傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 17 [ 2004年3月 ]


Ariyo and Robert Lockwood Jr.
Photo by Kenji Oda, All rights Reserved.

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2004年3月1日(月曜)

洗濯物が溜まっていて、アーティスから戻った明け方の4時に洗濯を始めた。シーツやバスタオルも多かったので、大型洗濯機2台を使う。アパート中が寝静まっているのに、ひとり共同ランドリー室で洗い物の仕分けをしている様はどうなのだろう。

乾燥機から洗濯物を取り出すと、静電気でパチパチと音がする。用心はしていたのに腕が金属の蓋に触れた。その瞬間2万ボルト(多分)の電流が流れ、オレの身体は中腰のまま不様に硬直していた。瞳を巡らし無人のランドリー室を眺めると、ようやく立ち上がって一つ咳をした。


2004年3月2日(火曜)

ドラキュラの生活からは抜け切れない。寝室のカーテンを開け新調されたブラインドを広げると、外は寂しい夕暮れだった。急いで仕度をし、郊外の日本食料品店へ向かう。仕事の日はマックンなどのジャンクフードで済ませているので、休日の献立をあれこれ考えるのは楽しいものだ。

刺身で一人宴会と呟きながら、エンガワ付きのヒラメの片身、サーモンのトロ身、しめ鯖を買ったが、ツマまでは売っていない。いつもは日本のキュウリを添えるが、珍しくダイコンのツマが欲しくなっていた。

家に戻り、さっそく直径12cm長さ10cmのダイコンのかつらむき。家庭用の包丁では刃が上手く入らず、結構力仕事となる。結局、ダイコン一塊さばくのに30分以上も掛かってしまった。お陰でツマはドンブリ2杯ほど出来上がる。

だし巻卵(2001年11月15日日記参照)を手早く作り、冷奴にネギ(向こうが透けて見えるほどの薄さでなければならない)を載せかつお節を振る。刺身三種類を各々半分ほど切り分け、ツマと共に盛り合わせて宴会準備完了。仕込みに一時間も掛かってしまいちょっと反省。

さてお味は・・・。だし巻きは料理酒の入れ過ぎ、豆腐は醤油のかけ過ぎ、サーモンはトロ身が油っこ過ぎ、ヒラメは淡白過ぎ、そして某日系魚屋の手作りしめ鯖はほとんどシメられておらず、生臭いことこの上なし。さすがにツマは最高だったのに、メインに裏切られてはどうしようもない。

豪華刺身三品で、刺身がすっかり嫌いになってしまった。明日、残りを食べるのが恐い・・・。


2004年3月3日(水曜日)

SOBでは珍しいウィークデーのレジェンド。昨日のダイコンのかつらむきで、腕がだるい。

機材搬入の時には、その謎の美女はすでにキーボード近くに一人陣取っていた。一見日本人観光客のようだが、若いのに落ち着いて見えるので何とも言えない。楽器をセッティングしているオレの民族の系譜を推し量るように、ちらちらとこちらを窺っているようにも思えた。こうなれば、良いところを見せようと内心張り切ってしまうのは、健全な男子ミュージシャンの生理だから仕方がない。自意識過剰なのも仕方がない。

ところが演奏が始まると、先ほどまでの友好的と思えた仄かな視線のやり取りは空回りする。彼女に目をやるとぷいと顔を背けるし、オレのソロや紹介では拍手さえくれない。かといって、SOBを楽しんでいないのかといえばそうではなく、曲終わりや他のメンバーには笑顔で拍手を送っていた。えっ、オレだけなし?虚栄に似せた自信がぽろぽろと崩れていく。心なし他の客からの受けも悪く思えて来た。

これでもか、これでもかと懸命に演奏したが、結局彼女がオレに反応したのを一度も見なかった。ハイ、参りました。わたくしの負けでございます。一体わたくしの演奏、もしくは振る舞いのどこが至らなかったのでございましょうと、オレは第一セットが終わると直ぐに駆け寄ろうとしていた。

そんな傀儡の機微までも察したのか、彼女は最後の曲中で立ち上がる。謎の美女はオレの気持ちをずたずたにしたまま、夜の帳の中に消えてしまった。ははぁ、さては敵のまわし者だったか。へっ、敵って誰?

彼女がいなくなると、俄にオレの演奏への受けが良くなった。感情は意識の産物なのだろう、下心で演奏してもろくなことがない。荒(すさ)んだ心を明るく立て直してくれたのは、リザべーションのバーテンダーのクリスティーヌだった。謎の東洋系美女と入れ替わるように来店した彼女とその取り巻きが、オレを盛り上げる持ち上げる。終わってみれば、機嫌はすっかり良くなっていた。

終演後、クリスティーヌはハグ好きなのか、全員(丸山さんは未確認)を抱きしめて廻った。メンバーの某は、汗を掻くと異様なほどの体臭を発散する。彼女は某に向かって「キャー、ワイルドな香り」と言いながら、もう一度強く抱きしめた。はへっ!?クリスティーヌって腋臭フェチ?

