2009年1月1日(木曜日) あけおめぇ ことよろぉ 昨日のローザス・ラウンジでのSOB大晦日ライブは、やっぱり司会のボブ(2006年1月1日参照)が予行演習を客に押し付け、その挙げ句新年を2分も過ぎてからカウントダウンを始めた。そして「蛍の光」のメロディをちゃんと弾いたのはオレだけで・・・おいおい、せめて間違えた音を出さずに、大人しくしていなさい。君たちは、大人の真似を何でもやりたがる4歳児か! 2009年1月3日(土曜日) 新年早々、キングストン・マインズでのSOB週末二日間。斜向いの「ブルース」では、ビックリする程太ったカルロス・ジョンソンが演っていたが、何か最近休憩中にはひとりで静かに本でも読んでいたい気分で、その読むべき本を忘れてひとり辺りをぶらつく。 近所の「ギリシャ」風ファスト・フードの店はBBQを売り物にする店に変わっていたが、従業員は同じメキシカンだった。「新しくBBQを始めました」ではなく、店名を変えメニューを変えているので、きっと経営者も変わったのだろう。それでも内装は色を塗り替えた程度の居抜きで、ファスト・フードの基本メニュー(ハンバーガー、ホットドック)は依然として残り、値段だけは高くなっている。営業時間は前と同じで遅くまで開けているため、酔っぱらい客のみならず、タクシー運転手や警官、オレたちなどの深夜労働者にとって便利なのは変わりない。 そこでホット・ドックとスパイシーな黄色い粉のかかったフライド・ポテトを食べていると、テイク・アウトして出て行ったアフリカ人のタクシー運転手が、路地の車止めの手前に停めたタクシーの前部を見て、飛び跳ねては屈(かが)み、そして地団駄を踏み始めた。何事かと見ると、右側前輪のタイヤの形がおかしい。パンクしているのだろう。さっそくスペアーに交換するかと思いきや、直前の行動とは裏腹に、彼は運転席に座り悠然と食事を始めた。そりゃそうだ。たった今出来上がったばかりの暖かい物を放っておいて、手を汚すことはない。何かを頬張りながらどこかへ携帯で連絡していたが、慌てている様子はなかった。 せっかちなオレなど、仕事中にパンクなど不幸ごとが起これば気は動転し、ご飯どころではないのだが、さすがに雄大なアフリカ大陸の人は育ちが違う。自分のペースでのんびりと、ん!?おいおい、それホントにパンクか? 間もなくやって来た事情を知らぬ二人の若者が、いきなり後部座席に乗り込んだ。すぐさま追い出された彼らは、前輪を見つめて大笑いしている。タイヤはパンクではなく、ボルトでも抜けたのか脱輪しているようだった。気付いた道行く人々も不思議そうに眺めている。 しかし運転手は、車輪の外れるようなぐらぐら状態が分からなかったのだろうか。そして、のんきに店へ立ち寄るのか。 半分以上残したコーラをゴミ箱へ投げ捨て表へ出ると、露骨にならない程度にタクシーを観察した。店内からは外が暗くて判然としなかったが、車輪のボルトはすべて揃っている。では何故に車体が傾くほど、タイヤは「ノ」の字に外側へはみ出しているのか?しゃがんで見た。うっ、車軸が折れている。 車内からは微かにビートものの音が漏れ、ドライバーの頭が揺れるのが見えた。アフリカの「時」はゆったりと流れる。 2009年1月6日(火曜日) 昔の日本のカフェ・バーを広くしたような、オシャレで粋なマティーニ・パークのSP20's。 ダウン・タウンは物乞いが多い。そのすべてを無視するわけではないが、ほとんどの場合、相手を慮ってというよりも施した自己満足のみで終わるため、いつの日記に書いたのか忘れてしまったが、彼らに何がしかの寄付をする基準がオレにはある。 休憩中、表でタバコを吸っていると、3分間で3人の自称ホームレスから金をたかられた。最初の休憩中にも二人から乞われたから延べ5人となる。