2004年1月1日(木曜) 明けましておめでとうございます 本年も宜しくお願い致します およそミュージシャンと公に認められるようになって以来、大晦日に演奏をしなかった年はほとんどない。年末から一人暮らしになり珍しく仕事もなかったので、トニーから誘われてロザで年明けをすることとなった。 クリスマスは家族と共に家で過ごすアメリカ人たちも、ニューイヤーズ・イブは恋人や友達と外へ出て騒ぐ人々が多い。クラブも書入れ時で普段より高い入場料($20-50)を設定し、シャンペンや軽食を振る舞う。 ロザに着いたのは11時半を回っていた。長年メルビン・テイラーが演奏していたが、マンネリ化をトニーが嫌い、バンス・ケリーが新年のホストを務めていた。ブルースからR&Bまでオシャレに唄うバンスは、オレがプロデュースしてみたいミュージシャンの一人だ。しかし「ブルース・トップ40(人気曲のみを演奏する)」とか、「ブルース・ジュークボックス」と揶揄(人によっては褒め言葉)されるほど、カバー曲でエンターティメントを追求する姿勢を崩さない。司会のボブ・ロペスは、「地上で最高のパーティバンド」と紹介していた。確かに観ていて飽きないし楽しいが、もったいないと思う。 オレは入り口付近の常連のみが居座るエリアに陣取り、顔馴染みや従業員たちと年越しを楽しんでいた。カウントダウンが終わりバンドがホタルの光を奏で始める。人々と何度もハグし合い、旧年の労を犒い、新年の挨拶を交わした。 気が付くとレギュラーの演奏に変わっている。見知らぬ白人客たちの勢いはあるが浮ついた騒ぎの中、ふと一人ぼっちの感情が湧いてきた。華やかではあるが、義務的なバンドの仕事だけで終わっていた例年と違い、トニーやママロザ、親しい従業員たちと共に過ごしているにもかかわらず、寂寞とした思いが離れない。家族と共に過ごした日本の大晦日の習慣が、オレの血脈を心の底に繋ぎ留めているのだろう。 でもどこか異質なものも含まれている気がした。故里や家族が恋しくなるのは当然のことだが、この感情はもう少し冷めたような寂しさのようにも思える。 ひっそりとしたインド人街を運転しているときに、その欲求が再び起こってきた。宗教的感慨は起こらないのにオレの何かが強く欲求している。 初詣に行きたい・・・。 2004年1月3日(土曜) ホント、アメリカ人の運転マナーには腹が立つ。方向指示器を出さず曲がったり車線変更したりは当たり前。ウインカーを付けたまま直進し続けたり逆方向に曲がるのにも慣れたが、オレの車の直前を急に横切る輩が恐ろしい。 片側3車線の真ん中をオレが走ってるとする。左車線を抜いていった車がオレの前を横切って右端の車線までひとっ飛び、或いはその逆に右側から左側へと、目の前を瞬間移動に近い速度でスライドされた日にゃ、アアタ・・・。そのアホはオレの車を抜く瞬間、2車線離れた斜後方は(オレの車が陰になり)見えないはずなので、後続の車のスピード次第では事故に直結するわな。 その上運転技術の未熟者が多数なのと、アメリカ人的自己中(心の考え方)が大半なのと、薬使用中ですってドライバーの彷徨を考えると、人の運転を信用することは出来まい。従って運転するときにはいつも周囲に神経を張り巡らし、かつては紫のチンチラ内張りにムーンライト、全席ムートンの土足厳禁、助手席美女専用の豪華なセドリック230GXを駆っていたオレも、今ではすっかり安全運転が身に付いてしまった。 ようやく2台がすれ違えますって道で、向い同士の家の車が仲良く道を塞ぎ立ち話をしていても、かつては電装ホーンで威嚇し、「くぉららららぁっ」っと巻舌で諌めていたオレも、軽くパッシング(ヘッドライトの合図)し、それでも気が付かないならクラクションを「ポッ」程度に短く鳴らし、今では自発的に相手が退くのを気長に待つようになってしまった。 それでもこちらを一瞥したかと思うとまた話し込むのはどういうことっ、えっ?大体、最初にパッシングンした時点で気付くやろがぁ。クラクションを長い目に鳴らして、ようやく「何か用か?」って顔で怪訝そうに見るかぁ?「通せや」と言って初めて「すぐ済むからちょっと待て」はないん違(ちゃ)う?頭にくるのは、こういう場合相手は最後まで謝らない。 危ない危ない。もしオレがキレて何かあったら、警察はどっちの味方するか分かり切ってるわな。刑事事件でさえしっかりとした証拠がないと泣き寝入りか、下手すると加害者になりかねん社会やねんなぁ、これが。 かけた迷惑は気にしなかったり直ぐ忘れるけど、やられたら10倍にして返す個人も国も同じなのがアメリカ。頭にヤの付く自由業の人に似てる。 今日のスタジオ予定が夕方までだったので、郊外の食料品店ミツワで弁当でも買おうとフリーウエイを西に走った。