傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 10 [ 2003年8月 ]


Chicago Blues Festival 2003.
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2003年8月3日

一般的に友達の友達や、知り合いの知り合いの話(体験)というのは、実しやかに流布される噂や嘘の、発信源を特定させない手法として広く使われている。流言する本人の友達なら会わせろとなるが、そのまた知り合いでは直ぐには無理で、話だけが一人歩きし、真実味の衣だけが厚くなるという寸法だ。友達の友達が芸能人の誰某と付き合っていたとか、知り合いの友達がそれで治ったとか、友達の知り合いがその現象を見たとかの類いである。

考えてみれば、人との付き合いをほとんどしないで現代に生きることは不可能に近く、友達の少ないオレでさえ、電話帳には常に100人を超える名前が記されている。仮にオレの友達にも100人の友達がいれば(各々が重複していないとして)、「オレの友達の友達」は10.000人となる。オレの知り合いの人数を数えたことはないが、生涯で知り合いと呼べる程度の人なら500人はいるに違いない。各々の知り合いに知り合いが500人いれば、オレの「知り合いの知り合い」は(500×500)=25万人となってしまう。単純計算すれば、「知り合いの知り合いの知り合い」(500×500×500)=1億2500万で日本の人口を達成し、すべての人はすべての人とつながりが出来てしまうこととなる。そんな筈はないだろうが、遠くない気もする。

先週末のシャロン・ルイスとのライブに、旅行社のNが日本人3名を連れてきた。一人はNが最近シカゴで知り合った人で、たまたま彼の大学の先輩だった方。同郷の同世代なので、昔の京都のライブシーン等の話が弾み、憂歌団の前座で出演した27年前の、ガキだった頃のオレの演奏を観ていたことが判明する。

あとの二人は、Nのシカゴのサッカー仲間の奥様とそのお友達。たまたま奥様を訪ねて観光に来ていたその女性が、オレに誰某を知っているかと或る名を連呼する。はぁ?どうやらオレの家人の、随分昔のルームメイトだった人の名前。ドラムを嗜むらしいお友達は、かのルームメイトとはレディースのバンド仲間で、90年の春に「磔々」で催されたオレのイベントで、女性ドラマーとして参加されていたらしい。

この場合、先輩からすればオレは「知り合いの友達」という立場になる。お友達からは「友達の知り合いの友達」或いは、「友達の友達の家人」となる。そして偶然にもお二人共オレと縁があり、ここに短い「人間関係の輪」は完成する。奥様も含め全員が京都出身だったので、シカゴの北の郊外のオシャレなクラブで、俄の郷人宴会は繰り広げられた。

そんなお二人が、「友達の知り合いの友達がね」「知り合いの友達がね」あの有吉須美人さんで、(Nに)有吉さんのライブに連れて行ってもらって彼と話してみたら、私と偶然縁があってね・・・などと人に自慢出来るほど、オレの名が高名でも話題になる程でもないことが、お二人に対して申し訳なく思う「短い輪」であった。


2003年8月4日

忙しい振りはしないと前に書いたが、今月もなんだかんだと労働日数は21本を超えてしまう。単価が安いのはありがたくないが、仕事をくれる人がいるのはありがたい。生ピアノで、女性ボーカルとのブルース・デュオの仕事が入ったのは楽しみ。


2003年8月6日

SOBのリハーサルがキャンセルされ今日は一日お休みだった。夕方までぐっすりと寝て、「怪し気寿司」(2001年12月1日付け日記参照)で軽く寿司でもと出掛ける。

寿司といえば贅沢だが、「怪し気」が付くと気楽に行ける。この間、久しぶりに食べたら味が「普通」だったので驚いた。店内を模様替えし、若いアメリカ人客で繁昌しているのか、ネタの回転が早く新鮮なのだ。怪し気寿司メキシカン・シェフは明らかに腕を上げた。従業員が替わりサービスも悪くない。外国人から見た日本人の真似に違いない、落ち着きのないお辞儀は相変わらずだが、居心地が至極よろしくなったので最近はついつい顔を出してしまう。

