傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 21 [ 2004年7月 ]


The SOBs and Koko Taylor at Blues Garden.
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2004年7月1日(木曜日)

故ウイリー・ディクソンの誕生日で、ブルース・ガーデン(サウスサイドのブルースミュージアム横の常設ステージ)の仕事。ココ・テイラーやエディ・C・キャンベルも馳せ参じる。6時から7時までの予定が次から次へとゲストが上がり、終わったのは8時過ぎ。

ヨーロッパから戻って来たばかりのビリーが、(6週間振りにSOBが揃って嬉しかったのか)レギュラーセットのソングリストで始めたものだから、大将が唄いだした時点で既に6時半を過ぎている。途中ウイリーの奥さんが舞台挨拶をしたり、孫も含めたウイリー家族が揃って唄ったり、ココのヒット曲「ワンダン・ドゥードゥル」を、誰かが唄ってから彼女を呼び出したりと時間が過ぎていく。ココ登場の一番盛り上がったところで御開きにすれば綺麗なのに、それからも延々と演りたい人登場。もうね、最後は演芸大会。唄いたい人の行列に(言い過ぎ)、バス停でもないのに市バスは停まり、運転手はドアを開け、手を振りながら「フーチー・クーチー」を聴き入り、路上のオッサンはタオル振り回して踊リ続け、ステージ後ろの薮から蚊は来襲し・・・。

機材を家に持って帰る時間がなくなりそのままロザへ運ぶ。エディがトニーとの話の行き違いで来ず、音響兼雑用係のロックブルース小僧、通称「シロタップのロブ」(2004年4月29日参照)がギターだったのでやたらと音が大きく、ピアノを叩きまくって指がカエルの指先状態になった。

1セット目の中頃、日本人と思(おぼ)しき美少女の来店が目に入る。暫くしてオレに気が付き「えっ、うっそー!」ってな感じの日本語が耳に入る。そしてその子、オレの真ん前の席にぴゅーっと移動して来たのが目のスミに入る。オレ様は照れ屋なのでまともに彼女を見れず、でも分かる、こっちをちらちら見ているのが。誘惑に負けた顔が、磁石に引き寄せられるようにそちらへ向き、目が合うとニッコッーとするのでこっちもニッコッー。

休憩になり直ぐ挨拶に行かないのが常識。早く寄りたいのを我慢して、そ知らぬ顔をして遠くを見遣り、視野に入っていませんよって態(てい)で一端通り過ぎるのがコツ。

そしてころ合いを見計り、かのテーブルに近付こうとした瞬間、その前を立ちはだかる日本人のギター男。「お久しぶりです。成田で買って来ました」手にしたお土産は『桃餅』・・・。「Sです。2年前にここで携帯電話がみんなにウケていた・・・」ああ、そういえば日本の写真機能付き携帯を持っていて、当時の単純なアメリカ人従業員から持ち上げられていた彼。しばし立ち話の後、携帯S君には悪いが、オレの義務として美少女の素性を確かめねば成らぬ。しかし白人客のねっとりして浮ついた褒め言葉の幕に先へ進めぬ。おいおい、いつまでたったらオレは彼女と挨拶できるンじゃ!

美少女はオレが近付くのを待っていたように、明るく「こんにちわ」と挨拶をした。えっ?関西から?きょ京都ぉ?「2年前に磔々で有吉さんを観てファンになりました。やっと会えた・・・」どこかに落とし穴ないか?えっ、な、ないか?「3週間前からシカゴに来てたけど、どこで演奏されてるか分からなかったし。たまたま知り合ったK子さんが日本に帰ってるって教えてくれて・・・やっと会えました」そやから、落とし穴はどこかにあるはず。

2ヶ月前から来ているK太が姿を見せたので仕方なく、そうです、仕方なく彼女を紹介し・・・その、S君も同じ席に呼んで・・・オレはアホやね。バカです。彼女は一人でアメリカへ来たかったらしく、シカゴを拠点に、N.Y.やメンフィス、ニューオリンズを旅行しているらしい。ひとりでシカゴに来ている子、それもオレ目当て(言い過ぎ!はしゃぎ過ぎ!目的のおまけ)。それなのに何で日本人の子たちを同じ席に呼ぶの、オレは?

でもS君は大人しくじっとしているし、若いK太(やつも京都から)は彼女(以後は”姫”)のひとつ上の25才だけどちゃんと分かっていて、先輩の頭越しには話をしない。うん、K太エライ!ところがキャー!と言って入って来たバカがいて・・・前にオレを追っかけていた音大出のK子。よっぽど友達がいないのか、姫とべったりする(すでに知り合い)。おまけに姫の宿舎が、以前K子が住処としたユース(すでに知り合い)。コンパで最後までくっ付いて来る目標外の・・・(すでに仲良し)。オレは誰?