年末は年末で「クリスマスだからよぉ」なのだが、年明けは「新年だからよぉ」が自然な口上で断り難い。それでも定型文句では芸がないのでやはり断る。 今の時期のダウン・タウンは、物乞いが列をなす。 2009年1月8日(木曜日) 帰国する母をオヘア空港までお見送り。 アメリカン航空のファースト・クラス専用(2008年12月11日参照)チェックイン・カウンターでの搭乗手続き。 元々がそういう性格なのか、こちらの身分を見透かされているのか、その女性の対応はぞんざいだった。エコノミー客と区別した応接をせよと言うのではない。もう少し上品な態度にはならんのかと呆れているのだ。見方を変えれば「親しみやすい」のかも知れないが、機材の故障で出発が大幅に遅れることを告げるのに、「スミマセン」のひと言もない。手元のキーボードをガチャガチャするのみで、何をどーしようとしてるかの説明もせず、オレの質問を制しては隣の係員に相談している。 「それでさっきも説明したけど、本来は11:05AMの出発が2:30PMに変わったから、成田に着くのが明日の午後7時で伊丹への乗り継ぎは無理ね」と、ようやくこちらへ顔を向けた。母のために予約したのは、成田ー伊丹の最終便であるのをオレは知っていたから、さっきからそれを言おうとしていたのに、 15分以上も客を放っておいて、日本の国内線乗り継ぎを調べていたようだ。無言で罵りながら、それでも丁寧に訊いた。 「別の会社に振り替えてくれるんでしょう?」 JALは、全日空は、と口を衝いて出そうになった。確かに機材の故障はアンタの責任ではないかも知れないが、会社の顔としてカウンターに立っているのだから、少しは申し訳なさそうにしろよ、とアメリカ人に文句を言っても仕方がない。成田乗り継ぎが可能な他のエアラインの出発時刻も迫ってきてるはずだから、不安になってくる。 「シンガポール航空は?」という声が耳に入った。オレにではなく、別の係員が女性に勧めたようだ。おいおい、同じグループのJALがダメだったからアメリカンにしたのに、シンガポールかい?とにかく母がファースト・クラスに乗れて、快適に、無事に帰国出来れば良い。 「ネポー・エアーのファースト・クラスが取れたわよ」 はぁ?ネパール航空ぅ??北米路線なんて持ってたかぃ?10時45分って、あと一時間ちょっとしかない。ターミナル間を無料で運行する無人電車で、この T3から、空港の端に在る国際線専用のT5(国際線到着はすべてT5だが、出国便はT1.2.3.5.の四ターミナルから)までは少し時間が掛かる。ましてや、荷物と母と4歳児を連れては走れない。ここで30分以上も無駄にしていたため、母との別離を惜しむ時間もなく、女性係員に文句のひとつでも吐いてやりたかったが、「それにしても最後まで謝罪はありませんでしたね」と嫌みを言うのが精一杯だった。そして彼女は無言のまま、蝋人形のような笑顔を作った。イラクへの開戦理由が破綻しても謝らないブッシュが重なる。 ターミナルを移動するホームでチケットを確認すると、「ネパー・エアライン」は"All Nippon Air"と記されている。おいおい全日空じゃないか、ちゃんと「ニッポン」と発音しろよ。全日空なら文句はないと喜んだのも束の間、6分ごとのはずの電車が来たのは、10分も経ってからだった。休まず走り回っているはずの二台のうち、一台が故障していたらしい。そしてT5のエスカレーターも壊れていた。焦る。オレ一人が広い出発ロビーに走り込み、全日空のカウンターを探すが見当たらない。目に付いたJALの係員に訊ねると、言下に告げられる。「全日空はターミナル1です」。焦りの二乗プラス、あのAA係員への怒り! 再び家族を急き立て、荷物を抱えて動かぬエレベーターを駆け上りホームへ。