傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 42 [ 2006年4月 ]


Rosa's Lounge
Photo by Ariyo

top


2006年4月1日(土曜日)

明日から夏時間。一時間繰り上がるため、日本との時差は14時間になる。

SOBでロザ。店へ着くなり、ロブが壁一面のスケジュール表を指して『アリヨの単独ライブか?』と訊いてきた。ん!?何のこと、と見上げると、4/21(金曜日)のところに縦40センチ、横25センチ大のオレのポスターが貼られている。そういや最近トニーが、木曜日に窓へ貼る「アリヨ・ポスター」を新しくしたばかりだった。

『えっ、何これ?オレ聞いてないぞ。大体21日はシカゴにいない予定なのに・・・』
『週末に単独って凄いじゃないか』
『だから、知らないって。それにビリーたちとミシシッピー州へ行くから無理だって』

別の従業員のジョーが口を挟んだ。

『でも、スケジュール・カードには「ジェームス・ウイラーWithアリヨ」になってる』
『ははぁ、オレも演奏する木曜日のジェームス・ポスターと連日になるから、木金並べてってことか・・・いや、そういうことよりもトニーと話さなきゃ』

月が変わった最初の日だから仕方ないが、よりによってビリーの目に入る今日貼り出さなくてもいいのに。大将は休みにSOBのメンバーが何をしようと問題にはしないが、自分が知らされないことを嫌がる(2006年2月11日参照)。本人さえ知らなかったし引受けてはいないことをビリーに伝えねばと、彼を探してきょろきょろしだしたとき、ドラムのモーズにニコニコ顔で呼び止められる。

『週末に単独かい?イイじゃないか。で、誰がバックを務めるんだい?』

おいおいオッサン、アンタを呼んだところでウチらは全員ミシシッピーでしょ!いやいやそれよりも、トニーはどうしてオレに確認せずブッキングしてしまったのだろう。

珍しく早い時間から店内が混み合っていて、二人と話すのに手間取る。ビリーは良い写真じゃないかと納得し、トニーはSOBのマネージャーに空日を確認したんだけどと説明した。セッティング前の慌ただしい時間に要らぬ労力を費やされたが、クラブ内のメインのスケジュール壁に、自分のポスターが堂々と貼り出されたことは内心嬉しい。

一番最後に現場入りしてきたベースのニックが、オレのポスターを見詰めて立ち止まっていた。お前もかぇ・・・。

『アリヨ、このポスター、一枚欲しいんだけどトニーに頼んでくれないだろうか?』

ニック、いつからオレのファンになった?


2006年4月6日(木曜日)

ルカはオレがステージから降りるのを待ちかねていた。去年イタリアから遊びに来て仲良くなった若いギタリストで、地元では結構な規模のブルースフェスを主催している。この夏はオレがらみのバンドを招聘したいと言って帰国していった。

『今日シカゴへ着いたんだ。アリヨ、ビリーとSOBでイタリア行きが決まったよ。飛行機のチケットも持って来た』
『おうおう、ありがとう。去年暮の話だったのにさっそく実現させるなんて、ルカは力があるんだね』

彼は静かに笑ったが照れていたかどうかは分からない。27才という年齢とフェスティバル主催の肩書きに違和感があったので、去年の彼の申し出には『出来れば良いね』としか応えていなかった。その上ルカはフェス以外に2カ所、クラブの仕事もブッキングしていた。

しかし考えてみれば、70年代に日本でブルース・ブームの切っ掛けを作った関西ブルース・シーンの立て役者はみんな20才代で、大学在学中の者も大勢いた。ウエストロード・ブルースバンド、憂歌団、上田正樹とサウス・トゥー・サウスなど、京都の「拾得」「磔々」「サーカス&サーカス」、大阪の「バーボンハウス」を始め、出演者と同世代の若者が運営するライブハウスと、「西部講堂」や学園祭を中心に隆盛していったのだ。

通学路に在る京都大学の立て看板を見ながら育ったオレは、そんな大人たちの盛宴を夢見ていた。それが今では海外へも呼ばれる側で、かつての「大人」が頼りない若さに思える歳になってしまっている。音楽シーンを揺らせた時代の情熱が、幼い証人としての想い出になって蘇ってきた。

『次で3回めになるフェスだけど、1.000人以上は集まると思うよ。これが前回のパンフレット。誰某と誰某とボクたちのバンドが出演したんだ』

カラー刷りの立派なパンフレットはイタリア語で読めない。ルカの出したミュージシャン名は知名度の低い人ばかりで、予算が限られていることを想像させる。それでも、彼の地元で待っている若いオレは、目を輝かせてパンフレットを見詰めているに違いない。

