傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 14 [ 2003年12月 ]



Ariyo and Nick (Son of Sam Green)
Photo by Chiaki Kato, All rights Reserved.

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2003年12月1日

いよいよ師走 気温マイナス4℃

アーティスは寒くなったせいか客の入りが少し悪い。最低2杯以上のオーダーを課しているものの入場料なしなのでいつもは立ち見が多いが、オレたちでさえ座ることができる。

今晩の著名(!?)来訪ミュージシャン:
フィル・ガイ(バディ・ガイの弟)
ロニー・ベーカー・ブルークス(ロニー・ブルークスの息子)
ジェリー・ポーター(バディ・ガイのドラム)

後半のセットは、普段ならSOBでインストを演り徐々にゲストを上げていくのだが、今晩は頭からジェリーがドラム、2曲目からはビッグ・パームのベースで始まった。以後終演までこのリズム陣は変わらず。ジェリーはしょっちゅう遊びにきているのに滅多に叩かない。マイ・スティック持参だったので、やる気満々だったのだろう。初めて一緒にできて嬉しかった。

ビリーがジェームス・コットンのインスト曲を吹いてニック、丸山さんと共に退場。ポーランド人のハーモニカとギター・ボーカルのアレ何とかさんが登場。アレ何とかさんのギターがカッコイイ。彼が下りる時にキーボードを日本からのK嬢と交代してあげる。

フィルは呼ばれても腰が上がらず、ロニーが颯爽と狭い店を横切って行った。K嬢を見るとかなり緊張している様子。輪をかけて、あれは誰某で、こっちは誰某の誰某、君はこの業界の結構なトップの人たちとセッションするのだよと、恩着せがましく聞こえないように恩を着せておく。

なんせジェリーにパームとロニーにビリーって、そのまま日本へ連れて行けるん違(ちゃ)うんってメンバーに、顔面硬直状態にある声楽出身のK嬢はとても不釣り合いだった。ああ、楽しい。

ロニーが弦を切り丸山さんが張り替えている間に、ビリーが最後の曲を中途半端に唄い始め、中途半端に終わったかと思ったら、SOBの番頭さん(モーズ)がマイクを握り嬉しそうにお別れの挨拶を。SOBは楽チン楽ちんの夜だった。

機材を片付けながらお初のアレ何とかさんと自己紹介し合う。アレ何とか・ブ何とか???聞き直されるのに慣れているのか、彼はAB(イニシャル)で良いよと即座に言い「Just like a Shrimp」と付け加えた。既にABで覚えたオレは適当に相槌を打ち作業に戻る。(何でシュリンプみたいやネン)と床に呟いた途端、顔から火が出てしまった。

オッサン和食通やんけ


2003年12月7日

先週の3.4.5.6日のスタジオでミックスダウンは終結する予定だった。でも、出た、やっぱり・・・。ワシこの音嫌い、録り直す。あのぉ、ご予算の方が・・・それにこの演奏で納得されていたのでは?でも、この音は世に出しとおない。ハァァァ・・・。

ようやく一曲づつ仕上がってきた。只今4曲が終わる。

心労披露困憊で風邪治らず、今日はベッドに倒れ込んだまま。


2003年12月13日

今日も出勤直前まで寝ていたら、午後7時頃アパートの管理人が雪をかく音で目が覚めた。ゆ、雪かきの音???カーテンを開けると一面雪景色。朝までは晴天だったのと、今シーズンはまだ本格的な雪が降らなかったので想像だにしていなかった。雪の降り(積もり)始めは、積雪を防ぐ市の塩撒き車が間に合わず、徐行する車で街は渋滞しがちだ。

