傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 34 [ 2005年8月 ]


Mose Rutues in Aomori
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2005年8月8日(月曜日)

日本在住の人には、オヘア空港を出てシカゴの街並が見えてくると、まるで映画の中へ入り込んだような錯覚に陥るかも知れない。日本の、それも自分の育った京都が大好きで、音楽がなければ到底住まなかったであろうシカゴを本拠にしているオレにすれば、スクリーンから抜け出るように現実の生活感覚が蘇ってくる。

夢のような3週間の日本滞在だった。

米領事館でのビザ延長申請はスムーズにいき、面接日の翌々日には新しい0ー1ビザの貼られたパスポートが届いていた。だからSOBの青森公演のあと、ビザ待ちに一週間掛かるといわれ、大事をとって2週間(2005年7月8日参照)にした休みは、杞憂なしに思いっきり遊べる帰郷となる。

2週間といってもライブ4本、セミナー1本に領事館の面接などで、実質遊べた日は一週間ほどしかない。いやいや、地元の仲間たちとのライブこそ、仕事を離れて本当に楽しい時間だった。

どこも入り切れないほどの人が駆けつけてくれ、立ち見のみなさんには迷惑を掛けたが、大好きな懐かしい人々、遠方からのファンの方々、短い準備期間にも拘わらず盛況に迎えてくれた関係者には、この場を借りてお礼申し上げます。

普段から不規則な生活であるために、アパートへ戻って少し寝たが、時差ボケなのか寝不足なのか分からない。ボーッとしてどこか浮遊感が抜け切らないのだ。さすがに帰米当日なのでアーティスの仕事を休むことも考えたが、フランス・ツアーが復活して明後日出発という、SOBが日本へ旅立つ寸前の二転三転した情報に修正がないので不安になり、重い身体を持ち上げる。

今日の午前中に24時間掛けてブラジルから戻ったビリーと、互いの疲労を上辺だけで思いやりながら、ピアノゲストは皆無でオレは2セット2時間40分弾きっぱなし、大将は計5曲の唄と数曲のハーモニカで終了。彼が『オレたち、遣り終えたな』と言った言葉に力なく返事する。

ちょっと嬉しかったのは、予定通り明後日に出発するフランスの公演先。海外ツアーなのに、出立寸前に目的地を知ることでその規模も知れるが、世界的な避寒地の南仏ニースになっていた。

うっ、ちょっと待て!ふた月ほど前に『空港から6時間ほど車で行く』と言っていた・・・。

休憩中に渡された手書きのメモをよく読むと、記されているのはフライトスケジュールだけで、「乗り換え、アムステルダム、行く先フランス、ニース」となっている。有名地名に惑わされてしまっていた。空港がニースってだけで、そこで演奏するわけじゃない。帰りも同地からだが、8/16(火曜日)となっている。オレたちはかの地で5泊して、どこで何回演奏させられるのだろうか?

3年前のイタリアツアーは豪華なホテルに泊まっていても、集合午前6-8時で移動5-6時間、空港では3-4時間待ちが常だった。車の中では寝ているので、覚えているイタリアの風景は味気ない空港がほとんどだ。今回も詳しい日程は知らされていないので、売られた子牛のような気分になっていく。

行きからして、アムステルダムの空港で6時間も待ち時間がある。ビリーの友人に不平を伝えると彼女は訳知り顔で言った。『アムステルダムの空港は広いから遊べるわよ』オレは何かえ、広い所を走り回ってはしゃぐ子供か?