オヘア空港脇からは有料(最初の区間¢40)となる。係員のいるマニュアル専用車線へは行かず、小銭丁度の自動料金車線に並び、直径50cm程の半円の金網バスケット目掛けて、先行の車から次々に小銭が投げ入れられるのを眺めていた。いよいよオレの前の車の番が回ってきたが、スポーティな二人乗りのユーロスターは、料金投げ入れ口より僅かに前に停まった。窓は下りずドアが少し開いて、女性の腕が伸びるのが見えた。 (ははぁ、パワーウインドウ壊れとんにゃ、カッコ悪ぅ)と薄ら笑いを浮かべた瞬間、不自然に曲げられた手首から放たれた小銭は、全て金網バスケットの側面に当って下に落ちてしまった。混雑時は過ぎたものの、後ろに長い行列が連なっている。第2弾を勘定すべく俯いていた後頭部が慌てたように横を向いたかと思うと、今度は華やかに小銭は宙を舞った。ペニーやニッケルが多く混じっていたのだろう、最初よりは多い数のコインが節分の豆まきのように宙を舞う。しかし豆は無情にも金網を遥かに越え、バスケットは一粒も口にすることは出来ない。 女性は明らかにヒステリックになっているのが分かる。髪を振り乱し頭を上下させ身体を揺すっている。もう¢40丁度のコインはないに違いない。 日本の販売機等に比べこっちの機械は性能が悪い。札を呑み込まなかったり釣り銭が違ったりするのはしょっちゅうで、この手の自動料金徴収機は、金を入れてもランプは赤のままでゲートが上がらない時がある。それでも下を探せば結構硬貨は落ちているものだ。受け口に手が届く所にビタッと車を横付けできない下手くそが多いからだ。だからこそ、少し離れていても投げ入れられるよう大きな口のバスケット型にしてある。 直ぐに女性が車から降りて小銭を拾い集めるものと思っていた。ところが運転席では相変わらず頭を上下させている。オレがコインを拾い集めてやろうとドアを開けた瞬間、彼女はけたたましくクラクションをならし始めた。 「アタシはちゃんと払(はろ)たんやし、早よ通してよ」 銀色のユーロスターは女性そのものと化し、クラクションは彼女の罵声となって明確な言葉を有していた。 業を煮やしたオレが片足を踏み出し立ち上がると、突然道が開けた。銀色のかっこいい彼女は颯爽と、そして何ごともなかったかのように走り去って行った。 ごね得なんや、アメリカは・・・。 前進禁止を示す赤いランプが付いたまま、上がっている木のゲートを呆然と見つめるオレの後ろから、「早よ行けや、こらっ!」と幾つものクラクションが怒鳴っている。小銭受け口の真横に車を付け慎重にコインを落としながら、道に散らばっている無数の小銭をオレのために拾い集めたいと思っていた。 2004年1月5日(月曜) ひええぇぇ〜〜 昨日は大雪で夕方までに20cm積もったと思ったら、今日はこの冬一番の寒さ。いやぁ、寒さではない、痛さ・・・。 28°Fあった昨日から気温はどんどん下がり、テレビでは-2°Fと言っていたけど、どっかのビルの電光掲示板が-9°と表示していたのを仕事帰りに見る。Wind Chill(風の体感温度)は-23°Fらしい。シカゴはウィンディシティ。いつも風は吹いている。車の後部ドア(ゴムパッキング)が凍てついて開かず、機材の出し入れに苦労する。 (何か悔しいので華氏表示にした。摂氏へは32を引いてから1.8で割ってください) ニューオリンズの山岸さんから新年の挨拶の電話。「地球の歩き方'04 -'05シカゴ編」に、シカゴ在住3年目にして初めて載った(228-229頁)。 「へぇ〜どっからそんな話きたん?」 そういや、知り合いだけに送っていたシカゴ通信だったのに、管理人様の御尽力でこんなりっぱなHPが出来てしまったのも、マニア以外にも知って欲しいという素朴な虚栄心があった。でもホントは、どこかでちゃんとした公式の経歴を披露しておかないと、誤解や間違いが一人歩きするのが嫌だったからだ。 ある全国的な雑誌に載った記事を見て悔しい思いをしたことがある。オレは87年にバレリー・ウェリントンバンドで、シカゴ・ブルースフェスティバルに東洋人として初めて出演した。10万人の聴衆に感動し、そこで自分が演奏していることを誇りに感じていた。 当時のバレリーバンドはマクドナルド、ピザハット、ミケロブビール、シェビーシティなどのテレビコマーシャルやラジオスポットに出演し、バレリー自身はシカゴトリビューンのテレビコマーシャルで一躍有名になっていた時期だ。各テレビ局や新聞、雑誌の取材も多く、フェスティバルの模様も当然報道された。ところが日本のマスコミは、3日間で60万人(87年当時)が集まる世界最大のブルースフェスには興味がなく、というより開催さえ知らず、日本人が出演したことは口コミ程度にしか伝わらなかった。