慌てて仕度を済ませ、車に積もった雪を払い落としてゆるゆると走り出した。市の車の入らないアパート前の小道はやはり滑り易い。大通りに出ても雪はまだ解けきっていなかったので、どの車も恐る恐る走っている。高速に入るとさすがに整備は終わっていて、雪で視界を遮られ減速してはいるものの混んでいるという程ではない。結局、ダウンタウンの「バディ・ガイズ・リジェンズ」には、予定より30分も早く着いてしまった。そこで週末の店内の人込みを避け、車の中で時間を潰すことにした。

マイナス10℃以下まで下がった昨日までとは違い、今晩は比較的暖かい(マイナス3℃)。頂上が霞む雪のビル群を眺めながらぼんやりと世界を慮った。巨大な根っこしか見えないビルの林立するダウンタウンが、行く先の見えない世界と日本、自分の将来への不安を象徴している。

タバコに火を付け窓を少し開けると、都会の喧噪が車内を充し始め考えを遮った。咳を一つする。痰が絡んだので口中に出しドアを開けて吐き捨てる。先週からこじらせている風邪もようやく回復してきたが、まだたまに咳が出る。

店内は雪にもかかわらず盛況だったので少し安心した。週末のSOBの仕事は2週間振りだったためか、メンバーは張り切っているように見える。こういう時は往々にして演奏が荒くなり、音量バランスも悪くなりがちだが、みんなが人の音を良く聴きメリハリのあるステージが出来たので驚いてしまった。

11時から始まったライブも大過なく終えようとしていた時、また咳が出た。オレに絶対ソロの回ってこない曲で、指はさ程動かす必要はない。続けて出そうだったのでタオルを口に当てる。咽に痛みの残らない円滑な咳だった。そして痰が混じっていた。ステージで無理に出すはずもなく、それは自然に出ていた。口中不快なことこの上ない。処理したいがティッシュなどの持ち合わせがない。タオルの中に吐き出すのは相当の勇気と決意が必要である。ファンからのプレゼントの一番多いのがハンドタオルで、今晩のタオルはその中でもお気に入りの一品なのだ。

他に妙案がないものかと考え始めた矢先、ビリーが突然ソロを振ってきた!

驚いた拍子に、オレは口の中のものすべてを呑み込んでしまっていた。

オエッ!


2003年12月16日

丸一日何の宿題も予定も計画もなく、羽を伸ばし心ゆくまで寝て気持ち良い目覚めを迎えた午後5時の電話。

「あのぉ、Tですけどぉ」
「おっ、久しぶり」
「有吉さん明日どうしてますぅ?」
「昼はリハ、夜は私用で忙しい」
「昼にシカゴへ行く用事があるんですけどぉ」

こいつ相変わらず人の話聞いとらんな。最近ジャズのトリオを結成したTはピアニストの後輩で、州のずっと西の街に引っ越したため、滅多にシカゴへはやって来ない。来る度に連絡してくれるのだが、オレに会うのがメインになることはない。

「そやから昼からリハやってゆーてるやろ・・・」
「僕も一時からリハが入ってるんですけど、そっちは何時からですか?」
「ニ時からやけど」
「じゃ、午前中でもイイですよ
「んっ?」
「僕は朝から起きてるんで」

あのぉ、何か変ではないか?こちらから会いませんかと尋ねて、昼からは用事があるので午前中なら構いませんよと応えられた気分だ。良く眠らないと一日中身体がだるいこちらの事情を慮る気配もない。「お前どこでそんな主客を転倒させられるネン。その物言いは可笑しいやろ」と、ネチネチ文句を付けながら、朝から起きて活動している後輩の若さを羨ましく思った。


2003年12月18日

気が付けばソファーでうたた寝していて、慌てて歯を磨き寝床に入ったものの、直ぐ目覚ましに起こされた気分で昼過ぎに家を出る。8時にスタジオ仕事を終えロザへ。外は細かい雪が降っていて、気温はさ程低くはなかったが薄着のため、車の中が暖まるまで凍えていた。ロザではステージの床に置いてあったビール入りのグラスを倒し、その数分後には再びビール入りのビールビンを倒す。床に飲みかけのモノを置いておくのもどうかと思うが、普段マイクコードでさえ避けて上がるのに、それらが目に入らない程疲れているのか。オレのせいでステージ上はビールが撒かれたこととなる。
家に戻ったのは午前4時。