2005年8月10日(水曜日)

これから空港へ向かう。アムステルダム経由、フランス・ニース行き。そして実際の演奏場所は不明・・・。

再び一週間ほど日記の更新ができないことをお詫び致します。


2005年8月16日(火曜日)

おふらんすからのご帰米ざーます・・・。

オヘア空港で親方様から幾許かの労賃を受け取る際、明日からの3連続出勤を知り悶絶す。


2005年8月19日(金曜日)

ご飯をゆっくり食べることができて、最低限の睡眠時間も確保できるが、日記を更新する気力はない、程度の忙しさが今日までにしても、明日から連休という嬉しさは余り沸いてこない。

まるで何かの傷口がくっ付かないまま、日常生活に不便はないが慢性的な痛みが伴うような、この固定された閉塞感は何なのだろう?きっと緊張感のない演奏をだらだらと続けて、本来ならときおり現れるはずの創造的な発想なしに、指だけが空回りしているからだろうか?勢い、使い古されたフレーズで冒険することなく、進歩のない自分を責めることもしない。

マインズでは珍しい木曜日・金曜日の変則SOBライブは、急死したデトロイトJr.の追悼会を兼ねた。ツアー中に知らされたリトル・ミルトンの逝去は、憧れの人で一度も一緒に演ることがなかっただけにショックだったが、デトロイトは、6月にロザで会っているので実感がない。シカゴで名前の挙がる黒人ブルース・ピアニストは、パイントップ・パーキンスしかいなくなってしまったのが寂しい。その彼も今はテキサスで隠居しているが。

日本公演中にファンの看護士さんからコーラの飲み過ぎを注意され、なる程その通りであると、止めないまでも留意する決心をし、滞日の間はほとんど口にしなかった。フランスでも一日1缶以下に控えていたが、それは1缶¥300前後と値段が高かったため、潜在的に手を出し難かったに過ぎない。

さすがにコーラの国のスーパーでは、24缶入りが1缶当たり25円前後なので買い置きしたくなるが、もうアパートの冷蔵庫にコーラは入っていないからというのを理由に、クラブでは久し振りにコーラを注文した。

一昨日のジェネシスでは一杯で済んだので、昨日も2杯までは良しと勝手に決めていたのに、バーテンダーのおねぇさんが注ぎ足してくれて、その親切に応えようと仕方なしに3杯飲んでしまっていたから、気を引き締めねばならない。演奏中は喉が乾くからというよりも、どこか口寂しいだけで、何よりミュージシャンにはソフトドリンクが無料という不健康きわまりない環境にあるのがいけないのだ。

今日こそは2杯以内にと決心して臨んだ2杯目。いつもオレを贔屓にしてくれている、背は高くないが幅は広い白人のおばさんのテーブルにグラスを置き、ちょっと席を外して戻ってくるとオレのコーラが見当たらない。

『あれっ、オレのコーラ知りませんか?』

とおばさんに尋ねたら、手に持つグラスを突き出して

『私が飲んでるの、アナタのは買ってきてあげるワ』

と済ました顔で答えられた。ケホッ???意味が分かりませんが・・・半分以上飲み干していたオレのコーラの残りを自分が飲んで、また新しいコーラを与えようとおっしゃるのですか?

おばさんはバー・カウンターから戻ってくると、黒い液体がタップンと注がれたグラスを嬉しそうに差し出し、

『アナタの望むことは何でもしてあげるから』

と言って微笑んでいた。望むことは2杯以内ってことだったんですけど・・・。


2005年8月21日(日曜日)

フランス・ツアー(8/10-16)記 その1

おふらんすのツアーなのでみんな想像するに違いない。フランス料理を満喫したかったって?・・・ケータリングは何故かピザや牛ステーキばっかり。ピザ3回、ステーキ7枚!鴨肉片10数枚、特大ソーセージ2本、鳥グリル少々、白身魚のソテーが一度きり。メンバーの某さんなど、自腹で$50以上も支払い、海鮮フランス料理をひとり召し上がっていたようだ。オレはその頃、トルコ移民の屋台のオヤジと談笑しながらトルコ料理、といっても羊肉のスライスとレタスを薄いパンで巻いたギロス様(よう)のものをかぶりついていた。

