2005年9月1日(木曜日) 海外公演からシカゴへ戻ったら夏も終わっていたが、暦が九月になると余計に寂しくなる。 今晩のロザ・ジャムは、先週に続き白人若手ギタリストのロブ・ブレインを立てるので、表には彼の名前がプリントされた紙が貼られていた。オレのポスターが見当たらないのは、人が持っていったりして、いつも使われている残った一枚がボロボロになったからだが、最初からたくさんあるわけでもなく、新しいのを作れよとトニーにせっつくほど、自分の売り込みを積極的にする気も起きない。個人ポスターがあるだけでも感謝の気持ちで一杯だからだ。 セッションは結構な盛況だったが、新顔のミュージシャンたちは演奏を終えると、『ありがとう、アリヨ』と名指しでステージを降りていくのを不思議に思っていた。確かにオレもホストバンドの一員だが、誰が前にいても、マネージャーのトニーが裏で仕切っている。 ふふふ、自分で思っている以上にオレの名前は浸透しているのかとほくそ笑んだが、九月のロザのスケージュールを記した、ポストカードのようなチラシを見ると、第一週と四週の木曜日の欄は"Jam with Ariyo"だけになっていた。オレの名前はいつも載せられているが、オレだけになることはない。 『MCもせず、唄すら歌わないオレを前面に出すのはおかしいんじゃないか?』とトニーに問うと、彼は笑みを浮かべ、配られたばかりの分厚い"CHICAGO READER"を開いて見せた。結構な宣伝費を使っているロザの広告には、木曜日に"ARIYO BLUES JAM"と記されている。 仲良しのトニーが、オレの歓心を買うためだけに載せているのではない。ロザに巣食うオレの人気・知名度が上がれば、店の売り上げに繋がるという得も生じる。しかし使われる側は、そんな役割を負っているわけでもないから面映くて仕方がない。 休憩中、入口付近で休んでいると、電話の応対をしているドアマンのジョーの声が耳に入ってきた。 『今晩のローザズ・ラウンジのショウは、世界的なブルース・ピアニスト、アリヨとのセッションです』 おいおい君ら、オレをどこへ連れていくつもりなの? 2005年9月2日(金曜日) この街最大の無料情報新聞 "CHICAGO READER" には、シカゴ・ジャズフェスティバルの詳細スケジュールが載っていた。やっぱりオレの名前はフルネームの本名(2005年8月27日参照)で、簡単な解説に続いて「昼下がりのひとときを、ジャズとブルースでお楽しみください」とある。 晴舞台が明日に迫っていても、まだ演目すら決めていない。 2005年9月3日(土曜日) ジャズフェス終了。しかし何故かあまり感動してはいない。大過なく終わった安堵感の方が大きい。 決して調子は悪くなかったが、音は今ひとつだったのだ。鍵盤の重さや演奏条件など理由はいろいろあるが、すべて言い訳になってしまう。最後は気持ちの問題だったのだろう。一昨年のブルースフェスのときもそうだったのだが、オレは決められた時間内に終わろうと、忙しなく弾いてしまう精神的な弱さを自覚している。 晴天下の気温は摂氏30度近かったが日陰に入ると涼しい。三カ所にある大・中・小のステージも、ブルースフェスのときとは違い同時進行せず、週末ののんびりした昼下がりに数百人は集(つど)っていた。 ジャズ好きの人は静かに聴く傾向があるため最初は戸惑ったが、一曲毎の拍手はステージへ好意的に響く。わざわざ観にいらしてくれた、オーティス・ラッシュ夫人のマサキさんの声援が耳に入り少し落ち着いた。 サウンドチェックもできなかった小ステージだが、さすがにフェスティバルだけあって音響の質は申し分ない。特に歌声が自分のものとは思えない艶があり、モニターよりも、外の大スピーカーから出た音が、グランドパークの周りの樹木に吸収されていく様を目で追いながら、気持ち良く唄う。 