傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 27 [ 2005年1月 ]


At artis's ... Billy, Ronnie Baker Brooks, & Mark Mack
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2005年1月1日(土曜日)

喪中につき新年のご挨拶を失礼させて頂きます

今年もご愛顧のほど よろしくお願い致します


2005年1月3日(月曜日)

アーティスでビリーに会うと開口一番

『バディ・ガイが芸能専門ケーブルテレビで「シカゴ一のブルースバンドはどこだ」と訊かれたらしい。なんて答えたと思う?』
『見当もつきませんな』
『さんずおぶぶるーす、だとよ』
『えっ?』
『いや、モーズが観たってゆーんだが、アーチー(アーティスのマネージャー)も同じ番組を観たらしいから確かだろう』
(モーズ信用されず・・・)
『ほおぅ。でもあの人、オレたちがレジェンドで演奏するときに上がってきたことないじゃないですか』
『ああ、よそのバンドとはジャムっても、オレたちとはしないな』
『ホントにご本人がそう思っているのなら、世界ツアーの前座バンドとしてブッキングしてくれりゃいいのに』
『本心から言ったとしても、そこまでは金出せねぇだろうよ』
『じゃ、レコード会社とかエージェントとかに推薦してもらうとか』
『・・・いろいろあんだよ』

大将は大大将の発言の真意を量りかねていたが、まんざらでもなかったようで、会う人ごとに同じことを話していた。

『ジャムで思い出しましたけど、レジェンドにMが出演したときステージからバディ・ガイを呼んだのに上がってこないから、Mは切れて「オレと一緒に演奏できないのか?来ないならここでおしっこをするぞ」とズボンのチャックを下ろしたそうですよ』
『えっ、やったのか?』
『いや、客は冗談だと思っていたようですが、バンドのメンバーはMならしかねないのを知っていたので、みんなで止めたようです。だからそれ以来、Mはレジェンドには出られません』
『誰から聞いた?』
『当時のベースだったEです』
『それなら確かだな』
(信頼のE・・・)

年末に地元のテレビ局が朝のニュースで、バディ・ガイの「ロックの殿堂」入りを一斉に報じていた。まだ殿堂入りしていなかったのは意外だったが、久し振りに見るバディ・ガイが、実年齢の68才以上に感じたことを思い出す。横にいたバディ・ガイの弟フィルに、『テレビで久し振りに見たお兄さんは、随分老けて見えましたが』と言うと、『4才しか違わないけど、金持つと老けるんだよね』と答えた。

『だからオレは、金を稼がないんだ』

オレの笑いが「苦く」見えなかっただろうかと気にする。


2005年1月4日(火曜日)

休みの一日を、目の奥や頭痛まで伴った歯痛に悩まされる。歯医者様(2004年2月19日参照)の予約が来週の木曜日にしか取れず、それはもう期限付きの災禍と諦観しているから、余計に大した家事をするでもなく、愚図愚図と寝たり起きたりの怠惰な時間が過ぎていく。

この日記も書こうか書くまいかとだらだらメールをチェックしていたら、少し重いファイルが某紙の政治部記者Tさんから送られてきていた。オレが年末に書いた"Bounce"の掲載記事を実写してくれていて、Tさんの心遣いには大変感謝したものの、日本最大の発行部数を誇るフリーペーパーだけあって、先週にはこちらの希望部数がすでに届いていた。

しかし40万部の配布と聞いていたが、知り合いから「読みましたよ」というメールは来るものの、当該記事に関する噂や、新たなファン(HPのヒット数など)が激増したとかいう話は聞かない。バウンスがターゲットにする若い読者層が、「ブルース」に対して一般的に持つ「どの曲も同じ」「暗い」「分からない」などの印象を考えると、40万部の配布をどれだけの人が持ち帰り、どれだけの人がオレの書いた記事を読み、どれだけの人がブルースに興味を持ち、どれだけの人がオレの名前を心に刻み、どれだけの人がオレに興味を持ったのだろうかと疑問に思えてくる。

興味の表出とは、具体的にはライブを観に行くとかファンレターを出すとかなので、この場合はオレの CD、 "Piano Blue" の売り上げにどう関係するのかを考察してみた。

何の根拠も脈絡もなく心に思い浮かんだ感覚的試算では、お持ち帰り実数は30万部で、その3分の一(10万人)が各記事を拾い読み、その10分の一(1万人)がオレの記事に目を留(と)め、その半数(5千人)がブルースに興味を持ち、その3分の一(1.667人)がオレの名前を覚えるか知っており、その半数は既にオレのアルバムを持っているので、残りの10分の一(83.4人)がオレのCDを購入しても良いと考え、実際はその3分の一(28人)が財布を持ってタワレコに走ることになる。

つまりこの記事が掲載されたお陰で、"Piano Blue" は30枚近く売り上げを伸ばす計算になるわけだ。この試算では何度試しても56枚をこえることはなく、もとより自分を売るために原稿の依頼を引き受けたのでもないので、ことさら悲観することはない。40万部の配布に対してこの数字は、ブルースというのカテゴリーが如何にマイナーであるかを再確認させられただけで、ん!?ちょっと待てよ・・・記事中に "Piano Blue" の記述はあったっけ?ルリーでしょ、アホのエディでしょ、リコでしょ、ABCでしょ・・・。

・・・"Piano Blue" 、10枚も売れりゃ万々歳でしょ。


2005年1月5日(水曜日)

歯の痛みでほとんど寝られない。抗生物質だけでも処方してもらおうと、朝一で歯科医院へ電話してみたら、『あらっ、ちょうど良かったわ、たった今、今日の4時の予約にキャンセルがあったばかり。いらっしゃる?』と、受け付けのおばさんの優しい声。『ハイッ』と元気良く答えたが、8時からジェネシスのレギュラーライブ。西北にずぅううっと行ったとこにある医院と、南へずううぅっと行ったとこにあるジェネシス。医院を5時に出られたとして・・・、こりゃ、いったん家へ戻って機材積んでってのは時間的にギリギリかも知れない。
 
ハッ、カーテンを開けて驚いた。エライ雪で路駐の車の車種が分からんほど積もっている。こんな日は街中が混むに決まっている。機材持って歯の治療かぁ?