しかしニース、いくらイタリアまで車で数時間といっても、ピザ屋が多過ぎる!でも、サーモン・ピザにはちょっと参ったかも知れない。

おっとっと、実際の宿はニースではなかった。ニース・コートダジュール空港をニースとは逆の西へ伸びた海岸沿い、カニューという庶民的な街の、民宿に毛の生えた程度のホテルの2階で、しかも某さんとの相部屋だった。それでも椅子にテーブルの置かれたバルコニーが付いていて、半ブロック先の海が僅かに見えている。モーズとニックの部屋など北向きで、そしてバルコニーもなかったし・・・えっ、あの人の部屋は?大将のビリーは、このツアーを企画した怪しげなオヤジの高級アパートに御宿泊だそうで。しかし、人のウチで厄介になるのが面倒なことに変わりない。

大体が、乗り換えのアムステルダムで7時間(手書きのスケジュールでは6時間だった)も待ち時間があることなど、安い飛行機チケットに違いなく、夏のシーズン真只中に行けるような規模のツアーでないことは覚悟していたが、長旅を癒すはずの部屋が、一人部屋に無理矢理ベッドをひとつ押し込んだ様(さま)では仕方ない。

案の定2本の演奏は最低だった。一本目はカニューの小さなライブハウス。海外公演なのに、88鍵のピアノタッチのキーボードが揃っていないなんて考えられない。鍵盤の軽い76鍵のキーボードを扱い切れず、客の鮨詰め状態に室温は沸騰し、常時頭の上からジョウロで汗の水を滴らせてくれる。動かないオレでさえそんな状態なのだから、他の4人は、服のまま海へ入った様態でぐったりとしていた。

「カントリー・ロック」と名うたれた二本目のフェスティバルは、カニューから西へ800キロも離れた、プラ・ボンレポアという村で3日間開催されていた。SOBは最終日の最後の出番。村の広場に屋台と遊戯コーナーが並び、ステージは結構な大きさで機材も良質なものが揃っていたにもかかわらず、オレはほとんどまともなソロをもらえず、良いところなく散る。

そこではサリー・ド・サラという隣村に宿泊したが、地名の読みが合っているかどうかは分からない。シカゴへ戻ってからネットで調べたが、日本語の表記がまったく出てこないほどの無名な田舎だったことを知る。そしてピレネー山脈の近くだったことも、自宅で初めて知る。

ただ、道中に見える古城や中世の佇まいを残したフォア"Foix"という街など、往復20時間の僅かな一瞬でも見逃すまいと、売られた子牛(2005年8月8日参照)は懸命に楽しみを探していた。それは先読みして、こんなツアーはできる限り異国を味わうモードに切り替えてしまった方が得だと、時間があれば街をほっつき歩きたかったからだ。

二つの古城へ詣った。

コートダジュールの浜辺では、噂に違わずあちこちで見掛けるトップレスの女性たちを見飽きて振り向くと、遠くに旧市街地が見えた。ニース郊外の丘の頂きに城が聳え建ち、ホテルからは相当の距離に思える。時計を見ると、サウンドチェックまではまだ3時間ほどあったので、後に衝いてくるはずの「行動しなかった後悔」を考え、意を決した。 

30分も歩いて麓まで行くと、突然道は狭くなり急な坂(指で測ったら15°ほどの勾配だった)になる。まるでフランスのイメージにはない、軒をひしめく古い家々。脇の路地は全て曲がりくねった階段になって迷路の如く、空は狭まり石畳が迫りくる。赤茶けた瓦屋根にベージュの石壁、小さな花壇にオシャレな門。そこは中世より地中海を臨んだオ・ド・メール。外敵から守るために、城壁を築くように建てられた「鷲の巣村」と呼ばれる崖上集落のひとつだった。

丘の上にようやく辿り着くと、頭の上から汗が吹き出て止まらない。休憩すると反って落ち着かないので、そのままの勢いでグリマルディ城へ入ってみる。今はミュージアムになっていて、中は吹き抜け、回りをアーケード(廊下)が取り囲む。展示物には興味なく、定員19名と記された塔の上へと登った。