彼が伴っているもうひとりのイタリア人もギタリストで、フランチェスコと名乗った。

『$B$Hジョル$m$G!":rスカ、$+$!$A$cルノ$s$N@h@8!トローネ、7$?!#3P8g$O$Gクワトロ』

英語はまったくダメとルカは紹介したが、フランチェスコはオレに向かって一生懸命イタリア語で話し掛ける。

『シーシー、$NJ}$^$G%0%$!・・・』

そやからオレはイタリア語では数くらいしか数えられんて、それも1から5。ルカはきっとオレの経歴を膨らませて説明したのだろう。憧れのシカゴへ着いて最初に話したブルース・ミュージシャンがオレであっても、23才の彼が興奮しているのが分かる。

フランチェスコの背丈はそれほどでもないが、顔がジョニー・ディップに似ている。いや、暗いクラブの中だから、側に居ると映画で良く知った人が一緒に座っているような錯覚に陥る。

そしてジョニー・ディップは一晩中イタリア語を話していた。


2006年4月9日(日曜日)

仲良しベースのチャールズ・マックのユニットでナッシュビルまで日帰りツアー・・・んん!?日帰り?

土曜日朝の8時半出発。大型のバンを駆り8時間程(七百数十キロ)で到着。前日の睡眠が2時間のオレは往路を運転せず、復路を6時間運転するも、フルで3セット演奏してすぐの帰りだったので、何度も夜道がぐにゃぐにゃになっていた。帰宅、本日午後1時。

同行はドラムのチャールズ兄のマーク・マックと新人ギタリストのニック。ナッシュビル在住のホーンズも3人揃う7人編成の豪華な布陣であった。そしてオレは自前のピアノ音電器鍵盤以外に、店に常設されていたハモンドB-3(オルガンの最高峰)を弾きメンバーから驚かれる。大宴会はチップの$100紙幣が4枚もステージへ舞い下り、次第に狂乱となっていった。

少し高い目だが、広いステージのオレの真下で踊り狂っていた若いお姉ちゃんがこちらに視線をやりながら、自らの胸部を揉みしだき始めた。なっ、なんじゃぁ、こりゃぁ!なおも悩まし気な動きは止まず、手を交互に上下も揺らせ始める。オレに何やら言っているが爆音で聞こえるはずもない。はいはい、よしよし。君子ではないが、危うきには近付かない方がよろしい。ニコニコとして放っておく。

お姉ちゃんはそのハシタナイ行為のどこが気に入ったのか、ステージを降りたオレに寄って来ては、また立派な胸部に手を触れた。

『ワタシもアンタみたいに、こうやって胸でピアノを弾けるのよ』

はぁ?弾いてもらおやないかぇ!オレの後ろではマーク兄弟が、あっちの子こっちの子と話し掛けてはキャッキャッしていた。


2006年4月10日(月曜日)

アーティスは日本とイタリアからのお客さまで賑やかになる。たまたまどちらも、この夏のSOB海外ツアーのプロモーター。日程も7/21.22.が昨年の青森、7/27.28.29.がイタリアと、大接近の危ないところだった。しかしウチも、海外公演とはいえ短期なのが知名度の低いところ。誰某(2006年2月2日参照)みたいに半年間などの長期は、逆に無名のディスコバンド、BGMバンドのようで嫌だが、せっかくの海外に数カ所でとんぼ返りも寂しい。

帰途、イタリア組のルカとフランチェスコをプチ・ブルース観光へ案内する。映画「ブルースブラザーズ」で、ジョン・リー・フッカーたちが路上演奏して有名になったマクセル・ストリート。そこの名物のホット・ドック(2003年12月27日参照)を買い与え、スクリーンの面影もないマクセル通りで食して頂く。

あそこら辺りがアレサ・フランクリンの演じていたカフェで、ここらでパイントップらの演奏があった、とか説明すると、こんな深夜に通りをうろついてヤバくないですか?と怖がっていた二人は、大興奮でビデオカメラを回し始める。少し離れると怪しいが、新築の建物ばかりで鉄格子入りの店がないのは、この地域が安全になりつつある証拠。ほれ、緊急通報用の赤いボタンの付いたポールも立っているし、パトカーも盛んに行ったり来たりしている。ん!?そういややけにパトカーが多い。いや、気にしない気にしない。さっき様子を伺っていた覆面車の警官も、目が合って挨拶するとにっこりしてくれていたから。

その車がマキシの後ろをこっそり付けているのは知っていた。オレは日本にいた頃から、天上にライトが見えない覆面パトカーの識別には定評がある。さっきの覆面RV車に違いない。