その後もうつらうつらすら出来ず、ズキズキ、悶々と時は過ぎゆき、1時に寝床から這い出して車の雪かきへと駐車場に。降り頻(しき)る雪の中、30分掛けてマキシの身だしなみを整え、ようやく仕事機材を積み込もうとしていたとき神からの電話。

『ワシはビリーじゃが、今日の仕事はキャンセルじゃ。大雪の中、お前やミノルが北の方からやってくるのも大変じゃろうとて』
『ははっ。ありがたきお言葉、痛み入りまする』

時間の余裕を充分に見て家を出たが、やはり道はとろとろ混み混み歯科医院へは4時ギリギリに到着。予想通り元凶の歯を一本抜き、予想以上の自由診療代に目が少し窪み、考えれば本日のギャラのない散々な一日だったにもかかわらず、気持ちは晴々として久し振りに熟睡できそうだった。


2005年1月8日(土曜日)

"B.L.U.E.S." でSOBのライブ。老舗のこの店が年に何回かしか入らないのは、ギャラの折り合いのみ。「出演して欲しい」「出演したい」のに、お金の問題で出られないというのはどこか割り切れない思いだが、実利的なアメリカ人には普通のことなのだろう。しかしオレにとってはシカゴ出発点となったクラブだけに、いつもある種の感慨を持って臨んでいる。

ただでさえ週末の "B.L.U.E.S." 近辺は、多くの店が Valet (valet parking:係員付きの駐車サービス)を依託するほど混み合うのに、歩道や道路の整備で、道端には40センチほどの高さに雪がかき集められているため、駐車スペースを探すのに苦労することは目に見えていた。搬入や駐車のことで時間に追われ、気が急(せ)ったり要らぬ労力を使うのなら、チップも入れて$10ぐらいの Valetを利用することも悪くないが、いい加減で無責任なこいつらに可愛いマキシちゃんを預けるのが嫌なのだ。

Valetの会社によっては、自前の駐車場を持ち安全に管理するところもあるが、スペースが一杯になると路駐で済まし、歌手のデロリスなど、レッカー移動区域に置かれてチケットをもらったことさえある。しかもこの寒いのに、エンジンを暖めることなく車を回されては堪らない。だから、些事にとらわれないビリーを除いて、メンバーがValetを利用することは滅多にないのだ。

いつもより30分も早くアパートを出たが、予想通り駐車可のスペースはなかなか見付けられなかった。こういうときベースのニックはひと所に車を停め、誰かが動くのをじっと待っている。「運」というものを信じるタイプではないが、落ち着きなく周辺をうろうろして探すオレよりも、大抵の場合、彼の方が店に近い場所に駐車しているのを考えると何かがあるのかも知れない。行動と結果の確立関係とも考えたが、同じように動き回る丸山さんも、探している「時間」と「駐車位置」の効率(比率)が明らかに良いので、オレにそういった「運」はないのだろう。

早出の余裕もうろうろが30分も過ぎて焦りだしてきた。ええい、遠くなるが少し範囲を広げてしまえと、距離を気にせず駐車を優先する。かろうじて空いているパーキング・ロット(路上の駐車料金徴収器)を見付けたものの、前後の車が下手くそに駐車(メーターの柱をはみ出るな!)しているので、マキシちゃんは何度も切り返さねばならない。こんなとき、バンパーをごんごん当てて出ていくバカが多いので、相手の車の上等さまでも考えねばならぬ。

以前カローラの、格好良い「トヨタ」のエンブレムがポロっと下に落ちてていた。確か、前に停まっていた車はピックアップ・トラックだったはずだ。トラックの後ろに付いている牽引用の出っ張りと、エンブレムの高さが同じだったに違いない。エンブレム如きで警察が捜査するわけもなく、また過失車を探し当てられるはずもなく、抜けた前歯をさらしたような顔のカローラは、悲しげなままであった。

前はレクサス、後ろは小ベンツ。両車とも年式は新しく、向こうも当てぬよう気を付けそうである。アメリカで車を停めるには、そこまで気を付けねばならない。

雪で歩き難い歩道を15分も掛けてクラブに辿り着くと、一番に機材を搬入したオレが一番遅れている。メンバー全員に、どこに車を停めたか訊いて回ったが、節約家のニックまでがValetを利用していた。その後、知り合いすべてに同じことを尋ね、ボランティア・ローディのY以外全員がValetだった。

終演近くまで店内は大混雑で、休憩中の自分の居場所さえ難儀する。ステージは店内の一番奥に位置するので外に出る気には到底なれない。だから、はす向かいのキングストン・マインズへも顔は出さず、マキシちゃんを取りに向かうときに初めて、見覚えのあるValetの係員と出会った。

バンドメンバーのほとんどが利用するぐらい忙しかったのだから、オッチャンたちはチップ収入でさぞホクホクの態(てい)だろうと思っていたが、メキシカンの彼らの表情は疲れ切っていた。ひょっとしたら忙しかっただけではなく、違法駐車の反則チケットを剥がしたことがばれないかと、びくびくしていたのかも知れない。


2005年1月11日(火曜日)

ビリーがオレに音楽的なこと、例えば、アレンジだとか新しい曲だとかビリー自身の能力の開拓だとかの助力を頼むのは、その日の演奏が終わってギャラを渡されるときで、彼は多少とも酔っていることが多い。最後には決まって『今の(バンドやビジネス上の)状態を変えるには、お前の力が必要なんだ』と付け加える。

『ABCのときもそうだったけど、課題(フレーズやメロディを覚える)しないじゃないですか』
『側にいてオレのケツを叩き、宿題をやれとけしかけて欲しい』
『えっ!?付きっきりで面倒見ろってことですか?それ、宿題とは呼びませんよ』
『とにかく、ひとりではなかなか先に進まないんだ』

じゃぁ具体的に、いつどこでどのようにあなたと作業しましょうかと応じると、『時間のあるときに電話をくれ』で終わってしまう。自分のことで精一杯なのに、 何で大将を急き立て、ときには嫌みを言われ、雇い主のむっつり顔に怯えながらオレが仕切らねばならいのだろう。そこには、起こしてくれと頼まれ、散々文句を言われながらも無理やり起こすような不条理さがある。

それでも労力を費やし、必要な頼みごとを聞くのは、家族や恋人同士の愛情であったりするのだが、徒労を厭わない同種の愛情がビリーに対してあるはずもない。否、オレ自身にも愛情がないのを自覚しているので、自分のケツを叩くことがない。だから何ごとも締めきりギリギリで済ますことが多いのだ。

『12月から、"ビリーのブルース・ジャム"ってテレビ番組がチャンネル11で始まるんだ。SOBでジャムのホストをする、そのオープニング曲を作って欲しい』

そう頼まれたのは昨年の10月だった。チャンネル11は日本のNHK教育テレビの地方局のようなところで、予算等たかが知れているし、まぁ、どこのテレビ局にせよ、"ビリーのブルース・ジャム"って番組が成立するかどうかも怪しい。だから何種類かのアイデアはすぐに浮かんだが、形にはせず放っておいた。

案の定12月になっても番組は始まらない。ギャラの支払いのときに、デモテープを作って欲しいと言われることもあったが、自前の録音機を持っていないので直接聴かせますと言い訳し、そしていつものように、日時を決めるまでには至らなかった。

それが先週、電話で催促された。酔っていない昼間、それも電話というのが珍しい。おっ、ホントにやる気ならお相手しましょうと、休みの今日を指定した。長さ2分でこれこれの感じのものを作るよう漠然と説明されていたが、音楽用語のまったくない、早い、賑やか、クレージーなどの言葉の方が、こちらの裁量の余地が大きいのでやりやすい。

ビリーの自宅にある、おもちゃのような自動伴奏付きキーボードを使ってアイデアを何種類か披露し、彼の希望も取り入れながらその場で細かくアレンジする。メロディ、ハーモニカフレーズを教え、2時間ほど掛かって完成したものをキーボード本体に記憶させ、プロデューサーに電話して感想を聞いた。

キーボードのカラオケをバックに唄う、ビリーの持った受話器の向こうから、大笑いしてウケているプロデューサーの声が聞こえてきた。『気に入った?気に入った?あはは、これはね、アリヨがね・・・そしてね・・・えっ・・・ああ・・・ふむふむ・・・』意気揚々と説明していたビリーが、次第に相槌を打つようになる。どうやら尺(長さ)に問題があるらしい。

受話器を置くと彼は申し訳なさそうに言った。『何でオレが2分と思っていたかは分からない。プロデューサーが尺は20秒だと』・・・オッサン『2』しかおーてへん(合ってない)やんけ!

