傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 40 [ 2006年2月 ]


Apartment 205
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2006年2月2日(木曜日)

ロザのジャムでは、バーナードが今日のベースだった。

『久しぶり!シルとのトルコ・ツアー(2005年7月7日参照)はどうだった?』
『おうおうおう!今までで最高のツアーだったさ!』
『ほう、そりゃ良かったっすねっ』
『そいでさ、アリヨ、向こうのでかいカジノのホテルオーナーがさ、また別のバンドを連れてきて欲しいってんだが、アンタ一緒に行かんかね?週5日で一日45分の2セットだけじゃが』
『どこに?』
『トルコに』
『誰と?』
『ワシと』
『いつから?』
『4月から』
『いくらで?』
『週$$$で』
『どんだけ』
『6・・・』
『6週間!?』
『んにゃ、ヶ月』
『ろ、ろっか月?』
『そう、6ヶ月』
『・・・』

アンタは出稼ぎ労働者か!


2006年2月6日(月曜日)

ビリーは誰かとのメキシコ・ツアーから戻って来たが、風邪気味でアーティスを休んでいた。

一セット目はSOBの4人が各々唄い、ニセット目に来店しているミュージシャンを目まぐるしく上げていく。嬉しいことに、「プレイボーイズ」のトロンボーン、ビッグ・ジェームスと「シカゴ・ファイアー・ホーンズ」のテナー・サックス、セシルが揃った。自分のバンド「アリヨズ・シャッフル」に「シャッフル・ホーンズ」が加入して以来、オレはホーン・セクションが入ると楽しくて仕方がない。

ジェームスらはタイロン・デイビス、オーティス・クレイ、オーティス・ラッシュを始め、シカゴの著名ミュージシャンとのセッションが多く、キメのフレーズを良く知っているから、音は重厚に綾取られる。だからピアノを弾き過ぎなくても、効果的に音を埋めることができるのだ。

しかしジェームスはビッグと名乗るだけあって、小型(170センチそこそこ)の小錦の体型をしている。現役時代の小錦は、肉を持ち上げねば大きい方の用を足せなかったので、「臀部持ち上げ係」のお付きのふたりが共にトイレへ入ったそうだ。ジェームスはどうやって処理をしているのか気になる。それよりも、『おい、お前気を付けないと早死にするぞ』といつか言ってやりたいが、まだその機会はない。

彼は先週のダグ某(2006年1月30日参照)とは違い、いつも自前のフェイス・タオルを肩に掛けている、・・・と思っていたらバスタオルだった。バス・タオルがフェイス・タオルに見えるようでは、ジェームスに矢沢永吉の真似など出来はしない。


2006年2月7日(火曜日)

世の中で一番不味い「大好物」を食べた。少なくともこの5年間で一番不味かった。

それが無性に食べたくなり、ミツワでそれ専用の粉を買い求め、ソースを調合し、ネギ、紅ショウガなど食材を切り揃え、台所が夜店の屋台に変わりゆく。そしてオレはその大好物の「タコ焼き」をフライパンで焼いた・・・うっ、不味!タコ焼き器を買わんと。


2006年2月8日(水曜日)

最近少しばかり寒くなっている。とはいっても日中の温度は氷点に近いし、最低気温もマイナス5℃と過ごしやすい。しかし今日は雪が降り、街は久しぶりにシカゴらしい冬景色に染まっていた。お陰で高速道路は渋滞し、南の郊外に在るジェネシスまで一時間半も要してしまう。

車がなく公共交通機関を利用することの多いドラムのモーズが、寒さで膝が痛むと言っていたので、カネボウの「旅の宿」を持っていった。本物の温泉でさえ一度や二度のの入湯で効能通りの効果を自覚するはずはなく、ましてや薬用入浴剤である。それでも保温効果は期待できるはずだ。恩着せがましく我が国の文化を持ち上げたかった。

『これね、前に言ってた温泉の素。ひと袋を湯舟に入れてかき回してくださいね。ニ袋上げます』
『おお、コレが例のやつか、ありがとう』
『本物の温泉とは違いますが、膝を暖めて気分をリラックスさせるのに良いですよ』
『ふむふむ、なるほど、臭いも良いな』
『エエ、柑橘系の香りがね、それは「草津」だから柚子の香りですね、んん!?・・・』

モーズは手にした袋を嗅ぎながら、すでに温泉気分に浸っている。気分の素は密封されているから臭うはずがない。彼から袋を奪い鼻に近付けてみると、ミカンの生々しい香がした。げっ、袋が破れているのか?ふとテーブルの隅に押しやられている灰皿が目に入った。オレンジの分厚く硬い皮が積まれている。アンタの指の移り香や!