午前10時にはミネアポリスへ向け出発する。


2003年12月21日

ミネアポリスからの700kmを、マネージャーの車を運転してようやく辿り着いた家で待っていたのはスタジオからの電話。サウンド・エンジニアが風邪でダウンして今週はキャンセルしたいと言う。今まで散々無理を聞いてもらっていたので仕方ない。こうなりゃ年末・年始も働きます。おほほほ・・・。


2003年12月25日

世間がクリスマス休暇と浮かれているのに風邪が悪化して、人と会う約束もキャンセルしベットと仲良く暮らしている。この3連休に羽目を外させないようご先祖様が仕組んだのか。家人が実家の事情で体温計と共に帰国したので、熱がどれほどあるのか見当も付かない。しかし、今日こそは家の用事を済ませねばならないので、「38度以上の熱があるときにお飲みください」と注意書きのある頓服薬を飲んでみた。うーむ、良く効いたらしく、朝から快調。二日振りにシャワーを浴び、洗濯を済ませ、食べ物を暢達に外出してみた。

キリスト教の国らしく街はひっそりとして、クリスマスのアメリカは日本の正月のように静かだ。当然マクドナルドも閉まっている。いつかは発覚すると思っていた狂牛病で売り上げは落ちただろうが、明朝からは遠くからもそれと分かる大きなMの看板が黄色く灯るのだろう。

しかし昼間から閉まっているマクドナルドを見ると、国内の安全問題を蔑(ないがし)ろにしてでも、国外の人権や外敵の駆逐に予算と労力を割く、現政権の政策を象徴しているように感じた。BSE検査の対象は、二千頭につき一頭強程度らしい。日本政府はアメリカに全頭検査を本気で求めるのだろうか?ブッシュが「全頭検査が望ましいがそれは無理なので、我々が安全であるということを信じてくれ」と言えば、「はい、信じましょう」となる気がする。その根拠はと問われれば、「日米同盟が基調でしょう」となる。

日本の一般消費者は、「北朝鮮が攻めるから迎撃ミサイルを買いましょう」を黙認しても、「北朝鮮が攻めるからBSE安全証明のない牛肉を食べましょう」になるか???日本政府がアメリカにモノを言う分水嶺になるかも知れない。

何れにしてもアメリカ在住のオレたちにとってみれば、今までのずさんな検査で、想像はしていても目をつぶって牛肉を食してきた。しかしこうあからさまになれば、どことなく牛肉に抵抗感が芽生える。少なくともハンバーガー類には当分手が出せない。これまでも市販のハンバーグが好きでなかったから、あまり影響はないけど。

こんなキリスト教的生活習慣と縁の薄い中華街は全開だ。しかしチャイナタウンまで足を伸ばすのも面倒なので、車で近所をうろうろしてみた。大抵の中華料理屋は開いていて、驚いたことにどこも満員であった。イスラムやヒンズー教徒の多い地域が近くにあるからだろうか、入り口にまで人が溢れている所もある。一人分のお持ち帰りを頼むのに、必要以上に待つことだけは避けたいので、もう少し周辺をうろつく。

大通りに面していて気が付かなかったが、商店の灯りが消えて暗くなっている中ぽつりと営業しているので却って目立つ、小さなテイクアウト専門の中華料理屋を発見した。オーナーはオレが日本人だと分かると、親し気に日本語で話し始めた。歳を取った東洋人が日本語を話すと戦前の暗い時代を思い浮かべて心苦しくなるが、明らかに戦後派の人が日本語を話すと事情は変わる。