普段女性からハグされているのを見かけない、某の嬉しそうな顔を見ていると、クリスティーヌが臭いフェチであることをオレは願った。


2004年3月4日(木曜)

昨日のレジェンドの帰宅後は、火曜日の敵討ちの料理に取りかかる。あのまま刺身嫌いになれば、シカゴの楽しみが薄くなる。

サーモンはそのままにしておいて、ヒラメはツマの残りと共にネギを混ぜ一味を振り振り、ポン酢(高級品)和えに。そして問題のしめ(ない)鯖は、ホイルに包みオーブン・トースターで焼いた。だし巻の残りには紅ショウガを添え、もう一品の付け合わせはホウレン草の胡麻和え。

みりん、砂糖、酒、塩、醤油、味噌(隠し味)で味を調え、胡麻を振りかけ良く混ぜる。練り胡麻が欲しいところだが、「サッポロ一番塩味」に付いていたものを、(こんなこともあろうかと)取っておいたのだ。りっぱな胡麻和えが完成。あの日の喉の「通り」を考えると、嘘みたいに食道を物が通過していった。

こういう食べ物ネタを書けば、「一人者のお料理自慢」「海外居住者残物利用法」とかのタイトルも付けられようが、なに、己が旨いと感じて食が進めばそれで結構。食べ物は決して棄てません、の決意が肝要である。

今晩のロザは終演後にひと騒ぎあった。

一見(いちげん)の酔っ払いと某ミュージシャンが揉めて警察が呼ばれた。普段なら、酔っぱらいを外に放り出して終わりになるところが、間に入った店の人間を彼が突き飛ばしたので、過剰に反応されたようだ。

各目撃者の説明を統合すると、黒人ギタリスト某の態度が発端となり、酔っぱらいは、黒人を侮蔑する「ニガー」の言葉を投付けたので大騒ぎになったようだ。いくら酔っているとはいえ、ブルースクラブで黒人に向かって白人が「ニガー」と呼べば、それはもう殴ってしまったに等しい。

某は周りに止められながらも、殺してやると息巻いている。それにしては、彼にどこか勢いがない風に見えた。ロザへは久しぶりに遊びに来ていた某自身は、最近刑務所から出て来たばかりなので、言葉とは裏腹に、騒ぎを大きくしたくないのに成り行き上納められず、内心困惑していたに違いない。

ステージで後片付けをしていて出遅れたオレは、冷静に推移を見守る。あいつはとばっちりが来ないように隅でじっとしているし、こいつは何かあったら自分も飛びかかろうとしている。でかい身体であたふたしている者までいる。あっ、こいつも前科があるので、正当な事由の判別が付かず、おろおろしているのか・・・。

よく見たら、隅でじっとしているのは、殺人で20数年間も服役していたKじゃないか。某を連れて来たボーカルのJも、確か殺人罪で服役した経験があるはずだ。この夜のロザは、なんて前科者の多い日なのだろう、みんな関わりになるのをためらっているはずである。

酔っ払いには連れが何人かいて、彼(彼女)らに諌められ、警官が来た時には、某に対して謝る素振りを見せていた。某もそれ以上揉めることを好まず、事態は終息するかに思えた。

警官に付き添われ静かに外へ出た酔っ払いは、間もなく権力の権化を小突いたらしい。アメリカという国は、警官が攻撃されると10倍にして返される。怒号と新たなサイレンに誘われ、オレたちは慌てて表に飛び出した。

そこには僅か数分の間に、7台のパトカーと1台の収容車が到着していた。10数メートル先で一塊の制服が輪になり、壁に押し付けた者を殴っている。収容車に乗せられてもなお暴れていた酔っ払いは、手錠を掛けられたまま引きずり出され、足枷を掛けるために転がされ、再び暴行を受けていた。何人もに押さえ付けられた彼の足を、女性警官が端から警棒で叩くのも見えた。ここぞとばかりに警棒を振り上げる彼女の顔は、自分一人ではどうしようもない鬱憤を吐き出すかのような、複雑に上気した表情だ。

警官の暴力を制止しようとしていた、酔っぱらいの関係者までが拘束されかねない勢いがあった。やがてぐったりとなって、担がれるように彼は車へ収容される。

7-8名いた警官の中で、冷静に酔っ払いの身体を拘束しようとしていた者が何人いただろう?二人の女性警官も含め、みんなが感情的になっていた。武器も何も持たない酔っ払いに、警官が小突かれただけで8台もパトカーが集結するなんて、弱い者苛めとしか考えられない。否、弱いのは明らかにあの警官たちだ。一人一人が弱いからこそ、数や暴力で押さえ付けようとしている。