シカゴへ戻った頃と比べて贅沢になったもんだ。「Y」さんや「K」さんの店に不義理していて申し訳ないが、店が駐車し難いダウンタウンに位置していたり予約が必要だったりするので、思い付きではなかなか足が向かない。その点「怪し気」は何かのついでに寄り易くなってしまった。そろそろ「怪し気」の冠も取って差し上げましょう。

店に入るとシェフを始め店員達が、心からと思えるような笑顔で迎えてくれる。オレはどうやら馴染みとなってしまったのか、すぐさまマネージャーが飛んできて挨拶をしてくれた。彼は日韓ハーフの母を持つ韓国人で、見た目は日本人にしか見えない。こちらが純日本人だからなのか最上級の敬意を払うので、おかしくもあり微笑ましくもあり、また申し訳なくも思う。オレより随分年下のはずなのに、意味もなく上司の前でぺこぺこ頭を下げる、定年前の係長さんの姿を想像してしまうのだ。

オレがいつものにぎり10カン+カリフォルニア・ロールのセット。連れ合いはお好みで握りを注文し、最後に「スパイシー・サーモン・ロール」を付け加えた。

間もなく味噌汁がテーブルに置かれ(アメリカ人にとってスープはメインが出る前に飲むもの)、暫くするとマネージャーが何かを運んできた。か細い声で「スパイシー・サーモン・サラダです」と言い、続けて「オン・ザ・ハウス(お店からです)」と聞こえた気がした。はへっ?そんなサービスを受ける程は来店しておりませんが・・・と思案していると連れ合いが、「間違えて持ってきたんチャウ?」と宣う。わざわざ呼び付けて彼の片言の英語を問い質すのも気が咎め、「エエンチャウ?」「そやなぁ」の符号で落ち着く。

モノはキュウリの輪切りと海藻の千切りの上にマグロ(!)の角切りが載り、チリソースで辛味を加えたマヨネーズにトビコがまぶしてあった。スパイシーなドレッシングと海藻が妙にマッチして、これがイケタのだ。ホウ、ホウと安手の舌鼓を打ち、来るメインディッシュを待ち構えていると、マネージャーがまた何かを持って現れた。

「ソーリー・アイ・ミステイク」と彼がテーブルに置いたのは、「スパイシー・サーモン・ハンドロール」と呼ばれる二つの大きな生鮭の手巻寿司だった。最初の皿を間違えて持ってきたのなら「お店からです」はオレの空耳に違いない。気の毒になり「どうかサラダも請求してくださいね」と申し出ると、「ノー・ノー・イッツ・フリー」と大仰にお辞儀をして、まだ食べかけの美味しかったサラダの皿を下げてしまった。
しかし「サーモン・ロール」と「サーモン・ハンドロール」を間違えて持ってきたのなら、二つというのも腑に落ちない。

こうなるともう、彼が何をどう間違えたのか、「イッツ」は何を指していたのかが分からない。「お店から」なら、好意の計画など知りようもないオレたちが彼の間違いに気付くはずもないので、「サーモン・ハンドロール」と「ツナ・サラダ」を取り違えたことにあたふたするのは不自然だ。

結局「スパイシー・サーモン・ロール」はメインディッシュと共にやってきた。そして最初に注文したもの以外は何も請求されていなかった。

恐るべし係長。未だ「怪し気」の看板は外せない。


2003年8月7日

暖かくなると時折ダブルでお仕事の入る木曜日。

サウス・サイドに在るチェスのスタジオは改装され、今では「ブルース・ミュージアム」となって、ウイリー・ディクソンの娘(シャーリー)を中心に運営されている。
建物の横にはステージが常設された「ブルース・ガーデン」と呼ばれる野外スペースがあり、夏期の毎木曜日の夕方、一時間程の無料ライブが開催される。今日はシーズンに数回あるSOBの日であった。

最前列に座ったシカゴ随一のブルースファンのエディが、オレを認めて指差していたので、近寄って握手をすると、その瞬間にはもう彼の目は虚ろに他所を向いていた。今日は「・・・エエエエィリオ・・・」の掛け声も聞けず終いだった。