3分ほどでアレンジし直し、さらに4分ほど掛けて、きっちり20秒に収まるカラオケ2種類をキーボードに打ち込み(本体録音)さっさと帰ろうとすると、ビリーは『面白いビデオがあるんだ』と引き止めようとする。

映像は初期SOBのドイツ公演のものだった。ギターがまだ20才に達していないルリー・ベルに興味を示していたら、こんなのもあると、ビデオ屋の一角の如き棚を引っ掻き回してテープを取り出してきた。

オッサンはオレに気を遣っているのか、寂しいのか分からないが、オーディオやビデオ、テレビなどのコントローラーを駆使して、ステレオサウンドでローリングストーンズ3Dビデオを観せようとしている。その昔$1.99で購入したという妙な眼鏡を掛けさせられ、飛び出るストーンズを観て驚いた振りをし、もう充分でしょうと立ちかけたら、これも面白いぞと別のテープをデッキに入れた。

ピー・ウイー(ひと頃流行ったコメディアン)の番組、そのオープニングが可笑しいので観ていけと言う。ビリーは娘と一緒によく観ていたらしい。何でいまだにそんな子供番組のビデオを持っているんだと馬鹿らしかったが、大将が巻き戻し早送りを懸命に繰り返してもオープニングは出てこない。そして、間をつなぐためのどうでもいい番組解説を散々述べた挙げ句、コントローラーの操作を過ってビデオデッキの電源を切ってしまった。途端にテレビの雑音がステレオから大音量で流れてくる。

どれかを消さねばと焦りまくり、床に散らばっている4個ほどのコントローラーを手にあたふたする大将は、ひとりだとやっぱり寂しいのかも知れない。


2005年1月12日(水曜日)

小寒も過ぎたというのに暖かい。堆(うずたか)く積もり、埃で黒くなり始めた雪も、夜の大雨で次第に洗い流されていった。

ホリデー・シーズンも過ぎ、街が落ち着きを取り戻したにもかかわらずジェネシスの客入りは思わしくない。サウスサイドでのSOBのライブには必ず顔を出すデロリスが、『もの凄い大雨だから、みんな外へ出るのが嫌なのよ』という。

あるときは野球のワールドシリーズのテレビ中継だったり、あるときはサンクスギビングだったりと、客の少ない理由を付けられることが多いのだが、それがホントに関係あるのかは分からない。どちらにせよ、店の営業を考えると理由よりも結果が欲しいに決まっている。

ふとキッチンの明かりに気が付いた。おやっ、パパGが出所(2004年12月29日参照)したのかと思ったが、DJが『サウスサイドいちのキッチン、アンクル某(なにがし)をよろしく』とアナウンスしたので、パパGが失職したことに変わりないことを知った。どちらにせよ、オレの舌を考えると味が良ければコックが誰であろうと構わないに決まっている。

試しにチキンウイングをと思っていたのに、機を逸して注文できなかった。機材を片付けていると、新しいキッチンの新しい従業員の可愛い黒人のねぇちゃんが、『チキンスープ余ったから飲んでみる?』とみんなに訊いてきた。こりゃ飲んでみて、頼み損ねたBBQウイングの仇を討ちたい。

そして小さなカップに入れられたチキンスープは、一口で一日分の塩分が摂取できるほどに、とても塩っぱかった。


2005年1月13日(木曜日)

おおお・・・暖かい!日中の気温19℃・・・そして夜には軽くマイナス5℃にまで落ち始める。

バディ・ガイ恒例の冬のレジェンド興行。今月の毎週水曜から土曜(週により変則)まで16公演、すべて売り切れらしい。今日はSOBが前座なので、ロザを休んでレジェンドへ。

ステージはバディ・ガイ及びバンド様のセット固定のため、前座バンドのオレなどマイクもなく端っこの隅に追いやられ、終われば超特急で機材を運び出さねばならない。そのオレたちの前座に、エディ・テイラーJr.がハーモニカ・ハインズとデュオをしていた。ほとんど見られないアコースティックなスタイルだが、エディがちゃんとブルースを意識して演奏しているので嬉しかった。

前座公演を終え、満員の店内をかき分け搬出していると、バディ・ガイのバンド様のキーボード、マーティと会った。『おお、アリヨッ!電話してくれたらオレの(ステージ備え付けの)機材使ってくれても良かったのにぃ』

ありがたや、オレの歳のおよそ半分ほどの若さのマーティ君のお言葉。オレ、お前の電話番号知らんのじゃ・・・。


2005年1月14日(金曜日)

大体ね、なんでこんな冬のくそ寒いときに、もっともっと寒いモンタナに行かなアカンのぉ?それも朝7時45分の飛行機って・・・。

レジェンドの帰りにロザへちょっと顔を出して、アパートへ戻ったのが午前1時。それから夕飯を食べてシャワーを浴び、ツアーの用意をして午前4時半に車で出発。オヘア空港の近所に住む旅行エージェントのNにマキシちゃんを預け、そのまま送ってもらうと、6時過ぎにはデルタ・エアラインのカウンターでチェックインしていた。

ゲートの中へ入るとタバコが吸えないので、外で凍えながら喫煙しうろうろしていると、6時40分頃にはドラムのモーズを除いて全員が揃う。鬱陶しいセキュリティをくぐり抜けて乗り場へ向かうと、モーズがブラブラしているのが見えた。『なんだ、もう中にいたのか』とビリーが言うと彼は笑いながら、『4時半にここへ着いたんだ』と答えた。モーズ、何を考えている?

ロッキー山脈の東、カナダとの国境近くのモンタナ州カリスペル(Kalispell)は、小さな町だが冬のスキー客で賑う。3ブロックで終わるダウンタウンは、カウボーイの土地らしく西部劇をあしらった作りで、雪の道路脇にはピックアップ・トラックばかりが並んでいた。

500人ほど収容できる広いクラブの音響は、$40.000も投資しただけあって心地良い。出番前の楽屋には鳥の丸焼きが4羽と、大盛りのサラダや果物が用意されていた。従業員は目が合うと『何か必要なものはありませんか、何でもおっしゃってください』と申し出る。観客を含め、北国の人々の暖かさに心安らいだ。

そして清潔で小奇麗なホテルは全室禁煙で、深夜オレがタバコを吸っていた吹きっ晒しの廊下の気温は、マイナス32℃だった。前日のシカゴとの温度差51℃・・・。


2005年1月15日(土曜日)

カリスペル二日目。

日中は温度も上がり、マイナス7℃と悪くない。小さなダウンタウンの土産屋を覗きながら、中心に位置する出演クラブを通り過ぎると、数ブロック先を長い貨物列車が通過していく。一体どれくらい長いのか確かめたい気持ちと、身体が冷えきることを心配する気持ちを天秤に掛けようとして、躊躇している間にきっと身体が凍ってしまうことに思い至り先へ進んだ。