狭い階段を一段一段上がれば、階上の遮ることのないであろう展望に胸がわくわくする。近くで見れば小さいけれど、お城の塔のてっぺん。半袖の白いシャツは汗でべっとりとして気持ち悪いが、上には地中海の風が吹いていて、直ぐに乾かしてくれるに違いない。ときめきながら塔上へ・・・。

時めきがどきどきに変わり、「とびきりのご馳走を口に入れてしまったあとすぐには咀嚼せず、嚥下せず、口に入った安心を楽しむ」かのような幸福感に包まれた。それは想像以上の風景だったのだ。

眼下に絨毯を敷き詰めたように広がる家々の屋根の向こう、カニューの街越しに、左右に延々と続く浜と紺碧の地中海。左手遠くの空港の先にはニースの海岸が続いている。振り向けばコートダジュールの山々。

360°を見渡せる12畳程のこの塔に、一瞬クーラーの強風が吹付けたかと思った。こんな爽やかな海の風は初めて。ベトつかず涼しい。最初からいた4人程の人が降りて、この場所をオレひとりが独占してしまうと、シャツを脱いで上半身裸になった。

まるで「魔女の宅急便」の家々、屋根の上に小さなスペースをこしらえてテラスにしている。もう何回4辺をぐるぐるとしただろうか、回る度に新しい発見がある。あそこのテラスは4人が定員、こちらはもう少し多そうだ。向かいの少し低い丘に建つ邸宅群は近代的。川が流れている、泊まっているホテルの屋根も見える。

降りようとして何度も躊躇した。最後の一回は、階段に足を踏み入れて大きな音をさせても尚、立ち戻った。それほどに去り難い風景。残り自由時間を気にしながら、ギリギリまで階上に佇んでいたかった。

プロバンス・コートダジュールの絵を目に焼きつけても焼きつけても、決して充ちることはない。時は永遠に流れ、歴史は積み重ねられていく。地中海を臨む中世の城の小さな町。場所だけでなく、時間を超えた空間に彷徨い込んでいた。

フェスのあった村では、やはりサウンドチェックの始まる前に、丘の上に建つ古い城跡へ登ってみる。所要時間片道20分。村を見渡せる景色は信州のようだったが、やっぱりグリマルディ城の塔上にはかなわない。その代わり、そこは中世の騎士たちの戦いの跡、「城春にして草木深し」の趣きが在る。誰一人いない朽ちた城は、塔と建物の壁だけを夢の跡としていた。

その頃某さんは、オレが紹介した、クロワッサンのとても美味しい村のパン屋を訪ねたらしいが、午後の休憩で店は閉まっていたと言う。彼は夜中に水が欲しくなり、ようやく開いていたレストランで、一本¥600あまりのボトルを泣く泣く買ったり、カニューでは高級海鮮を頬張っていたと思ったら、海岸沿いのマクドナルドで高いシェイクに文句をぶちまけ、その後怪しげなアイスクリームを舐めていた。

『食べ物やトップレスのおねぇちゃんたちとの海水浴もいいけれど、せっかくのフランスなんだから史跡巡りも行かなきゃ』

と勧めると某さんは素直に聞き入れ、直ぐさま「鷲の巣村」へ向かって飛んで行く。フランスでは外したことのない中華を持ち帰って、ベランダでひとり食していると、憔悴した某さんが戻って来た。

『あれっ、ちょっと早くない?城の塔には登らなかったの?』

ホテルから歩いて往復するだけでも90分ほど掛かるのに、某さんが出て行ってから丁度それくらいの時間しか経っていない。ふとテーブルを見ると、オレが案内所で手に入れた地図は置かれたままになっていた。