2006年2月10日(金曜日)

年末に録音したラジオ番組(2005年11月10日参照)の放送日がようやく決まった。ビリーとプロデューサーからチラシを渡され、『そういや何か録音したなぁ』と思い出す程度のものではあるが、ウェブ放送もされるらしいので、ここに告知致します。

"Blues Hip Hop Experience"

2月19日午後7時から8時
(日本時間2月20日午前9時-10時)

WBEZ 91.5 FM
www.chicagopublicradio.org


2006年2月11日(土曜日)

ロザでの休憩中、SOBのベースのニック・チャールズがこそこそとチラシを配っていた。それは先々週問題になったチラシと同じものじゃないだろうな!

サウスサイドの郊外に、怪し気なオヤジがクラブをオープンしたと聞いていた。そこで毎週木曜日、つまりはオレがロザでセッションのホストとして演っている同じ曜日に、ニック・チャールズがリーダーのホストバンドで、ジャム・セッション日が始まったそうだ。

南北に分かれているとはいえロザのライバル店に違いない。トニーはその事実を知らなかったし、ニックがこそこそするのも頷ける。しかし先々週アーティスでニック(たち!)がチラシを配り、初めてそれを知たオレとビリーは唖然とした。ビリーはSOBの仕事のないときにメンバーが何をしても文句を言わない。ただ今回は、事前にそれを知らされていなかったことに不信感を抱いた。

ニックは店のオーナーがチラシの文句を考えたと責任転嫁する。それでもチラシを積極的に配っているのなら、誰が考えようと同じことなので、発覚した後はそのチラシを使わないと思っていた。でもニックたちはいまだにそれを配っている。

ドアマンから奪ったチラシに大書されたホストバンド名。

"Nick Charles & the Sons of Blues"

もちろんビリーとオレは入っていない。


2006年2月13日(月曜日)

ビリーとSOBのメンバーは昨日、ポーランドを中心とする東欧ツアーに旅立った。そしてひとり留守番の者がいる・・・。

現在オレが持つO-1(芸能用)ビザは、苦労の末2002年春に移民局から "Approval"(承認証)が下りた。このOビザは最初の申請時に3年間有効で、以後毎年更新(申請回数の制限なし)をしなければならない。これはあくまでパスポートに貼られる「ビザ・スタンプ」とは別のものだが、"Approval" が届いた時点でビザ・ステイタスは有効になるので、米国滞在自体には問題がない。

ところが一旦出国して再入国するためには、パスポート上に「ビザ・スタンプ」が必要になる。そのスタンプ取得が米国内ではできないので、在外米大使館・領事館で予約の上、面接を受けなければならない。

最初の年は日本やヨーロッパ公演も決まっていたので、2002年の4月に一時帰国して取得。このときはまだ面接(テロを警戒して一般人の入館を禁止していた)もなく、業者に依頼して申請し、5日間で取得出来た。

2004年に更新したときは、2005年夏の日本公演を機会にオレだけバンドを離れ、2週間滞在を伸ばして取得した。出国前にインターネットで大阪総領事館の面接予約を入れ、面接の翌週には実家へ郵送してきたが、普通1週間は見なければいけないそうだ。

2005年11月の更新以降は、2006年2月の東欧公演に必要なのでどうしようか迷っていたところ、オレが関わっている映画のロケハン・取材が丁度日本であり、その費用が制作会社から出るので、2005年12月に帰国する予定を立てていた。ところが大阪総領事館の12月の面接予約が一杯で、東京の大使館では日程に無理があり諦めた経緯がある。

非移民系外国人労働者にとって査証はとても面倒なことで、わずか一週間の海外ツアーのために、カナダやメキシコ、日本の米大使館などに予約を入れ、費用と時間を掛けて、今は毎回有効期間が一年限りとなってしまったビザ・スタンプのために個人渡航するのはバカらしい。分厚い申請ファイルを精査して移民局の大本が承認してくれたのだから、その時点でスタンプも一緒にくれよと思うが、規則なので仕方がない。