制限速度で慎重にレイクショアー通りへ向かっていると、広い高架の上に差し掛かったところで、突然青赤色のライトが点滅してサイレンを一瞬だけ唸らせた。うっ!何もやましいことはないはずと、マキシを端へ寄せながら素早く頭を回転させる。げろっ!速度表示などのパネルが暗い・・・イタリア組の案内に気を取られ、オレにしては珍しく車のライトを点け忘れていた。

血色の良さそうな丸顔の若い白人警官が笑顔で寄ってくると、オレは努めて明るく『ライトでしょ?点けてないことに今気が付きました』と言った。

『えっ、ライト?気が付きませんでした』
『じゃ、何でしょうか?』
『ライセンス(ナンバー)・プレートのステッカーですよ。今年の分ですか?』
『もちろん今年のです、期限は2006の12月』
『それじゃ結構です、一応免許証をお願いします』

何の緊張感も見せない彼は、念のためにコンピューターでオレの犯罪・違反歴を調べ、変わらぬ笑顔で戻ってくる。もとよりこちらも構えてはいない。同乗者の二人だけが少し不安気にそのやり取りを伺っていた。

『観光ですか?』
『ええ、映画ブルース・ブラザーズの云々・・・』
『なるほど、ウダウダ・・・』
『彼らはイタリアから来たブルースファンの観光客で、それでマクセル・ストリートを案内してたんです』
『座席に見えるのは楽器で、あなたはミュージシャン?』

オレは余計かと思ったが名刺を渡し、『ええ、キーボードです。私の演奏が終わってからだったので、こんな時間になってしまいましたが』と答えた。

若い警官がひとりで担当地域を見回り、暇で誰かと話す切っ掛けが欲しかったし、深夜のマクセル界隈をうろつくオレたちに興味もあったのだろう(2003年7月16日参照)。停車させた理由となる.06年の納税済みステッカーは黄色(昨年青、来年オレンジ)ですぐ判別できるし、交差点で停まったときも真後ろから見ているはずだからだ。

『アタシもギターは弾きますが、コードだけでね。ほう、立派なカード、これをアタシに?』
『どうぞお持ちください』
『いや、ありがとう、それではお気を付けて、Nice to meet you !』

な、ナイストゥミーチュウゥウ?さすがに最後の挨拶で、英語の理解できるルカはホッとした様子だったが、フランチェスコはビデオを回しながらドキドキしていたらしい。えっ!?イタリアのジョニー・ディップは、それでもビデオ録ってたんや・・・。


2006年4月11日(火曜日)

突然ですが4/27-5/23の予定で、今月末からビザの面接のため一時帰国します。

準備期間がないにもかかわらず、去年と同様に地元の仲間が演奏の機会を作ってくれました(詳細は後日掲載)。

また前回50名近くもピアノセミナーに参加頂き、ありがとうございました。今回はピアノの個人レッスンを受け付けますので、興味のある方はよろしくお願いします。レッスンのお問い合わせはメールにて、京都の「堀尾ミュージック」まで。


2006年4月14日(金曜日)

ビザ審査の面接で急な帰国になり、慌てて必要な書類集めに奔走せねばならず落ち付かない日々が続く。それに加えて、生まれて16ヶ月になる希美人を連れて初めての渡航となることが、余計憂鬱さを増幅させている。

日中の気温は摂氏30度にまで上がった。このまま夏になって欲しいと願うが、窓枠から外したエアコンを再び取り付けるのが面倒なので、もう少し待ってもらいたい気もする。宿題を終えるまではいろんなことを考えるのが面倒で、かといって課題を済ませるための最大限の努力を発揮するまでにも至らない。何かの重圧で気が沈んでいることだけが結果となり、またギリギリになって足掻かねばならないに違いない。

だから所用でベースのチャールズ・マックと直接話す必要があったが、すれ違いが続き互いに携帯へメッセージを残すだけで、水曜日から続く留守番センターへのコールのみ回数を重ね、それが今日で10回となってようやく何とかせんとと思い始めた。

よく考えれば夜の演奏の休憩中など忙しい時に電話するのではなく、昼間掛ければ良い。チャールズに繋がり難い理由は分からないが、彼が折り返したことに気付かないのは、時間帯もあるし、ウチのアパートは電波が入り難いためでもある。在宅のときは自宅の電話で確実に受けることが出来るが、大体が昼間は寝ているし、先方にそのことを伝えるのが面倒で、いずれ繋がるだろうと楽観していた。そしていまだに不思議と直接話せないでいる。