『地図忘れたの?それで無事に辿り着けた?』
『ええ・・・丘に登るには登ったんですが、正面に見えていた城がどんどん離れていくんですよねぇ、もう時間もないし諦めて戻ってきました』
『・・・そこって、大きな家ばっかりだったでしょ、それも近代的な』
『はい』
『下に川が流れていたよね?』
『はい』
『地中海は眺められたの?』
『いいえ・・・』
『楽しかった?』
『・・・いいえ・・・』

某さんは近代的な邸宅街を見学するために、城と対峙している隣の丘へ登ってきたらしい。旧市街地を迷路のようにした中世の人々の知恵が笑っていた。


2005年8月25日(木曜日)

ひと月以上も空けていたロザで、久し振りに生ピアノを弾く。

海外公演のためお休みのジェームス・ウイラーに代わって、今日のジャム・ホストを務めるロブ・ブレインが、『アリヨが最後に弾いてから誰も触っていないよ』と言う。ピアノカバーを取り外すと大量の白いものが宙を舞い、音程にまで相当の埃が溜まっていた。滅多に狂わない低音までがバランス悪く聴こえる。何だかオレが調律する度に酷くなっていくようで申し訳ないが、ギターの調律程度の技術(耳)しか持ち合わせていないのだから仕方がない。

ピアノの状態とロブの爆音で、フラストレーションが溜まっていた。コーラの飲み過ぎを心配してくれている看護士さんからは、「止めるストレスより、まず減量ですね!骨がボロボロになっていくことをイメージしながら飲んでください(^O^)」と助言されていたのに、最初の一杯は既に一気飲みをしている。

珍しく週末のような忙しさで、ロザ・ママやバーテンダーの手が透かないのをよいことに、気が付けばカウンター内に入り込み、自らコーラを注いでいた。それも、氷を少ない目に入れて本容量を増やすところがせこい。

「外でも飲む機会が多いですから、かなりの精神力が必要ですね(>_<)」

看護士さんの忠告に叛(そむ)くようですが、私の場合精神力よりも、減量する意思を持っているという「記憶力」が弱いようです・・・。


2005年8月27日(土曜日)

来週のシカゴ・ジャズフェスティバルのステージ・マネージャーから、駐車場の件で電話があった。何時にどこのステージで演奏するかを知らず、こちらから連絡しようと思っていたので手間が省けた。シカゴ随一の情報誌"CHICAGO READER"のサイトでも載っているはずなので調べてみると、

Saturday, September 3

Jazz on Jackson Stage
Noon Frontburners
1:05 Sumito Ariyoshi
1:40 Dan Trudell
2:25 Daniele DユAgaro with Jeb Bishop, Robert Barry, and Kent Kessler
3:35 A New Apartment Jam with Von Freeman

おお、当たり前なのだがちゃんと "Sumito Ariyoshi" と載っている・・・んん、本名ですか?

日本でならともかく、こっちでは"Ariyo"の名の方が圧倒的に知られている。名刺に"Ariyo"と大書し、ロザのサイトでもそれで統一されているのに、ビリーはステージのメンバー紹介でオレの名をフルネームで呼ぶ。彼以外に本名で紹介したのは故ヴァレリー・ウェリントンだけだ。

だからジャズフェスの契約書にはミュージシャン名を書いたのに、ソロ演奏の晴の舞台に本名でとは、中途半端で複雑な気持ちになった。どっちにしても、列記されている人たちに知った人はいないし、余り大きなステージでもなさそうなので、ひっそりと演奏させて頂きますがね。

ロザでのSOB終演後、ビリーがメンバーをひとりずつ呼んでギャラを渡していた。しばらくしてオレの名前が呼ばれる。

『アリヨシ!』

おいおい、今度は呼び捨てかぇ・・・。


2005年8月31日(水曜日)

この三日間電話が繋がらなかったニューオリンズの最優秀ギタリスト、山岸潤史さんと、間接的ながらようやく連絡が取れた。山岸さんの住むアパートは冠水を免れ、彼は郊外の友人宅へ避難中らしい。