SOBがレギュラー出演しているアーティスとジェネシスがなくなると、今週はすっかり暇になってしまった。よし、遊ぶぞと勢い込んでみたものの、歯の手入れの怠りを奥歯の激痛で思い知らされる。東欧ツアーの代わりに歯医者通いかと考えれば情けないが、将来のことを考えると最善策に違いない。違いないのだが、いまだに先方へ予約を入れることも出来ないでいる。


2006年2月15日(水曜日)

歯医者さまのご厚意で、相談の電話を入れてから2時間後に来院するよう予約をねじ込んでくれた。そして憂鬱な時は続く・・・。


2006年2月16日(木曜日)

午前中に再び歯の通院。夜、口をモゴモゴさせながらロザで演奏。今度こそちゃんと通おうと淡い決心をする。

今晩から冷え込むという予報通り、仕事を終えて車に乗り込もうとするとドアが開かない。扉の隙間の水滴が凍り付いているのだ。後部左のドアを開けようとしてもダメ。助手席側へ回ってようやく入れた。車載温度センサーはマイナス6℃を指している。冷えたといってもその程度なのに、結構なラグジュアリー・カーがみっともない。

運転している間に室内が暖まり、凍てついた窓も開くようになった。それまで我慢していたタバコを吸う。すると突然「パスッ」という異音と共に、目の前のパネルに赤いものが点灯した。半ドアの表示。ううう・・・力づくで開けようとしてゴムパッキングが外れることを恐れ、中途半端なままだった後部左のドアが開いたのだ。半ドアのまま時速120キロで走る、結構なラグジュアリー・カーがみっともない。


2006年2月17日(金曜日)

オレが留守電に入れた空き日の問い合わせに対して、マネージャーのM女史から折り返しの電話。今回アナタだけ行けなくて(2006年2月13日参照)残念ねとお悔やみを言われる。そして彼女は次の言葉を付け加えた。

『7月のイタリアと8月のフランスも行けないの?』

もう、早く知らせろよな。でも、最近決まったらしいので仕方がないし、東欧も含めて3回も留守番は出来ない。こうなりゃ6月までに一時帰国してビザ・スタンプをもらわないといけない。

バディ・ガイのキーボードのマーティがオレを推薦してくれて、会ったこともない人と、行ったこともないところでの仕事が入った。

自宅から100キロほど離れたところに在る大きなカジノ内のクラブへ到着すると、いつもアーティスへやってくる元ディアン・ペイトンバンドのドラム、トレイルの顔がありホッとする。やはり、まったく知らない人ばかりの中で演るのは居心地が悪いものね。『アリヨが来るって聞いて楽しみにしてたんだ』との彼の言葉に、オレの居心地は相当良くなっていった。

元JR.ウエルズのサックスと元ジェームス・コットンのトロンボーンも入り、賑やかに演奏は始まる。

おおお・・・音がデカイ!みんな下がらない。ステージが大きいから余計下げない。ブードゥー何たらって名の、良家の出身っぽいアイビー服の白人の兄ちゃんの唄もギターも、某って名のコロンとした色白の似非(えせ)チョッパーを弾くベースの坊ちゃんも、エネルギーが溢れている。そしてオレの耳をつんざく一際デカイ音は、真横に置かれたスピーカーから流れるキーボードの爆音だった。

耳鳴りと目眩に似た疑似振動が頭の輪郭を3重に描いたまま、搬出のため車へ向かう。外へ出て15歩程で耳鳴りが治ったのは、何かの痛みのお陰だ。気温マイナス20℃、風の温度マイナス30℃。骨まで凍てて、風が止むことはなかった。


2006年2月19日(日曜日)

故バレリー・ウエリントンの伝記映画制作の話が進んでいる。言い出しっぺはバレリーの姉のデニースでまだ脚本作りの段階なのだが、L.A.のプロダクションが興味を持ち予算が付いているらしい。

大体この手の話は、低予算、短時間の撮影が終わり、配給とも呼べないインディーズで知らない間に細々と上映されるか、途中でうやむやのまま企画自体が立ち消えてしまうものだ。バレリーの姉ちゃんは『プロダクションには"Behind The Enemy Line"(オーエン・ウィルソン主演の「エネミー・ライン」)を書いたライターも所属していて、メジャーともつながりがあるから、ハリウッドで作られるのも夢じゃないのよ』と言うが、全米的には無名のまま急逝したバレリーの物語りが、そう簡単に大手映画会社が採用するとは思えない。