結局姫とK子を送っていったユースの手前で、二人して「マインズで降ろしてもらえます?」「あっ、ハイ」車内に機材を放っておけないオレは、アッシー君のまま寂しくご帰宅。

駐車場から重いキーボードを持って暗いアパートの通用口へ向かうと、歩道に黒い影たち。オレに気が付き、タヌキ共は向いの民家の低いブロック塀にのそりと駆け上がった。上部の30cm四方程の平らなところで身を寄せこちらを窺っているが、極端に警戒しているようには思えない。まだ成長し切ってはいない中タヌキらしい。と、その時、その真下から手のひらサイズの小タヌキが2匹現れた。おお、可愛らしい。先週見たビーバーの醜悪顔とはエライ違いじゃ。思わずそろりと近寄ると、筋書き通り親タヌキ登場。

誕生日前夜の帰宅真際、有吉須美人、大タヌキに「しゅーふゆゆ」と威嚇される。


2004年7月2日(金曜日)

誕生日の今日と明日はSOBでキングストン・マインズ。

モーズは舞台から「バースデー・ボーイのアリヨ」と紹介してくれた。見知らぬ客からも「おめでとう」と祝福される。去年とは違い、何故か自分の誕生日があまり嬉しくはない。わざわざプレゼントを持って来てくれたチャールズ・マックに、「もう一生誕生日が来なけりゃいいのに」とぼやく。

目の前に現れた若い女の子にはしゃいでみせるのは、虚蝉(うつせみ)のような果てぬ幻影と自覚している。K太から「この数カ月で初めてあんな有吉さんを見た」とからかわれるが、過剰に反応して馬鹿騒ぎするのも楽しかろう。

改めて吾が年齢と置かれた状況、心の成長を照らし合わせると、自分の日常が社会性をどれほど持ち得ているのか疑問に思う。オレの精神の一部は退化していっているのか?

最終セットの最後の曲で、ブレディ・ウイリアムスとチャールズが上がった。ビリーもちゃんと心得ていて、ファンクビートの「チキン・ヘッド」を始める。何と心地よいグルーブなのだろう。モーズとニックでは苦労するバッキングが楽で、自分を高めてくれる世界を感じた。

オレにとってのドラムの(善し悪しの)基準は、故バレリー・ウェリントンのオリジナルメンバーとして、毎年250本近く一緒に演奏していたブレディなので、驚くほどのことではない。ABCプロジェクトでもスペシャルユニットで参加してもらっている。それなのに、久しぶりに彼とセッションをして(チャールズが入ったとはいえ)感動してしまった。今ではシカゴ随一といわれる彼の評判や演奏を聴いて、「同じスタートラインに立っていたはずのオレには、一体この十数年でどんな前進があったのだろう」と考えさせられること自体が悔しかった。

アパート近くの小道の先に、黒いものが二つ落ちていた。車を徐行させ近付くと、その二つは歩道にゆっくりと上がった。またタヌキかと思い、車を停めて観察してやろうと窓を開けた。ところがそれらは、黒い毛にニ本の太い白線を顔から背中にかけて入れている。こやつらの噴霧する強烈な物質が付くと、洗濯しても取れないらしい。こちらの様子をじっと窺っている。しばらくして二つともゆっくりと動きだした。

誕生日の夜の帰宅真際、有吉須美人、スカンクに尻を向けられ威嚇される。


2004年7月3日(土曜日)

今日のシカゴは雨。車のハンドルまでベトベトするほど湿度が高い。寒いのを我慢してエアコン全開でやっと快適になる。

ステージでは、昨日に引き続き「誕生日報告会」らしき発言が繰り返され、モーズばかりか、ビリーや司会者のフランクにまで「バースデー・ボーイのアリヨ」と紹介された。しかし、誕生日周辺に祝ってくれるのが(それも同じクラブで二日連続)どうも釈然としない。日本なら『へぇ、アンタ昨日が誕生日やったんやてなぁ、おめでとう』程度だが、「デー」と呼ぶからには「その日」のはずなのにもかかわらず、「バースデー・ボーイ」の一言で、「何日が誕生日である」といった肝心の日付けは意味がなくなり、「こいつがこの世に生まれたことを祝福してやろう」という漠然とした目出度さが当人に向けられ、誰彼から「おめでとう」の嵐が押し寄せ、「誕生週間」らしき大雑把なくくりでいつまでも祝ってくれるのだ。

こちらとしては当日を盛大にしましょうよと言いたいが、祝ってもらえるだけでもありがたい。会場全体が「ハッピー・バースデー」を唄ってくれている間、木曜のロザから続く地味な「祝い言葉」が、月曜のアーティスまであるような気がしていた。

オレの顔を見るとタバコをねだるドラムのJが、『ワシも誕生日だったから一杯おごってくれ』と言ってきた。

『いつ』
『先々週』
『知るか!』


2004年7月4日(日曜日)

ネイビー・ピア(海軍の埠頭で、現在は観覧車などもある娯楽施設)のビアガーデンへ、ブレディ・ウイリアムス所属の黒人歌謡バンド、リン・ジョーダンのステージを観に行った。

独立記念日で、テイスト・オブ・シカゴ(味の祭典)最終日で、雨で順延された湖上花火大会(当初は3日)だから、ブルースフェスを始め、各フェスティバルの会場となるグランドパーク周辺は大混雑に違いない。10時の花火、8時からのリンのステージを観るのに、5時前には現場入りするほどの念を入れた。テイストの何カ所かで催されているコンサートが時間潰しになる。

グランドパーク地下の駐車場は、予想に反してスペースが結構あった。先ずは腹ごしらえに味の祭典へ、人込みをかき分けチケットを買い求める。フェスに出店している各屋台の食べ物や飲み物は、すべて共通フード・チケットのみで販売される。11枚綴りで$7だが、一枚には¢50と記されているので、実質$5.5を$7で売るのは詐欺だと思っていたら、大型スーパーの「ドミニクス」で$5.5の前売りをしていたらしい。余ったチケットが換金できるのかは分からない。