今度はそれほど待たぬ間に電車は来たが、この状況でT5からT1は気が遠くなるほど離れている。オヘアはユナイテッド航空の本拠のハブ空港であり、T1はそのほとんどがUA。目指すネポー・エアーのカウンターは一番隅っこに在った。時間は10時を10分も過ぎている。 くそっ、後でもう一度あそこへ行って思いっきり文句を言ってやろうと考えたが、焦りからの気疲れと移動疲れの上、子供や奥さんの前でみっともない真似をしたくない。ちゃんと母が搭乗出来たら我慢するかと、全日空様の係員にチケットを手渡す。 最初、彼女が何を言ってるのか理解出来なかった。「申し訳ありませんが、このチケットをお受けすることは出来ません」と突き返す。オレ(たち)は、詐欺に引っかかった被害者面だったに違いない。「このチケットではダメですね、AAは先ずこちらに電話すべきでした。もう一度アメリカンのカウンターで再発行してもらわないと・・・」と、一番の責任者らしき男性が済まなそうに繰り返す。唯一の日本人女性が、「たとえグループのユナイテッド(全日空はUAと提携)からのものでも、このチケットでは搭乗出来ないんですよ。それでも(AA遅延の)事情は分かりますので、こちらのお客様の分と共に、何とかご搭乗出来るよう各所へ連絡しているところです」と説明し、「ただ、お食事なしのご搭乗は無理ですので、今その確認を急いでいるところです」と付け加えた。 気が付くと、搭乗手続きをする客は母以外に一人だけ。出発時刻が迫っているので、5人の係員の内の3人が、表情を硬くしながら電話や無線で懸命に問い合わせてくれている。この便に母が乗れないと、成田での乗り継ぎが出来ないのは確かだから、もうオレがじたばたする必要はない。 配膳係と連絡が取れた様子の声が耳に入った。「・・・そうよ、エコノミーの食事が二人分・・・」。オレは思わずチケットを振りかざし、「母はファースト・クラスです」と訂正する。それを聞いた男性が「ノー」と悲しそうに顔を振った。 シカゴ有吉家と母は重い足取りでT3に戻るが、オレは軽やかな気分でもあった。さぁ、どう責めようか。あのボケはどう言い訳するか。 アメリカン航空のファースト・クラス専用カウンター入口では、明らかに瞥見した女性係員がオレと目を合わせようとしない。それでも辛抱強くガン垂れていると、やっと今気付いたように両肩を上げて、遠くから「どうした」と眉を寄せた。 「アンタ、ォー・ニッポン・エアーはターミナル5と言ったよな」 予想通り、女性はまだ謝らない。それどころか、手を上げて「待て」の合図をし、何やら忙しい振りをしてはカウンターへ招こうとしなかった。滑稽なことに、事情を知るはずの手の空(す)いた別の係員も知らん振りをしている。今日母を乗せることを諦めたオレたちには時間がある。「されたことは烈火の如く怒るが、したことは最後まで非を認めず謝らない」アメリカ人の悪いところを、日常生活で嫌というほど経験している奥さんは、すべてをオレに任せ、腹立ちを抑えて賢く離れていた。 とりあえず係員の態度を見極めて、スーパーヴァイザー(管理者)を呼びつけようという考えを見抜いたのか、母がぽつりと言った。「もう一日一緒に居られるんだから、明日の席がちゃんと取れたらイイわよ。あまり怒らないであげて」。エラい、オカン! そりゃ、こっちは、仕事で貯めたマイレージを使って、実費が$60余で得たファースト・クラスなだけに、「補償しろ」だの「マイレージ返せ」だの「クーポン寄越せ」だのの、集(たか)りをするつもりはない。だから、このバカの態度さえまともなら・・・。 アメリカンの係員どもは、利用不可になったチケットをしげしげと回覧し、顔を突き合わせて不思議がる。「母が明日の便でもイイって」と言うと、彼女は少し安心したように向き直った。 