背は高いが痩せていて、その上手錠を掛けられた者に対する暴力は、権力の乱用を越えて、個人感情の捌け口なのかも知れない。

思えばこの国自体が他国に対して同質の感情で対峙している。為政者が理由にする古びた言葉を信じなくとも、国民の総意として、攻撃された(される可能性まで含めて)ら何倍にもして返さないと腹の虫が納らない。権力はもとより、市民レベルで変わらないとこの国は変わらないし、この国が変わらないと世界も変わらないのだろう。

店では鬱陶しかった酔っ払いが、自業自得ではあっても哀れに思えた。オレの側にいた誰かが、「白人でも警官から暴行を受けるんだなぁ」と呟いた。気が付くと、普段は気の好い前科者たちの姿はなかった。


2004年3月6日(土曜)

ロザでのSOBのライブにカルロス・ジョンソンが遊びに来ていた。最近の彼は健康そうで、演奏も良い調子が持続している。会うなり「昼から飲んでいて、今日はとても酔っぱらっていまーっす」とご機嫌が麗しい。ABCの録音が始まった去年の夏頃は、酔うと過敏になり、ご機嫌が乱気流のようでとても気を遣ったが、今は気難しいところが見られず普通に付き合えるのが嬉しい。

最後のセットでビリーは、12時を過ぎて顔を見せたデトロイト・ジュニアと共にカルロスをステージに上げた。歳は取ったが、デトロイトは相変わらず芸達者だ。スローバラードからロックンロールまで、荒い唄だが古典的エンターティメントの王道を楽しませてくれた。

カルロスが唄う番になり、デトロイトのピアノを嫌った彼は、マイクに向かって「デトロイトの演奏とは違うタイプの曲を演るので、アリヨにピアノを弾いてもらいます」とオレを呼んだ。デトロイトに対して悪びれた様子もない。デトロイトも不機嫌にならず、さっさとステージを降りてくる。

ちゃんと住み分けられているということだろうが、カルロスの自分の楽曲に対する「我」は見習わなければと思う。オレなら、呼ばれて上がった段階で、ステージ上にいる人で出来ることをしようとして、自分の音を殺してしまうことだろう。自分の音を大切にするということは、如何に音楽を大切に扱うかであって、時や場所に関係がない。遠慮していると、音に対する感性が虚ろになることさえあるのだ。

カルロスはやはり素晴らしかった。スタジオ録音ではあんなに苦労したのに、一発物のライブは魅せてくれる。押し殺した内省的な声が張り詰めるとダイナミックさが増し、切なさを引きずるギターの音色にビリーのハープが絡み出す。二人の後ろ姿だけでも絵になっていた。改めてABCプロジェクトに携れたことを誇りに思う。BCがその気になれば、ブルースの枠を越え、大人のアイドルとして女性客が増えるに違いない。しかし各々のバンドを持つ身では、そのユニットをレギュラーにすることは難しい。気が付けば、彼らのバックは木曜ジャムのホスト(P:オレ、B:江口、D:トニー)バンドになっていた。

「えへへへ・・・大分と酔ってます」とマイクに向かっていたカルロスに終演後、「そんなには酔ってないでしょ、酔っててあんなに凄い演奏ができるはずないもの」と言うと、彼は嬉しそうに笑うだけだった。

誰かの世界に入り込んで演奏するのは気持ちの良いものだ。そんなときにこそ、自分が開拓されるような気がする。


2004年3月8日(月曜)

その黒人のオッサンは、でっぷり太った腹を重たそうに持ち上げて、カウンターのスツールにようやく腰掛けた。ドラムのモーズは露骨に嫌な顔をオレに向け、人の好い丸山さんまでが下を向いてしまった。

一年ほど前からブルースクラブ界隈で見かけるが、どのバンドも敬遠するほど、唄とギターに「ド」が五つほど付いた素人さんなのに、いつも一番前に陣取り「オレの出番はいつだ」のデモンストレーションをおこなっている。オッサンの示威行動は、ステージ脇で突っ立って演者をじっと見つめることから始まり、ギターを持って来ている時は、ケースから取り出して準備万端を示し訴える。ギターは大抵生ギターで、バンドの演奏に合わせて客席で弾いていることもある。音が聴こえるはずもなく、オッサンの演奏に3度付き合った経験から、実際には弾いていると思えない。3度と言っても各々違うユニットの仕事で、同じバンドがオッサンを再び上げることはない。バン
ド連中には、オッサンの存在が既にデモンストレーションである。