昨夜ようやく演目を決めた"Iko Iko"を演る前には、「ハリケーンで被災したニューオリンズへ捧げます」とMCすると、「おお・・」といった反応があった。こりゃ客もコーラスしてくれるなと煽らなかったら、結局何もない。 手拍子を求めたり、ハイ、ここでコーラスですよ、などの「動」のエンターティメントよりも、自然な「静」を目指しているので、思惑と任とは違うのかも知れない。もし世界的な陸上競技大会で、走り幅跳びや高飛びに出場することがあっても、オレは決して観客に手拍子を求めなかったはずなのだ。 望んでもいないのに拍手していないか、何かを強制してはいないかと、要らぬ心配をすることは、精神的によろしくない。楽しんでもらってるかと思うサービス心は大切だが、逆に言えば、周りを気にせず自分のペースに持ち込み難いからだ。 実は一昨日、殊勝にもロザへ早出し、店のグランドピアノで練習した。何十年も弾いている曲や最近覚えたものまで、そのすべてが気持ち良く、楽しく演奏できた。これが何故本番で再現できないかは、技量の問題も大きいが、先に述べた神経の図太さに欠けるからではないだろうか。 それはどこか体操競技に似ていて、ここはE難度よりも無難にCで切り抜けようとか、点数をまとめるために、失敗なく綺麗に終わろうといった気持ちは、一般的に「弱き」と呼ばれる。そして突然話は野球に飛んでしまうが、その「弱き」を認めるのが嫌で、「打ってみろ、打たれたら仕方がない」という気持ちで力み過ぎ、デッドボールを与えてしまうことが多いのだ。 そんなときキャッチャーが駆け寄り、「おいおい、肩の力を抜けよ、お前は最高のピッチャーなんだからさぁ、普段通りに投げてりゃ打たれないさ」と励ますのだが、ソロ演奏の場合、誰も助けに来てはくれない。観客のつかみ所のない歓声に気分が良くはなっても、自分が納得いく演奏をするためには、雑念を取り除いた無我の境地に到らねばならない。 そういった人知れぬ憂さを晴らせてくれるのが、ファンや評判なのであろう。演奏後のステージ裏(実際は柵で仕切られているだけで、ほとんどオープンになっている)は、写真撮影や雑誌インタビュー、CDを買い求める人々で混雑した。手持ちの"PIANO BLUE"を売り切っても尚、7.8人が「どこでどうやったら手に入るのか」と訊いてくる。そのとき初めて、「ああ、オレひとりが演奏したのだな」といった妙な感慨が生まれてきた。 その上、会場で手に入れた"Chicago Jazz Magazine"には、「アリヨは、シカゴで最も尊敬されるブルース・ピアニストのひとりとなった」という出だしで、演奏スタイルの詳しい解説が書かれている。 ビリーやSOBを離れてソロで演ることを目指している訳ではないが、日本から離れこの地へやってきて、公に認められているという実感が湧いていた。 夜のロザで、『今日ジャズフェスで演奏してきたんだろ、どうだった?』とビリーが尋ねてきた。 『まぁまぁでしたが、持っていったCDは全部売れましたよ』 『グッド』と言った彼の言葉からは、彼のバンドではなく、オレがソロで出演したことへの複雑な思いが感じられた。 フェスの司会者が、所属するSOBのライブを告知したことで、やってきた人がどれほどいるかは分からない。実際、満員の店内では、昼間のことを誰からも話し掛けられなかったし、途中で帰った人も多かった。その中にフェスから来た人がいたかも知れないが、静かなソロ演奏と、決してオレが主役ではない爆音のバンドとのギャップは一目瞭然だ。観に行きたいから住所を教えて欲しいと、熱心だった州外からの若い女性の姿もなかった。 『フェスを観た人は来ていたか?』 終演後の支払いのとき、ビリーは何かを確認するかのように尋ねた。『ハイ、何人かには会いました』この街で最も尊敬されるブルース・ピアニストは、その夜の雇い主へ小さな嘘をついていた。