ちょうどオレが近付いた頃、最後尾の車両は過ぎた。線路は見通しの悪い緩やかなカーブになっていて、列車の長さは分からない。この大きな木造の建物も視界を遮っていたんだと見上げると、見覚えのある看板が目に入った。鉄道王国である日本と違い、アムトラック(全米横・縦断鉄道)は一日の本数が極端に少ない。こんな田舎なら尚のこと乗降客も少数のはずだが、りっぱな駅舎に見える。ここはリゾート地で冬と夏は混み合うことを思い出し、ついでに膝が痺れ始めていることに気付いた。

半袖のTシャツにセーターとウールのコート、下は綿パンだけで、股引のようなものを身に付けていないから、下半身が冷えきっている。駅舎の中で少し暖まっていこうと表へ回ると、大きな扉には鍵が掛かっていた。ホテルまでの5ブロックを、どこかコーヒーショップのようなところで小休止しようと膝ががくがく提言したが、それはあまりにも安直すぎると思い直し、生還するまでが冬山登山だという常識に従い、それでも傍から急いでますと悟られないよう平静を装おう程度に歩き始めた。途中「Coffee」のサインを目にするも、宿まで僅か半ブロックの距離なれば一端戻って出
直すしかない。

出かける前は暑いほどだった部屋が涼しいのは、きっと思った以上に身体が冷えていたからに違いない。湯舟にお湯を溜めて浸かりたかったが、そこまでする自分を大仰だと思うのが嫌でシャワーにする。上半身に適温の湯を膝にかけると、両者とも悲鳴を上げた。湯の刺激が痺れを増す。3分は経っていなかったはずだが、片足で突っ立ったまま膝にかけ湯をしていると時間は長く感じる。寒気や関節の痛みらしきものもなく暖まったので、今度こそ堂々とコーヒーを手に入れようと再び外へ出掛ける気になっていた。

濡れた髪の毛をタオルで適当に拭き、ツンツン立たせて外へ出ると一瞬でパンク頭になる。屋根から垂れ下がるつららの逆だと独り合点したが、前にも同じ光景で同じように合点したことを思い出し嫌な気分になる。

先に見付けたコーヒーショップでは、テーブルで遅い昼食をぽつねんと採っていた客らしき青年が『何をお探しで?』と訊いてきた。他に客や従業員らしき者は見掛けない。『カフェラッテが欲しいんですが』と答えると、『多分作れないと思いますが訊いてみましょう』と奥へ向かって某かの名前を呼んだ。顔を出した若い店員は常連客にお礼を述べてから、オレに向かって申し訳なさそうにラッテは作れない旨を伝え、二人して、どこそこなら必ずありますよと道順を教えてくれた。都会の冷たく忙(せわ)しない店員の応対に慣れているので、ちょっとした親切に意外なほど癒される。

店を出るときに初めて、入り口のドアのポスターに気が付いた。見慣れたSOBのプロモーション写真が印刷されている。そして、教えられた何とかカフェまでの3ブロックに在る商店すべてに、同じポスターは貼られていた。


2005年1月16日(日曜日)

ホントは昼過ぎの便でゆっくり帰れるはずだったのに、ミシガン州トラバース・シティへ月曜日の午前中には着いていなければならないビリーの単独仕事の都合で、朝6時の便に乗るべくホテルを5時前にチェックアウトした。

ええっと、昨日は何時にホテルへ帰ったかなぁ、3時頃かぁ・・・さっきやんけ!まるで格安海外パック旅行の小さな字で記された細かい日程を読んで、なんのこっちゃと想像し難い「4泊6日」の不細工なスケジュール、<お帰りは5日目の早朝になります>のようだ。活字にすれば5日目というものが存在するが、実際は4日目の夜遅くで一泊は実存せず、部屋に帰って荷物をまとめればそのままお帰り。旅行の最終日は、せめてチェックアウトの時間に宿を出たい。

翼や機体に積もった雪に不凍液が噴き付けられ、モンタナの凍った空気を暖めるような蒸気で窓の外が真っ白になった。そして間もなくオレの意識は落ちる。乗り換えのソルトレイク・シティの滑走路走行で目が覚めたから、飛行機に乗った実感はない。

空港内ではやたら日本人の団体客が目に付く。それもひとりで行動している人はいない。みんな3-4人のグループでうろつき、あるいは二人なら一見して夫婦者だと分かる。妙なことに、ほとんどの人がロゴの入った同じバックを持っていた。

ただの団体観光客に見えないのは、浮つきがなく落ち着きもない、新興宗教の信者さんの臭いがぷんぷんするのだ。モーズやニックが何のツアーかを知りたがったし、オレも興味があったので、『こんにちは』と笑顔で声を掛けながら、話し易そうなおばさんの4人組に近付いていった。

『皆さん同じバックを持っていらっしゃいますが、こんなに大勢で一体どういうツアーなんですか?』と訊くと、全員が一瞬怪訝な顔になる。

『Nという会社のコンベンションで来たんです』と体勢を立て直すようにひとりが答えた。

『このターミナルで待っている日本の方は、全員同じ会社の人たちなんですか?』
『はい、日本全国から2.000人が集まったんです』
『えっ!?2.000人も?コンベンションはどこであったんですか?』
『ここ、ソルトレイク・シティです』
『でも2.000人って大きな会社なんですね』
『ええ、ふふふ・・・』

互いの顔を不安そうに見つめ合っていたおばさんたちは、彼女が答えたことによって安心したように見えた。どこか野暮ったい3人に比べ、オレに応対した女性だけは垢抜けている。最初の一言のあとは澱みなく自信を持って答えていた。

ピンポーン!大正解!

Nって、2.000人も海外のコンベンションに遣れる大きな会社なんて聞いたことがない。彼女は同じ会社の人間と言っているが、みんな自費で参加しているのだ。

会員制の無店舗販売組織で、大抵が健康食品や医療用具を高額で友人知人に売り付け、そのマージンがピラミッドで上がっていく仕組みのマルチ商法の会社に違いない。夫婦会員が多いのも特徴だ。垢抜けおばさんは上位(親)の会員で、グループの下位者(子・孫)の売り上げの何%かを収入として得ている。自分は儲けたと思わせるように高価な物で身を飾り、「夢」をエサにグループ会員を増やさねばホントの儲けはない。自分だって誰かの下位会員に過ぎないからだ。

ときには良心に嘘を吐(つ)かねばならないので、「疑い」を棄てて、商品が値段に見合う以上に素晴らしいことを闇雲に信じるしかない。コンベンションと言っていたが、信仰を深める、あるいはマインド・コントロールを深める、昂揚演出の「場」だったのだろう。だから彼女たちに感じた雰囲気が、新興宗教信者や自己啓発の会員に対すると同じものだったことを理解した。

オヘアへ向かう飛行機が離陸してもオレは眠れなかった。楽して儲けたいというのは人の欲かも知れないが自然な感情で、オレたちも印税暮らしを夢見て当然だ。しかし、人を騙してまで儲けたいとは思わない。おばさんたち、騙されていることに早く気付いてねと願っていた。