ある日キングストン・マインズ横の交差点の角で演奏しているオッサンを見た。ヒモをくくりつけた生ギターを抱え、おちょぼ口で何やら唄っている。いつもは終わり頃まで粘っているのだが、途中で抜け出し外で自由行動をしている。側に行ってみたかったが、泰然自若に見えてもギターの調律はめちゃくちゃで、音痴極まりないオッサンとお近付きになるのが恐かったから我慢した。

間もなく足下のおぼつかない酔っ払いが立ち止まり、オッサンの演奏に耳を傾け始めた。すぐに立ち去るかと思ったが、彼はふらつく身体を懸命に支え聴いていた。最終セットを終え外に出ると、ギターを背中に回したオッサンが、反対側の角からこちらを窺っている。元いた場所を見遣ると、先ほどの酔っ払いが同じ位置にへたり込んでいた。酔いが回り立っていられなくなったのか、オッサンのパフォーマンスにやられたのかは分からない。オッサンが場所を変え次の獲物を狙っていたのは明らかだが、悲しいことにマインズ客のすべては、店の前に並んだタクシーで帰って行ったし、明け方前の時間に近辺をうろつく酔っ払いもいなかった。

白人街のブルースクラブで見る黒人は、その態度が大きければ大きいほど、一般客からはブルースマンに見えるらしい。オッサンはいつもスーツを着ていて、よく見ない限り貧相さは分からないが、アーティスの欠点の一つである食料品店のような明るさの中では、オッサンの異様さは目立ってしまう。かといって客として好まれないような振る舞いをするかといえばそうではなく、注文も適度にしているようだし、支払いで揉めた話は聞かない。横の客に話し掛けたりしても、極端に嫌がられている風ではないし、おちょぼ口を突き出してじっと静かにしていることも多い。

ところがステージへの執着はすさまじく、上がったらマイクを離さないので、ミュージシャンにとっては嫌がられるタイプなのだ。ましてやあの唄とギターをひとたび聴けば、クラブがバンドにクレームをつけるはずだ。

今日はどうやって調達したのか分からないが、高級エレキギターを持って来ている。プロ用の楽器を持っていれば、そんなには邪険にされないだろうという読みがあったかも知れないし、オレはミュージシャンだから、この程度の楽器は普段から持ち歩いているよといった態度なのに、今日一日だけ質屋から借り出しましたという様にしか見えないのが微笑ましい。

つるっ禿げの人が不似合いなカツラを突然付けて現われ、本人だけが別人に成り済ましたつもりの変装の如く、オッサンを経験した者に残す強烈な印象が薄れるわけもなく、ビリーや司会担当のモーズに無視され続けていると、せっかくケースから出してぶら下げていたギブソンのレスポールを仕舞い、終わりを待たずに席を立ってしまった。

オレはオッサンの諦めの良さにホッとしながらも、どこかで誰かが間違いを起こしてくれないかと期待していたことに気付き、とぼとぼと家路に着く丸い身体を窓越しに見送っていた。


2004年3月9日(火曜)

トニーから電話。ロザのHP(rosaslounge.com)の今月のスケジュールに、ライターの David Whiteis による紹介をリンクしたので見ろと連絡があった。過分な評価に面映い反面、現在所属しているSOBに関する記述が皆無なのでびくびくしている。

久しぶりに覗いた写真館(HP内 "The Best Rosa's Lounge" )では、ロザゆかりのオレや江口、モトさんがほとんど写っていないのに、P-VINEのC嬢が単独で登場していて羨ましかった。


2004年3月10日(水曜日)

大型スーパー Jewel(2001年12月18日参照)で買物。

こちらのスーパーは店員が買物袋に商品を入れてくれる。法律で企業は建前上、各人種や障害者を、その地域の人口に見合った一定の割合で受け入れねばならない。オレの並んだ列で、レジ係の流した商品を袋に仕分けしていたのは、健常者でアフリカ系の男性だった。

軽く礼を言いながらオレに袋を手渡したその男性は、直ぐさま振り向いて次の作業に取りかかっている。手が塞がりぐずぐずとおつりをポケットに仕舞う間、その場に立ち止まっていたオレの目の前で、彼は大きなくしゃみをした。

生理的なことだし、反射的にそうなったのは仕方がない。次の買物客の商品を入れた袋を広げ、顔をその中に向けくしゃみをしてしまった。客がその瞬間を見たかは分からない、多分見ていなかったのだろう。仕分け係りは何事もなかったかのように、彼のくしゃみを受け止めた買物袋に次々と商品を入れていった。


2004年3月19日(金曜日)