そしてビリーは再び・・・『Good!』 2005年9月7日(水曜日) ジェネシスのキッチン(2005年1月12日参照)へ、今晩のご飯になるいつものチキン・ウイング6個を注文しに入ると、丸っこいオヤジは破顔で『おう、ジャズフェス(2005年9月3日参照)すっごい良かったぞ!』と迎えた。 『あれっ、来てくれてたの?』 二人の会話を聞いていた知らない兄ちゃんが口をはさんだ。 『どれぐらい人が入ってたんだ?』 オレのチキンを揚げてくれるオヤジは、上目遣いで宙を一瞬見つめて真顔で答えた。 『大体50.000人くらい』 そんな入ってるわけないやろ! 『そりゃすげぇ!』 ・・・信じるなよ。 2005年9月8日(木曜日) 夕方、ロブ・ストーンとブルース・ブラザーズ擬(もど)きのショウがあったため、今日はロザの"Ariyo Blues Jam"と2本立て。 シカゴにはブルース・ハーピストは多いが、ビリー・ブランチも含めて、リトル・ウォルターのフレーズをしっかりとコピーしている人は少ない。高校教師のロブ・ストーンは、その少ないひとりで、彼との演奏は選曲も面白くて楽しい。 会場入りしてびっくりしたのは、大きなステージのカーテンの裏側に、映画「ブルース・ブラザーズ」で使われたブルース・モービル(パトカーのお下がりで、白黒の乗用車)が置かれていたことだ。進行表を見ると、途中でカーテンが上がり、誰かがそれに乗って舞台へ登場する仕掛けらしい。楽屋には黒い帽子に喪服スーツの若い黒人ダンサーが二人いて、同じ様相の黒人ホーン3人組も待機していた。 昨夏オープンしたミレニアム・パーク(2004年7月17日参照)の中に、こんな大きなホールが付設されているとは知らなかった。2階席も含めると1.500人ほど収容できそうな劇場で、ステージ隅のオレたち5人が演奏を始めると、一階席には順序良く整然と人が埋まっていく。舞台正面に15畳はありそうな大型スクリーンが下がっていて、そこには見慣れた車のエンブレムが大きく映し出されていた。んん・・・TOYOTA!? これはトヨタ自動車関連のコンベンションか何かなのか?と、突然スクリーンに、オレの顔が3メートルに膨らんだアップが現れた。振り返ると、客席にはあちらこちらにテレビカメラが備え付けられている。まるで「テレビ中継」ではないか。座っているオレの全身を映しているときでさえ4メートルほど、まるで身の丈10メートル近い巨大アリヨの出現に、スクリーンをまともに観ることはできなかった。 まもなくロブ・バンドはこそこそと引っ込み、映画が上映され始める。オリジナルの「ブルース・ブラザーズ」の映像に、ジェイクとエルウッド(ジョン・ベルーシとダン・エイクロイド)に扮した怪しげな老人二人を上手に組み込ませていた。結構な金を使っているのは分かるが、それだけにバカらしさが際立つ。この二人が主催の幹部なのだろう、クスクスの笑い声があちらこちらから聞こえてくる。 ステージ脇からちらちらとしか観ず、内容はほとんど分からなかったが、原作の孤児院がトヨタ自動車販売本部になっていたのを考えると、ディーラーたちを集めたコンベンションのようだった。トヨタにしては日本人の姿が少ないと思ったが、販売関係であれば現地企業なので頷ける。あの日本人たちはトヨタ本体の社員なのだろう。 映画では修道尼の格好をした妙なオヤジが「借金返済の期限は二日」と言ったら、エルウッド役が膝においた4本の指を数えて"Four Days"と呟いた。尼さんがその手に棒を振り下ろしながら"Not Ford days !(フォードの日じゃない!)"と怒り狂う。1.000人ほどの笑い声が怒濤のように沸き起こり、さすがにこのときばかりは、暗闇に控えていたオレたち全員も爆笑した。 舞台監督の合図で、今度はホーンと共に所定位置へひっそり戻ったバンドが "I Can't Turn You Loose" を始めると、奥のカーテンが上がり出す。