「ええ、明日はですね、本日と同じ便で宜しいでしょうか?」 実際に搭乗する母は、帰りもJALになったので満足そうだった。そして終に女性係員は「スミマセン」と小さく謝った。 *本来マイレージ用の席数は限られている。特に絶対数の少ないファースト・クラスなど一席しかないだろうから、事前の予約(昨年10月)では、JAL便のファースト・クラスは来月まで埋まっていた。 2009年1月9日(金曜日) 昨日のことがあるから、問題が生じても対応出来るように奥さんと子供をウチへ置いて、母と二人早くにオヘア空港へと向かった。降雪が止まず、道はズルズルで、今日本当に飛行機は飛ぶのかしらと不安だったが、空港へ着いてモニターで確認すると、国際線ターミナル発の全便が予定通りとあった。 母の搭乗手続きは、あっけなく終わる。JALといえども現地採用やパートが多いカウンター業務らしいが、それでも昨日のアメリカン航空と比べると何の不満もない。 4年前に母が訪れた時は、エアラインがオレに証明書を発行してくれて、英語に不慣れな母の付き添いにセキュリティゲートの中まで入れたが、今回は係員(片言だが日本語を話す)が母の機内持込み用手荷物を持ってファーストクラス・ラウンジまで案内してくれる。搭乗時には、今度はファーストクラス担当の客室乗務員が座席まで案内するという。正規料金が150万円以上なのだから当然のサービスかも知れないが、マイレージで獲得(何度も言うが、オレの自腹は約$60のみ)して高額商品の実感がないだけに、ありがたいことこの上ない。安心して母を見送る。 夜はローザスにて、ジェームスら木曜のメンバーで。 大雪注意報が出ているので普段なら店を閉めてしまいたいトニーなのだが、タレントひとり(ハーモニカ&お歌)を連れたドイツの撮影隊(総勢3名)との約束で、商売抜きのライブとなる。撮影は順調に終わったが、やはり客入りは最悪で10人に満たなかった。 帰りの高速は、それでも金曜の夜なので少し混んでいた。降雪量に道路整備が追いつかず、スリップに気を付けて誰もが速度を60キロほどに抑えている。坂道のほとんどないシカゴで、スノータイヤやチェーンを装着する車などないから、お尻を振る車(既に制御不能に近い)に気を付けないとと思いながら走っていると、後方からかなりのスピードで向かってくる黒い四輪駆動のピックアップ・トラックがバックミラーに映った。 遥か西へと続く州間高速の90号線と94号線がそれぞれに分岐する数キロ手前なので、片側6車線とシカゴ市内の高速で一番広い場所なのだが、この雪と混み具合で誰かが事故れば他車を巻き込む可能性は高い。ピックアップは一番内側を疾走して迫り来る。もしもの時に備えて外側から二番目の車線を走っていたオレは、ピックアップから一番離れるために、もうひとつ外側へと慎重に車線を変えた。 ピックアップと同じ車線の前方を走る車も異変を察したのであろう、次々に車線を開けてピックアップを先へ行かせる。やがてオレから左前方数百メートルほどのところで終に行き詰まったピックアップは、ブレーキランプを赤々と灯す。その瞬間ピックアップ・トラックの後部が揺れ始め、慌てた運転手がハンドルを左右に切る。パニックになっているのが分かるのは、それでもブレーキを踏んでスリップさせまくっているからだ。四駆の上にブレーキ制御装置が利いているとしても、この積雪であれほどスピードを出していればどうしようもない。周りの車のどれにも接触しないでいるのが幸運としか思えなかった。 制御不能のピックアップは、既に二車線を跨いで揺れ動いていたが、やがて向きを真横にすると、とうとうこちらの走行車線へ向かって来て壁に衝突した。それがオレの行く手を阻む。減速せずに車線を変えるには横が詰まり過ぎている。