2005年1月18日(火曜日)

週末にミシガン州の北辺、トラバースシティでSOBのコンサートがある。ビリーと丸山さんは、月曜日から金曜日までブルーズン・スクール(子供のためのブルース講座)で前乗りしているから、オレのマキシちゃんでモーズとニックを連れて行かねばならない。進行したマキシちゃんのフロントガラスのひび割れを、これを機に取り替えようと、せっかくの休みを潰して業者とアポを取っていた。

教えられた住所を訪ねると、建物には"Lee Auto Body"(リー車体修理)の看板が掛かっている。電話で応対をしていたのは韓国人だったのかと思ったが、出てきたのはラテン系の男で車体ガラスは間借りらしい。

馴染みの修理屋から紹介されたので、定価$303を$220にしてくれた。どういう査定でその値段になったのか分からないが、車のフロントガラスの代金が2万五千円ほどなのは安い気がする。45分で仕上がるというので、事務所で待つことにした。

狭く乱雑な部屋に通されると、車体修理の先客の韓国人が数人、椅子に腰掛け雑談をしている。くすんだガラス窓から外の景色をぼんやり眺めていると、『日本人ですか?』とわずかに外国訛のある日本語が聞こえた。振り返ると声の主以外に人は居らず、二人だけになったのを見計らって尋ねたようだ。

ジョーと名刺に印された建設会社を経営する50才間近の男性は、以前韓国の商社に勤めていて、日本の会社との取り引きで言葉を勉強したという。4年前にシカゴへ来てからは日本語を話すことがほとんどなく、機会があれば使いたいという彼の気持ちは理解できた。 

『日本には北海道以外、45回行きました』『佐渡島にも行きました』『京都はいいところですね』『鹿児島が日本で一番素晴らしいところだと思います』『料理、景勝、温泉、鹿児島は何でも一番です』『鹿児島には仲の良い友達がいます』『私の娘は日本の歌謡曲が好きですね』

問わず語りに話してくれるので、よい暇つぶしになるが、微妙に通じ難い表現などは、自分が英語を話す際の反面教師にしなければいけない。

『ハイサンは大変ですね』
『ハイサン?』
『空から降ってくるハイ、灰ですよ、その山』
『ああ、火山です。鹿児島は桜島の灰が降ると厄介ですね』

『スマン、あなたのネンダイはいくつですか?』
『ネンダイ?』
『エージですよ』
『エージ?』
『Age』
『ああ、年齢ですか?』

しかしジョーさんは、語彙力が付けば相当日本語を話せそうだった。

オレの知っている日本人で、朝鮮語を少しでも話せる人間がどれだけいるだろうか?逆に日本語を勉強している韓国人は多い。こちらで知り合う韓国人はみんな、エネルギッシュでバイタリティに溢れている。南北が統一されれば、日本なんて直ぐに追いこされてしまうに違いない。

経済力のある国、上位に位置する企業の言語を優先する傾向もあるだろうが、単に力だけの話ではない。言葉を知るというのは文化を知る(触れる)ということで、それは他国、他民族、異文化、異なった価値観に対する敬意がなければならないのだ。英語しか理解できず、英語しか理解しようとしない人が大半のアメリカの国際性はどうなのだろう。ときに力の外交を国民が後押しするのは、理解し難い異文化への恐怖と排除なのだ。

ラテン系やアジア系のような、英語が第二言語のアメリカ市民が多くなれば状勢は変わるのだろうか?世界の共通言語として英語が定着した今は、それ自体が変化の核になるとは思えない。

何れにしても、英語が少し理解できて中国語がちょっと読め、母国語が日本語である自分の境涯をありがたく感じている。


2005年1月19日(水曜日)

夜8時から始まるジェネシスに間に合うには、アパートを6時に出なければならない。その寸前の5時55分に、ABCのレコーディングでお世話になったスタジオのオーナーから電話があった。週末にカナダのバンクーバーで、某レストランのテレビコマーシャル(CF:コマーシャル・フィルム)の録音があるが、興味ないかという問い合わせだった。うっ!土曜日にSOBは、ミシガン州で泊まり掛けの仕事が入っている。どうあがいても両立しない。

ほとんどの場合、スケジュールは相手の都合に合わせねばならず、ビリーなど、世界一の量販店"Walmart"のCF用声入れの仕事が、先週末のモンタナ・ツアーとバッティングして呻(うめ)いていた。

美味しい仕事は、スケジュールだけでなくタイミングも大切だ。西海岸に住むオレの後輩ギタリストのHは、携帯を持たない時代に留守電チェックが遅れて、30分違いでナイキのCF音録れの仕事が取れなくて悔しがっていた。ナイキとなると契約内容も濃く、ギャラは放映回数に積算されるらしい。いったいナイキのコマーシャルは一日にどれだけ流れているのだろう。他人事ながらHが得るはずだった金額の大きさに夢が膨らむ。

ニューオリンズ在住の山岸さんやオレがまだ日本でプーたらしていた頃、甲本ヒロトのソロアルバム(未発表)プロジェクトに参画する機会に恵まれたことがある。ブルーハーツ全盛のときで大変な栄誉だったが、ヒロトが普段セッションしない人と演ってみたいってことなので、山岸さんに頼むことにした。

『おっ、アリヨ!オレも連絡しょー思てたんや』
『えっ、そっちは何?』
『お前から先ゆえや』
『はい、これこれの日、空いてませんか?』
『えっ!?その日やんけ、オレがお前に頼もとしてるのは』
『はっ、なんですのん?』
『お前も何やネン。先ゆえや』
『はい、ブルーハーツのボーカルのヒロトって知ってるでしょ?リンダ・リンダとかトレイン・トレインとか唄ってる』
『おお知ってる知ってる、会ったことはないけど、ブルース好きやゆーてる若いロックスターやろ?』
『今そいつのソロアルバムの録音中なんですけど、山岸さんに2-3曲弾いてもらえへんかなぁ、思て』
『なんやぁー、演りたいなぁ、日ぃ都合できひんのか?』
『はぃ、他の人とのからみでギリギリなんですよ。照夫(ウエストロード・ドラム松本照夫)さんも来ますよ』
『なんやぁ、残念やなぁ・・・ああ、ほならお前もこっちの仕事アカンわなぁ?』
『えっ、何やったんですか?』
『カズって知ってるやろ?』
『サッカーのですか?』
『おお、そいつを起用してテレビコマーシャルあんねんけど、そのバックの音録れをブルースにすんにゃて』
『なんのコマーシャルなんですか?』
『それがなぁデカビタ。オロナミンCみたいなやつで・・・』
『・・・ガチャッ』


2005年1月20日(木曜日)

珍しく女性のギタリストが現れた。

見慣れない初老の白人夫婦で、最初ご主人がギターやアンプのセッティングをしていたから気に留めなかったが、ホストのジェームスにジュディと呼ばれて奥さんが上がってきたときは少々戸惑った。

金メタリックのレスポールを肩から下げた彼女はマイクに向かって、『主人の勧めで30年ぶりにギターを弾き始めたの』と説明した。『それから彼がインターネットで、セッションの出来るシカゴのブルースクラブを探してくれて、ジュリエット(西南に100キロほど)からここへやって来たの。頑張って歌も唄ってみるわ』