スクリーンで演じていたままの二人を乗せたブルース・モービルが、ダンサーを伴って登場して、彼らは手を振りながら降り立った。続けての "Everybody Needs Somebody to Love" に、孫のようなダンサーたちと踊り始めたが、クネクネとしているようにしか見えない。 熱海のホテルの宴会場だった。水戸黄門に扮する我が社の社長が、専務と常務のスケさんカクさんを従えて登場すると、社員は失笑の分からないように拍手する苦痛の瞬間なのだ。そしてオレたちは、カラオケでは華がないと雇われた歌謡バンドさんたちだった。ただ客席に膳は据えられておらず、従業員たちは観劇することだけが仕事のように前を見つめ、しかしありがたいことに、水戸黄門は唄わなかった。 黒サングラスに喪服スーツを含め、主要幹部5人が15分ほどのディスカッション(最後は日本人のお偉いさんが締めくくったようだ)を終えると、バンド台とステージ脇を右往左往させられていたオレたちは、従業員送り出しの曲を始めた。シカゴに在住するミュージシャンが演りすぎて飽き飽きし、最も演奏を嫌がる超有名観光曲"Sweet Home Chicago" 。 映画のコンサート風景と全く同じ進行に、ロブは大切な何かを売ってしまったと嘆き、オレは馬鹿らしい宴会芸に付き合って楽しかったと、もう一本の仕事へ足取り軽く向かった。 2005年9月13日(火曜日) 今日は休みで、っていうより、出張レッスンが入っていたのに寝坊をしてしまった。そしたら、相手も自宅に戻ったのが遅かったらしく、オレと行き違いになったかと電話(実はそれで起きる)があり、協議の結果再来週に延期。思わぬ休日に小喜びするも、日銭が入ってこなかったことに気付き地団駄を踏む。 2005年9月14日(水曜日) 起床5時30分。シャワーを浴びて朝食を済ませ、車に乗り込むと6時をかなり廻っていた。早朝出勤の水曜日は、自宅から65キロ離れた会社へ7時40分までには着いておかないと、8時からの就業に間に合わない。今朝は少しゆっくりしてしまったので、気持ちは少し焦っていた。 路地を抜け表通りへ出ると、正面から差す朝日でフロントガラスの汚れが目立つ。ウォッシャー液をワイパーが拭う瞬間、水滴に光が反射して一瞬何も見えなくなった。その白い眩しさが、労働者としての姿勢を正してくれる。買物や遊びに行くのではない、働きに行くのだ。いつもの通勤ラッシュは変わらず、運転する人の顔はみんな、一日の始まりに清々(すがすが)しい顔を見せていた。 んんん!?西へ向かっているのに朝日が正面に来るわけはない。赤信号で止まり横の車を覗くと、乗っている人の顔は何だか疲れてぼんやりとしていた。そうか、世の中は夕方で、人々は仕事を終えて帰って行くのだ。オレはこれから働き始めるというのに、みんなはもう家路へ向かっているのかと思うと、何だか理不尽な気がしてきて、アクセルが急に重くなってしまった。 しかし一般の勤め人がいくら早出といっても、12時半に退社し、1時半頃帰宅することはできまい。就業の遅い10時前後の日でさえ、帰宅が3時半を過ぎることはないのだ。(キングストン・マインズ時のみ、4時半) 今月のライブ23本、レッスン2本。だから本数がいくらあっても、決して忙しいわけではない。ただ、もう少し単価が上がって欲しいだけである。 2005年9月16日(金曜日) 日本の大きな政党の代表にMクンが選ばれたらしい。彼はオレの通っていた隣の隣の小学校出身で歳も近ったが、直接面識がないのは、同じ府立高校の学区だったのに、Mクンは優秀でフゾクチュウガクへ進学したからだ。そして、オレが相応の努力をせずに受からなかった大学へも入学していた。 ある日、四条大橋の傍で、できたてホヤホヤの政党の看板を掲げ街頭演説する彼を見掛けた。府会議員になりたかったらしいが、他の政党が言いたくても言えない、例えば税金を上げるとか、福祉を削減するとか、弱い人にとって生活が苦しくなることを堂々と語っていたので、正直な人だと感心した。