新聞には、「2週間も前から予約を入れなければならないレストラン」の屋台群とあるが、肥えた日本人の舌を満足させるような味に出会ったことがない。久しぶりに食べたギロスサンド(羊肉と玉葱をナンのような生地で挟んだもの)も、腹が脹れる前に胸が一杯になった。しかし、お祭りだから、少々高かろうが不味かろうが気にはしない。ラテンバンドやフュージョンバンドの演奏を、昨年オレが一人で演奏したフロントポーチで楽しむ。

何故か浮き浮きしてくる。どこかワクワクしてくる。名も知らぬバンドのカッコ良い演奏を聴き、余りに楽しいので、同行していた人に「オレたちの演奏を客席から観るときも、今と同じように楽しいのか?」と訊ねたら、まったく同じであると応えた。

それは素晴らしい。あそこで演奏しているオレは、ここにいるオレをこんなに楽しませているのか。仕事を離れて観ると、音楽はやはり純粋に楽しいのだ。オレはこんなに楽しいことを生業(なりわい)にしているのかと誇りに感じ、小躍りしたくなった。

グランドパークからは近くに見えるが、埠頭まではかなりの距離があったようだ。ヨットが係留されている脇の遊歩道をとぼとぼ歩いたため50分近くも掛かり、ほとほと疲れてしまった。ところがネイビー・ピアに足を踏み入れた途端、再び祭りの高揚が襲ってきて体力は回復する。土産物店や屋台、湖上遊覧の乗船に並ぶ人々、花火観戦の人々などでごった返すこちらは、カーニバルという響きがぴったりで、大声を上げたくなってしまった。そしてリン・ジョーダンバンドの音が聴こえてくる。

映像でしか観ていないプリンスやアレサのバンドもきっとこうなのだろう。7-90年代の黒人ヒット曲を、タイトなリズムと圧倒的グルーブ、確かな技術とバランスで構成されたショウは、全身全霊で臨まないと音の芯が身体に納らない。息も吐かせぬ完成された進行に打ちのめされてしまうからだ。従って、観終わった後は気持ち良く疲れてしまう。

この時ばかりは、ステージで演奏するオレの姿は見えなかった。時折ドラムのブレディはオレを見てニヤニヤしていたが、至高に思えるショウの土台を支えながら、スティックさばきを「見せ」ている彼に嫉妬を感じてしまう。カバー曲ばかりでCDの評判も芳しくない無名のリンだが、アメリカの高級パーティバンドの底知れぬ力量と、ミュージシャンの層の厚さを思い知らされる。

20分間5.000発が打ち上げられる花火大会は、想像以上に本格的だった。しかし、国威発揚を演出する曲がメドレー(国歌に始まり、ゴッド・ブレス・アメリカなどの米讃歌)で流れ、星条旗の下(もと)の絶対正義を信ずる、感極まった周りの表情を目にすると、今日一日のオレの楽しみが、花火に吸収されていく気がした。軍靴を連想するマーチでクライマックスとなり、煽動的な独立記念日が大歓声で閉幕するこの国は、イマモドコカトセンソウシテイルのだ。

人込みの解けた湖際の広場にぶらぶらと足を向けてみた。柵に肘を立て暗い東の空をぼんやり眺めると、指で計った水平線上2センチの所に、雲の合間から暗く赤い月が浮かんでいる。半月近くまで欠けているので光量が足りず、最初は気付かなかった。その後も続くリンのショウはどこかで感じているが、音は視界を遮らず、不思議な静寂がある。暗い湖と、赤月がぼんやりと照らす棚引く雲に、オレは自分の揺曳する心を重ねていた。


2004年7月5日(月曜日)

予想通り、今日もモーズは「バースデー・ボーイ」と紹介した。先週末のマインズに来ていた女性歌手のデロリスが、オレの耳元で『結局アリヨの誕生日は何日?』と訊ねる。アメリカ人にとっても、こう何日も誕生日だと騒ぐのはおかしいのだろう。「誕生日男」連呼は、モーズのオレに対する精一杯のサービスだと思い始めていた。

ここ数日で会う頻度の一番高いK太が、「姫」を伴って現れた。昨日待ち合わせをしていたネイビー・ピアに来なかったことを問うと、大渋滞で現場に辿り着けず、車中から花火を観て帰ったと言う。オレたちは随分早くに行っていたから分からなかったが、湖岸沿いのレイクショアー通りは出口が封鎖されていたらしい。それにしても、忙しいのに約束しているからといって、大混雑の中15分だけでも顔を見せた丸山さんの誠実さが際立つ。

その後K太の愛妹MM嬢も友達を連れて来店し、今週末帰国するギター小僧K太のアーティス最後の夜は更けゆく。

ビリーはケニーとの仕事を優先し来なかった。そしてモーズは、いつもより少し多めになった本日のギャラの分配を、ニヤつかせながらみんなに配っていった。


2004年7月6日(火曜日)

暗いところで軽率にも爪を切る。そして深爪どころか、ブチッと音がした瞬間、親指に激痛が走った。慌てて患部をぎゅっと押さえる。痛い痛い痛い!