ジュディの自作の歌は詩吟を詠じているような切なさがあった。自分の体験を語るリアリティが、嫌味なくストレートに伝わってくる。30年振りに弾くというギターも、音色に味があり下手だが悪くない。心のこもった演奏は技術を無意味にしてしまう。

30年も触らなかったギターをご主人の勧めで再び演奏する気になったこと、わざわざネットで演奏出来るクラブを調べたこと、すべてのセッティングを彼がしていることなどを考えながら、きっとこの夫婦には、「老い」や「節目」といったこと以上の何かがあるに違いないと思った。

彼らが帰ったあと、ドアマンのガスに『あの人たちの雰囲気ってちょっと異質だったね。まるで奥さんが病魔に冒されているような』と何気なく言ったら、『よく分ったね、奥さんの方、乳癌の手術をしたばかりだって』とガスは答えた。

ご主人の優しく慈しむような澄んだ目を考えると、ジュディの寿命は僅かなのかも知れない。それでも演奏で彼女の生きる気持ちが励まされたのなら、音楽ってホントに素晴らしいものだと思う。


2005年1月21日(金曜日)

シカゴ地域からミシガン州にかけて、明日の昼過ぎまで大雪・吹雪警報が発令されている。トラバース・シティは夏なら7時間弱で着くところだが、下手すると倍以上掛かるかも知れないので、ビリーからは早出(遅くとも今晩の午前1時)するように厳命されていた。

土曜の夜の一回だけの演奏のために、深夜の吹雪の中、オレとニックとモーズは死地へ赴くような気持ちで出発する。


2005年1月22日(土曜日)

出立(しゅったつ)に備え寝ているときから、ホント嫌な想像ばっかりしていた。自分が傷付くとかでなく、他の車に巻き込まれマキシマが傷付かないかと心配していたのだ。怪我をしない自信は何故かあった。スピードは出さないし、回りの状況を常に把握しながら運転しているので、巻き込まれても「その瞬間」に備えられるからだ。それでもふとした想像の中では、吹雪の谷底へずるずる滑っていくマキシマの車内にオレがいる。一昨年のこと(2003年1月26日参照)も頭に残っていた。

既に15センチほど積もった雪でタイヤが滑り、アパートの駐車場を出るのに5分も掛かってしまう。大通りへ出ると、まだ午前0時を過ぎたばかりだというのに、車はほとんど走っていない。対向車がこっちに滑ってこないかと心配するほどマキシマは滑ったが、みんな時速は30キロも出していない。こんな大きな街でも、市の道路整備が追い付かないほどの降雪だった。

ニックと落ち合うはずのモーズの住むアパートまで、普段なら30分ほどだが一時間半も掛かった。向こうへ無事に着くかということより、シカゴを出ることができるのかという心配が頭を過(よぎ)る。ニックが頼んだタクシーが来ないというので、彼の家まで遠回りをした。ニック邸を出たのが午前2時。

州間高速道路に入るとさすがに幹線だけあって、早くに撒かれた凍結防止剤の効果で、一車線は何とか路面が見えているが、吹雪いているので視界は悪い。それでも順調に94号線を東へ2時間ほど進んでガソリンスタンドで小休止した。もっと吹雪いているはずの196号線に入る前に、ガソリンとウインド・ウォッシャー液を満タンにしておきたかったからだ。

レジで196号線とのジャンクションはあとどれぐらいかと尋ねると、後ろに並んでいたGパンに短い髪のおばさんが、『4マイルくらいだよ。でも運転は気を付けな。私は196号をここまで来たんだけど、ここいらよりもっと雪は深いよ。ほんとディープだよ』と教えてくれた。男勝りに見えるおばさんの乗っているのはレクサスのRV車で、オレのマキシマより雪道の挙動性に優れているはずだ。その彼女が気を遣って運転して来た道を、オレたちはこれから進まなければならない。時間は充分にある、ゆっくり安全に走ればいいと、気を持ち直し車に乗り込む。

196号線に入って間もなく、おばさんの言っていた『DEEP』を実感し始めた。まったく姿を見せない路面の積雪はそれほどでもなさそうだが、その下は凍っている。片側ニ車線の両脇は高さ1メートルほどの窪んだ土手になっていて、雪原状に平らに見えてもそこへ突っ込めば、自力で出られないほどの雪が積もっていた。

日本ではチェーンやスノータイヤなしに雪道を走ることはないが、シカゴ市内も含めて、ノーマルタイヤ以外を見たことがない。道も広いし慣れているので、少々のスリップは、スピードさえ気を付けていれば事故を回避できる。

だから時速80キロを越すと、タイヤが滑ったときに制御が効きそうにない。4輪駆動車や大型トラックは飛ばせても、普通乗用車のマキシマに真似できようはずもなく、時速を55-65キロに抑えながらオレは慎重にハンドルを握っていた。

ニックが唐突に『ホワイト・アウトって知ってるか?』とモーズに訊いた。何年か前に日本で同名の映画が上映されたはずだが、「ホワイト・アウト」の意味は、雪原の乱反射で方向や距離感などがなくなる現象だという記憶がある。助手席でうつらうつらとしているのか、モーズは曖昧に『んん、うっ』と答えた。ニックの不安そうな声が後部座席から聞こえてくる。『トラックが追い越すときに巻き上げる雪煙で視界がなくなるだろ?あれが「ホワイト・アウト」さ』

トラックの追い越しざまの「ホワイト・アウト」は凄まじい。ゆっくりと越されればそれだけ長く白い闇の中を彷徨ってしまうので、追いこされる前に減速して備えていた。時速40キロを切ると後続に車がいた場合逆に危険なので、ゆっくりとスピードを上げて55キロに回復させた。

そのとき(原意のままだが)トラックの轍(わだち)を踏んだのかも知れない。前輪が僅かに左へスライドし始めた。モーズもそれを感じて『慌てるな、大丈夫だから』と落ち着いた声で言った。もとよりオレは慌てていないし、回避出来るだけのスピードで走っている。ハンドルを僅かずつ徐々に右へ回し、右へ向かおうとする後輪を立て直そうとした。足はアクセルから疾(と)うに離しているが、なかなか減速する気配はない。次第に後輪が左へ向き始めたのが分った、その瞬間、マキシのお尻がプルッと震え車体は一気に右を向いた。気休めだろうが、ハンドルをラリー車のように左へ高速で回したが、こうなってはなす術(すべ)のないことを知っていた。

ヘッドライトに照らし出される景色が横に走っていく。ザズンッという感触を伴った音と共に雪煙があがり、身体が斜に傾いたかと思ったら車は止まっていた。運転席側のドアはウンともスンともいわない。窓の下10センチほどまで雪に埋もれている。ワイパーを作動させてフロントガラスの視界を開けた。進行方向とはまったく逆に停まっていた。一段高い雪上をヘッドライトが過ぎ去っていく。誰にも怪我はない。エンジンも点いたままだ。モーズとニックが右側から這い出るように外へ出た。時計を見るともうすぐ夜の明ける午前5時前だった。