そして、20才代の若さと学歴と甘いマスクで当選してしまった。次に見たときは、もう別の新しい政党に移っていた。今はまた別のところに所属している国会議員だ。 Mクンが目指す日本はとってもアメリカのようで、強い人は強いままに、弱い人は弱いまま安定する社会になりそうだ。こっちに住んでいると、何でそうしたいのかが分からないが、彼にとってはゲームなのだから、実現することに意義があるようで、その社会に住む人々のことには関心がなさそうに思える。だから府会議員のときでさえ、近所の人の話も、自分のゲームの趣旨と反することには耳を傾けない。それでも実際に彼は勝ち進んでいるのだから、やっぱり優秀なのだろう。若いのにひょっとしたらソウリダイジンになれるかも知れない。 本当に優秀なんだったら、強い人にモノを言い弱い人を助けるゲームに参加して欲しいのだが、Mクンは勝てそうなゲームしかやらない。そういう理念のないリアリズムは、「将来何になりたいですか?」と先生が尋ねたら、一番最初に元気良く手を挙げて「ソウリダイジン」と言っていた子供のようだ。 オレの「将来の夢」はたくさんあった。1.パイロット、2.F1ドライバー、3.プロ野球選手・・・そして6番目に、思い付いたようにピアニストと付け足した覚えがある。 2005年9月18日(日曜日) 日本より14時間遅れの「中秋の名月」が雲に棚引き、ミシガン湖の低い位置に浮いている。仕事がなければと悔しがったが、湖上の名月を一瞬でも観賞できるだけ幸せであった。 自宅へ戻って夕食を食べていると、何気なく点けていたテレビから、『ハラヘッタ』という拙い日本語が流れてきた。顔を上げると画面には大勢の白人の軍服姿が映っている。空耳かと再びお膳に向かった瞬間、『ハラヘッタ』『ハラヘッタ』『ハラヘッタ』・・・と違った声が復唱し始めた。 今度は慌てて音声を上げて確かめてみた。映画は第2次大戦中のドイツ将校の物語りで、アメリカ人役者の発音のせいか「ハ」と「ヒ」にアクセントが置かれ、「イル」と「ラ」が巻舌になっている。ぐぐぐ・・・『ハイル・ヒットラー』 SOBのべーシスト、ニック・チャールズが、二十年近く前に覚えた最初の日本語は「ネムイ」と「ハラヘッタ」で、今でもよく使っている。「本当に腹が減ったときは、片手を前方へ伸ばし、手の平を下にして広げるとより分かりやすい」と彼に教えようかどうか迷ってしまった。 2005年9月21日(水曜日) 昨日シカゴのずっと西のずっと南のところでレッスンをして、生徒さんのお宅に大切なピアノ椅子を忘れてしまったが取りに行けず、最近市内の、それもウチの近所へ戻ってきた後輩ピアニストのTに仕方なく借りた。 彼は仕事用と練習用に、折り畳みの同じものを二つ持っているので、オレにとってとても都合の良い、来週のレッスン日まで貸してくれそうな気がしたが、『それは無理ですよ』と言下に断わられた。 先輩思いのTが、オレの都合よりも自分の都合を優先するのはもっともなことで、彼はすでにオレより数百倍のジャズのフレーズを修得し、すでに生涯で練習に費やした時間がオレより数十倍上回っており、オレが彼の年齢だったときには考えられない大志を持って、一日たりとも練習を怠ることをしないし、まったく同じ椅子でも仕事用と練習用は違うらしく、とにかく持ち主が『ダメ!』と言うことに議論の余地はない。 最近ジェネシスでは、『今日もアリヨはチキン・ウイングを6つ?』と向こうから訊いてくる。今晩も同じ個数を頼んでいたが、帰りがけにTへお土産を持って帰ってやろうと思い付いた。キッチン助手の可愛いマーゴは、もうほとんど終わりかけていたのに、心良く4個の追加を引き受けてくれる。 Tへの感謝の気持ちから、『僅かばかりのお礼ですがお受け取りください』と土産を差し出したときの彼の思わぬ僥倖に狂喜乱舞する姿が見たくて、ただでさえ遠いジェネシスからの帰途を回り道して彼のアパートへ寄った。 