演奏を続けていれば知らず知らずのウチに扱われていくだろう、程度にしか考えていなかったので気にも留めなかった。 翌年憂歌団が、シカゴの姉妹都市である大阪市の文化使節として招聘される。前年のフェスを直に観て感激した、当時の憂歌団の事務所の社長H氏が駆けずり回り、テレビ局や大阪市を動かして実現したのだ。オレはクラブ等の案内に奔走し、末席でご相伴に与り、秋野陽子をホスト(ホステス)に番組は好評を得、憂歌団の出演はいろんな雑誌でも扱われた。 その後ビザの問題で帰国しシカゴ生活も忘れかけていた頃、憂歌団のインタビューの載った音楽系ではない全国誌を知り合いが見せてくれた。見出しには「1988年、世界最大のシカゴ・ブルースフェスティバルに日本人として初めて出演した憂歌団」とある。オレの出演をよく知る事務所やメンバーが嘘を言うはずはない。編集者が憂歌団のプロフィールを若干改ざんして、「日本人バンド」から「日本人」としたのだろう。カチコンだところでたかが知れている。というよりも、一般全国区では滅多に扱われない己の無名さに頭を垂れた。 インタビューや取材では言質を取られないように気を遣っても、編集でニュアンスが変わることは仕方がない。ましてや、自分をことさら大きく見せようとしても惨めになるだけだ。しかし、明らかな間違いや誤解が一人歩きするのは腹が立つ。(何や、ゆーたもん勝ちかえ、それやったらゆーとかな)と、せめて正確なプロフィールだけでも公に出来ないものかと思っていたところ、江戸川さんと知り合い、彼のご好意に甘えることとなったのである。 「まぁ、今は日記が主ですけど、リアルタイムに伝わるし訂正も直ぐできますよ」 ガチャッ 2004年1月7日(水曜) 昨日今日とスタジオ作業の最終追い込み。 ミックスダウンは、録音スタジオとは別の部屋でおこなう。一般家庭では大音量やイコライザーを細かく調整して聴かないので、ときおり録音スタジオのコントロールルーム(大きな窓越しに録音を指示するでっかいPAの置かれた部屋)のスピーカーの質を落とし、各演奏者の音のバランスなどを確認しないといけない。 PAの前に置かれた回転椅子に座って演奏に聴き入る。身体を反らすと僅かに後ろに傾く黒皮の背もたれが頭の上にまできていて、ひじ掛けに手を置き全身を預けると音だけの世界に没頭することが出来た。タコのような5本の足には車輪が付いていて移動しやすいが、左右のスピーカーから流れる音の中心からオレは動かない。 身体を捻ると滑らかに椅子も付いてくる。それと共にスピーカーと両耳の位置が微妙に変化し、音のバランスが変わるのは分かっていた。しかし目をつぶっていると立体的になって音が見えてくるのには驚いた。 タコ足に載せた足を蹴り揚げ、少しだけ回ってみた。高価な回転椅子は軸受けもしっかりしている。ほとんど力を入れなかったのにおよそ半分程回ったのが分かった。左右のスピーカーが自分の顔の正面の位置を常に確認さていていたので、足を降ろし元の位置に回転させる。もちろん目はつぶったままだ。 今度は、丁度一周したくなった。どれ程の力を加えると一周するのだろう。一瞬の遠心力を覗けば、回転しているとは感じない程滑らかに回った。音だけに集中しているので、こちらが回転しているというよりも、音が周りを回っている錯覚に陥っていく。何度か試す内に、知らず知らず音を追っかけていた。カメラを軸に風景を回しているかのようだ。 そしてオレは目を回した。 2004年1月8日(木曜) トニーがイタリアへ行っている間、今週のロザのセッションのホストバンドは、ドラムをブレディ・ウィリアムスに頼むことにした。彼はオレと共にバレリー・ウェリントンバンドのオリジナルメンバーで、デルズの来日メンバーでもあった。ABCプロジェクトでも3曲叩いてもらっている。 エディ・テイラーJr.は、トニーの不在で自らが仕切ることになったのを楽しんでいるように見えた。傍目には分からないだろうがとにかく機嫌が良い。その機嫌は最後まで保ったので、要らぬ神経を遣わずに済む。 ブレディとエディは、およそ自らは歩み寄らないほど音楽性や指向が異なる。どうしてブレディを呼んだのかと、お叱りの方もおられるだろうが、エディがトニーの代わりは誰でも構わないと告げていたのでオレがリクエストした。ドラムは誰が好き?と問われて何も考えずブレディと答え、そのまま通ったに過ぎない。それでもオレとベースの江口が調整しながら、楽しくも質の高い演奏を続けることが出来たし、エディはずっとブレディに気を遣っていたから、それはそれでよろしい。 2セット目からは本格的にセッションが始まる。