ビリー&カルロスのアルバムが、本日日本の店頭に並ぶ。

一週間だけ帰宅していた奥様が一昨日帰国されたので、また不規則な一人暮らしに逆戻りするのでしょう。昨日は夜がロザだったので昼間は寝ていようと思ったら11時半に電話。Mighty Joe Young Jr. がこの土曜日にコンサートを開く、そのリハーサルのお誘い。12時から始まるのに30分前に叩き起こされ、1時間遅刻する。最近のR&Bはスローなゴスペルっぽい曲が多く、ちゃんと採譜をしておかないとコード感を損なってしまう。

帰宅する途中でマックンに寄ってチキンサンドをゲット。食べて少し寝ようと思ったら、オーティス・ラッシュの奥様から電話。久しぶりだったのでしばし歓談、で、寝ようと思ったらビリーから電話。新宿タワーレコードの、「ビリカルCD販売促進パネル」の風景を撮った写真が日本から送られてきたので、彼に転送したら直ぐに掛けてきて、営業企画を散々聞かされる。で、即寝ようと思ったら私的メイルアドレスにウイルスらしきメールが。旅行社のNに電話して解決。で、ホントに寝ないとと思って時計を見たら、そろそろ用意をして出かける時間。

行き掛けの夕食に九龍のラーメンにするかどうか迷ったが、ウェンディズのチキンナゲット+芋フライ+コーラに決定。

$3ちょっとの支払いに1ドル札3枚と小銭で綺麗にすると1ドル札がなくなり、クラブでミュージシャン用無料コーラに対するチップがなくなるので、5ドル札と小銭で精算する。応対していた店長らしき兄ちゃんが、釣りの1ドル札2枚と持ち合わせの3枚、計5枚の1ドル札をポケットに仕舞おうとするオレに、「今晩はレジに1ドル札が少ないので、5ドル札と交換してくれませんか」とお願いするので、チップ用に細かいのを持っていたかったが、気前よく交換してあげたら、ささっと動いてチキンナゲットを2ヶ足してくれたので、ちょっぴり幸せになる。

ロザではピアニストがオレを入れて6人も来ていたので、さらにちょっぴり幸せになった。


2004年3月20日(土曜)

休みの昨日、飛び込みで入った仕事を断わってまで採譜したのはなんだったのだろう?ややこしいR&B曲をベースがとちりまくる。おいしいところでギターがコードをしっかり採っていない。オレも時々キレテ、ストリングス音でシンプルに当てたりしていた。でも、普段演らない曲が多かったので楽しめたけど。

チラシには AMERICAN LEGIONS HALL(米国在郷軍人会館) と記されていたから、ホールで演るなら、規模は分からないがコンサートに違いない。チケットも前売り$15、当日$20 なので、これはますますコンサートに違いない。女性コーラス二人を加え総勢7名なので、聞かされたギャラを考えると、それは小コンサートに違いない。

現場に着いたら、紛うことなき「昼も危ないウエストサイド」(PIANO BLUE "Windy City"より )やないの!

そこにはホールらしきものはなく、目指す番地の汚い建物のドアにはカギが掛かっていた。「用があるならココ押せ」って感じのベルが薄暗く光っていて、押してみると、ドアのカギを遠隔で外すジーッという音が鳴った。このシステムを採用している営業店鋪地域で、「ややこしくない」ところをオレは知らない。現に機材を運び込もうとしていると、「ややこしそうな」おばさんが、アタシに手伝わせてと寄ってきた。笑いながら、一人で運べるから大丈夫と言っても、オレにぴったりくっ付いて店内に入ってくる。早速店の人に咎められたが、あの人のツレだからとこちらを指差す。ハイその通りでございますと、よっぽど言ってやりたかった。

中はまぁホール(会館)と呼べないこともない広さだったが、バーカウンターやテーブルにブース席のある、ありふれたクラブにしか見えない。壁に掲げられた陸軍や空軍などの軍旗、アフリカ系軍人の遺影が場違いに見えてしまう。

しかしそこには都会とは思えないゆったりとした時間が流れていた。9時から始まったオレたちのコンサートは、1セットを終えても10時過ぎ。最終の2セット目までの1時間半を、所在な気というよりは、止まっていると思えるのんびりさで待つ人が多い。オレも釣られて、まるで休日に空を眺めているような穏やかな目で高い天井を見遣り、長い休憩時間をボーッと過ごしていた。

ウエストサイドでは、延べ8年のシカゴ生活で初めての演奏となる。営業に汲々とする白人街の著名なクラブとは違い、サウスサイドの小金を持った不安定な落ち着きでもなく、地価も激安で生活水準の画期的向上を殊更目指しているとは思えない、諦観とも受け取れる店や客ののんびりさが時を止めている。そこには頭で想像するだけの、南部のジュークジョイントがあった。