毎週必ず姿を見せるはずのシャーリー・ディクソンは見掛けなかった。ビリーの話では、彼女は急に具合が悪くなり病院へ行ったらしい。

いつものようにステージは一回で終演となり、消化不良のまま急いで機材を片付けロザへ。途中速攻で家に寄り、機材を置いてシャワーまで浴びられたのはありがたい。リフレッシュして夜のお勤めに向かうことが出来る。

ジャム・ホストの主役のエディは機嫌が良かった。元気がなく暗いのか、何かの不満でふて腐れて暗いのかが分かり難く、いつもトニーや江口と裏方協議で様子を探っている。彼が明るいといっても、寡黙で大人しいミュージシャンにしか見えないので、その機微はオレ達にしか分からない。父親(エディ・テイラー)もそんな難しい人だった。

最初のセットの途中に珍しくバレルハウス・チャックが現れた。知り合いがアリヨを観に行こうと誘ったようだ。チャックは、オレがジミー・ロジャースに雇われる前のピアニストで、本格的なバレルハウス・スタイルの演奏を専門にしている。歳はオレより一つ下だが、70年代からリトルブラザー・モンゴメリー、サニーランド・スリム、パイントップ・パーキンスなどに直接手ほどきを受けていた。オレの憧れで今生では観ることのできなかった、オーティス・スパンとのツーショットを見せられて口惜しくなり、首を絞めたことがあった。

2年半振りの再会を喜び、互いを究極にまで持ち上げ合った後、演奏を聴かせてもらう。現存するブルース・ピアニストで、ここまで50、60年代のピアノブルースの雰囲気を再現できるミュージシャンを知らない。チャックのフレーズは全部耳に入ってくるし、そっくりに弾くことはできるが、同じ音を奏でることは到底出来ない。

彼の演奏を初めて聴くドアマンのガスが直ぐさまオレの所に飛んできて、「アリヨの演奏そっくり」と吃驚していたがとんでもない。チャックの演奏は現役バリバリのスパンやサニーランド、パイントップの再演で、レコードで耳だけ肥えた紛い物のオレとは違う、あちらこそが本家筋の音味なのだ。

ブルースピアニストが希有な世の中とはいえ、本場のシカゴにはこういった刺激があるから堪らない。


2003年8月9日

シャーリー・ディクソンが死んだ

ビリーは挨拶もそこそこに「悪いニュースがある」と切り出した

オレはその瞬間 顔を強ばらせて全身が宙に浮いていた

二つ三つ年下なのに 姉のように慕っていた

いつも気に掛けてくれていた

レイ・チャールズやチャック・ベリーにオレを自慢してくれた

彼女が推して ブルース・フェスでソロ演奏が出来た

演奏中はそのことを忘れていたかも知れない

でも今夜はずっと 脳の薄皮の痒みが疼いていて 

無表情にあちらの世界を睨んでる


2003年8月11日

クグツの告白

別のバンドで別のクラブの仕事がある場合、衣装が同じでもバレない。汗をかくほど動かないオレは先週末の3日間、同じ服を着て演奏していた。


2003年8月13日

シャーリー・ディクソンの追悼式(Memorial Service)はサウスサイドの葬儀場でしめやかにおこなわれた。

人に拠り"Wake"とも呼ぶが、昼間の儀式なので辞書の和訳にある「通夜」という態ではない。それでも宗教的・文化的風習を超えて、葬儀の前に親しい者が集い死者との最後の対面を果たすというのは、人の営みの普遍性を感じさせる。「ブルースヘブン財団(Blues Heaven Foundation)」を実質取り仕切っていた副理事としてのシャーリーではなく、ブルースを愛した私人としての彼女を慕った人々が弔問者に多かった気がした。明日の教会での葬儀は前者の意味合いが強くなるのだろう。

父親のベース奏者であった故ウィリー・ディクソンが作った曲は、その多くがブルースの名曲となって、ローリング・ストーンズやエリック・クラプトンなど世界的なスターがカバーしている。またプロデューサーとしても多くのブルースマン(ウーマン)を世に送りだしたが、本人が唄うことは少なかった。ミュージシャンとなった息子達も、歌手として評価を得ている者はいない。