今日の変わり種は、マイギター持参のリトル・エド。意外だったのは、ボトルネックを指にはめながらほとんどのフレーズを指で奏でていた。そんなに上手くはないのだが味がある。がなっているだけの印象だった唄にブルースマンの円熟さが加わり、ローカルミュージシャンにはない威風堂々とした存在感を示してくれた。 残っているミュージシャンと仕切りの進行上、ステージを下りていたオレは入り口付近で指を加え眺めていた。リトル・エドとセッションをするメンバーの経歴が面白い。エディ・テイラーの名を受け継いだJr.、メイビス・ステイプルのベース・江口弘史、元ジェームス・ブラウン(一週間だけのサブだったらしいが)のドラマー・ブレディ・ウィリアムス。そしてピアノは国立音楽大学声楽家出身のN嬢・・・。 彼女は自分が振られたソロに気付かず、2コーラスも穴を空けてくれた。 2004年1月10日 (土曜) 昨日今日とキングストン・マインズでSOBのライブ。 昨日は久しぶりにノースウエスタン大学の日本人大学院生たちが観に来てくれた。彼らは企業からの留学生で、この夏に卒業し日本へ帰っていく。各々の出身企業は業界のトップばかりで、帰国後は再び企業戦士となり忙しく活躍するのであろう。 彼らとの別離に一抹以上の寂しさを覚えるのは、自分の生活に社会性が乏しいからかも知れない。あるいは、学生として知り合った彼らに郷愁を感じた幼児性からかも知れない。何れにしても己の社会人としての成熟の度合いが、大学卒業後さほど変わっていないことを認識させられる。そこには、いつまでも遊んでいたい子供とそうはいかない大人の違いがあるのだ。 今日は知り合いが娘さんを連れてオレの真ん前に陣取っていた。アメリカ人としては普通の顔だちで、小柄だが少しボリュームがあるようにも思えた。ひょっとしてオレに気があるのかなと思ったのは、演奏中顔を上げるといつも目が合ったし、真横に来てはオレの写真を撮っていたからだ。休憩中に話し掛けると、はにかみながらも身体を寄せてきた。 ケイトという名のその子の顔が普通のと書いたが、実はもっと美人だったかも知れないし醜かったかも知れない。歳も20代のようにも思えるし30代かも知れない。それは、彼女の顔中に付いている数十のピアスで判別できなかったからだ。 耳はもちろんのこと、眉、目蓋、鼻、上下唇に銀色の輝きがひしめいている。「見えないところにもあるでしょ?」と問うと舌を出し、「こことお臍だけ」と恥ずかしそうに答えた。舌を突き刺しているボルト状のものが、オレには一番痛々しかった。 最後のセットで別のピアニストをステージに上げお休みしていた時、背後から「イヤッホー」という掛け声と共に背中を突くヤツがいた。振り向くとベースのチャールズ(2003年6月1日付け参照)がにやにやとしながらキスを迫ってくる。嫌がる振りをしないとこいつはホントにキスをしかねないので、笑いながら押し退ける。 暫くしてチャールズが「彼女イケテルゥー」と半ば興奮気味にオレに訴えた。どこどこと彼が顎指す方向を見遣ると、そこには笑顔でこちらを見ているケイトがいた。 あとで分かったが、チャールズはケイトの身体しか見ていなかったらしい。 2004年1月12日(月曜) 「今度飯でも食いながら話をしたいんだが」 アーティスでの演奏後、ビリーがギャラを渡しながら言った。彼の神妙な顔つきに合わせるように、オレは首を傾げて眉を寄せ「オレをクビにするんですか」と訊ねると、「お前をクビにするのなら、その前にオレをクビにするよ」と答えた。アメリカ人らしい切り返しに感心したが、その顔は笑っておらず青い目はギョロっと見開いたままだ。 SOBの人間関係は良好なのだが、ステージ上では様々な問題を抱えている。硬直した状況の打開策を皆で話し合うのではなく、個人的にオレの意見を聞きたいのかも知れない。それはそれで信頼を得ていると考えれば悪い気はしないが、有無を言わさない口調で「OK?」と言う、少し酔って目の据わったビリーの表情を見ていると、それだけではないような不安に駆られた。 今までの経験上、会食が直ぐに実現するとは思えないし、時間が経ってうやむやになるかも知れない。しかし、ビリーがバンド経営に悩んでいるのは確かなことだ。 ん!もし「その前にオレ(ビリー)をクビにする」ことがあれば・・・それ、組合潰しの計画倒産と違うん? 2004年1月14日(水曜) イヤッホー! ABCプロジェクト・ミックスダウン終了ぉー マスターリングはエンジニアのジャックに任せ、金曜日に受け取り発送すればお役御免・・・か?いやいやそんなに甘くはない。CDケースに収まるご本へ載せるデータ集めや、プロデューサー・メモのような原稿の締め切りが迫っている。