ただし左足。


2004年7月8日(木曜日)

昨日ミツワへ買物に行ったとき、シカゴ公演の宣伝に来ていた「イッコク堂」なる腹話術の達人を、ひと足違いで見逃してしまった。彼は宇宙飛行士との中継のタイムラグ(時間差で口の動きと音声がずれる)を表現するらしい。

今日の昼間、成田空港でレンタルしたという、アメリカで使用できる旅行者用の携帯へ電話した。その番号の頭には<01181>が付いている。011は国際電話で81が国番号。つまり、回線は一旦日本へ繋がり、それがアメリカに回され、中継局を通じて国内に存在するその携帯に繋がる仕組みらしい。往復の国際電話料金は、掛けた方とレンタル契約者で半々に課金される。例え持ち主が隣にいても、米ー日本ー米という法外な回り道をしてから繋がる、便利なレンタル携帯である。当然相応のタイムラグが生じる。

『もしもし・・・あのは○い○さもんしで・・もし』
『あの・・・も○し○でもしすけあっど・・・はいももしもしもし?』
『ああのりよしですあっけどはい?』
『・・・』
『・・・』
「ももしもしもしい?ぃ?』

どうせならこれをイッコク堂に演じて欲しい。


2004年7月9日(金曜日)

ロザでパイントップ・パーキンス91才の誕生日。オレは各セットの前座なので、3セット60分ほどしか演奏していない。それにしてもパイントップとその客には気を遣う(2001年12月16日参照)。

「シロタップのロブ」が『シロブゥタ』をオレに向けて発したので、相手が違うじゃないかと言ったら、日本人への蔑称を訊ねたので教えてやった。何度も口で復唱して彼はマスターしたらしい。

『ヘイ、アリヨッ! オーサマッ!』


2004年7月11日(日曜日)

週末の疲れか風邪の気配、喉がいがらっぽく咳がでる。先週末からの疲れかも知れない。

金曜のパイントップが同じ曲を何度演奏しても、彼は91才だからと誰も突っ込まない。しかし昨日のリトル・スモーキー・スマザースが『キーは"A"』と言ってギターを弾き始めると、サイドギターのエディ・テイラーJr.とベースのスリーピーは"A"と"A♭"の間を行き来して右往左往した。エディなどメーターを使って調律し直している。スモーキーのチューニングがとんでもなく狂っているに過ぎないが、彼に『合わせろ』と言うと、『オレのギターの方に合わせろ』と言い返すに決まっている。そうなるとピアノは一緒に演奏出来ない。

みんなで相談し、2セット目の始まる前にトニーが、『調律をあなたに合わせますからギターを貸してくれませんか』とお願いした。そしてどさくさに紛れて彼のギターをチューニングメーターで調律し直す。確かまだ70才そこそこだと思ったが、人間国宝の頑固な宮大工を見るように、オレはピアノの置かれたステージの斜め後方からスモーキーを眺めていた。

唄声は適度に枯れ、話すリズムの如く抑揚が自然で、その一つずつがブルースの韻を踏んでいるから不思議だ。お兄さんのスモーキー・スマザースとも一緒に演奏(時期はズレるが両者ともジミー・ロジャースバンドに在籍)したことがあるが、兄弟揃って酷い南部訛で滑舌(かつぜつ)が悪く、何を言っているのか判然としないことが多かった。もとより英語の習熟度の低いオレには、そのことがかえって古いブルースの妖しさを感じさせもした。

3セット目が始まるとスモーキーは出番が終わったと思ったのだろう、遊びに来ていたゲストを交えてオレたちが演奏している最中に、突然舞台に上がってきたと思ったら、自分のギターアンプをさっさと片付け始めた。終演予定時刻(土曜日は普段より一時間遅い午前2時半)まではまだ40分も残っている。慌ててトニーがマイクを使い『スモーキー、ギターは弾かないけど歌は唄うんでしょ?』と問いかける。既にステージを降りてしまっている彼は、片手にアンプをぶら下げたまま完全には振り向かず、何かぶつぶつと答えていた。その後カメラを持ち出して我々を写して回り、最後にマイクを手に持ってひと節唄った。これで充分と判断したのか、マイクスタンドにマイクを差し込むと客席に向かって両手を挙げ、何かの達成感を漂わせながら家族のいる席へと戻って行った。

敬老ブルース会こそブルースの真髄。


2004年7月12日(月曜日)

湖上に浮かぶ月に誘(いざな)われるのは仕方ないよなっ。

珍しく遊びに来ていたチコ・バンクス(G.Vo.)とビッグ・レイ(Drm.)が乱入したこと以外は、アーティスの演奏は普段と変わりなかった。淡々とした心の内が、そのままアパートの部屋へひとり戻るより夜更けのドライブを選んだということだ。東の空の下弦の月は、昇ってから時間は経っていたが、やっぱりあの高台(2004年5月5日付け参照)からのんびりと眺めたい。

グレンコーという町の公園通りの暗い突き当たりに、ヘッドライトとテールライトがぼんやり見えた。また誰かも眺望を楽しんでいるのかと思ったが、近寄ると2台のRV車が互いの運転席を隣り合わせて停まっている。小さな標識が道の真ん中に置かれ、駐車どころか突き当たりへの侵入さえ阻止していた。

この地域のお金持ちのための公僕の深夜のお仕事は暇で、その上、猜疑心と好奇心に溢れていることは疑いない。お月見を諦めてとろとろそろりと右折し帰ろうとするオレの車の後を、2台ともが付けて来た。直ぐには天井の青赤の眩しいくるくるライトを点滅させず、幹線道路に出てから回し出すのは、付近の屋敷で熟睡するご主人様たちに配慮してのことだろう。オレの車は右のテールライトが切れているから整備不良の警告は受けるはずだ。何よりも、深夜に徘徊する不審者の訊問の理由には事欠かない。