ところがライブ経験のないシャーリーには、メジャーから歌手デビューの話が持ち上がっていた。メル友のキース・リチャードにも勧められていたらしい。彼女も本気になって曲を書き、いつかローリング・ストーンズのパーティで披露するのだと、SOBを練習に付き合わせていた時期がある。時折イベントで唄う姿は、他のミュージシャンを圧倒する存在感を見せつける「華」のある人だった。

追悼の幹事バンドである我々SOBに混じって、様々なミュージシャンが代わる代わる演奏していく。マイクを持つ人は口々にシャーリーを、「ブルース・シスター」だったと偲んだ。絶え間なく続く追悼ブルースに、最初は拍手することを憚れ静かに聴き入っていた人々も、次第に拍手を送るようになる。

曲間が静まり返っているのは奇妙だが、拍手があっても奇妙に感じるのは、祭壇の死者の前で(仏式ではお経代わりの)ゴスペルではないブルースが、最後にはライブのような力の入った演奏に変わっていったからだ。なるべく色のない服装を心掛けるのはこちらも同様だが、日本より厳格ではない。顰蹙を買っていた様子はなかったが、ステージ衣装のように派手な格好で唄う者までいた。ここで聴衆が歓声を上げればオレは卒倒していたかも知れない。

人の悲しみは他人には伺い知れずその表現は様々だ。大きな体を折り曲げ片膝を立てて、棺に寄り掛かり長い間死者と会話している男がいた。じっと見つめた顔に手を触れ涙する婦人がいた。自分の胸に帽子を当て項垂れる紳士がいた。十字を切り直ぐに立ち去る若者がいた。演奏をにこやかに聴き入る老人がいた。そして動かない人・・・。いつもは姿を見せると必ず演奏していくミュージシャンなのに、最後まで加わらなかった人達が一番印象的だった。

最初はシャーリーへの弔いの態度だったオレは、代わりのピアニストがおらず2時間以上も弾き詰めになると、タダの伴奏者としての気持ちが強くなっていった。棺に横たわる彼女に対しても、まるでそっくりな蝋人形を見ている様で、死者と向き合っている実感がない。いつも素晴らしい笑顔をオレに向けてくれていたシャーリーは笑っていなかったし、「人の死」と対峙したくはなかったのだろう。眠いはずなのに目が閉じ切らないまま固まった如く、悲しみは沸騰してこなかった。

長いセレモニーを終え機材を片付けていると、吃音癖のエディが珍しくハッキリとした発音で「アリヨ」と声を掛けてきた。彼の目は生気を取り戻しオレを見据えていた。

大きく真っ赤な夕日を追い掛けフリーウェイを運転しながら、無感動な落日もあるものだと考えていた。


2003年8月14日

珍しく早寝(午前1時頃、昼寝とも言える)をしたためか明け方には目が覚めていた。夜のロザに行く前にまた眠るとして、もったいないので取りあえず起床し。昼まで待ってサービスランチを久しぶりに食べた。

郊外の日本食レストラン。純日本人経営のここは寿司が美味しいので、調子こいて別の物を頼んだ。オレには一般の夜食に相当するので簡単に、スキヤキ丼。
SUKIYAKI-DON。すき焼き丼。ああ・・・どう表現しても「すき焼き風ぶっかけご飯」。薄切り肉、玉葱、卵がご飯の上に乗ってるらしい。

げろっ!丼にはどす黄黒い具の上に真っ赤な紅ショウガが・・・。いやっ関東風か?醤油で色が黒いのか?溶き卵をガチガチにして少々の肉を混ぜ、見た目はお好み焼きかと思った。湿気ったノリが全体を黒く見せている。箸を入れるとスコスコと中間を通り過ぎる指の感触。???掘り起こせば下部の飯に至るまでに相当量の玉葱の層。

これを見てスキヤキを想像する日本人がいたとしたらオレは問いつめたい。小一時間程問いつめたい。肉と卵は付け足し程度の、こりゃ、「玉葱丼」やないかぇ!