バックミラーで後ろを確認しながらブレーキを軽く踏むが、後続車に追突される危険も増す。ようやく隣車線に隙を見付けて変更したときには、事故現場から100メートルと離れていなかった。 事故車を追い抜くとき、アブラムシが壁沿いに決して後ずさりせずごそごそと蠢くように、鼻先を壁に擦り付けながらその場を離れようとする姿があった。そしてピックアップは、何事もなかったかのように体勢を立て直して加速すると、オレを追い越して去っていった。 往来でナイフを振り回していた輩が、幸い誰も傷つけずにそのまま立ち去ってしまったに等しい。誰か、あいつの免許証と車を取り上げてくれ! 2009年1月12日(月曜日) この冬は何度大雪警報・注意報が出てるのだろう。アーティスまでの30キロ以上、道は酷いシャーベット状態のズルズルで渋滞は続いている。早くにウチを出たものの、ようやくダウン・タウンを過ぎて、いつもよりは少し遅れるかと時間を読んでいたら携帯に電話。「おう、ビリーだけども、今どこにいる?」。ある予感から、何となく大袈裟に言いたくなった。 「高速ですが、間もなく87番通りに降ります」 その頃ギターのダンはダウン・タウンの遥か手前で、混み具合を読まなかった己を呪いながら、演奏開始時間には絶対間に合わないとオロオロしておったそうな。 2009年1月14日(水曜日) SOBでノース・カレッジ付属高校の音楽祭出演。カントリーやブルースなど、アメリカン・ルーツの音楽を全校で終日鑑賞するという。素晴らしい。 天気予報では大雪の、朝9時搬入(10時から11時までの公演)と聞いて頭がクラッとした。アパートの隣の部屋の窓から突き出たエアコンの尻の上の雪は 20センチ以上ある。この上まだ降るか。 幸いなことに学校は近所だったが、普段なら5分で行けるところが10分掛かった。そしてダンでさえ一時間、サウス・サイドから来る三人(ビリー、ニック、モーズ)は二時間近くも掛かった。但し、月曜(2009年1月12日参照)とは違ってキャンセルはなし。さすがに学校主催の昼食会は全員が辞退する。 帰宅、午前11時40分。まだみんなが悪路の帰途でオタオタしている昼過ぎ、オレは再びベッドに潜り込んでいた。 雪は降りしきる。心の襞の隙間に巣くう怠け虫が、このまま街が白い世界に閉ざされてしまえば良いと囁いた。 2009年1月15日(木曜日) この10年で一番冷え込むというニュースに、今晩仕事がある巡り合わせを呪った。 最低気温-24℃ 南極の温度より低いらしい。ただし南極は夏。 当然"Wind Chill Warning"(風冷警報)も出ている。風による体感温度は-40℃以下らしい。10分以上肌を晒すと「皮膚が凍る」と警告。それでも休みにする公立学校はなく、テレビのインタビューで生徒は文句を言う。 さすがにアパートの中も23℃と涼しい。室温23℃で文句を言うなと思われるかも知れないが、普段の26℃と比すと、この3℃差は大きい。夏にエアコンを効かせ過ぎているようだ。カーディガンを羽織る。 タバコを吸うため窓を開けようとしても、凍り付いていて開けられない。窓枠は古い冷凍庫のように、真っ白の霜がへばりついている。 何度も言ってるが、厳寒の世界は「寒い」のではなく「痛い」。まぁ、-15℃を下回れば痛みが少し増す程度で、それなりの格好をしていれば車で移動する限り関係ない。その車が、さすがに一発ではエンジンが掛からなかった。それなりの格好も、いつもの半袖Tシャツ、羽織もの(普段はシャツやジャケットだが、今日は薄手セーター)、ダウン・ジャケットの組み合わせに、長袖Tシャツとマフラーを加えただけなので、車内が暖まるまで身体は強ばったままだ。 部屋と同じく車窓が凍っている。ドアを開け放せば良いのだが、キーを差し込んだままだと警報音が煩わしく、意を決して外でタバコを吸う。 