「ややこしい」ところにもかかわらず、搬出のときは、外をうろつく娼婦や薬中のおばさんたちの誰からも声を掛けられなかった。


2004年3月21日(日曜)

大型日本食料品店「ミツワ」の創業祭の懸賞に当選していたので、少し面映い気持ちで賞品を受け取ってきた。

宝くじは買わないが、簡単な手続きなら、賞品によっては当然の如く応募する。但し中学生のときに、吉田神社節分祭福引き抽選会で1L醤油を当てたきり、運に恵まれた記憶はない。

今回はJAL日本往復ファーストクラス飛行券を始め、アテネ旅行券、ハワイ旅行券、$3.600、$300のミツワ商品券、大型プラズマTVや家電製品などが目玉となり、各種日用(食)品まで含めると、確率が高そうで何となく当たる気がしていた。

普段はむき出しのチラシが送られてくるのに、その日の郵便受けには「ミツワ」名の封筒が入っていた。当選通知だと確信はしていたが、そうであれば当選者の中にも運不運があるので(2004年2月25日参照)、旅行券や商品券でなければ別に欲しいものでもなし、当たった気がしないに違いない。

果たして、便箋の最上部の、オレの名と住所の印刷された下に "CONGRATULATION" の文字が見える。ゆっくりと眼(まなこ)が下へ降りていき、目指す太文字に焦点が合うと止まった。"HITOMEBORE"。 ヒ、ト、メ、ボ、レ。ひとめぼれ!?

ううう・・・米10kg、$15相当。微妙ともいえない儚(はかな)い運ではある。


2004年3月23日(火曜)

あるお方にお寿司をたらふくごちそうになった。テーブルにまだまだ残る「シェフにお任せ握り」の山もお持ち帰りさせて頂く。

ウチに帰り再びテーブルに「楽しみ」を広げると、大嫌いなものが入っていてげんなりした。好き嫌いが多いと言って周りから叱られるが、子供の頃厳しく育てられた反動で、好きなモノだけを自由に欲する傾向が強いだけである。なに、今は大人であるから、「喰え」といわれて喰えないものはない。たとえ不味くても残すのは嫌なので、仕方なく「楽しみ」を「苦しみ」に変えた。

折り詰めに入っていたワシの大嫌いな寿司ネタ。ウニ、イクラ。


2004年3月25日(木曜)

嫌な起き方をした。夢の中で息苦しくなり、目が覚めたら身体がざわついていて落ち着かない。昨夜リビングのカウチでうたた寝をしたあと頭痛が酷く、鎮痛剤を飲んだせいかも知れない。カーテンを引きブラインドを開けると外は既に薄暗く、部屋の電気を点けて漸く落ち着いた。シャワーを浴びても眼の奥に残る痺れに似た眠気は取れない。

出勤まではまだ充分時間があったので、天ザル用の天婦羅を近所の韓国人経営のグロッサリーストアーで調達しようと思った。そこは各種天婦羅や韓国の惣菜などが豊富で、一人者には便利なところだ。

駐車場に通じるドアを開けると生暖かい風が吹き込んでくる。抜けた歯の後を舌で触るような嫌な気持ちになった。僅か2週間前にはマイナス15℃の中にいた。シカゴではなく、ミシガン州の北方にある、トラバース・シティという観光地にオレたちはいた。

伴侶であるYの実家の事情で、彼女が帰国して3ヶ月以上になる。Yの一時帰宅が一週間ではあっても、久し振りの水入らずにシカゴを離れたいと思い、週末の仕事をキャンセルして、2泊三日の小旅行に出たのが2週間前だった。去年の夏に二人で訪れた、ミシガン湖東岸のルディントンという港町(2003年7月16日参照)よりは遠くへ行きたかった。トラバース・シティは、ルディントンより車で北へ2時間ほど走ったところに在り、かつてビリーたちと演奏に行ったことがある。

グランド・トラバース湾の付け根に位置する、風光明美なこのリゾート地は、東側にスリーピング・ベア砂丘と呼ばれる国立公園の海岸が続き、釣りやウインタースポーツ、キャンプなど、一年を通じて賑わっている。

北へ上がるほど沿道の残雪も鮮明になり、雪原を疾走するスノーモービルも増えてきた。ミシガン湖に沈みゆく大きな夕陽を左手に臨み、州道を横断しようとする大鹿の家族の前で徐行すると、日本では味わい得ない、大陸北方の自然の一端に触れている実感があった。カナダ国境は目の前である。