口先を尖らせて玉葱を一つ一つ取り除き小皿に盛ったら、大きなおにぎり程の山が完成。肉や卵は如何程にも残らず、おカァさんのご飯茶碗軽く一杯の「肉片入り卵焼きご飯」。最悪の一つ手前の丼を平らげたら目がショボショボとし始めたので、いそいそとアパートへ戻り、午後7時半の起床を目指して安らかに眠った。


2003年8月15日

お盆そして終戦記念日

日本に住んでいると、頭では分かっているつもりでも実感していなかったことがたくさんある。

近所の韓国人経営の焼肉弁当屋さんで注文したカルビ弁当を待っていると、奥から老婆がニコニコと近寄って来た。きっと経営者の母親か誰かなのだろう品の良い身なりで、歳は80才程に見えた。「日本の方?」と流暢な日本語でカウンター越しに尋ねてくる。「あっ、ハイ。日本語お上手ですね」と反射的に答えてしまい、オレは顔を引きつらせてしまった。それでも彼女は気にすることなく嬉しそうに、「小学校で習いました」と言ってから少し考えて、「長いことハナシてないからワスレタ。懐かしい・・・」と続けた。

それからは一方的に昔話が始まった。女学生の時バナナを弁当代わりに修学旅行で大阪に行ったこと、早くにご主人を亡くし苦労して子供達を育てたことなど、日本語を思い出しながら訥々と語る。経営者や同じ韓国人である従業員のおばさん達は、そのやり取りを複雑な表情で眺めていた。

オレは次第に胸が詰まってきた。彼女の言う「懐かしい」は単に自分の少女時代を懐かしんでいるに過ぎない。生まれた時、国は既に日本に併合されていて、学校で朝鮮語を話すと罰せられた時代に青春期を過ごしたのだ。軍隊は嫌いだったが軍歌しか知らない日本の戦争世代と同様、老婆にとっては日本語が青春の象徴だったのが悲しい。

今日本の若い世代の中にも、「自虐史観」とレッテルを張り、そういった負の歴史から目を背けることに熱心な人々が増えたらしい。どういった思想・信条を持とうと個人の自由だが、「自称被害国」に出向いて「自称被害者」の人々に話を聞いてみたら良い。「あなたが自分で望んで創氏改名したのでしょう?日本語教育を望んだのでしょう?日本兵と仲良くなりたかったんでしょう?」と問えば良い。

女学生の頃が一番楽しかったと言う老婆に「ご苦労はなかったですか?」と尋ねたら、その瞬間だけは顔を曇らせた。

「ニホンノヘイタイはキライ、イヤラシイ・・・」

オレは堪らなくなり「申し訳ありませんでした」と頭(こうべ)を垂らしていた。自分が犯した訳ではないのに謝るのは気持ちの良いものではない。しかしこの年老いた韓国女性と対面していると、そういった自然な感情が沸き起こる。と同時に、ちゃんと責任を取ってこなかった歴代の日本政府に腹が立った。オレが暗くなったのを気遣ってか彼女は話題を変えた。

「オトウト、ヤクザ」
「はぁ、ヤクザ?」
「そう、ヤクザ、ヤクザ・・・クスリウツ」

薬物中毒の韓国ヤクザか・・・

「クスリウッテル」

薬中で売人?こりゃ相当苦労したわな、おバァさん。でもニコニコと笑顔で話す内容ではないでしょう。ははぁ、それは過去のことで今は更生されてるんでしょう?と聞いても、「イマもヤクザ、ヤクザ」と理解を求めるように連発する。

・・・・・・・・・・・・あんたそれ「薬剤師」やろ!


2003年8月18日

忙しくはない。決して忙しくはないけど、マネージャーにスケジュールを確認して驚いた。先週の水・木に入っていたスタジオはシャーリーの告別式などで流れたが、14日から28日までの15日間で現場12本、採譜作業2バンド分、リハーサル3本。その内3日間のミネソタツアーもオレには移動日がない。29.30の週末には休めそうだが、ABCのスケジュールが合えばスタジオを予約したい。

忙しくはないけど、演奏はしんどくないけど、搬入搬出は疲れるし、遠い所に車で行くのはしんどいし、音の大きいのは疲れるし、自分のペースで出来ないリハーサルは消耗する。

深夜機材をアパートに運び入れていたら、豪華な白尾のスカンクに出くわした。近所に川が流れていて、その両側にはびっしりと木が生い茂っているのでそれ程驚かなかった。まだホタルもちょろちょろ飛んでいる。自然の生態も国が違えば慣れるのに時間が掛かるが、今はそんなことを考えている余裕がない。