でも、今までの苦労を思えば自分の責任で何とかなるので気は楽。雨期の東南アジアで晴れ間を待つようなこともなく、気は楽である。大変楽である。 午後6時過ぎ、スタジオへ遊びに来ていたベースの江口とチャイナタウンへ繰り出す。肩の荷が下り、口が軽くなり、ラーメンと紅茶ニ杯では酔いもしないのに、オレは相当な夢を語っていた。お陰で店を出たのは12時前だった。 2004年1月15日(木曜) 先週に続きトニー不在のロザ。今日は陽気なマーク・マック(2003年6月1日付け参照)がドラムを叩く。 本日の変わり種のお客さま。レイ・キラー・アリソン。マディ・ウォーターズやジェームス・コットン、バディ・ガイなどのビデオでご覧になった方もいらっしゃると思う、元ドラマー。元というのは膝を痛め、バディ・ガイのバンドを最後に唄とギターで一本立ちしたからだ。 ギターと唄は彼のドラムのような一本やりのファンク。音がデカイ。ところが途中から興に乗って、3年振りというドラムを叩き始めた。"キラー"ってあだ名には幾つかの理由あるそうだが、この音のでかさもその謂れの一つだ。しかし、フレーズやメリハリの付け方は多彩で、そのグルーブ感は3年のブランクを感じさせない。彼がドラムを叩いていた間は、オレとベース(チャールズ・マックや江口)の3人でフェイクやキメのアタックを楽しんだ。 お陰でその時に誰がフロントで唄ったりソロを弾いていたかは記憶にない・・・。 2004年1月16日(金曜) イヤッホー! ABCプロジェクト・マスターリング第一次分発送ぉー へろっ!だっ、第一次分? 実はウチの大将が唄を差し替えたいといって、今週に録り直しの予定があったが、体調と準備不足のため来週に最後のチャンスを与えることになった。無理を言ってるのを本人も自覚しているので、そのときに上手くいかなかったらこれで良いというのが今日発送したマスター音源である。 一昨年の10月に話が舞い込んだビリー&カルロスの共演アルバム。昨年の6月にスタジオ入りしてからこんなに時間が掛かったのに、最後の最後まであがいている。 2004年1月19日(月曜) 先週の土曜日はSOBでレジェンドでのバディ・ガイの前座。9時半からの一時間の演奏を終えると、チケット売り切れで満員の客席を縫って機材搬出、急いでロザへ向かう。ビリー・ボーイ・アーノルドをフロントに立て、ジャームス・ウイラー、ボブ・ストロジャー、ウイリー・スミスと共に古典ブルース三昧した。今は皆レジェンド扱いされているが、80年代にはオレと一緒にジミー・ロジャースやオーティス・ラッシュのバックを務めた仲だ。一セット目は抜けてしまったが、遅れてきたオレをみんな笑顔で迎えてくれたのが嬉しい。 音楽的な欲求だけの人には、この人達と演奏するのは辛いだろう。ずっと触れていなければ、彼ら(彼女ら)が持っているブルースのリアリティは分からないし、たとえそれが過去のモノでタイムトリップに過ぎなくとも、その瞬間オレは奏者としてブルースに触れている実感があるのだ。同じステージに立ち、同じ目線を持てるのはミュージシャンとしてであって、ブルースマンと呼ばれる対象に同化することなどできない。永遠の憧れを持って、他の人より一番近いところで体感しているだけだ。だからパイントップ・パーキンスが来れば、あっさりとピアノの椅子を明け渡し、遠くから羨望の混じった複雑な思いで見つめるしかないのだ。(2001年12月16日日記参照) いつになくブルースに対し感慨を持って演奏できたのは、新旧のバンドを一晩でハシゴしたためだろう。SOBの仕事の後でもイイから来てくれと言ったトニーに感謝している。 ただ、アーノルドさんの唄の歌詞の多さには驚いた。ストーミー・マンデーのオリジナルは3コーラスなのに、彼は15コーラス程付け加えた。泉のように湧き出る彼の歌詞を聴きながら、同じセンテンスを繰り返さないことと、それを全て覚えていることに感心した。スウィートホーム・シカゴでは、彼は遂にテキサスへ向かい、テキサスの女性に惹かれ一旦は住みつこうとしていた。それらは全て彼の実話に違いない。自分の物語を思い出しながら唄っているのだ。たとえオレの勘違いであっても、そう思うことでブルースのリアリティに触れられた気になる。少なくともその精神には触れている。 日曜日はさすがに夜まで寝ていた。スタジオでの昼の仕事が多かったせいか、昼に一旦目が覚めたものの、また直ぐに寝床へ戻り合計10数時間眠ったことになる。完全休日だったはずだが、ABCの第一次分音源が気になり、BC両者のファンで親交もあるグラフィックデザイナーK氏に連絡する。彼の自宅で試聴してもらい感想を聞いた。