それでも請われるまま姉ちゃんの手伝いを始めたのは、オレがバレリーのオリジナル・メンバーだったからだけではない。両親の離婚で別々に住むことになり、成人してからの互いの生活に触れることの少なかった、妹の「面影」探しの旅に思えたからだ。映画作りのためのインタビューという口実があると、聞きたくなかった、知りたくなかったことも含めて、人々は多面的にバレリーをあぶり出す。そんな影の部分も含め、バレリーのすべてと向き合おうとする肉親の愛情を感じていた。

アリゾナのフェニックスに住む姉ちゃんは、バレリーの友人やバンド仲間から話を聞くために、昨年末の日本での取材はひとり(2006年2月13日参照)で行き、今週はシカゴへ来ている。そしてオレは、姉ちゃんと面識のない人々に引き合わせたり、クラブ案内をしていた。

今日も午後7時前にハルステッド通りのクラブ「ブルース」前で待ち合わせていたので、混んでいて駐車しにくい事情を考え時間より少々早めに到着すると、店の真向かいにちょうどスペースを見付けた。間もなく姉ちゃんから電話が入り、あと2-3分で着くと言うから「ブルース」のハウス番号(東西南北の中心から離れるほど番号が増えるので分かりやすい)を教える。ところが10分経っても彼女が借りているレンタカーの姿は見えない。そして再び電話。

『今、北2530にいるんだけど、「ブルース」ってお店は見えなかったわよ』
『えっ!?オレは北2518ですけど、あなたの車も見えませんよ。ホントにハルステッド通りにいるんですか?』
『そのはずよ・・・ちょっと待って・・・ぐっ、ここリンカーン通りじゃない!』
『じゃ、そのままどこかで東に入ってください。一本違いですから』

リンカーンは斜めに横切っている通りだから、ハルステッドと交わっているところで曲がり間違えたのだろう。歩いても数分のところにいるからもう安心である。とそのとき、マキシちゃんの真後ろの車が出て行った。こんな僥倖を見逃すことはない。オレは車を出てそのスペースに立ち、姉ちゃんへ『駐車スペースを確保したから急いでください』と電話した。

金曜日(2006年2月17日参照)と違って暖かいといっても氷点下で、Tシャツとセーターにコートで5分も立っていると少し寒気を感じてくる。そこへBMWのRV車が威嚇するように突っ込んでこようとした。オレは手を挙げて運転席へ近寄り、友達が今来るからこのスペースを確保しているんだと説明すると、案外あっさりと引き上げてくれる。それからもう一台お断りしてまだ姿が見えないから、しつこいようだが電話を入れた。

『もう直ぐそこよ、ちゃんとハルステッド通りに入ってるから大丈夫』
『って、ハルステッドのどの辺?』
『ええっと、北2200』
『えっ!さっきリンカーンだけど、同じくらい北へ来てたでしょ?なんでそんな2ブロックも南へ下がっているんですか?』
『Uターンできなくて、気が付いたら反対方向だったみたい』
『・・・』
『もう大丈夫、本当に今度こそ大丈夫だから』
『あの、お姉さん、方向音痴ですか?』
『・・・ええ』

寒風の中、オレは15分も外に立っていた。


2006年2月20日(月曜日)

ビリー・ブランチの父君のご逝去にさいし、謹んでお悔やみ申し上げます。

一週間振りにSOBのメンバーが揃う。ビリーは東欧で訃報に接したようだ。先週の水曜日に逝かれたらしい。二ヶ月余りの間(2005年12月7日参照)に両親をそろって亡くすのはさぞ辛かろうと思ったが、大将は結構さばさばしていて安心した。本当はそうではないのだろうが、表に出さないビリーの気丈さを知る。

元SOBメンバーのカール・ウエザーズビーが、ビリーへのお悔やみにアーティスへ顔を見せた。一セット目の後半で丸山さんと交替する。カール君のメリハリある先導と色気ある唄声にうっとり。80年代のSOB(ビリーにカール、J.W.とモーズ)4人組の時代がオレには最高のメンバーだった。現在が最高といえないのは寂しい。

***訂正とお詫び

昨日午後7時より放送のラジオ番組"the BLUES HIP-HOP EXPERIENCE"は、生ピアノのきらびやかな音がちりばめられたまま、無事終了いたしました。2006年2月10日付け日記に、Web放送予定は当初「日本時間20日午前9時-10時」と記していましたが、「午前10時-11時」と訂正してお詫び申し上げます。