それからの一時間半、オレたちはなんとか自力で抜け出そうと雪を掻き、車を押し揺らせ、マイナス15℃の吹雪の中奮闘した。延べ4台の車が停まって助け出そうとしてくれたが叶わず、大型トラックの運転手が、次の街でレッカー車の手配をすると約束してくれる。オレはAAA(日本のJAF)のゴールド会員だが、この大雪吹雪きの田舎ではいつ来てくれるかわからないし、重複するとややこしくなるので敢えて電話をしなかった。トラック運転手の言葉を信じて、それでも何かをしていないと落ち着かないので、3人は懸命に自らの腕のみで雪掻きをしていた。

やがてレッカー車がパトカーと共に現れオレたちは救出される。引き上げられたマキシマは疲れきっているように見えたが、外傷はないようだ。婦人警官に誘導されてUターンしたあと、『ステアリングとかに妙な音はない?』と彼女は尋ねた。この地で勤務する警官は事故車の扱いに慣れている。故障車をそのまま走らせるわけにはいかないのだ。

レッカー車の運転手に牽引代金とチップ合わせて$70を支払い、時間と僅かの金を浪費しただけで済んだ安堵を車内に漂わせ、再び目的地へと向かった。気が付くと空は明るくなりかけている。二度と同じ轍(てつ)を踏むまいと誓いながら、スピンアウトは回避できなかったのかとその場面を繰り返し思い出していた。

ニックもモーズも、オレはよくやったと誉めてくれる。しかし最初のスライドを修正することは出来なかった。あのとき少しでもハンドルを切らなかったら、左側の土手に頭から落ちている。滑っているときにブレーキを踏むのはもっての外(ほか)だ。車体を僅かに右へ修正したとき、後輪は一旦真直ぐに立て直されたと思った。その瞬間、今度は後輪が轍の上に乗ったに違いない。急に後部が左へ振られたのだ。

もしもこの事故がオレの責任なら、教訓として学ぶ必要がある。しかし、誰の手にも負えないものだったとしたら、強行軍自体が間違っていたことになる。オレひとりが行かねばならないのだったら、雪嵐の来る前にシカゴを出ただろう。先週に引き続き、団体行動の煩わしさに悩まされる。

目指すホテルに到着したのは午後1時(シカゴ時間午後12時)、アパートの駐車場を出て12時間後だった。


2005年1月23日(日曜日)

コンサートは2年前(2003年1月26日参照)と同様、大いに盛り上がり楽しむことが出来た。付近では一番上等といわれる巨大リゾートホテルの宿泊でのひとり部屋。往路の移動を除けば至極快適なツアーだった。

同じメンバーでの帰路、ニックがこんな録音知っているかと、誰かに貰ったCDRをマキシのプレイヤーに差し込んだ。1973年コロラド州デンバーでのライブ録音。

バンドリーダーのエディ・ショウ(サックス)、ヒューバート・サムリン(ギター)、デトロイトJr.(ピアノ)、S.P.リレイ(ドラム)、某・マクスウェル(ベース)たちの演奏がだらだらと繰り広げられている。

デトロイトはどのコーラスもソロのように弾きまくるので、サックスとぶつかりまくっていた。ベースの某は驚くほど曲を知らず、彼のベースラインはみんなとぶつかりまくっていた。そんな狂乱の中、ひとりヒューバートのみが淡々とサイドギターを弾いている。

デトロイトが数曲唄った途中で、エディが演奏を強引に止めて呼び出しを始めた。『みなさんお待たせ致しました、どうか大きな拍手でお迎えください、ハウリング・ウルフです』

えっ!?バンドが変わったのかと思うほど、みんなのバランス、スペースの埋め具合が良くなり、まるでスタジオ録音を聞いているかのような演奏が聴こえてくる。巨人が登場すると、それぞれのエゴが消え演奏に締まりが出てきた。メンバーの唄に対する集中と緊張感が伝わってくる。

十代の頃ウルフのバックを務めたニックに、『彼と演奏したとき緊張した?』と訊いた。ニックは笑いながら、『オレが若かったこともあるが、やっぱり緊張したさ。でも、他の人もみんな彼に敬意を払っていたし、それまで大音量で好き勝手に演奏してたのが嘘みたいに、ウルフを中心に演奏したよ』と答える。

『ウルフってどんな人だった?』
『怖そうに見えたけど、優しく思いやりがある人だったよ。よく冗談を言って笑わせてくれた』
『音楽的な指示は?』
『細かい注文は何もなかった。ただ、シンプルにとだけ言われたな』

横からモーズが突っ込む。

『オレもジョー・テックスからシンプルに叩けとよく言われたさ。』

おいおい、二人とも老いたか?ニックぅ、ハウリング・ウルフがブルースのベースはシンプルって言ったんでしょ?何でアンタ四つもエフェクター置いてるの?それからモーズぅ、オカズ欲しいときにもシンプル過ぎ!

晴天のシカゴ市内の路面は乾いていて走り易かった。しかし道端には雪が高く積み上げられ、裏道に入るとまだどろどろぬるぬるの状態で気を配らねばならない。オレは、アパート裏の自分の駐車スペースに積もっているであろう雪を心配していた。

ドロドロになったマキシちゃんを慎重に路地に入れると、駐車場は綺麗に清掃されているのが見えた。アパートのマネージャー、エライ!・・・掻いた雪を反対側に集めるなよな。並列に駐車するために切り返すスペース、ほとんどないやんけ!


2005年1月28日(金曜日)

ビリー&SOB出演予定のテレビ番組のオープニング曲の録音に、Oさん宅へおじゃました。2時間で仕上げる予定が、オレのわがまま変則リズムの打ち込みに手間取り、結局4時間も掛かってしまう。Oさんのご家族には深夜までジャカジャカと煩く、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。

その後ロザへラッキー・ピーターソンを観に・・・というより、バックのメンバー、リコ・マクファーランドとブレディ・ウイリアムスと朋友のチャールズ・マックに会うためが正しい。ピーターソンとはそんなに面識もないし。

午前1時10分に到着したが休憩中だった。入り口付近にはチコやリックやプーキーがうろついて喧(かまびす)しい。終わり真際にもかかわらず大勢の客で賑わっていたのは、ラッキー・ピーターソンのカリスマ性か。観ていても怪しげで危ない魅力がある。

ロニー・べーカー・ブルークスにギターが代わったところで、リコがオレに気付きステージへ付き引きずり上げられる。あんまり知らない人のキーボードを弾くのは気が引けるから・・・。マイケル・コールマンも一緒に上がる。チャールズの真ん前で弾くと、後ろから彼がちょっかいを出してくるのは分ってたけど、今日は4回お尻を撫でられた。ラッキー・ピーターソンはマイクを手に熱唱。

『アリちゃーん、やっと会えたよぉ、会いたかったよぉ、酔っててゴメンね、ボク恥ずかしい』とへろへろに抱きついてくる黒人がいた。『優柔不断、言語道断、何言ってるんだよーホント』と訳の分からない日本語を連発してはしゃいでいる。元チキンシャックのベースで、キンドコって番組にも出演していたデレク・ジャクソン。日本在住歴14年の彼は現在クリーブランドに住んでいて、親友のチャールズに会いに来たらしい。電話では何度か話したが、実際に会うのは初めてだった。