2回吸い込んだところで肺が痛み、骨の髄が音を上げ始めた。この形(なり)では歩き続けるなど、始終身体を動かして内部から熱を発しないと、凍死の方向へ体力の奪われていくのが実感出来る。 車内に戻ってもエンジンがまだ暖まらないので、腰から下が冷える。 小学校の低学年以来、股引(パッチ)を穿(は)いた覚えがない。束縛恐怖症とまではいかないが、締め付けられるのが嫌だし、何より年寄り臭いと思っているからだ。84年だかに、シカゴが記録的な寒波(公式には-34℃)に襲われた時もズボン下は付けなかったが、83年の年末は一時期車が使えず、電車とバスでクラブへ通ったために、知人の強い勧めで一日だけ(公式には翌年塗り替えられたが、テレビのニュースでは-37℃だった)スキー用タイツを借りたことがあった。その人の話では、女性のパンストが手軽で保温効果も良いらしいが、穿こうとしている自分の姿を想像すると、やっぱり気持ちが萎える。 ローザス・ラウンジに客は皆無だと思っていたら、一組のカップルが居て驚いた。従業員(といってもママを除けば二人)は帰りたくてウズウズしているが、トニーは10時半まで待って他に誰も来なければ店を閉めようと、気軽な家族経営の利便性を発揮する。かのカップルもそれを聞いて席を立った。 彼らが去ると「こんな寒い夜に、何を好き好んで外へ出るかね」「分けありの二人か」「よっぽど家が面白くないか」と、みんな口々にカップルを話題にするが、「大雪警報のときのように、トニーの決断が早ければウチを出ずに済んだ」という遠回しの非難にも聞こえる。それが功を奏したのか、10時15分になってトニーは明るく言った。「よぉおっし、今晩は店を閉めるぞぉ」。 一行がぞろぞろと動きだし、先頭が入口に達しようとした途端、外側からバタンと音を立てて飛び込んで来た者と鉢合わせになった。日系企業のツバキに勤めるポーランド人のレシェック。毎週のようにギターとアンプを担いで、70キロ以上も北の郊外からやって来る。後方でトニーが「アンタ何しに来たの?」と笑った。キョトンとした表情でレシェックは応える。 「えっ!?ジャ、ジャム・セッションだけど」・・・そらそうや。 2009年1月16日(金曜日) はぁ?おかしいぞ気温・・・-27℃。 前にモンタナ州でもうちょっと寒いのを経験(2005年1月14日参照)しているけれど、ツアー先と地元では、危機感は異なる。 2009年1月22日(木曜日) 毎冬恒例のレジェンズでのバディ・ガイ様御一行のためのSOB。普段は週末にメインで演るのに、前座料金で一日が潰れるし、ロザをキャンセルするのがもったいないので、トニーには少し遅れるが演ると告げていた。 売れっ子みたいに、ステージが終われば一目散に去って行くのが嬉しい。93.1FMのDJのトム・マーカーが「売れっ子だね」と言った。呼び止めようとする客に次の仕事が待っているからと言うと、「売れっ子だね」と返ってくる。慌てた様子のオレを、マネージャーのブライアンが「売れっ子だね」と見送る。バディ・ガイのキーボードのマーティが「よっ、売れっ子」と囃し立てる・・・お前の方が売れっ子やんけ! 2009年1月31日(土曜日) テレビのお天気ニュースでは、アメリカ人の「記録調べ好き」が面白がっている。 一月のシカゴの最高気温が華氏40度(摂氏4.4444度)に達しなかったのは、過去139年間で6度しかなく、今年も達しなかったらしい。32度が氷点の華氏では40という数字が区切りっぽく感じるが、39度や38度なら、その回数は激増するに違いない。どちらにしても、降雪と極寒の今シーズンのシカゴは最悪に違いない。
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