シカゴ在住のボーカリスト、ニューオリンズ・ボーは、いまだ家族と連絡が取れないし、ニューヨーク公演中だったアーロン・ネヴィルはNBCの電話インタビューで、避難させた家族を心配していた。

月曜日の朝ニューオリンズを直撃した超大型のハリケーンによる被害は、時が経つにつれて拡大している。人口50万人近い近代都市が、いってみれば高々ハリケーンで壊滅するとは信じられない。市内のほぼ全域が海面より低く、被害者の多くは堤防決壊によって水死した模様だ。専門家の警告にもかかわらず、堤防の本格的強化などを怠ってきた行政の責任が今後問われるのだろう。

救難隊のひとりはCNNで『9.11以上の惨事』だと、国民的な支援を訴えていた。テロという憎むべき具体的な対象のあった9.11と比べて、今回は自然災害である。しかし気象の専門家は、地球の温暖化と大型台風の出現の関連性を指摘している。もしそうであれば、温暖化阻止に一番不熱心なこの国が被災したことは、なんという皮肉であろうか。

国民はこれを機に政府に対して、他所の国にいらぬお節介を焼かず、内政に力を入れよと声を大きくして欲しいところだが、そうはいかぬのがアメリカなのだ。

今晩の仕事先であるジェネシスでも、話題がハリケーンのことになると、『ニュースを観て泣いたわ』という人もあるが、『電気も通じてないのにテレビ盗んでどーすんだ』とへらへら笑って、火事場泥棒を揶揄する人もいる。総じて他人事なのだ。

9.11の前には1ガロン(約3.8L)当たり$1.3台だったガソリンの値段が、$3近くになっている。そしてメキシコ湾の石油精製施設を破壊された今、備蓄があるにもかかわらず直ぐ値段に反映し、ついに$3を超えてしまった。被災地では便乗値上げが横行し、$5台後半を付けたスタンドがテレビに映し出されてもなお、市井の声がまとまった運動となることはないだろう。一部のインテリを除いては、論理的・科学的に物事を考えようとする人が少ないからだ。

破綻した嘘の理由で起こしたイラク戦争は終戦宣言後も泥沼化し、世界の石油供給を不安定にした。議会での検証は中途半端なまま、今回の被災地復興をテコに、ブッシュ大統領は石油高騰で落ちた支持率を取り戻すつもりらしい。 

そのブッシュを応援し、一番の愛国主義と自認する保守系テレビ局のFOXは、被災者が窮状を訴える合間のコマーシャルに、豪華で居心地の良さそうなリゾート地や、下着女性の登場する風俗CMを流していた。金儲けと愛国主義は別らしい。

無法地帯と化したニューオリンズの商店街で、カメラの前で顔も隠さずインタビューに答えていた黒人少年は、膝まで水に浸かった足を上げた。『ほら、オレ靴ないし、だから新しいのを貰ってきたんだ』と何足も入った大きな袋を差し上げ、笑って嘯(うそぶ)く。年間何億円もの契約金を稼いでいるFOXのキャスターは、『警察や軍は、早くこういう輩を取り締まって安全を確保してもらいたいものです』と顔をしかめた。

映像では、スーパーなどから物を持ち出す人々に混乱は見られない。奪い合うことなく、仲良く持てるだけの物を漁っていく。違法行為は断罪すべきだし、経営者には気の毒だが、高みから物を言うようなキャスターには嫌悪感を覚える。

ただ、逃げ送れて二階のベランダから必死に手を振り、救出を待つ人々の横で、椅子に座って悠然とタバコをふかしている太ったおばさんには、どことなく腹が立った。ひょっとしたらオレの心の中に、「被災者は困った顔」という誤った先入観があるからかも知れないが、救援の地元警察の人々やその家族も同様に被災しているのだ。

奥さんが行方不明だと、茫然自失になっている父子にインタビューしていたCNNの女性が、次第に涙声になっていくのを聴いて、この人には良いジャーナリストになって欲しいと願った。