Jody Williams 2

(2001年2月18日記)


"41st Annual University Of Chicago Folk Festival"(注1)。シカゴ大学で行われたフェスティバルです。41stと言うことは、今年で41年目になるわけです。由緒のある催しなのでしょうが、ぼくには全く馴染みのないフェスティバルです。確か、ポール・バターフィールドやマイク・ブルームフィールドらが在籍していたのがこの学校だったと思います(注2)。それから、随分昔この学校で製造された原爆が日本に落とされたとか(注3)。もしも、ぼくがバンドの連中に誘われなかったなら、まずここには来る事もなかったでしょう。夕べも、うちのドラマーとベースプレイヤーが、このフェスに出演していたお陰で、肝心のぼくのライブに30分も遅れてやって来ました。

出演者専用通路のドアを明けて階段を降りると、いろいろなタイプのミュージシャンがあちこちで談笑しているところでした。スコットランドの衣装にバッグパイプ。スコッチの衣装は2000ドル以上もすると言う高価なものだそうです。黒と緑と金の刺繍で、とても鮮やかな色使いのアイルランドの民族衣装を着て出番を待ってる12歳位の女の子は、タップダンスとコーラスを担当するそうです。バイオリン奏者とマンドリン奏者は、チューニングを合わすのに余念がありません。
そんな雰囲気の中をすり抜けて大きな舞台裏に抜け出すとジョディー・ウィリアムスさんが、63年のフェンダー・スーパーリバーブに腰かけてギターのチューニングをしている最中でした。演奏時間にはまだ40分以上有ると言うのに、もうアンプのスリッチがオンになっています。この辺はさすがです。チューブアンプを良く知っているプレイヤーは、アンプのウォームアップにも時間をかけます。アンプのスタンバイと電源を入れっぱなしにし、ボリュームをゼロにして演奏する時だけボリュームを上げる。要するに一晩中繋ぎっぱなしにしている訳です。以前、ぼくが演奏後にアンプのスタンバイと電源のスイッチをほぼ同時に切るとそのアンプの持ち主に「スタンバイのスイッチを切ってから、すぐに電源のスイッチを切るとヒューズが飛ぶ事もあるし、アンプを痛めるから気を付けてくれ」と窘められた事がありました(笑)。

お元気でしたか?」とジョディーさんにいつもの調子で声を掛けると「お前?名前何て言ったかな?何処かで会ったよな?何時だったかな?」と青味がかった眼をぼくに向けながらやさしい声が帰って来ました。少し残念な気もしましたが、あれこれ言っているとようやくぼくの事も思い出してくれたようです(笑)。なんと言ってもジョディーさんは、ぼくのオヤジ以上の年齢で実際ぼくと同じ年の息子さんがいる位です。

「お前は、ハモニカを吹くんだったな?俺も最初に始めたのがハモニカだった」
「やっぱり、ブルースの影響ですか?」
「イヤ、俺は、ハモニキャッツ(注4)に憧れたんだ」
「それがどうしてギターに?」
「俺は、ギターもベースもドラムもやるんだ、しかし、ギターが一番さ。(笑)お前は、このギターの事を知っているか?これは、ギブソン345ステレオと言って、今じゃ5000ドルは下らないだろうよ(笑)」 
「高価な代物ですね。ハモニカが500個も買えます(笑)。」
「女房と娘が俺の誕生日...、あれは1962年の2月3日に俺にプレゼントしてくれたんだ。それ以来大事にしているんだ」
「そうしたら今日は2月3日だから、ジョディーさんの誕生日ですよね?」
「そうだ。今夜は、俺の家族もここへ観にきているさ」
「他には、どんなギターをお持ちなんですか?」
「今までに、俺は5本位ギターを持っていたが、今はこの345の他には黒の347だけだ、347は、俺の息子がプレゼントしてくれたんだ。カスタムメードなんだぜ!見た目にはよく似ているから、お前には違いが判らないと思うがね(笑)」
「ところで、いま腰掛けてるアンプはハウリン・ウルフのバンド時代からお使いのアンプですか?」
「イヤ、これはビリー・フリンのじゃなかったかな?俺は61年のフェンダーのコンサート・アンプを持っている。ブラウン色でスピーカーが4つ有るやつだ。今じゃ洋服ダンスに入れっぱなしさ。なぜって?コンサート・アンプにはリバーブが付いていないからな」

この後、話はいろいろな方向に行きました。それで特に面白いと思ったのは、ジョディーさんが軍隊にいた時分の話です。当時ヨーロッパに駐留していたジョディーさんは、軍人仲間の間でもギターの名手として知られていました。週末になると軍人クラブで演奏していたジョディーさんは、向こうからやって来たエルビス・プレスリーに声を掛けられたそうです。何でもプレスリーは、ニューヨークのアポロ・シアターで行われたジョディーさんの演奏を観客として観に行っていたそうです。しかし、プレスリーが、それでジョディーさんを覚えていたといいますから、当時としては大変な事だったでしょうね(笑)。
またハウリンウルフと演奏活動をしている頃の、彼らの女性関係に関するエピソードでは大笑いさせて貰いました(笑)。さすがプロ中のプロ。女性の扱いも一流です。例えば、1ヶ月の間に○人○×したとか...(笑)。
そんな遊び人的な一面もあったジョディーさんも、34歳の時に当時18歳だった現在の奥さんと結婚し、今ではお孫さんまでいるそうです。