そこで白ヤギさんが出した手紙の唄を思い出した。互いに延々と手紙を食べ尽くし埒が明かず、結局直接会って用件を伝えたが、一緒に食事へ行こうとの誘いだったので、手紙で腹がふくれた白黒ヤギは、また別の日にねとなる。

オレがチャールズの携帯へ残したメッセージはちゃんと内容を伝えていて、彼がその返事をすれば事足りる訳だが、チャールズがオレの携帯へ残すのは『メーセージを聞いたら折り返してね』や、日本語で『アリチャーン、マタデンワシマース』の様に結論を知らせない。

気が付くと携帯の小さなライトが点滅し、11回目の「メッセージ有」を知らせている。アンテナマークはちゃんと立っているのに気が付かないのはおかしい・・・うっ、マナーモードになっている。そういや昨日の夜、ピアノの上に置いていて演奏中に鳴ると格好悪いので音を消していた。そしてヤギの文通は続く。


2006年4月16日(日曜日)

ヤギの手紙の一件はあっさりと片が付いた。あるお方がチャールズと連絡を取りたがっていたので、チャールズの方から電話するようにと電話番号を留守電に残していた。そしてようやく彼と直接話しができたと思ったら『3日前に話したよ』と返事されて拍子抜けする。

夕刻、米が残り少ないことに気付き、慌ててミツワまで車を走らせた。一昨日とは打って変わり冷たい雨がそぼ降る。最近はミツワ詣でで必ず買ってしまうジョージアのミニ缶コーヒーを飲みながら、タバコを燻(くゆ)らす。

少しでも早くウチへ帰りたくなり有料道路に入った。そして大渋滞を目の当たりにして日曜日であることに思い至り、己の学習能力のなさを呪う。結局下道で行った往路の2倍の時間が掛かってしまった。

ビザの面接に必要な書類作りやその他の準備はまだ終わらない。明日から26日の出発まで休みなしの日が続く。


2006年4月19日(水曜日)

帰国前の慌ただしいときに、明日からアムトラックで4泊(車中2泊)のSOBミシシッピー・ツアーへ出掛けねばならない。だから東京の米大使館での面接に必要な書類集めなど、今日中にすべて準備しておきたかった。

昨日の夜、ローザズ・ラウンジのトニーから受け取った書類を持って、お昼に弁護士事務所へ。オレを担当する超忙しい重役をアシストしている新米の女性弁護士、トニーからの書類をチェックして瑕疵(かし)を発見!

『あっ、ここに必要なサインがない・・・うっ、いや、私が用意したこれ自体が間違った書類でした・・・』

おい!それでオレはどーなる?

『来週の帰国前にもう一度事務所へ来られますか?』

・・・金返せ!


2006年4月20日(木曜日)

遅くなりましたが、私の出演予定です。是非お越しください。

5月11日 大阪 "RAIN DOGS"
http://www.raindogs-web.com/toppage.html
問い合わせ:06(6311)1007

5月14日 京都北山 "Mojo West"
http://www.goodnew.co.jp/mojowest/top.htm
問い合わせ:075 706 8869

5月20日 大阪吹田 "Honky Tonk#7" 
http://www41.tok2.com/home/ht7/
問い合わせ:06(6368)6161

5月21日 伊賀上野 "オールドレッドミル" 

<ピアノの個人・グループレッスン>

京都東山仁王門 スタジオ"Folio"
問い合わせは下記にメールか留守電で
mail@folio-music.com

075(752)9301


2006年4月24日(月曜日)

先週の木曜日の午後8時にニューオリンズ行きのアムトラックへ乗り込み、ミシシッピー州のナチェスへ17時間の列車の旅。そして今朝の朝9時にシカゴ到着。昼前には自宅へ戻り仮眠をし、夕方個人レッスンへ出掛けてそのままアーティスで演奏。

2食付きの快適な個室寝台で、そこそこのホテルのそこそこ広いひとり部屋をあてがわれてはいたが、帰国寸前の慌ただしさの中で有給バケーションのようなゆとりを感じる気分でもなく、かの地では胴体の長いリムジンカーが送迎(駅から宿まで1時間)してくれたとはいえ、マネージャーを含め6人の荷物や楽器を積み込むと、車内は窮屈で高級感は薄れていた。

ハウス・オブ・ブルースで演奏する予定だったダブルの仕事や週末のロザ(2006年4月1日参照)など、もしSOBの仕事がなければ引受けていたであろう4本をキャンセル
して、たった1時間ちょっとの演奏のために4泊5日(車中2泊)を費やしたことが、どこかやるせない。