2003年8月21日

ふうぅ。ふううぅですわなっ。

昨日は"Blues Exchange"ってとこで演奏した。生ピアノ+ボーカルで久しぶりのアコースティックコンサート。なんや、シカゴの観光局が入場無料でやってる観光客向けの「ブルース横町・展示室」みたいな所。昼間(12:00-13:00)やし、蛍光灯下やし、おばはん(G某、黒人女性Vo.)歌詞忘れて前半の曲外しまくりやし、半分以上、ブルースピアニスト泣かせのキー(D♭・E ♭・G ♭・A ♭)やったし・・・でもまぁ楽しいイベントやったわ。

で、今日はロザのセッション・ホストバンド。ベース(S某)が某有名ブルース曲の韻を踏めず(曲を知らなかったから)エディが暗ぁーくスネ始める。エディ坊ちゃんは、お帰りまで陰気さを振りまいておられた。

しかし気分が悪くなっても露骨にステージで見せるな!音に出すな!顔に出すな!こっちのテンションも下がるっちゅうネン。S某、お前もじゃ!

ふうぅ。ふううぅですわ。

そして明日、っていうより5時間後、ミネソタの某市に向け出発。8時間程の行程で夜仕事。翌日も仕事、翌々日の仕事終わりで現場から直接シカゴに戻る予定らしい。戻った夜も仕事らしい。その後更に3日程オレだけ仕事が続くらしい。

ふううぅ。ふぅぅぅ、うっ!ですわ。


2003年8月25日

ああ、夏が終わる・・・って思ってから本格的に夏が来ている。日本も同じらしい。
夏はやっぱり暑くないといけない。

週末のSOBでの3連ちゃん。シカゴを金曜の朝出発して700km余り、ビリーと丸山さんの運転で8時間かけミネアポリスへ。ツアー車はクライスラーのロングバン。マイクロバス程の大きさのバンで乗り心地は快適だが、ケニー・ニールのお下がりだと思うと釈然としない。今やあちらの方が売れっ子。

店に機材を搬入し、ホテルで着替え、店に舞い戻り直ぐに演奏を始め初日はあっという間に終わる。翌日の移動は一時間程だったので、搬入後の数時間ホテルで休む事が出来た。そしてオレは寝過ごしぼさぼさ頭でステージへ。その日の店はレストラン・シアターになっていて、バンドには各人に$15相当のクーポンが渡され、オレはBBQウイング12個セットを部屋に持ち帰った。美味。そして最終の日曜日は終演後そのままシカゴへ戻る強行軍。

昼にホテルをチェックアウトし、前日の店に置いてきた機材を汗だくになり車に積み込んでいるとビリーがぽつりと呟いた。

「今日は2時に演奏を始めないといけない。オレ達にとってはまだ朝方だから辛いよな」

ツアー3日目はミネアポリス郊外に在る邸宅の、広い庭先でのプライベート・コンサート。住宅地の屋外だから夕方には撤収しないといけない。従って演奏を始めるのも早いのだ。ってことは終わるのも早く、宵の内にシカゴへ戻れる。

山道で見かけるお地蔵さんが鎮座する、雨よけに作られた柱と屋根だけの吹き抜き。それを大きくしたような手作りの木造ステージで大いに汗をかく。汗をかいた甲斐あって盛り上がり、そして5時の予定も7時までの演奏となる。それでも8時には当地を辞すことができた。

往路は運転をしなかったので、ここはオレが先に運転を始めようとハンドルを握る。どうせまだ日は暮れていない、普通なら演奏がこれから始まろうかという時間。ミュージシャンは一般人と時差があり、復路はさぞ賑やかだろうと思っていた。ところが州間高速道に乗って5分で車内は静まり返る。

あの、2時が朝方とおっしゃってましたが、今はまだミュージシャンにとって昼下がりでしょう?ほう、お昼寝ですか?と起こすのも大人気ないので皆をそのままに、独りぼっちの運転は続く。結局700kmを6時間で走破し、オレは皆の本格的睡眠の功労者として祭り上げられる。