開演は8:45PM。会場は一階席、二階席とも満員です。恐らく1000人位の観客に埋め尽くされていたと思います。なかなか品のあるシアターでした。1920年代に建てられたと言う事です。
バンドメンバーは、ジョディー・ウィリアムスさんが歌とリードギター。セカンド・ギターにビリー・フリンさん。ウィスコンシン在住で、以前はレジェンドリー・ブルース・バンドやミシシッピー・ヒート、オーティス・ラッシュさんなどのバンドで活躍していました。現在は自己のバンドと平行してキム・ウィルソンやビル・ラプキンなどのハモニカ・ブルースバンドからも引っ張りダコのギター・プレイヤーです。ドラムスには、スティーブ・クッシンさん。この人も叩けばいろいろ出て来る人です(笑)、この間も話していると「そうだ。80年だか81年にライトニン・ホプキンスとメキシコシティにツアーに行ったなぁ」なんて平気な顔で言うのですから...。このメキシコ・ツアーにも、色々なエピソードもがあるのですが、ここでは止めて置きます。彼は、今夜もフェスの演奏終了後、スモーク・ダディと言う店で、10PMからウィリー・スミスと演奏が有り、掛け持ちと言う事です。多分また遅刻でしょうね(笑)。それから、ウッド・ベースに江口ヒロシさん。彼はバンドの中では最年少で30歳になったばかりです。ローザスではハウス・ベース・プレイヤーを務め、ウッド、エレキベースの両刀使いです。演奏前に舞台裏で、ジョディーさんに「お前、昨日は良かったよ。だけど今夜はどうかな?」なんて脅かされていました(笑)。江口さんもスティーブ同様、今夜も掛け持ちだそうです。10:30PMからキングストン・マインズでシュガー・ブルー・バンドでの演奏予定が入っているとの事です。

さて、ジョディー・ウィリアムス・バンドは、今夜で2日目とあってみんなリラックスし、いいムードで始まりました。1曲目は、インストで彼の代表曲でもある「ラッキー・ルー」で始まり「タイム・フォー・ア・チェンジ」「ルック・フォー・マイ・ベイビー」それから、ぼくの好きな「ワッカインド・ギャル」や「ハイド・アウト」「ストーミー・マンデー」などが続きます。

演奏が始まる直前に、ジョディーさんは「もう、長い間ブルース・クラブには顔を出していないから、どんな連中がプレイしているのかも知らないんだ。しかし、これからは娘でも連れて見に行こうと思っている。ところで、カバー・チャージはいくら位なんだ?」と訊かれました。ぼくは「ジョディーさんならどこへ行っても心配ないですよ(笑)。」と言っておきました。新世紀でのジョディーさんの活躍に期待したいものです。


江戸川スリムのお節介注釈

(注1) 41st Annual University Of Chicago Folk Festival

こちらのページを参照。Jodyの略歴もリンクしている。シカゴ大学フォーク・フェスティヴァルは、毎年ブルース・マンを出演させており、数々の大物ブルース・マンがステージに立っている。

(注2) シカゴ大学出身のブルース・マン

マイク・ブルームフィールドは、シカゴ大学出身ではなかったと思うが、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドのオリジナル・メンバーであるポール・バターフィールドとエルヴィン・ビショップはシカゴ大学の学生であった。
何と言っても、サウスサイドのド真ん中という恵まれたロケーションにあり、彼らは身近にブルースを感じていたのであろう。
1980年代以降は、シカゴ大学のラジオ局が毎週日曜日の深夜に「The Evil Show」というブルース専門番組を流していた。戦前のブルースからコンテンポラリーなブルース(やソウル)まで幅広く紹介していたこの番組は、学生のみならず近隣の住民(黒人)にも人気があった。彼らからのリクエストによって、チトリン・サーキットで人気のある曲を学生達が知ることが出来たという。非常に興味深い逸話ではないだろうか!
 ちなみに、この番組のDJの一人が、デイブ・ウォールドマン(Jody WilliamsPaul Oscherの項参照)であった。そしてその「門下生」がロッキン・ジョニー、マーティン・ラング、そしてケン・カワシマなどである。


Ken Kawashima, Rockin' Johnny, Taildragger and Slim

(注3) シカゴ大学で原爆を製造

ナチス・ドイツによる原爆製造を危惧したイギリス・アメリカは、ナチスによってドイツを追われたユダヤ系原子物理学者などを中心に核研究を進めた。1942年にそのプロジェクトの中心となるべく「冶金研究所」をシカゴ大学内に開設。プルトニウム研究と実験用原子炉建設に着手した。これは、後に原爆製造を主眼とした「マンハッタン計画」へと発展していくことになる。
1942年12月2日、実験用小型原子炉でウランの核分裂の持続的な連鎖反応に成功。その後、1945年7月16日に初の原子爆弾実験が成功することになる。
しかし、「冶金研究所」のメンバー67人は、日本への原爆使用に反対する請願書を提出。あくまでも「抑止力」として原爆を「使用」するように強く訴えた。
で、私は何でこんなこと書いてるの?

(注4) HARMONICATS

戦前から活躍するハモニカ・グループ。こちらのページを参照。


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