台湾の日本語学校で言葉を学び、横浜に2年いたという彼は、流暢とまでは言えないが片言よりは通じる日本語を話した。

「ウチは四川料理です。横浜中華街の味ね」

ただ量ばかり多く、味は大雑把でアメリカナイズされた中華料理が多い中で、日本の中華街の味が廉価でお持ち帰りできるなんて夢のようではないか。一人分なので多くは望まず、エッグドロップ・スープとポークフライド・ライスを注文する。

「焼き餃子美味しいですよ。皮は手作りね。日本人餃子好きでしょ?」

オレは非日本人からの日本語での勧誘に弱い。即座に「頂きましょう」と答えたのだが、家に戻って餃子の挽肉が気になり出した。四川でも餃子は豚の挽肉を使うのだろうか?

ネットで手早く調べると、どのサイトでも豚の挽肉と記されていたので、安心して食卓を整える。ここ数日大したモノを食べていない、というよりも食欲がなく舌が鈍いので、自然なダイエット状態であった。今日は薬のお陰かも知れないが、身体の調子は上々で腹も空いている。

先ずスープから・・・うっ、??チャーハン・・・へっ?餃子・・・(皮が異様に厚い)・・・えーーーっ!

どれもが同じ程度に不味かった・・・。


2003年12月26日

クリスマスが終わっても街はまだどことなく浮かれている。会う人ごとに「メリークリスマス」が挨拶だし、そういった先から「クリスマス休暇はどーしてた?」と尋ねられる。「こっちゃ風邪で一人寝込んでたワイ」と答えると、お前もかと、今年は相当数がインフルエンザにやられていた様子だった。我がSOBは全員・・・。

2年続けてロザでルリー・ベルの誕生会ライブのバックを務めた。皆どこか鼻声なのに彼は元気一杯で、「イァーイ、メリークリスマス!」とご登場。その脇から奥様のスーザンがカードを関係者にそっと渡しながら、「今日の誕生会はルリーに内緒だから、彼に気付かれないようにお祝をカードに書いてね」と策していた。実際のルリーの誕生日は17日だが、縁の深いロザでびっくりパーティを催して喜ばせたいらしい。

回ってきたカードを見ると誕生日用と新年用のニ枚。新年になっていなくても、会う人ごとに「ハッピーニューイヤー」とも挨拶されるイイ加減でメリハリのない国民性は合わない。しかし考えてみると、東海岸はもう年が明けました、こちらはまだ去年のままですって広い大陸なので、区切りの付け難いのは仕方がないか。

ステージでセッティングをしていると、ロザのマネージャーで本日のドラムも叩くトニーが、ルリーに向かって大声で何か問いかけている。

「ヘイ、ルリー今日は何のパーティか知ってるかい?」
「えっ、何?」
「君の誕生パーティさ、驚いただろう?」
「いや、ボクの誕生会は先週からずっと続いているよ」

ルリーの隣に座っていたスーザンを見遣ると顔を引きつらせていた。オレがトニーのところに近付き彼女の計画を説明すると、罰の悪そうな表情で「ッテム」と一回だけの地団駄を踏んだ。それでも気を取り直して「ちゃんとケーキを買っておいたから、後で食べよう」と小声で打ち明ける。周りが見えない時もあるが気のイイ奴だ。

ルリーのギター演奏は素朴で力強く、小手先のテクニックに頼らない野太さがある。それなのに繊細で壊れやすそうに感じるのは、同様の質感を持つ唄と合わせ、彼の内面から表出する感情が素直すぎるからではないかと感じてしまう。サム・クックの"Bring it home to me" をバラードで演奏した時は、まるでB.B.やレイ・チャールズのバラードモノを奏でているかのようだった。

ルリーを祝いに来たパイントップ・パーキンスが、50年代のバラード風に弾いた "So Long" のギターソロでも、ストレートなフレーズを3コード以外のコードに上手く当てている。ストレートのブルースだと分かりにくいが、コードに少し変化があるとその繊細さは際立っていた。そしてトーンが振れない。