『放送なかったよ』との日本からの知らせにドキッとして日記を読み返すも、覆水盆に返らず・・・。


2006年2月23日(木曜日)

全米一にランクされる「ノースウエスタン大学ビジネス・スクール修士課程」を終了され帰国し、日本屈指の巨大企業で活躍するTさんから下記のメールが届いた。

「日記に出てた"the BLUES HIP-HOP EXPERIENCE"ですが、まだ聞けますよ。
http://www.chicagopublicradio.org/programs/specials/black_history.asp#blues
右上の"Listen"をクリックすれば1時間番組が全部聞けます。」

2/20の訂正に対し、ありがたく付記させて頂きます。


2006年2月24日(金曜日)

今日はイリノイ州立大学内の某所で宴会仕事のはずなのに、ビリーもマネージャーのM女史もどこで演るか何も知らせてこない。仕方なくこちらから二人へ電話したが、寸前になってもつかまらない。丸山さんへ連絡してようやく住所が分った。

待ち合わせ時間の少し前に到着すると、彼は車の前で所在な気に立っている。

『あれっ、まだ搬入してないの?』
『ええ、みんなが着いてから一緒に運び出そうと思って』
『この建物に違いない?』
『こないだMに教えてもらったから、ここで合ってると思うんですけど、ちょっと聞いて来ます』

しばらくして戻って来た丸山さんが顔をしかめた。

『セキュリティに訊いたら、今日はパーティなど入ってないって言うんです』
『おほほほ・・・』
『マネージャーに電話してみます』

幸いMは自宅に居て、今度は本当の演奏先を教えてくれた。僅か5分ほどの距離だが、一度の連絡で済まない手間が鬱陶しい。オレたちは何かのゲームをしているのか?あやふやな情報に引っ張り回されて、要らぬ労力を使うことが多い。

ビリーに訊くとマネージャーに連絡してくれといつも言うが、リーダーの彼がマネージャーの雇い主なのだから、週に何度も会うメンバーに情報を一括して知らせれば間違いないし手間も省ける。いやそれよりも、マネージャーがきちんと連絡してくれるのが常識だ。今は各々がスケジュールや場所、入り時間を彼女に問い合わせるという、連絡網も何もない大人の自助努力で集合している。オレたちが遅れて困るのは雇い主ではないのか?

会場へ着くと見知ったミュージシンたちが居た。シャロン・ルイス(2006年1月13日参照)がオープニングを務めるという。SOBの「同一ステージ不文律(フェスなど同じステージで別のバンドの仕事を重複して取れない)」を知っているシャロンは、ビリーと同じステージではオレを誘わない。ブルースの苦手なキーボードのサニーがふうふうしているのを見て、もったいないと指をくわえるしかなかった。

パーティは200人規模だったが、積んだ高さが3メートルはありそうなスピーカーを始め、音響機材は1.000人規模のロック・コンサートでも対応できるような立派なものだった。頼りになりそうな音響係は、当然オレのキーボードも大音量で接続してくれるので、苦労して運び込んだ自前の重いスピーカーなどまったく必要ない。

今さらM女史に文句を言っても彼女は不平を一切受け付けないし、オレはどこかで諦観しているのだろう。セキュリティのバイトをしていたジンバブエからの留学生と話していて、世界最貧国のひとつである祖国とアメリカでの暮らしを比べ、彼の気持ちはどんなだろうと推量っている間に、今日の騒動などすっかり忘れてしまった。

見慣れない西側からのダウンタウンの夜景を眺めながら車を走らせ、明日オハイオ州のトレドまで日帰りせねばならないことを思い出す。アーティスの駐車場に午前10時集合だから、どんなに遅くとも朝8時半には起床しなければならない。今朝の同じ時刻にはまだ就寝していなかったから、オハイオの一日を朦朧と過ごす覚悟をした。


2006年2月25日(土曜日)

数時間眠っただけでアパートを出る。オハイオ州のトレドまでは片道4時間ほどなので、レンタルのロングバン(14人乗り)をビリーがひとりで運転すると言った。時差でシカゴよりも一時間早い東海岸時間のオハイオだが、夕方4時前には到着した。