『後尾のライトの片方が切れてるよ』
『えっ、ホントですか?』
『免許証を見せてくれ』
『あっ、ハイ』
もそもそ・・・ごそごそ・・・
『どこから来た?』
『シカゴからですが』
『何しに?』
『いやぁ、月があまりに綺麗なんで、そこの公園から眺めようかと』
もそもそ・・・ごそごそ・・・
『午後10時以降は朝の6時まで入れないよ』
『へぇ、それは知りませんでした』
『仕事は何をしてるんだ』
『へいっ、ピアノ弾きでございます』
もそもそ・・・ごそごそ・・・
『クラブで演奏しているのか?どんな種類の音楽だ?』
『あれこれ・・・これこれ』
『ふむふむ・・・そりゃぁなにかぁ・・・』
『ぃやねっ、どれこれで・・・』
『なるほど・・・かっこいいなぁ』
『じゃ、アタシはこれで』
『いや、ちょっと待て、免許証を見せてくれ』

夜明け前の高級住宅街、有吉須美人、官憲より文書にて警告を受ける。


2004年7月14日(水曜日)

SOBの定期リハーサルを断わって、10日前に予約の取れた美容室へ。髪の毛を短くして立たせ、色も黒に染め直す。夏のアリヨ復活で気分も爽やかにミツワで買物。

はぁ〜ら一杯。久しぶりに炊きたてのご飯・・・ふふふ、先月にシカゴへ戻って以来初めて炊きました。しめ鯖美味しゅうございました。ホウレン草のおひたしおいしゅうございました。ハウス・すくい豆腐美味しゅうございました。シイタケのバター炒め格別でございました。台所は洗い物など綺麗に片付けました。終わった・・・ひとりの素敵な晩餐が終わった。

しかし散髪と買物と料理で今日一日が終わったと思っていたら、旅行社のNとジョージアのチビ缶コーヒー(約200円)で談笑、大手重機メーカーのMと携帯で笑談、ニューオリンズの山岸さんと電話で爆笑した日本語デーでもあった。

山岸さんとはいつものようなバカ話なのに、途中からこちらの一方的な話となり、5回ほど『ハッ、腹痛いっ!』とのたうち回らせる。一瞬でも彼に勝てたような気分になったが、あとでそう感じた自分にちょこっと悲しくなった。早く演奏で追い付かないといけない。せめてその尻尾を掴めそうなところまでは辿り着かないといけない。

もう少ししたら暇になるのでニューオリンズへ行きたくなった。3年前に訪れたときは2泊しか出来ず、あちらの音楽の概況すら分からない。山岸さん自慢のバンド(パパグロ・ファンク)も観ておきたい。夏なのにフェスとかの大きい仕事が今年は少なく、オレは今面白くないのだ。シカゴ・ブルースフェスティバルの時期に、ひと月も日本へ帰国していたのだから仕方がない。

最後に山岸さんへ連絡したメインの用件を伝えた。

『知り合いの女の子がひとりでニューオリンズへ行くので、よろしくお願いします』

男気のある彼は『まかせとけ、心配するな』と応える。

『そやけどな、アリヨ』
『はい』
『安心はするな』
『・・・』


2004年7月15日(木曜日)

ああ、マインズはやっぱり帰りが遅くなる。毎木曜はロザの日だが、SOBがマインズだったので優先ですわね。

帰宅は午前4時45分。速攻でシャワーを浴びチャールズに電話をして、今日あった「ちょい嫌」(ホントは結構傷付いていたのかも知れない)だったことを愚痴る。オレの中では解決されていたことで、ただ聞いて欲しかっただけなのに、いろいろと慰めてくれた。

食べ物を揃える気力もなく、元生徒だったK子が持って来てくれた「冷凍本格中華肉マン」を解凍する。何でもオレの誕生日祝いらしいが、金が無いから今はこれでと言う気持ちが充分伝わる。結構旨い。でもね、なんなの、この皮の厚さは・・・。直径10センチはあるのに、中身が出てきたのが2センチも食べてから。手作り餃子の分厚い皮と一緒で、中国の人は皮がお好きらしい。あっ、そういや思い出した。

先月一時帰国していた時、大陸へ進出した日本のコンビニが売るおにぎりのニュースをテレビで観た。試食した感想を求められた中国人が、「具がなかなか出てこない」と不平を言っていたのと同じではないのか?

2コ目は最初から皮を剥いてみた。めっちゃ小さな肉マンに成り果てました。そして食べ終わった頃、再びチャールズから電話。

『大丈夫か?眠れなかったら話し相手になってやるけど』

チャールズ、君は何て友達想いの良いヤツなのだろう。でもね、心も安らかになり解決していることだったけど、彼の二度に亘る慰め言葉が悔しさをぶり返させて、今度はホントに眠れなくなってしまったのよ。

お昼から人と約束をしていたので午前8時前には床に就いた。時計が10時を過ぎても眠れない。そしてのそのそ起き出し、これを書いている。


2004年7月16日(金曜日)

某最大手重機メーカーのMが『日本からの客のタバコ土産があるがいらんから取りに来い』とおっしゃるので行って来た。

高騰しきったイリノイ州のタバコ代は、銘柄にもよるがシカゴ市内で平均$4.5(約500円)する。普通に吸っていても年間$1.000以上が煙となっているのだ。去年の夏から上手い具合に続いていた土産のマイルドセブン(以下マイセン)も丁度切れかけていて、最後のマイセンがなくなれば、いっそタバコを止めてしまおうかと考えていたところだった。