器用なギター弾きは増えたが、いつも同じトーンでこちらの心の深淵を舐めながら、次第にその中心に音を落としてくれる人は少ない。彼と演奏するたびに、何十年も同じ演奏をしてきた重みを感じ、残り少ない真正ブルースマンと演奏できる喜びに浸れるのだ。

普段なら1時半には終演のところ、オレたちがステージを下りたのは2時5分前だった。サム・クックの曲が一番良かったよとルリーに言うと、子どものように破顔して喜びを表した。そのあと、アリヨの演奏も良かったよとお返しをするので、ルリーがオレを引き上げるんだと持ち上げると、いやアリヨがと、いつものように二人で他愛もなくじゃれあった。彼のまえではこちらも無邪気に成れてどこか癒されてしまう。

店内が急に明るくなったので、ベースのフェルトンが眩しそうに「何でこんなに明るくする必要があるんだ」とオレに問いつめるように尋ねた。「いつも誰かの誕生日の時にすることだけど、トニーが買ってきたケーキを今から切り分けるからだよ」と答えると、彼は得心した面持ちになった。

イタリア移民のトニーが買って来るケーキはアメリカのバカ甘いそれとは違って、オレたちでも結構食べられる。間もなく奥から大きなケーキが現われた。ルリーは純粋に心から喜びを表し、トニーと少し雑談したかと思うと、ケーキの箱とスーザンを抱え帰っていった。

おいおい、それ一人で喰う気かえ?ホンマ子どもやがな・・・


2003年12月27日

オレにとって今年最後のロザでの演奏を、ビリーたちと終える。午前3時半、外に出ると暖かい雨が降っていた。ホントに暖かい。

明るいベージュ色のダブルのスーツが濡れるのを気にしながら、車に乗り込んだ。相当高価な服だったので大切に仕舞っておいたら、その内流行りが過ぎて日本では何度も着た覚えがない。アメリカでは流行りなんて気にしないからステージ衣装に良いと持って来ていたのだ。それでもオレが着るとモロヤンキー風になるし、着こなしによってはフーテンの寅さんも出来上がる。常にコーディネイトをお任せしている、元カリスマFAだった家人が帰国しているので誰に相談することもなく、暖かいので気晴らしに着てみただけだ。

メンバーや従業員、馴染みの客の評判は良かった。とても良かった。スーツを着ることがあってもそれは常に黒(ダブルとシングルの2種)なので、明るい色のスーツは印象も変わるらしい。インナーに黒のTシャツを選び、髪の毛も立てずジェルで寝かせた。

一セット目が終わりステージを降りると、中学生位の男の子を連れたグループの人が呼び止める。オレの5倍程の大きさのおば様が演奏を誉め、本日の衣装をそれ以上に評価した。「マイアミバイス」みたいでカッコイイと宣う。

「マイアミバイス」はマイアミを舞台にした麻薬捜査官の物語で、80年代後半に流行ったテレビドラマだ。そういや主役の一人である白人の男前が、今日のオレのカッコウをしていた。ん!?80年代?横のガキも一緒になって「マイアミバイス」みたいでカッコイイとほざく。ワシあのドラマの主人公が一番嫌いやったの!ましてや80年代の格好かえ?

しかし、今年見た中で一番美しい女性(印象では映画女優クラス)からハグされたので帳消しにしておく。但し、そういった女性は絶対に背の高い金髪の男前を連れている。アメリカでは、しかもシカゴでは、しかもブルースクラブでは、目を見張るような若い美女を滅多に見かけない。

追っかけ生徒のN嬢を宿舎に送った帰り道、ふと見知らぬルートを通ってみたくなった。小腹が空いているので何かお持ち帰りしたいが、こんな時間のいつもの道に、オレの食指が動く店はないからだ。程なく黄色い看板に「Maxwell St.」の看板が目に飛び込んだ。そういやノースサイドに一軒、あのホットドック屋の出店があると聞いた、ここに違いない。小さなスタンドの裏に車を停め、急いでポーリッシュドックを買って車に駆け戻る。