過分な評価を得て気を良くしての帰途、ふとオレは仕事人間になっているのではないかと恐ろしくなった。 サラリーマンなら給料が出て社会保障もあるのに、これだけ働いて貯金も出来ないでいる。それでも頑張るのは、誇りと意地と虚栄(エエ格好)からだろうか?実がとれないのなら、せめて自尊心をくすぐるような評判の良いCDであって欲しいと願う。 そしてレギュラー出演しているアーティスからチャイナタウン経由で家に戻った今日は、明日が本当の休みで油断して日記を書き込み、日付けは翌日の午前10時になっている。 2004年1月20日(火曜) 祝! ビりーとお仲間"SOB"たちが"Chicago Music Awards, Best Blues Entertainer"部門にノミネート 目覚めると既に外は暗く、雪が凍っているのが分かった。銀行へ行ったり、保険屋さんへ行ったり、お買い物したりってのは諦める。何故か急にトンカツが食べたくなり、友人を誘ってずっと北の郊外の「タッカツ」へ向かう。日本のトンカツ専門店となんの変わりもない(キャベツの量と切り方まで)凄いお店。最近足が遠くなったのは、以前、給仕のアジア系おねえちゃんの態度に切れて、帰り際に「*-/g0l1~$3$N4V$N%a!p」とやってしまったからだ。もうおねえちゃんもオレのことを覚えていないだろうと、店は初めてのHを誘い久しぶりに行って見ることにした。8時半までに着けば、分厚いトンカツや海老フライを頬張りながらHとバカ話しをして、日頃の憂さを晴らし牛肉を食えない肉嗜好を充たせるに違いない。 「お店移転のお知らせ」 何故かそういうときは「オレに断わりもなしに移転するなよな」と呟いてしまうが、お店の人など個人的に知りもしない。Hが耳寄りな、そして可能性のアル情報を付け加えた。 「・・・に移転しました」 おいおい、それってずっと西のずっと北と違うの?でもそこにお店があるのなら、9時半までに着けばラストオーダーは通るだろうと、とりあえず車を西へ走らせる。立地する道の名と番地は控えたものの、行って見なければでは心もとない。そこは旅行社のNに電話すると解決する(2003年6月25日付け参照)のがありがたい。電話ナビのNが適確にオレたちを案内する。目指す住所に到着したのは9時15分であった。 「工事中」 ほな何かぇ、ワシらは・・・ 2004年1月8日付け「よしなしごと」で「元ジェームス・ブラウン(一週間だけのサブだったらしいが)のドラマー」としてブレディ・ウィリアムスを紹介したが、今回ABCプロジェクトでサポートメンバーの経歴を聞き取りして、オレが思い違いしていたことが分かったので訂正する。詳しくはオレの思い違いではなく、大昔一緒にバレリーのバックをしていたとき、ヤツはオレにハッタリをかましていたらしい。ブレディはJBの仕事の依頼が安かったから断わっていたのだ。 依頼が来るのも凄いが、値段が安いからと断わるなんて。 ほな何かぇ、お前は・・・ 2004年1月23日(金曜) 今週は雪も降り続き気温も低い。水曜日はSOBリハーサルを休んでスタジオで追い込み。木曜日と今日は昼間スタジオ夜ロザの二日連続の2本立て。 本当はマスター音源をピックアップして今日の夕方日本へ送るだけだったのに、サウンドエンジニアが「私にとってのベスト盤を仕上げるために手弁当も辞さない」と力(リキ)を入れ、オレたちが聴いてもどう違うの?といった超技術的な点に懲り出してマスターリング終わらず。彼の強い要望で宿題を日曜に持ち越す羽目になってしまった。他にもプロデューサーコメントや各クレジットチェックなど、期限までにしなければならないことが山積みで、みんながオレを忙しくしてくれる。ライブ演奏の間だけが責務を忘れのんびりできるなんて、3年前のビザ申請資料の収集・作成に奔走していた頃を思い出す。 ロザの近所の24時間営業メキシカンレストランでタコスをテイクアウトした帰り道、常連のK嬢を送った後レイクショアドライブを降り、いつもとは違うノース・シェリダンを北へ向かった。88年に住んでいた54階建ての黒い三角の高層アパート前を通り、今は亡きバレリーと演奏していた頃を懐かしく思い出したかったからだ。 朝からの雪は道路整備ですっかり溶け、車の往来の途絶えたヨーロッパ風の並木道は午前3時の街灯で光っている。凍ることはないが道は濡れているので、信号に気を付けながら無理をせず減速して、黄色から赤に変わった表示の手前で車を止めた。一瞬の間を置いて車のスリップする音が聞こえたのでバックミラーを見ようとしたとき、後ろから穏やかに身体を押しやる重力を感じたと思ったらヘッドレストに頭を打たれ、反動で身体は前倒しになっていた。 エンジンはかかっている。