でも日が暮れて直ぐに眠れるって、「ミュージシャンの生活」と違って「年寄りの生活」やん・・・

疲れはしたが普段と変わらぬ時間に帰宅出来たので、オレは「規則正しいミュージシャンの生活」に准じ、いつも通りの時間(6:00AM)に就寝した。


2003年8月26日

そうそう、夏は蒸しぃーとして汗だらだらでひぃひぃするのが良い。

ダウンタウンから東に突き出た埠頭での野外ライブ。水際特有の湿気と暑さで汗だくになりヒィヒィしながらの演奏も、帰宅してシャワーを浴びすっきりとしてビールで喉を潤すことを楽しみに頑張る。と言ってはいるものの超下戸なので実際は冷えたコーラ。

知り合いの日本人に混じり見知らぬ日本人がちらほら。その中にブラジルからぶらりと遊びに来ていた若い男性がいた。現地の幼稚園でポルトガル語や算数を教えているらしい。外国人に子供の母国語教育を任せる事情は、おおらかさなのか人員不足なのかは分からない。しかし世界には色んな所で邦人が頑張っていると感心する。客観的に見れば自分もその一人かも知れないが、頑張っているとはとても言えない。

昨日もアーティスで日本の人に、「いやーこのバンド(SOB)に日本人が二人もいるとは思いませんでした」と話し掛けられた。「丸山さんのことは人から聞いていて知っていたんですが」と付け加える。内心(オレは結構知られていない)とへこんだが、次の言葉が理由もなく心を刺した。

「お名前は何と言われるのですか?」

「何と言われる」と言われても・・・「はぁ、名無しのゴンベイです」と答えたかった。

たまたま電話のあったニューオリンズの山岸さんにその話をしたら、彼も日本のある専門誌のCD評にへこんでいた。別にオレらは有名になったり金持ちになったりすることを目標にしている訳ではない。しかしこれだけ演ってきても無名だったり評価されなかったりすると、やっぱりへこむわなぁ。決して虚栄心や功名心からではなく、「生きてきた証」を確認したいだけで、斟酌なく口(筆)から発せられる言葉には、他人には伺い知れない感情の襞を撫でられているのです。知らないものは知らない、良くないものは良くないのは当たり前だが、その瞬間にオレらは思いっきりへこんでしまう。この口惜しさを「バネ」にとお思いでしょうが、忸怩たるものはあれどなんせ「瞬間」なので、「いつか見とれ」という怨念は普段のペースに埋没する。ダメじゃん・・・

ステージ脇の木々からから風で流されてくる蜘蛛や毛虫と、肌を刺すハエ(アブと思ったが小さかった)に悩まされながら汗だくになったお陰で、シャワー後の爽快感と冷えたコーラが「今日を生きた証」をもたらしてくれた。

やっぱり夏は汗だらだらで働かんとアカン


2003年8月27日

先週に続き"Blues Exchange"で女性ボーカルと二人ライブ。今回は72才になるボニー・リー。 

この夏の日本公演がよほど楽しかったのか「日本良いとこ」を連発していた。特に小さな女の子との交流が忘れられないらしく、子供が「アメリカに帰らないで」と泣いてせがむ様子を何度も語る。日本の幼女がどこまで英語を話し、ボニーがどこまでそれを理解したのかは疑問だが、とにかくその女の子が可愛かったのだろう、孫を愛でる世間の老婆と変わりない。

お世話係(マネージャーとまでは言えない)のおばさんの、「アリヨは何でもできるから」の一言でリハーサルも打ち合わせもなし。というよりも、オレが「今日はどんな曲をするんですか」と問いかけると、数曲を答えてから「日本に行ってきたの」を繰り返す。結局肝心なことが分からないまま時間が来てしまっていた。

アップライトのピアノが一台置いてあるだけの小さなステージに上がると、彼女はオレに向かって「眠いの」と笑顔で訴えた。「私もですよ、でも始めないと。ほらっ、皆さんがお待ちかねですよ」と微笑み返すと、ボニーはけだる気に「大昔の思い出の曲を」とマイクに話し掛け、オレにはCのキーとバラードとだけ教えてくれた。