スケジュール表には「グリフィン農場」としか記されてなかったので、フェスか何かだと考えていたら、農場内に建てられた古くて汚いクラブだった。ただし、その脇には本物の「ジューク・ジョイント」が朽ちて在った。ミシシッピー州出身のモーズやニックが『わーい、ジューク・ハウスだ』と言ってはしゃぐ。

ところで「ジューク」ってどういう意味?とビリーに訊いたら『うん、良い質問だ、おいニック、アリヨがジュークの意味を訊いてるぞ』と、都会育ちの劣等感を覗かせる。ニックは少し困った顔をしたが、楽しそうに昔を思い出そうとした。<おい、昨日はどうだった?おう、飲み屋で楽しく下品に騒いでたさ、ジュークだったよ。そうかお前もジュークしてきたのか>と会話例で説明されても直ぐにはピンとこない。

南部の農場で働く黒人社会の安酒場で、生活に根ざしたブルースのリアリティが存在した時代の言葉だから仕方がない。辛い綿摘みに象徴される世の中の閉塞感からいっときでも解放され奔放に楽しめる、彼らだけの空間と実演奏(ブルース)が結びついた意味なのだろう。今では「ジューク・ボックス」にのみ言葉片が継がれている。

それにしてもビリーのエネルギーは相当なものだと感心する。機材を搬入してホテルで少し仮眠し、バンドの顔として汗だくでステージを終えると、シャワーを浴びただけで運転席へ着いた。さすがに同行していたビリーの大ファンであるRが途中で交替したが、復路もほとんど彼が運転したに等しい。

目がぼんやり覚めると、インディアナからシカゴへ抜ける長く巨大な陸橋をバンは上っていた。スカイウエイというこの有料道路の陸橋は、その名の通り、天に昇っていくかのような錯覚を起こす。

まだ夜の明けきらぬ頂上付近で、薄暗闇に照明をちりばめた工場群を眼下にして、ふと低い壁で分離された反対車線に目がいった。コートを着た若い黒人女性が小走りに頂上を目指している。高速道路の、それも有料なのに、なぜ人がうろついているのか・・・間もなく事故車が道を塞いでいるのが見えた。付近に他の人影はなかったので、女性がその車を運転していたに違いない。

外気の温度はマイナス数℃だろうが、橋の上は風が吹き荒みもっと寒いはずだ。怪我はないのだろうか?警察へ通報しただろうか?どうして車の側で救援を待たないのだろう?いろんな疑問が頭の中に渦巻き始めた。そして一番大きな謎が再び重くなった目蓋の裏を占める。距離の短い下りではなく、彼女は延々と続く上りを走っていた。

アメリカの大都会では、交通事故を目撃すると直感的に犯罪と結び付けてしまう。それほど無謀な運転が多いからだ。しっかりした足取りに見えたので、彼女が薬中毒や酔っぱらいだったとは思えない。盗難車だったかも知れないが、フリーウエイだらけの中で有料道路は割高感があるため、それもしっくりとしない。女性はひょっとして拉致された被害者で、オレには見えなかったが、事故車の中には怪我をした男が横たわっていて、後ろを振り返らず懸命に逃げていたようにも思える。だがオレの妄想の最後は、スカイウエイの頂上で天に飛び出す彼女の姿だった。

事故で気が動転しているにしては目的地に向かって急いでいるようだったし、一瞬だが思いつめた表情にも見えた。前部がぐしゃっと潰れた車の年式は古くなさそうで、身なりを考えても困窮した生活苦があるとは思えない。理由には考えが思い至らないが、それでもなぜか彼女が身投げする姿を想像してしまう。ただ、落ちてゆくところは見えない。欄干の上にすっくと立った姿が凛々しく、やがて足を蹴り宙に舞い上がるところで映像は切れてしまう。

それはきっとオレの願望なのだ。とてつもなく高い所から外へ飛び出したい衝動は、実際には自らの死を望むはずはなく、未知へ飛び込みたい無謀な勇気と現実のギャップの狭間を広げる夢想で抑えているのだ。深遠に吸い込まれていく感触に、耐え切れない恐怖と裏腹の魅力を認めざるを得ない。

アーティスの駐車場で荷物を積み換えると、午前6時を少し回っていた。4日前に知らされた今日のイベントのチラシには、当然おれたちの入り時間など記されてはいない。イベントがなかったら、まだトレドのホテルでゆっくり寝ているはずだった。『今日の入り時間は何時ですか?』とビリーに尋ねる。『オレは知らないんだ。マドリンに電話してくれ』と不機嫌に答えられた。大将が疲れ切っているのは理解できるが、当日まで入り時間を知らないのは私生活が窮屈になる。