指に挟んだタバコを落ち着いて吸い殻入れに押し付け、交差点を進んで道路脇に車を停めた。クビを左右に捻って身体には大して損傷のないことを確かめ、それでも数秒待ってからドアを開けた。黄色い車体のタクシーの運転手が互いの車の間で、落ち着きなく覗き込んではうろうろしている。クビを摩りながら近寄ると詫びの言葉を発したが、謝っている態度には見えなかった。 携帯から警察へ電話すると、「今夜は同様の事故で忙しいから、救急車を必要とするような事故でないのなら互いに保険などの情報を交換して、各々警察へ報告してください」という内容を告げると切ってしまった。とりあえず自分の車を調べると、バンパーだけでなくフレームが凹んでトランクが閉まり切らない。明日は郊外で仕事があるのに機材をどうやって運ぼうかと考え始めたが、事故処理が先決なので運転手と連絡先や保険の情報を交換した。 彼と別れて車に乗り込むと、運転席からは見えない後部の破損以外はどこも走りに変わりないので、宿題が増えたことを気持ちが受け入れたがらない。寝不足で昼から頭が冴えず、クビが痛いのも事故か癖のような職業病なのか判断できずにいた。早く家に帰ってベットに転がり込むことだけを考えると、事故に巻き込まれたことさえ忘れてしまう。しかしときおり思い出すと、みんながオレを忙しくしてくれると何かを呪い、自分自身の疲れを加速させていた。 2004年1月25日(日曜) ABCプロジェクト・マスター音源最終盤完成! P-VINEのC嬢とクレジットなどの打ち合わせ後アパートへ送り、ようやく最寄りの警察署へ事故の報告。土曜の午後は車のトランクを閉め切るためのカギ付きゴムやこまごまとした生活用品の買物、その他の家の用事を済ませるために費やし、夜はライブ、寝る前に原稿2本を書き上げたので警察は後回しになっていた。 深夜の警察署の吹雪く駐車場に出て、追っかけっ子のK嬢に連絡。彼女を拾って洗濯をしながら髪の毛を染めてもらう。明日はSOBの番頭ドラムのモーズの誕生日だが何も用意していない。封筒に僅かの現金を入れお茶を濁す腹でいる。 2004年1月26日(月曜) らぐじゅありーかー らぐじゅありーかー あっ よろこびすぎて つばがでちゃった 2004年1月28日(水曜) P-VINEが隔月で発行しているBSR(ブルース&ソウル・レコーズ)の編集部から依頼されて、昨日今日と二日間かけて、ロバートJr.ロックウッドのインタビューを取りにクリーブランドまで行って来た。 片道600km余りをオレの古いカローラでは不安だったので、友人の車を借りた。というよりも、先週の追突で後部が凹み機材の運搬に支障を来すので、近距離の通勤にしか車を使わない友人が、当分の間オレの車と交換することを申し出てくれていたのだ。 さすがに年度の新しい中型車は快適で、雪のため速度を上げられない7時間程の行程もさほど疲れを感じない。同行カメラマンのO君が何度も運転を変わりましょうかと言ってくれたが、行き帰り共にオレが運転した。 昨日は東部時間(シカゴは一時間遅い中西部時間)の8時頃モーテルに入り、軽く食事をして、ロックウッドの自宅を確かめに下見をした。クリーブランドはエリー湖を北側に望み、ダウンタウンを中心に東西南の三方に街が広がっている。翁の家は、西に位置するオレたちの宿舎とは反対側の東に在り、大きな家の並ぶ閑静な住宅地に建っていた。 寒さのため、街中に人影は見えない。それでも一目で黒人居住地域と分かるのは、シカゴの黒人街を見慣れているからかも知れない。それにしても古い家が多い。外壁のペンキを塗り直しながら、何度も手を入れて住み続けているのが夜目にも分かる。降り積もった雪がなければ、ミシシッピーやアラバマなど、南部の貧しい黒人街を連想したに違いない。 モーテルからそこまでの道(約30km)でも、真新しい住宅はほとんど見かけなかった。きっと裕福な人々の住む地域も在るのだろうが、クリーブランドは経済がずっと停滞しているようにも思える。人気のない無機質なダウンタウンの立派な高層ビル群とは対照的な、オレたちの通った道路脇の風景が、貧富の差を固定するこの国の制度を象徴しているように感じる。 今朝は8時頃(シカゴは7時)起きてチェックアウトの仕度をする。およそ普段の生活とは掛け離れたとんでもない時間に活動し始めたが、気が張っているためか苦にはならない。約束の時間を少し過ぎた10時7分、極寒の中ロックウッド邸にお邪魔した。 詳報は来月末発売のBSRをお読み頂きたいが、今も少し心が揺れているほど感動した瞬間があった。O君がいることも忘れて魂が浮揚していた瞬間があった。言葉にすれば、きっとそれは消えてなくなるような淡いシャボン玉のような感情なのだろう。