2カートン貰って早速試し吸い。パックには「MILD SEVEN ONE 1」と印されている。ほう、元専売公社は現在の売り上げに不満があるのかも知れない。あの大人気商品の馴染みのデザインは全面的に刷新されていた。見慣れないメタリック・ブルーが無気味に光っている。そしてこの「ONE 1」の意味は・・・。

吸っても吸っても煙が肺に入ってこない。数字はタールの量で、愛吸するマイセンの10分の1の軽さ・・・。当然1本吸い終わっても吸った気にはなれず、間をおかずにまた次を出してしまう。オレはそれほどの愛煙家でもないが一日ひと箱程を嗜む。しかし、このマイセン「ONE 1」だと3箱は吸いそうな気がした。一日5箱吸ったところで、肺に付着する有害物質は今までの半分で済む。

こっちのタバコ代の3分の一の値段に過ぎない免税店でのマイセン「ONE 1」は、一日3箱吸えば同価値を消費することとなる。同時にその速度は3倍となるので、オレが今日手に入れた本来14日分の2カートンは、値段相応に僅か4日分そこそこのモノでしかないのだ。

旧専売公社は、吸わない人には吸いやすく、吸っている人には量を消費しやすいよう、気を配ってくれたようだ。取りあえず今あるこの14箱を一週間ほど保たせ、それからタバコを止めてしまうかどうしようか迷うことにする。


2004年7月17日(土曜日)

うたた寝じゃうたた寝、ってゆーか、今日は昼夜の2本で一日眠くて大変やったの。

シカゴの各フェスティバルの会場となるグランドパーク。ダウンタウンの南、湖に沿った広大な公園の北端の一角に、巨大なオブジェのような建物が完成した。その一帯も"The Millennium Park"と名付けられ、市が6度の予算組み換えを経て$45.000.000(約500億円)を投じたプロジェクトのオープニング月間。

本日の会場である野外音楽堂、"Pritzker Pavilion"は、ブルースフェスなどのメイン会場となる "Petrillo Music Shell"と同規模だが、ステージ・楽屋の設備などが段違いに整っている。客席の天を覆うように渡る鉄骨からは、幾つものスピーカーが下がっていて、どの位置からも最良の音質を楽しめる工夫が施されていた。

昨日の夜遊びで帰宅が日の出より遅くなった上、午前11時には、予定より一時間も早くなった現場入り変更の電話で叩き起こされ、受話器を置いてからマネージャーに呪いの言葉を一通り投付け身体で頭を持ち上げた。時間通りに着いてもきっと誰も感謝はしないし、どうせ誰かが遅れてくる。それでも時間にルーズな人間と思われるのが癪で、いつも早く到着しようと急いては、か細い神経をすり減らしているのだ。

浮腫んだ顔をサングラスで隠して、周囲を幾重にも取り巻いて開場を待つ人々の目に晒されながら、広い客席に座っていた。結局SOBのメンバー全員が揃ったのは予定より一時間後だったが、みんなオレの近くに腰を下ろし、呼ばれる気配のないサウンドチェックを待っている。ステージの母体である、全貌がどうなっているのか見当も付かない、その銀色の建物の入り組んだ迷路の奥にある楽屋にいても面白くないのだ。

オープニング記念パンフレットを眺めていたドラムのモーズが、出演ミュージシャンの多さに目を丸くしていた。ステージスタッフの女性から、『SOBの演奏時間は30分だが、他の人は各々5分だけ』だと聞かせれていたので、そのことを彼に告げると今度は首を横に振り出す。わざわざバンドを交代して5分しか演奏出来ないなんて馬鹿げていると悪態を吐いていた。パンフには3時間のイベントで数十の名前が記されている。クラシックからポップス、ゴスペルまで、様々な種類の音楽を詰め込んだ日なのだろう。ブルース関係で馴染みの名前はーOtis Clay,Billy Branch, Lurrie
Bell,Koko Taylor,Sharon Lewis 。

『あの、オレはマネージャーにいわれた通りの時間に開場入りしたけど、まだ何も始まらないし、段取りも聞いてないし、ここのスタッフさえ進行状況を掴めてないんですよ。でも、きっとオレたちの演奏時間は30分より少ないし、その時間内にココやルリーが顔見世的に上がってくると思いますよ。だから今日はバックバンドの日です。オーティスだけは、オーケストラかクワイアーと一緒に出るんじゃないでしょうか』

舞台進行を5分単位でしきる冷たい女性に急かされながら、一曲唄ったビリーがルリーを呼び、シャロン、ココと続いて、オレたちの演奏はあっさり終える。直後にアコースティックで出演した白人ピアニストのアーウィン・ヘルファーと親交を暖める間もなかった。待ち時間2時間半、出演30分でお帰り。せっかくの野外の大きな仕事なのに、時間の余裕を持って楽しみたかった。

帰宅してシャワーを浴び、日清の焼そばを食べて機材を車に積み込み郊外のお店へ。

近郊の運転で居眠り寸前だったのは久しぶりだ。こりゃ、ひと晩持つかなと思っていたら、演奏中にそれが来てしまった。一セット目の途中で鍵盤がぐらつき始める。置いた手がどこにあるのか分かり辛い。次のコードが頭から浮かばない。目を閉じると「落ち」そうになったので、懸命に目蓋の筋肉をひくひくとさせていたが、一瞬の油断も出来ない状態だ。高校時代の授業中を思い出す。机に肘を突き頭を揺らしていると必ず先生に見付かった。今は頭を揺らすのが仕事だから、それは誰にもバレない。でも、揺らすと一方に傾き過ぎて倒れそうにもなる。その瞬間リズムは崩れコードを間違えてしまった。普段、音のぶつかりを煩くいうオレが間違えるはずはないと思ったのか、誰にも気付かれなかった。それともみんな耳が悪いのか、オレの音を聴いていないのか・・・。