町に着くと東部時間で既に8時を回っていた。車内のフロントパネルに表示された外気温は、マイナス10℃を下回っている。シカゴを出る時は氷点に達してはいなかった。

2泊するので、眠るだけの初日はエコノミーのモーテルと決めていた。町外れの半島周遊道路沿いに、安そうなモーテルを見付け即決する。部屋は狭かったが、内装は屋根裏風に新調したばかりと見え、民芸調の家具やベッドカバー、クッション、ピローなどが可愛かった。ケーブルテレビの天気専門局を観ると、結局その夜の気温はマイナス16℃にまで下がっていた。 

運転で疲れて早く床に就いたため、翌朝は普段の生活サイクルとは正反対の朝8時に目が覚めた。外へ出ると、湾越しの朝陽に照らされ、道の雪が、砕けたガラスを撒き散らしたようにキラキラと輝いている。しゃがんでよく見てみると、輝きは雪上にある車のタイヤ痕の小さな山で、その一つ一つが扇形に結晶していた。シカゴではもう何十日も前に雪は解けていて、しかも暖かく、厳冬のこの地に佇むと時が過去へ遡ったような錯覚に陥る。

ダンキンドーナッツでゆっくりと朝食を採り、目星を付けていたリゾートホテルに問い合わせてみた。AAA(日本のJAF)の会員割り引きを利用すると、トラバース湾が臨めるジャグジー付きの部屋が予算内で利用できるらしい。チェックインの時間を訊ねると、空いているので今からでも構わないと言われ驚いた。まだ午前10時でチェックアウトの時間にもなっていない。時には、アメリカ人の鷹揚なところがありがたい。

瀟洒な部屋で暫く寛いだあと、半島周遊に出掛ける。通年がシーズンとはいっても、雪解け間近で中途半端な時期なのか、週末なのに出会う車は少ない。積雪のためか、眺望の良さそうな Scenic Drive と呼ばれる観光道路は閉鎖されていた。

若いこの国で歴史的建造物といわれるものを観ても、ブルースの歴史(的遺物)に触れるほどの感動はない。人気(ひとけ)のない朽ちた20世紀初頭の沿岸警備所は、北端の暗い湖(うみ)に溶けてどこか物悲しかった。今や他所の国内にまで自国の警備所を設けていることを考えると、今昔の感があるというよりは、この国は大きくなり過ぎたと思うだけだった。

ミシガンからの風で、さほど雪の積もっていない、数十メートルの急勾配の砂丘を登るのには時間が掛かった。下から見上げた頂上と思(おぼ)しき所まで辿り着くと、平になった砂丘が広がるだけで、湖どころか、砂と潅木や草しか見えない。数少ない足跡のずっと先には、さらに小高い丘があり、人が二人立っている。どうやらそこからの景色は期待できるらしい。足を取られながらもここまで登ってきたので、前に進まない訳にはいかなかった。

10分ほど歩くと戻って来た男性二人とすれ違う。笑顔で挨拶をしながら眺望を訊ねると、湖が綺麗だとヨーロッパ訛の英語で教えてくれた。漸く彼らの立っていた場所に着くと、目の前には再び砂丘が続いている。また騙されたという徒労感で、膝の力が抜けそうになってしまった。先は低くなっているので、遠くに湖は見ることができたが、もう先に進むことは考えなかった。

自分たちの足跡を道標としてとぼとぼ戻る途中、Yが突然「宇宙にいるみたい」と呟いた。理由を聞くと、音が何も無いからだと言う。オレとはまったく異なる彼女の感性には、時折モノの見方や考え方を啓発される。確かに実生活では常に音に囲まれている。車の音であったり、テレビや音楽、人のあらゆる生活音から、風などの自然の音まで、耳を澄ませばなんらかの音は聞こえている。

二人が立っている擂り鉢の底のような砂丘に、その時音は無かった。雪を避けた砂地を選んでゆっくり歩いているため、足音でさえ遠い。オレにとってはまったくの無音ではなかったが、音のない世界を「宇宙」になぞらえたYの感性が嬉しかった。

駐車場に戻ると、登る時には気付かなかった小さな看板に目が止まった。豹のような絵が記されている。

[Courgars]
「公園内はクーガー(アメリカライオン)の生息地です。出会うことは稀ですが、見掛けても決して近寄らず、もしも向こうが近寄ってきたら物を投付けてください」

野性動物に遭遇したときの一般的な心得や注意書きの後、次の表現に興味を惹かれた。

「(服や手を広げ自分を大きく見せても、クーガーがこちらを襲う素振りをみせたら)より積極的に相手を威嚇し、簡単に喰われる餌ではないことを悟らせ、それでも襲ってきたら反撃してください」

異国ではあっても、生活の場にしている都会から遥か離れた「宇宙」で、獣に襲われることを想像しても現実感はない。ただ大自然の中に、二人が旅をしている感慨だけがあった。

Yが帰国して一週間しか経っていないのに、あの時を想えば、追憶のような遠い過去になってしまっている。それは季節を切り抜き、互いの現実を逃避した、一時の夢に楽しもうとしたためだったからかも知れない。