余韻と言うには余りにも現実離れしていて、それでも想いが大き過ぎて身動きできない。編集部の方には申し訳ないが、締め切りギリギリまで原稿は書き出せないと思う。 2004年1月29日(木曜) 一番低い表示をしたテレビ局の気温は-22℃、風は-30℃。明日の最高(!)気温-14℃。 ロザの1セット目が終わったところで、車を交換している友人からの緊急電話、エンジンをかけたままドアをロックしてしまったらしい。この寒い夜に車から閉め出されたら凍死しかねない。スペアーキーはオレのアパートに置いてあるので、トニーに危急の非常事態を説明し、以後の演奏はキャンセルして救援に向かった。 如才なく堅実な生活を営む彼には珍しく、使い慣れないオレの車に閉め出されたのには同情するが、ラグジュアリーカーに慣れてた罰じゃ。AAA(日本のJAF)を呼んだが埒があかず、近くの自分のオフィスまで送ってもらい待機していた友人を拾いカローラ救出へ。3時間もエンジンをかけっぱなしのまま、盗られることもなく彼女は元気に待っていた。 激寒のシカゴ北部を深夜にぐるりと一周しロザに戻ると、営業はとっくに終わってメンバーがギャラの精算を待っていた。間もなくトニーが現金を手に握りしめオレにも渡そうとする。んなもん受け取れる訳がない。お前はどこまで人が好いんじゃ。ただし相手によるのも知っているが・・・。 2004年1月31日(土曜) マイナス5℃くらいだと暖かく感じるこの季節、57番街の科学博物館メインホールで大規模なパーティの仕事。 当初タキシード着用とのことだったが、SOBはお揃いのタキシードを持ってないので、(各々が所有する中で一番上等な)黒のスーツと黒シャツとネクタイで統一することとなった。オレはそこいらのタキシードより高価な黒のダブルのスーツを持っているが、タキシードが似合わないのも知っているので、よほどのことがない限り買わないだろう。 86年、ニューヨークのブロードウェイにある「ビーコン・シアター」という古い劇場にバレリーのバンドで出演した時、タキシードを指定されたので知り合いから借りて着用した。生まれて初めて着るタキシードは晴れがましく、着飾った彼女と4人の正装した(今でも一緒になるブレディやニックと共に)男達になり、一流のミュージシャンになったような錯覚さえ覚えた。 客受けの良かった出演を終え、トリであった、当時はホーンセクション入りのジェームス・コットンバンドを客席から観ようと一人で裏口をうろついていると、セキュリティに捕まってしまった。出演者だといくら説明しても、「シカゴ・ブルース・フェスティバル」と名付けられたコンサート会場裏に、タキシードの日本人が迷い込んだとしか見られない。夕刻のサウンドチェックが終わったあと、ニューヨーク在住の日本人の知り合いに、シアターの地下に付属するバーに連れられたとき、バーテンダーがオレに訊ねていた。その同じことを、太った黒人のセキュリティは、少し小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべて問いかける。 「お前はどこの日本食レストランのマネージャーだ?」 オレが子供の頃の憧れの投手、元阪神タイガースの江夏豊が、大リーグのミルウォーキー・ブリューワーズ(だったと思う)のテストを受けた時のことを思い出した。少し腹が出た往年の面影もない江夏がマウンドへ上がると、周りからは「ベニハナ(鉄板焼の全米チェーン店)のコックが、冗談だろ?」とヤジが飛んだらしい。今のMLBは野茂やイチローもいるし、実力勝負の野球の世界では、誰がプレイしようと結果を残せば自然に認知される。 シカゴのブルース界も日本人が大勢活躍している。しかしこの業界は観る人全てが音に理解がある訳ではない。音を純粋に聴いてもらう前に、それ以上に(パフォーマンスも含めて)見た目も大切なのだ。それ以来タキシード着用の仕事は何度かあったが、皆とはぐれて単独では見られないように気を付けている。 黒人クリエーターのためのパーティとあって、SOBのステージ脇には、まだ名前の彫られていない本物の小さなオスカー像が20体ほど展示されている。ほとんどが黒人の、正装した数百の人々の間を忙(せわ)しなく動き回る、タキシード姿のバーテンやウエイター、ウエイトレスを見て、たとえレンタルでもタキシードはご免だと思った。 演奏し辛くても、羽織・袴の方がまだ気持ちに張りができる。ただしこいつらのことだから、誰かがきっと「ちょんまげはどうした?」と言うに決まっているが。
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