そのときオレは大慌てだったに違いない。いつもは丸山さんが3コーラスのギターソロのあとオレに回すはずの曲が、1コーラスで渡された。予期していなかった事態に眠気は吹っ飛んだ。表面上は穏やかだが、心が凍てる嫌な汗が脇の下を流れていた。休憩中、丸山さんに確認すると、彼はいつも通りの演奏をしたらしい。

記憶が飛んでいた。オレは完全に眠っていたのだろう。指だけは慣性で動いていたのだろう。人生2度目の演奏中睡眠であった。17年前、バレリーのライブで、目覚めた時には指が止まっていて一瞬ハッとしたが、演奏も丁度止まっていたので誰にも気付かれずに済んだ。今晩はまだ2セットも残っているし、そのあと家に車を運転して帰らねばならない。オレは車の中で仮眠することにした。

比較的安全な郊外の駐車場とはいえ、夜遅くに車中でひとり眠っているのは物騒な気がしたので、キーはポケットに仕舞い、ドアの鍵はちゃんと掛けていた。マキシちゃんのセキュリティ機能は優秀で、キー(流行りのキーレスエントリーなのだ)を使わずドアを開けようとすると警報音が鳴り響く。それはこじ開けるような乱暴な手段でなくても、窓から何かを差し込み解錠しても同じだ。

広いマキシちゃんの後部シートで微睡んだと思った瞬間には、まるで未来にタイムスリップしたかのように時間が30分も経っていた。オレは慌てて鍵を指で弾きドアのノブに手を掛ける。

深夜の郊外のオシャレなクラブの駐車場に、クラクションを伴ったけたたましい警報音が鳴り響く。


2004年7月19日(月曜日)

これはいけない。非常にまずい。人間の体内時計は同じリズムが3日続くとリセットされるのだ。11時頃が非常に眠いピークになってしまっている。今日もまた演奏中に眠ってしまった。緊張感の欠如と言われれば甘受せざるを得ない。

はい、最近のSOBの演奏は精神が弛緩気味であるのかも知れません。特にレギュラーのクラブでの演奏・・・。


2004年7月20日(火曜日)

何故か先週から、郊外の日本食料品店での買物が続く。パン屋さんも含め、今日は4回レジを通ったがすべて英語で対応された。日本人には見られ難い日だったらしい。しかし、微妙に嬉しい・・・。


2004年7月23日(金曜日)

真夏だというのにこの涼しさはなんでしょ。夜は17℃を下回っている。もっとも昼は寝ているので、外が暑いのかどうかは分からない。明日も夜は15℃くらいまで下がりそう。今日は帰りに、車のヒーターを入れてしまった。


2004年7月26日(月曜日)

散々みんなから警告も受けていたし、警官からも叱られていた(2004年7月12日参照)ので、今日こそはマキシちゃんの後尾灯を取り替えねばと思っていた。いつかやる気満々でトランクの中を覗いたら、後部ライトの内パネルが工具なしでは簡単に外れないように見えたので放っておいたのだが、道具を買い、切れた電球を確かめ、部品屋で調達する行程を考えれば面倒臭い。少々金を払ってもいいやと近所の馴染みの修理屋さんにお願いしたら、工具を使わず2分で取り替えられ$6で済んでしまった。それならなんでもっと早く行かなかったのかとお叱りを受けようが、その修理屋さんは忙しいところで、それは腕が良いという証明なのだろうが、朝一番に持って行かないとその日には診てもらえない、これまた手間の掛かる店なのである。

この朝一というのが微妙で、経験上7時半頃がベストのようにも見受けられるが、あまり早く行くとまだ人が揃っておらず、出遅れると別の顧客を構っていて後に回されてしまう。そこで、7時35分になったら出掛けようと時計をじっと見つめていた。

7時半丁度に電話が鳴った。こんな朝早くミュージシャンの自宅に掛けてくる輩はとんでもないやつに違いない。

「モシモシ」
「・・・うう、チャールズ」
「へっ、起きてたの?」
「あっ、何やお前起こす気やったんか」
「へへへ・・・もう少ししたら空港へ向かうの」
「あっそうか、ジェームス・コットンの日本ツアーか、ええのう」
「うん、アリヨも一緒に来れれば楽しいのにね」
「それを言うな」
「じゃ、行ってくるね」
「おう、気を付けて楽しんできてくれ」

えっ?何の電話やったん・・・


2004年7月29日(木曜日)

う〜む、最近は夜の7時半に起きるのが辛い。

昨日は一日何もせず終わった感がある。昼遅くにロザのトニーからの電話で起こされ、2度寝した夕方、別の電話で気持ち悪く起こされ、その声の主へお届け物があり小一時間ほど出掛けた。