バラードとわざわざ言ったのはシンプルなブルースではないからで、途中で歌詞は余り、仕方なくメロディに合せた和音を付け足した。結局最後までオレは彼女の「規則性」を把握できず、しかしそれなりに曲を終わらせることが出来た。その後無難なナンバーが続き、時折振り向いては「眠いの」と訴えたが、枯れた妖気の漂うブルースが会場を満たしていたに違いない。

彼女が再び「大昔の思い出の曲を」と告げた時、最初にちゃんと出来なかったからもう一度演りたいのかと訝しんだが、演奏中にお世話のおばさんがオレに近寄り、「同じ曲を演ってるって彼女に教えてあげて」と指示してきたことではっきりした。一ケ月以上前のツアーだった筈が、別の人には「昨日日本から帰ってきたの」と言っていたのだ。

歌詞を忘れたり黒鍵キーの多かった先週のGさんと比べ、ボニーはちゃんと歌詞を間違えずに唄ったし、ほとんどのキーがCで演り易いことこの上なかった。

最初に小声でキーを指定してリズムの種類を告げる。オレが弾き始めてボニーが途中から唄い出す。小節数が12半だったり11だったり13だったりしても、メロディをしっかり聞いていれば問題はない。彼女に合せ、唄い易いように途中でテンポも変える。往年のボニーを彷佛させるような張りのある声が消え入りそうになると、音圧を揃え終息の準備も共に始める。首をねじ回し、顔は常に彼女の方を向けて伴奏していた。

「最後の曲です」と告げた唄が終わっても時間を余していたため、お世話のおばさんが指を一本立てていたことにボニーは戸惑ったが、気を取り直して伏せ目がちにマイクに向かって言った。

「最後に大昔の・・・」

そして振り向くと「Cのキーでバラード」と指示した。オレはボニーに「さっき演奏しましたよ」と教える気にはなれず、前の2回とは違った「味」の伴奏を精一杯努めた。


2003年8月29日

ロザでのジミー・ロジャース追悼ライブに元バンドメンバー達が集う。さながら同窓会の様で旧交を温めるのに忙しい。元メンバーに白人ギタリストが多いことは、伝統的シカゴブルースのスタイルを継承する黒人ギタリストの不在を表している。黒人ピアニストに至っては、80年代以降ではパイントップ・パーキンスしか思い当たらない。もっともパイントップは、ジミーと同列に扱われるので元メンバーとは言い難い。

単純な黒人ファンのオレとしては、民俗文化と音楽文化の相克に立つ自分自身に対しても、複雑な気持ちになってしまう。オレにとっての「ブルース」は、やはりコアなシカゴブルースのスタイルなのだろう、普段は意識しなくとも、こういったイベントになるとその思いは強くなってしまう。好きで続けていることなのに、時折「想いの重み」を量りかねることさえある。その「重み」が強くなる程、「ブルース」が遠くに感じることさえある。

未亡人のドロシーには、去年一時帰国した際に手に入れた羽織をようやく渡すことが出来た。娘が横に大きくなっていたのに比べドロシーは痩せ衰え、久しぶりの再会を喜んでくれた後「私はもう先が長くないの」と気弱なことを言う。シカゴに住みながら中々訪ねて行けない不義理を申し訳なく思うばかりだ。

以前P-VINEから発売されたオーティス・スパンのCD解説で、偉大なブルースマン達から恩恵を受け、商業的に成功したロック・ミュージシャンや関係者の、その残された家族達への貢献が少ないのではないかと述べたことがある。オレはいまだ夢半ばの身分に過ぎないが、これではとても人の事を言えた義理じゃない。ドロシーは帰り際に、「私はあそこ(晩年ジミーが購入したサウスサイドの家)から動かないから、いつでも遊びに来なさい」と、こちらの心を見透かしたように言った。

ところで8/27の記述にある、ボニー・リーが可愛がった日本の幼女というのは、どうやらこのサイトの管理人である江戸川スリムさんの娘さんであるらしい。ボニーに「日本の幼な子の英語が良く分かりましたね」と問うと、「所々分からなかったけれど、ちゃんと意思は通じたわ。特に"ドン・ゴー"はね」と答えていた。さすが子スリムさん、ツボを心得ていらっしゃる。