おお、こりゃ良い!ウチに戻って早速マクセル・ポーリッシュドックの晩餐だとエンジンを掛けながら見上げると、看板の裏側が目に止まった。表と同様に「Maxwell St.」と書かれた下に何か小さく記されている。

「Bus Stop」

ふーむ。続けて読むと、「Maxwell St. Bus Stop」。間違いなくあの店の出店ではない。これはもう「バス停前・本家聖護院八つ橋」の如き意味をなさないバッタモンの店でしかない。ここまで瞬時に考えてふと気が付いた。オレはあのホットドック屋の正式な屋号を知らなかったのだ。うーむ、この店がアレの支店ではない証明はなされないままである。

オリジナル店は今はなきマクセルストリート(映画「ブルースブラザーズ」の冒頭に出る「市」)の屋台。都市整備で立ち退いた後、サウスサイドを中心にチェーン店化した。いつも立ち寄るのはダウンタウンの南側、高速の西に位置し、2店(ある説ではこの2店が本家、元祖と言い張りしのぎを削っている)が軒を列ねている。看板をちゃんと読んだ覚えがなかったのだ。

本家でも元祖でも旨けりゃ宜しい。どちらかが実際にバス停前にあったかも知れないし、なかったかも知れない。最後にマクセルストリートに行ったのは15年程前だから覚えてはいない。これはもう喰って判断するしかないと不安一杯で家に戻る。

そして「Maxwell St. Bus Stop」は、クリスマスの横浜中華街もどき(2003年12月25日参照)に匹敵した。

どんなに暖かい冬でも年末のシカゴは凍えていたのに、明日は10℃を大きく上回るらしい。大丈夫か?地球。


2003年12月30日

カルロスとのミックスダウン(計5曲)終了。今年一年の締めくくりの仕事が地味なスタジオ作業だったのは寂しいが、人並みに年末休暇(31.1.2.)を楽しめる。夜、郊外の日本食レストランKでささやかな自己満足的打ち上げ。

店に着く前は醤油ラーメン+餃子だったが、本日最初の食事なのでラーメンの汁が腹に溜る恐れを抱き、メニューを確認し焼そば+餃子に決めた。待ち合わせていた旅行社のNの到着が遅れ、この間(ま)がいけなかったのかも知れない。既に献立を決めていたNはメニューを見ることもなく、カツカレーに餃子と言っている。続いて注文をしたオレの口は醤油ラーメンに餃子2人前と言ったようだ。

「オッチャン餃子2人前?ほなオレも2人前」

一つしか歳は変わらないのに、Nは学生時代からオレを「オッチャン」と呼ぶ。そのオッチャンは醤油ラーメンと言ったことを気に留めず、餃子10ケを頭に描きながら「うん」と返事していた。K嬢はニコニコと味噌ラーメンを頼んでいる。

文面のみを眺めると日本の商店街に在る食堂の夕(夜)食時と何の変わりもない。店内も単身赴任の日本人サラリーマンやそのグループで混み合い、アメリカ人と見受けられる人はほとんどいなかった。辿々しく日本料理名を復唱するアジア人ウエイトレスも、今の日本では珍しくないだろう。

やがてテーブルにカレー皿とラーメンの鉢が二つ並んだ谷間に、餃子の皿が4つとみそ汁が来て、異国に住んでいることを実感するのだ。

オレとNは無言で各々の餃子を二つの皿に盛り、餃子タレを作るために、4つもたらされていた醤油受けの小さな皿を手元に引き寄せた。「カレーにみそ汁かえ・・・まぁエエわ」と呟くNの横で、オレは焼そばにする予定だったことを思い出し、腹に溜らないことを願い始めていた。顔をあげると、K嬢はニコニコと味噌ラーメンを食(は)んでいた。