久しぶりに湖を昇る朝日を見たくて、レイクショアー・ドライブを通って帰る。やがて一片の雲のない澄んだ紫の水平線に微粒の光が現れたかと思うと、いく筋にも分かれ、数分後には眩しさを増して東の空を色褪せさせた。そして高速道路の女性の心象は、陽の光の中で次第に溶けていった。


2006年2月26日(日曜日)

おう、何か全然休みがないぞ???越えても越えても次の峠が出てくるような無力感に襲われる。以前は10何連チャンとかあっても楽しく過ごせたのに、今はたかが数回の6連チャンでふうふう言っている。

南の郊外の142番街付近に在るそのクラブは、鏡や光り物などキラキラとオシャレで、踊れるスペースが充分にあり、若い黒人にウケそうだった。顔見知りのオヤジが『昔ここは映画館で、30数年前はよく観に来たんだ』と説明してくれた。

"Grass Roots foundation" とか垂れ幕に記されているが、いつものように何のイベントかよく分からん。カルロス・ジョンソンとかジミー・スミスとか、ロニー・べーカー・ブルークスとかSOBとか、何バンドも出演するのに、客はそれに見合う程は入っていない。オレもこないだモーズにチラシを渡されて知ったくらいだから、一般にはもっと知られていないイベントなのだろう。みんなの高いギャラを考えると、誰がどこでどう金を工面しているのか見当も付かない。そんなことは他人事で、「料金さえ支払っていただければ結構でございます」という厚い面で知らん振りしているに限る。

隅のテーブルでニックと一緒に居ると、演奏を終えたブレディ・ウイリアムスとカルロスが寄ってきた。おお、バレリー・ウエリントンの初来日ツアーのメンバーが揃ってる。そんなことを感慨深く口に出すのはオレだけらしく、それぞれ「お仕事お仕事」の顔で次のバンドの演奏をぼんやりと聴いていた。

彼らと親しいといっても、日頃連絡を取り合い、お茶でもって関係でもなし。オレでさえ日々(にちにち)の演奏に忙しく、買物など家庭の用事で休みが潰れるサラリーマンのような生活だから仕方がない。かつてジミー・ロジャースのツアーで相部屋だったベースのボブ・ストロジャーとは、ランチかお茶でもという約束を4年間も果たせないでいた。

『アリヨ!?アリヨじゃないか』といって駆け寄って来る男がいた。愛想を装ったが覚えがない。

『お前は覚えてないだろうが、オレはドラマーで、20年近く前にアリヨと何度か演奏したことがあるんだ。懐かしいなぁ』

こいつは良い奴だ。オレが覚えていないことを前提に挨拶をしている。人によって記憶に残る部分は違うし、ましてや想い出は他人と共有できないこともある。アルと名乗った男は記憶のどこにも見当たらなかった。その点、十数年ぶりにシカゴへ戻ってきたオレは、ある種の記憶喪失の人間のようだ。もう少しアルから当時の話を聞きたかったが、直ぐにステージへ呼ばれてしまった。

どうして昔のことをこだわるようになったのだろう。クールなブレディは過去を語るより、もっと今や将来に興味を持っていそうだ。彼がずっとシカゴの第一線で演奏し続けてきたからかも知れない。十年以上の空白は、オレのどこかに歪(ひず)みをもたらせているのだろうか?単に懐かしいだけなのではない。失った時間を取り戻したい気持ちもある。いつか日本へ帰ったら、そのときも逆の意識が芽生えるに違いない。

独立してからの人生を、京都とシカゴという遠く離れた二カ所で半々に送ってきた。過去の記憶、特に人間関係は、時々の想い出を切り取ったまま、残滓すら見当たらないことも多い。

いつまで浮き草の生活は続くのだろう。他人からは刺激的で魅力に満ちた生き方に思えても、自分が思い描く方向へ遅々として進まぬ苛立ちは、漠然とした何かを「待つ」ことで保てる希望さえ失わせる。

イベントは思ったよりも早く終わって、散髪帰りのようなさっぱり晴れた気分で家路に着く。もう少し足掻いてみようかと少しやる気が出たが、学生時代の勉強と同様、課題や期限などの目標がないと、結局「いつかする」といつまでもしないことに思い至り、気分は次第に萎えていった。