夜更けにもかかわらず、Tは起きて愛椅子が戻ってくるのを待っていた。『ハイ、お土産』と差し出すオレの手を見つめる彼の表情は、何か予(あらかじ)め知っていたようで、『ほう、これが例のチキンですか、ありがとうございます』とニヤニヤしている。 『えっ?何で中身がチキンって知ってるの?』『日記読んでますから』という会話自体どこか釈然としない。ジェネシスのチキン・ウイングの話は日記によく登場するが、オレが土産を買い、しかもそれがチキン・ウイングであるとどうして分ったのだろう?大切なTの椅子をお借りしたのだから、当然お礼には名物チキンを持ち帰るはずだと読んでいたのだろうか? そして末恐ろしいピアニストは、大先輩に向かって非礼のない音調で続けた。 『今日はもう夕食済ませたんで、明日の朝食にします』 暖っかいウチに喰えよ! 2005年9月23日(金曜日) キングストン・マインズでSOBの週末二日間。妙齢の日本人女性三名が来店した。 『キャーッ、やっぱりぃ、見たことあると思ってたぁ』 「地球の歩き方・シカゴ編」に載ってる人と同じ人物だと知って喜ばれるが、オレが「アリヨ」だと知って喜ばれるのとは違った面映さがあり、どう対応して良いのやら困ってしまう。「歩き方」がガイドブックなので、『ここのお店載ってたわよね』『このケーキが美味しいそうよ』『あそこからの眺望が絶景らしいわ』のように、オレが観光対象になってしまうのならそれも一興。 二人は東京からの観光客で、もうひとりがシカゴに住んでいるという。こちらでは学生さんですか?と問うと、その女性は含み笑いをしながら『仕事してます』と答えた。見た目よりも年嵩はいっているらしい。 しかし、どうしてクラブ内は会話し辛いほど喧しいのだろう、聞き返してしまうことが多い。彼女が続けて言った言葉が聞き取れなかったのでもう一度お願いすると、『エッチなオッチャンとやってます』と聞こえた。 『えっ、エッチなオッチャンと?』オレが首を傾げると三人は吹き出す。『違いますよ、エッチなオッチャンとやってるって言ったんですよ』オレが冗談で洒落たと思っているらしい。顔を近付けて再度言ってもらい、ようやくその正体が『えっちらおっちらとやってます』だと知る。オレはひょっとしたら、耳よりも認知力が悪いのかも知れない。 昔ステージでホーさん(永井隆)が、曲終わりに『離婚した』と小声で言い『誰が?』と答えると、再び『離婚した』としつこかった。彼は"Reconsider Baby"という次の曲名を告げるのに、それを詰めて『リコンシダー』と言ったのだが、一旦『離婚した』が刷り込まれると、なかなか解除できない。トラックの『バックします』が『ガッツ石松』に聞こえると知らされて以来、もう『バックします』には聞こえないのと同じことだ。 数年前、関西出身の男性三名、東京出身の女性一名と日本レストランで食事をしていると、バイリンガルの日系アメリカ人のウエイトレスが『オッチャン大丈夫ですか?』と訊いてきた。見知らぬウエイトレスから『オッチャン』と親しげに呼ばれ、オレたちは一瞬固まったあと、『えっ?オッチャンらは大丈夫やけど・・・』と応じる。『違いますよぉ、お茶は大丈夫ですか?って訊いたんですよぉ』三人は顔を見合わせ、互いが理解したことを知り、それを深い笑いに昇華したい了解の元、『そやから、オッチャンらは大丈夫やって』と返した。 日本にいればキャピキャピギャルにしか見えない浅黒の彼女は、オレたちが本気で聞き間違え続けていると勘違いしている。 『違いますよぉ、お茶は大丈夫ですか?って・・・』 最後にひとりが突っ込んでウエイトレスは去っていった。そのやり取りを静かに聞いていた同伴の女性は、『ねぇねぇ、何でそんなに可笑しかったの?』と聞いている。こればかりは、吉本新喜劇を観て育たないと分からない。 