見積もりを出してもらっていた新たな携帯契約を済ませようと、帰り道にある"Verizon"取り扱い店に立ち寄ったが、人が並んでいて時間が掛かりそうだった。前日、いざ契約の段になって保証金が$400要るとぬかしたセールスの男を好かなかったが、電話機は気に入っていたので舞い戻ってやったのに、こういうことが商売のタイミングなのだろう。諦めて家に戻ろうとしたら近所の"Sprint"が目に止まった。せっかく外に出ているのだから、見聞のためにも他社の契約内容を知っておくのは悪くない。

運転免許証を見せ社会保障番号を告げると、PCのディスプレイを見ていた"Sprint"の係の男性は、保証金はいらないと嬉しそうに告げた。はい、決まり!フリップ式の気に入った携帯もインスタント・リベート(単に契約者向けの格安料金)で$30だったし、メール・リベート(一旦正規の料金を支払い郵便で割り引きの手続きをする)の"Verizon"に戻る気は既にあるわけがない。

しかしアメリカのこの手の割り引きにはうんざりする。中間業者などの関係からか、割り引きには理由が必要なのかも知れないが、消費者が支払うお金は絶対額のみを問題にするのだから、あとから戻ってくるお金、しかも自分で手続きをするなんて面倒なことこの上ない。昼間は家にいることが多いので(ほとんど寝ているのだが)、昼間の時間を300分、夜間と週末は無制限の基本料金$35のプランで契約する。日本と違い課金は電波使用時間なので、掛けても掛かってきても使用分は消費されるが、9時以降の夜間や週末が掛け放題なので最低基本プランで充分である。調べてみるとどこの会社も似たり寄ったりであった。

家に戻ってからは、操作方法を調べたり、設定をしたり、電話番号を記憶させたりで時間を費やした。一連の作業を終えると、誰かから電話が掛かってこないかと自然に期待してしまう。まだ誰にも新しい電話番号を教えていなことに気付き、取りあえず古い携帯や家の電話から、とても気に入った日本語のゴロを口の中でもごもごさせてダイアルした。さすがに「お話」ボタンを押すことはなかったが、両耳に各々が繋がった電話機を押し当て、ステレオで自分の声を聴いてみたい気持ちも大いにあった。

届け物を済ませ、いままでの携帯が新しくなり嬉しかったが、洗濯を終えるとか部屋を掃除するとか買物をするとか実際の生活には何の進展もなく、一日何もしなかったに等しい休みであった。

今日もロザでの演奏以外は変化や前進はなかったが、帰りがけにロザママが「アリヨは痩せてるからもっと食べないとダメよ」と手料理を持たせてくれた。我が国の標準体重範囲内で特別痩せているとは思えないが、少々ふっくらした日本女性でも痩せ型に見られるほど肥満の多い国である。ガリガリに見られるのは仕方ないが、ロザママが、一人暮らしのオレを気に掛けてくれたことが嬉しい。早速車の中でタッパを開けてみると、チーズをふんだんに使った北部(ミラノ)イタリア料理の強い臭いがプンとした。こりゃこの料理(多過ぎるチーズは苦手)のこの量を食べきることはできないと一瞬で悟り、元生徒のK子に半分以上取ってくれろと嘆願した。K子はお裾分けに申し訳なさそうだったが、結局3分のニほどを剥(へつ)ってくれ、オレは貰い物を平らげる義務が果たせそうに思えた。

楽しいひとりのお家で少し落ち着いてから改めてタッパを開けると、それは米とイモと柔らかそうな鶏肉が一緒に煮込まれたリゾットであった。一口食べると舌が次を要求している。二口目には頭が次を欲しておる。三口目を入れると胃がさっさと次を入れんか!と怒鳴り始めた。四口目以降は覚えていないが、ロザママのミラノ手料理の半分以上がK子の胃の腑に納ったことを恨んでいた。


2004年7月31日(土曜日)

インディアナ州のカジノ内にあるココ・テイラーの「ブルース・カフェ」で、デロリス・スコットとデュオ仕事。

月曜日に未知の2曲の譜面を渡されていた。テープの類いだと耳(たいてい車の中で聴いて覚える)で簡単なリズム・コード譜を作ってしまい、ライブの前日になぞって終わりなのだが、指定された譜面となると少し面倒になる。クラシックから離れて長いオレは、初見(初めて見てさっと弾けること)が苦手で不器用なのだ。だから一通り譜面通りに弾いてから、指が詰まらないように馴染ませるため、練習は一回15分もしないが、何日かに渡っておさらいしておかないと本番が恐い。そのため部屋では滅多に出さないピアノをケースから取り出し、この3日間ちゃぶ台の上に置いていた。

不器用とはいってもこの道が長いプロフェッショナルなオレ様なので、わざわざ本格的にキーボード用ラックやペダル・椅子をセットするまでもなく、中腰で鍵盤を操り譜面をなぞって音が合っているか確かめられればそれで良い。

つま先だけで腰を落とした相撲の蹲居(そんきょ)の姿勢のまま、目をつぶり、宿題とは別の曲を弾いてひとり悦に入っていた。ヘッドフォンから流れる音は、たとえデジタル音であっても、綺麗にリバーブが効いて澄んだピアノの上品さを実現させており、普段スピーカーから電気的に増幅された下品さに慣れている耳に、心地よさと興を催してくれる。鍵盤が頭の中で見えていて、音はその指先からほとばしるようにヘッドフォンの右左を行き来している。

暫くすると体が宙を浮いていた。いつかスタジオで目を回したように(2004年1月7日参照)バランスを崩して、オレはテーブルの上に置かれたコーヒーカップと共に、ゆっくりと左側に倒れていった。