終えようとしていたとき、昨晩に続いてヴィンス・アグワダ(G)が姿を見せた。

『ベビー・ボーイって呼んだやろ(2004年11月26日参照)、オレの方が年上やんけ』
『えっ、そうだったぁ?じゃ、これからはお爺ちゃんって呼ぶよ』

ひと気のない第一ステージの客席で、仕事や将来のことなど話し込んでいると、レジェンドでのカルロス・ジョンソンのライブを終えて立ち寄っていたブレディ・ウイリアムス(Drm)が、リンゼイの演奏する最終セットの第ニステージがある隣の部屋から現れた。彼もヴィンスとは久し振りだったらしく、オレたちを見付けて破顔で近寄ってくる。

気が付くと、もう帰宅したと思っていたSOBのニック(B)も横に立っていた。しばらくして全員が『えっ!?』と顔を見合わせる。4人は故ヴァレリー・ウェリントンバンドのメンバーではないか。オレとニックとブレディがオリジナルで、ヴィンスが在籍していたのは僅かな期間だが、いっときでも共に活動したメンバーが揃うのは16年振りになる。

『太ったな』
『アタマ薄くなってる』
『白髪染めか?』
『老眼?』
『糖尿!?』

普段一緒にいるのでニックとは昔話しを滅多にしないが、当時の仲間が揃うと現在の老け様を互いに確認し合ってしまう。みんな青春時代が懐かしいのだ。

『あの頃は若かった』
『シェヴィーのテレビコマーシャルに出演したの覚えてる?』
『マクドナルドのラジオスポットもやったね』
『ピザハット』
『ミケロブビールも』

珍しいヴィンスの出現が切っ掛けとなり、次々に想い出話が飛び出してくる。

『オープラ・ウィンフリーとシカゴ・トリビューンのパーティで』
『マイケル・ジョーダンのレストランのオープニングで』
『NFLシカゴ・ベアーズのFBニール・アンダーソンが』
『ブライアン・デネヒーが』(2003年2月4日参照
『デビット・ボーイが』

有名人の名も次々と。

『ヴァレリー、最後は映画に出演したね』
『ジェリー・リー・ルイスの自伝映画』
『グレート・ボールズ・オブ・ファイヤー』

そして、若くして逝ったヴァレリーを偲ぶ。

『彼女みたいなボーカルいないよ』
『いない』
『オレたちも、いいバンドだった』
『いいバンドだった』
『若かったよ、みんな』
『ああ、若かった』
『彼女を含めた全員が20代半ばで・・・ん!?』
『・・・』
『ニック、あんただけ既に40才を越えていたでしょっ!』


2004年11月28日(日曜日)

管理人様から、「ブライアン・デネヒー話」と次の「ハーモニカ・カーン話」の日付けが同じ2003年2月4日(同日参照)になっているというご指摘を頂いた。正しくは「カーン話」が2月8日の土曜日だったのだが、過去日記を整理していて「8日8日ようかようかようか・・・よっかよっか4日」で4日となったようだ。

ネタやな 大概


2004年11月29日(月曜日)

うう・・・、、マキシちゃんの助手席側フロントガラス。手に入れたときから端の方に少しヒビが入っていたが、米南部旅行や最近の寒暖の差で少しずつ広がっていき、ついにワイパーの範囲にまで進行してきた。今日なんか一日で2センチも進んでる・・・マキシちゃん若いのに病弱。

SOB公認、丸山さんの誕生会がアーティスで催された。DJブースの上の壁には「ミノルの誕生会」と大書された、縦50センチ横150センチのポスターが貼ってある。丸山さん、晴れがましくも少し面映そう。

オレが彼に贈ったディーゼルのジャケットは窮屈だったらしく、着るために痩せるという。丸山さんねぇ、最近の若者用ジャケットは窮屈で正解なの。ビジュアル(2004年11月26日)のためには我慢して慣れてください。

休憩中に車の中で電話しながらタバコを吸っていると、身なりの悪くない若い兄ちゃんが『ガソリン代を恵んでくれることは可能でしょうか?』と丁寧に訊いてきたので、『ガソリン代を恵んでやることは不可能です』と丁寧に断わった。演奏が始まり暫くしてその兄ちゃんが店に入ってきたので、「酒代だったのね」と思ったが、後に太った若い姉ちゃんをお持ち帰りしたので、「別途代だったかも知れない」と思い直した。

兄ちゃんに話し掛けられる前、見覚えのある車が裏の辻に停まり、ほどなく別の車が現れ、何やら商談を瞬時に終え去って行ったのを目撃した。そういや以前も同じ状況でどこからともなく男が徒歩で現れ、手の平に収まる位の小さな紙包みを金と引き換えに渡していたのを覚えている。「ああ、薬の行商か」と悟ったが、ガソリン代をたかる兄ちゃんの方が、少しはましな生き方をしているだろう。