今日のシカゴは暖かい雨で、気温も15℃はありそうだった。グロッサリーでは大盛りのエビと野菜の天婦羅(二つで$10)を買う。天ザルはそれなりに美味しかったが、最後は義務的に食べていたような気がする。結局、中途半端な量を残して仕事に出掛けた。


2004年3月26日(金曜)

いやー、知らんこととはいえ、残念なことをした。火曜日ごちそうになったお寿司屋さんはキングストン・マインズの直ぐ近所で、お開きのあと寄ろうかと思い、車はマインズの向いに停めていた。ところが宴会が盛り上がり、お寿司屋さんを出たのは閉店をはるかに過ぎた12時半だったので、そのまま家に帰ってしまった。

あの日のあの時間、マインズにはニコラス・ケイジがおったらしい。芸能人慣れしているマインズも、さすがにざわついていたらしい。そしてニコラスはやっぱり禿げていたが、とてもカッコよかったらしい。


2004年3月27日(土曜)

世の中何か落ち着かない。否、世間がというよりは、オレの周りが落ち着かないのだ。

いつものように楽しかった、ロザでのビリー・ボーイ・アーノルドとのライブ終演後、久しぶりに会ったシュガー・ブルーの奥さんのミッシェルは、スイスに住んでいる彼を追って、家族ごとヨーロッパへ移住する予定をオレに伝えた。既に親しいミュージシャンの何人かからも、本国や他国、他州への移住計画を知らされている。今年が初めてとなるビザの更新や、ビリーやバンド、自分のやりたい演奏とかを考えると、オレもいつまでシカゴにいられるのだろうかと不安になり落ち着かない。

ミッシェルが友達を伴い店を出て間もなく、表で大きな音がした。慌てて飛び出すと、彼女の友達の大型ピックアップ・トラックが道の真ん中に停まっていて、ミッシェルを含め数人が車の後部付近で立ちすくんでいる。辺にはバンパーやプラスティックの破片が散乱し、一目で事故と判った。それにしては相手の車が見当たらない。運良く目撃していたドアマンのガスが、警察へ通報していたのを盗み聞くと、普通乗用車が後ろから追突してそのまま逃げたらしい。ナンバーは分かっているので必ず捕まるだろう。

トラックを見ると、左側後部バンパーがかなり凹んでいるものの、誰も怪我をしている様子はなかった。それにしては落ちている部品・破片があまりにも多いので、狭い道の両側に駐車している車も二次被害にあったか(2003年11月3日参照)と見回すと、トラックの真横に停められた乗用車の前部にバンパーが付いていない。セキュリティのDJに「あれもやられている」と可哀相な青色の被害車を指差すと、「あっ、ジェームスの車・・・」と彼は言って店に飛び込んでいった。のんびり顔で店を出て来たギターのジェームス・ホイラーに慰めを述べようとすると、彼は「ああ、おれのぁ最初から付いてねぇんだ」と笑った。

数分して青色灯を景気よく回しながらすっ飛んで来たパトカーから降りたのは、あの愛想のよい暴力警官たちだった(2004年3月4日参照)。

オレの周りは相変わらず落ち着かない。


2004年3月29日(月曜)

ワシの嫌いな飲み物:
酒(アルコール類)、ダイエットコーラ(人口甘味料)、ドクターペッパー

夜の七時半に起きるのが辛かった今日、大急ぎで仕度をしてマックンで$1のマックチキンとコーラを、ドライブスルー越しに受け取りアーティスへ。運転に注意しながらチキンサンドをちびちび頬張りコーラに手を伸ばす。んっ!?ぎゃっ、ドクターペッパーやんけ!ぐぅーっ、もう戻って文句をいう暇はない。

高速に乗り入れ口腔が詰まり始めたので、仕方なしにドッペパをちょろちょろと口に流すが、腹が立ってしょうがない。口を拭おうと、前を気にしながら顔へマックン紙ナプキンを近付けて右目に激痛が走った。車内が暗く気が付かなかったが、マックンナプキンの角が紙飛行機の先端の様に折れていて、それが目玉を直撃したのだ。ここ10年で一番痛かった。その前の10年は思い出せないので、多分大人になってから一番目玉に打撃を与えられたのではなかろうか。

小学校2年の時遭遇した、近所の神社でチャンバラごっこをしていたのであろう同年代の子供の一人が、プラスチックの刀を手に、目から流れる白い液を垂れ流しながら、喚き走り去った光景が思い出される。あの子の痛みに比べれば・・・。

ワシの嫌いな飲み物:
酒(アルコール類)、ダイエットコーラ(人口甘味料)、ドクターペッパー!!