うう・・・チャールズのノリの源泉見たり。


2005年1月29日(土曜日)

「黒人クリエーター」のための大パーティが科学博物館で・・・そういや去年もあった。(2004年1月31日参照

6時半始まりの7時40分終了ぉ!楽チン楽ちんギグ。今年は前菜コーナー付きカクテル・パーティのスペースで演奏したので、メンバーは終わって直ぐに各コーナーへと群がった。オレはでかいシュリンプ・カクテルを、数種類のタレで味見しながら頬張る。2階のギャラリー・スペースで演奏していた、ブレディ・ウイリアムスがレギュラードラムのリン・ジョーダンバンドのメンバーは出遅れ、オレたちの残飯を漁る羽目に。

昨日のデレクの報告をするため、彼と元同僚(チキンシャック時代)の山岸さんへ電話。

『ほんでね、デレクが酔っぱらって日本恋しいって泣きよるんですよ』
『そやろ、泣きよる泣きよる』
『ほんでね、妙な単語や熟語ばっかりゆーて』
『そやろ、言いよる言いよる』
『ほんでね、・・・』
『そやろ、しよるしよる』

『今日はどこですか?』
『ワシ?今テキサスや。ヒューストン』
『よろしいやん、暖ったかいとこばっかりで』
『そやろ、今度スペインやねん』

一瞬電話を切りそうになった。

『オレら2週続けて極寒の地で、先々週なんかモンタナでマイナス30°C切ってたんですよっ』
『ケラケラ、ガハハ・・・そやけど、ワシも来月ニューヨーク入ってんねん』
『ウフッ!』
『あっちのツレに今気温何度くらい?って聞いたら、マイナスかプラスか忘れたけど12°Fってゆーとったわ』
『華氏でもマイナスかプラスやったら、えらい違いですやん(註:12°F=-11°C、-12°F=-24.5°C)、+やったら息吸うたとき鼻の中はチリチリせんけど、-やったら一瞬で鼻毛凍って痛いですよ』
『関係ないねん、ワシ氷点下から気温下回ったら嫌なん一緒やし』
『・・・ガチャッ』


2005年1月30日(日曜日)

年に何回かしか演奏する機会のない、ハウス・オブ・ブルースのレストラン・ステージ。ハーモニカ・ボーカルのロブ・ストーンや、74年のバディ・ガイ、ジュニア・ウエルズの来日時に、京都会館第一ホールで観たドラムのウイリー・へイズらと共に、オーソドックスな50-60年代ブルースのオンパレードで気楽に演奏を楽しめるユニット。10時から90分だけの一セットのみ、おまけにキッチンからひとり$15相当のオーダーも付いているのでお食事も楽しめる。

搬入時に小煩いセキュリティを何故か見掛けず、あっさりと機材を運び込んだあと、車を停めるためぐるっとひと廻りしたら、半ブロックのところに駐車スペースを発見。時間はたっぷりあるのでゆっくりとセッティング。うっ、ヘッドアンプがない・・・。

キーボードを除いて普段から機材全部をトランクに収めたままにしているが、最近は寒かったので、ヘッドのみ後部座席の下に入れコンフォーターで隠していた。だから搬入時に気が付かなかったのだ。コートを引っ掛けヘッドを取りに車へ戻る。でも半ブロックの距離だから苦にはならない。

今夜は零下をあまり下回ってはいないようで、歩いていても少し汗ばむ。ひと気の少ないダウンタウンに佇み、しばらくビル群の灯りを眺めていた。何もハプニングの起りそうにない夜、淡々とした穏やかさがちょうど良い。

午前0時にはすでに高速に乗り家路に着いていた。ガソリンの残量と明日のアーティスまでの距離を漠然と計算し、今の間に入れておいた方が良いと判断する。市中心部とは違い、ウチの近所は料金先払いのスタンドは少ない。ポンプを給油口に差し込みレバーを留め、車内の灰皿を取り出してゴミ箱に吸い殻を落とす。タバコを吸っていたのは10分以上前だから火は消えているはずだ。

一杯のゴミの上に吸い殻がバラけ、一瞬灰が散り煙が白く立ち昇った。んっ!?んんん・・・、灰が舞ったのではない、まだ、火が点いている吸い殻がある!

深夜のガソリンスタンドで、車の窓ガラス清掃用水をゴミ箱に掛けまくる。


2005年1月31日(月曜日)

その男の身なりは少し派手で、アーティスでは初めて見る顔だった。然(さ)して騒ぐ様子もなく、しかしニタニタと拍子を取りながら身体を揺すっているので、充分に楽しんでいるように見える。

いきなり鍵盤に一枚の1ドル札がひらひらと舞ってきた。顔を上げるとその男がニ枚目のお札を宙に放るところだったが、お愛想の笑顔を向けようとしたときには目が合わなかった。5人のメンバーに2ドルずつを蒔いているようだ。札蒔き男は誰の顔を見ようともせず、「花咲か爺さん」のように大仰な手振りでサツマキを客に観せている。

こんなとき、どのタイミングで拾い上げようか迷ってしまう。現金が床や機材の上に落ちている光景はみっともないが、かといって直ぐは何となく浅ましく思えるし、たかだか2ドルに過ぎないので放っておいた。

休憩に入るとビリーが散らばっている札をすべて集め始めたので、オレも床の2ドルを彼に渡す。そこから1ドルだけを手渡されたニックが、『あいつは各々に2ドルずつを落としていった』と訴えた。血相を変えるニックの耳元で『たかが1ドルのことじゃないか』とオレが冗談めかして言ったのは、ビリーがすべて回収して10ドルの総額を知り、いつものように公平に分けると思ったからだ。

大将は些事にこだわらない。仕事中はいろいろと考えねばならないことも多く、接客に忙しいので細かいことは殊更気にしない。だから、モーズや丸山さんが自分の分を回収したことも気付かないし、オレに1ドルしか渡していないことも気にせず、さっさと馴染み客のところへいってしまった。

取り分を確保して平静に戻ったニックへ、『ビリーはオレに1ドルしかくれなかった』と言ったのは、もう1ドルが欲しいのではなくビリーの勘違いを笑うためだ。ところが『たかが1ドルのことじゃないか』と彼が真顔で返してきたから、先のオレの冗談も通じてなかったのだろう。『どうせこんなチップはバーテンダーにやって終わりだ。しかし、ビリーが勘違いするのを正さないと』と答えるニックの気持ちも分かるが、気も漫(そぞ)ろなビリーを足留めさせて説明する労力を考えると、1ドル如きでは馬鹿らしい。

ひと言でも礼を述べようと探したが、サツマキ男の姿はなかった。しかし彼はニセット目が始まると何処からともなく現れ、今度は1ドルずつを蒔いていく。直ぐにポケットへ仕舞いこんだ。

結局その男とは言葉を交わす機会もなく、遊びに来ていたベースのHの前で機材を片付けながらふと思い付き、ポケットの1ドル札を彼に差し出した。きょとんとする彼に『ほらっ、あのサツマキ男のチップ』と言うと、『あ、そう』と札を受け取りポケットに仕舞った。Hも些事にはこだわらない。