2005年9月28日(水曜日) 後輩ピアニストのTにも啓発されたが、思うところがあってバックに撤しようとしている。分かりやすく言えば、「音を抜く」ことを意識している。 85年のロバートJr.ロックウッドの日本公演、東京の読売ホールでのビデオ収録日、翁はオレを呼んで『弾き過ぎるなよ』と言った。それまで注意・指導など何もなかったが、形が残るだけに「教え」たのだろう。そのお陰でライブビデオ(現在はDVD:Disc guide 参照)の評判は良く、ある雑誌にも(ピアノのサポートが光る)意の評が載った。 それでも調子の悪いときは弾き過ぎてしまう。特に月10本以上一緒になるSOBでは、我が出ては弾き過ぎ、理由を他に見付けて不満ばかりが募っていた。そんな繰り返しに、楽しいはずの音楽が無機的な感情に支配され始めている。ここは初心に戻り、プロの演奏を心掛けようではないか。自我を抑えた上で煩悩を払おう。いずれエゴも解放されイドの放出できるときが必ずやってくる 「音を抜く」のと「手を抜く」のとは精神において似て非なるが、表には知られない「気を抜く」楽さ加減は同様なのだろう。今晩のジェネシスでも穏やかな気持ちで仕事を終えることができた。 そうなると帰り道が楽しい。いろんな曲のアイデアが湧いてくる。忙しさにかまけて、新曲などビリーの尻を叩くことを怠っていたが、自分の持ち唄も増やさねばならない。とりあえずはこれとこれをと、数曲を何度もデモ唄いしながらアパートへ戻った。 まずはシャワーを浴びて夕食だ、それから譜面を起こして資料を作ろうと、真っ裸になってバスルームへ飛び込み、水と湯の両蛇口をひねった瞬間、壁から突き出た水道管の根元の辺の突起物(浴槽用とシャワー用の切り替え)が上がっていることに気付いて、口金を元に戻したが遅かった。 久しぶりにやる気になったアリヨ、冷水を頭より浴びせられ、やる気が失せる。 2005年9月30日(金曜日) 3回のレッスンを含めて17連チャンの14日目で、今月最後の仕事はアル・トーマスという人の良いオジサンのライブ。 予定で真っ黒なカレンダーを見ると気が滅入るので、その日その日の足下しか見ないようにしている。今日は、どこでだったかな・・・ええっと、バタビア?どこじゃ、それ!ヤフー・マップで検索してみると、ウチからずっと西へ行ってずっと南に下がって80キロもあるではないか。 現場入りが午後7時だから、夕方のラッシュを考慮すると5時には出発せねばなるまい。4時半に起きだし慌てながら出発の用意をしていると、バンドリーダーのギターのオッサンから連絡があり、入りが30分延びた。ええい、くそぉっ、汗だくで準備することなかったのにぃ。 初めての現場は搬入条件が分からず緊張する。繁華街で店の前に車が停められず、時間に追われてアタフタしたくない。そしてオレは搬入のための二重駐車すら出来ず、150メートルも離れた辺鄙な場所から、重い機材をハンドトラックで3往復して、結局はアタフタしてしまった。 アルの歌声は充分に声量と艶(つや)があり、リーダーのオッサンが『残り少ない伝統的ブルース唄い』と紹介したことに異論はない。ただ、キーが片寄り過ぎていて、配られた演目表にはB♭とAが交互に配列されていた。演奏が始まると交互の意味を直ぐさま悟らされることとなる。スローが B♭アップテンポが A と分かりやすい・・・こらぁっ!全部「同じ味」の演奏させる気かぁ! 仕事終わりの深夜のドライブ、それも初めての道は結構な楽しみだ。万が一を考えて往路に有料道路を利用したから、復路は下道でのんびり帰れば良い。そしてのんびりし過ぎて2時間も掛かってしまった。 昨今のガソリン代の高騰により、有料道路代を含め本日の経費$15余り。こんなことを書かねばならぬほど、週末にしてはギャラが安かったってことなのだが。
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