傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 30 [ 2005年4月 ]


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2005年4月1日(金曜日)

テキサスのオースティンへ引っ越したパイントップ・パーキンスは、今年で92才になった。だからロザでの彼のライブは、いつ最後の演奏になってもおかしくない。

各セットごとのパイントップの登場前に、オレはジェームス・ウィラー、ボブ・ストロジャー、ウイリー・スミスと共に前座を務める。久し振りのパイントップなので、州外からの客が大勢来店していた。人々も、これが最後だろうと思っていたからかも知れないし、ついこの間、生涯の業績を讃える栄誉賞のようなグラミー賞を受賞したからかも知れない。

パイントップはさすがに元気がないが、語るように唄う姿を観ているだけで良い。もはや音楽家の域を越えた存在なので、同じ曲を何度演っても構わない。枯れた音を見せることのできるブルースマン最後のひとりなのだ。

杖を使わずステージを昇り降りする彼を支えると、独り言のように『オレは92才だから』と呟いた。空港へはトニーが迎えに行ったが、一人旅をする彼は方々で同じことを呟いているに違いない。

こちらには顔を向けず、力のない握手をする彼を『女性が好きだから』と揶揄する人がいたが、92才を売りものに女性を口説いている姿は想像できる。ただし、相手の女性の年齢は想像できない。


2005年4月3日(日曜日)

近所のバス停の側面が、パフィの大きな写真になっていた。CTAトレイン(シカゴ市内を走る電車)にも同じポスターが貼られている。アニメ専門局で彼女たちをモデルにしたアニメが人気らしい。一度観たがまったく面白くなかった。同じ子供用アニメでも、ポケモンやデジモンなど日本製アニメは線が綺麗で楽しいのに、パフィのものは無責任な二人組が白けた断片のギャグを淡々と演じていて、長くは観ることが出来なかった。これを古臭いと思うオレが古いのだろうか?

今日から夏時間。アメリカを旅行中の日本人の知り合いに、午後の3時に電話してくるよう頼んだら、掛かってきたのは午後4時だった。オレも気が付いたのは、Macと携帯の時計が自動的に進んでいたからだ。ケーブル・テレビのコンバーターだけは冬時間のままだったが、気が付くと一時間戻っていて、正確な時間より2時間も遅い時刻を告げていた。前回と同じく、こいつだけはバカのままだ。(2004年10月31日参照

大して厳しくなかったシカゴの冬が、ようやく終えようとしている。


2005年4月6日(水曜日)

ジェネシスには早く着きそうだったので、少し遠回りをしてみた。

シカゴのダウンタウンから40Kmも離れた郊外は、夕暮れの林を抜けると民家はほとんど見当たらない。見知らぬ線路を過ぎると、直ぐにカンカンカンと音がした。どんな列車が通るのか見たくなり、Uターンをして遮断機の降りるのを待った。間もなく、横っ腹に"IOWA INTERSTATE"と記されたディーゼル式の気動車が3両現れる。3両で引っ張るのだから、きっと長い貨物列車が延々と続いているに違いない。 

鉄道王国の日本とは違い、アメリカの州間鉄道はのんびりと走る。映画で観られるように、走って追い付くほどの早さなので、実際に飛び乗ってみたい感情がいつも顔を出す。それが騒動になれば行動に移すのだろうが、そんな勇気と若さがないことをどこかで哀れんでもいる。

今の生活に満足しているのかも知れない。或いは不満が逃避で解消されないことを、始めから悟っているのかも知れない。だから頭の中だけで、その瞬間は走り出している。どの車両に飛び乗ろうか迷っている。

この速度では、丸一日乗っても大して遠くへ行くことはできない。それでも、何線か分からない、どこへ連れて行かれるか分からない不思議な旅をしてみたい。アイオワ方面へ向かうはずだが、そこからまた先へ進むこともあるだろう。感傷は果てしなく深く歪みを見い出し、大地と大空だけが広がる風景しか思い浮かばせない。

むき出しの資材、何かのタンクが何両も連なり、チェーンに巻かれた大きなショベルカーも過ぎていった。そしてコンテナ車が延々と続いていく。ところがいつまで経っても、オレを乗せるはずの、扉が空いた車両は現れてこない。まごまごしていると乗り損じてしまう。さっきのショベルカーは運転席のドアが開いていたから、最悪そこで夜風を凌ぐこともできた。もうどれでもいいから、取りあえず飛び乗ってしまえば、車両を渡ってどこかへ潜り込めるかも知れない。そう決心したとき、最後尾のコンテナは通り過ぎて行った。

遮断機の上がった線路をわざと徐行して、貨物列車の尾灯を見遣った。赤い灯が薄暗くなった林の中を、漁り火のようにゆらゆらと遠ざかる。行き交う「時」と同化して「旅人」となったはずのオレも遠ざかっていった。


2005年4月7日(木曜日)

国民の義務である納税の季節。いやいや、オレは合衆国市民ではないので、納税は就労者の義務である。

税理士に書類を届けるために、昨日遅くまでかけて収入と出費を計算した。うーむ、これほど働いているのに、これっぽちの稼ぎしかないのか・・・いやいや、これだけしか働いていないのでこれっぽちなのだと、頭の中のタヌキが来期の皮算用を始める。

健康で文化的な暮らしを維持する経費など、毎年そんなに変わりはしない。問題は収入であって、その数字をどう伸ばしていくかと頭を悩ませるのだ。

日本ではツアーが多く、月に10数本仕事があれば忙しく感じた。夜7時からのライブも4時頃には現場入りしてサウンドチェックをし、10時頃に終われば打ち上げが未明まで続く。翌日昼までにホテルをチェックアウトして次の現場に向かう繰り返しは、家に戻れば一週間以上の完全休養が必要だったのだ。

今は地元のクラブがほとんどなので、20本以上なければ忙しくは思えなくなってしまった。開演30分前にセッティングをして、終演後30分でさっさと店を出てしまう。粛々淡々と日々は過ぎ、日銭をコツコツ積んでいって月を終える。

誰も聴いていない賑わかしのパーティバンドなど、金は良くても楽しみはない。それを考えると今のところ、ほとんどの仕事は一応ライブと呼べる種類のものなので、客からの声援なども励みになるし、ときおり拙CDを求められることもある。

それにしてもである。今回シカゴへ戻って早や4年が過ぎようとしている。そろそろ次のステップを算用せねばならない。気ばかり焦り、愚痴は増えても行動が伴わない自分と、本格的に向き合わねばならない。


2005年4月8日(金曜日)

キャサリン・デイビスとは20年以上も前から互いを知っていたが、"House of Blues"のレストラン・シアターで初めて一緒になる。

各一時間の3セットで、キャサリンは合計8曲しか唄わなかった。なにも彼女がサボってズルをしていたのではなく一曲が長いだけで、ほとんどが観光客の客席を沸せていたから、それはそれで感心してしまう。ただし、バンドは楽なようで結構辛い。ギターのMさんなどはずっとソロを取らされて、ネタ切れから同じフレーズを何度も弾いていた。オレはオレで、クラシックブルースには合わない"A♭"や"C♯"のキーを延々弾かされ、やっぱりネタ切れで誤魔化していた。

家が近所のキャサリンを送って帰る途中、彼女が助手席で『ワォー!』と歓声を上げた。『ジュジュビーズ、ジュジュビーズ』とはしゃいでいる。ははぁ、お数珠のことね。

97才で他界した祖父は臨済宗の高僧で、本山の宗務総長まで登り詰めた人だった。一人娘の母が結婚して寺を出たので、オレは出家せずに済んだようなものだ。その敬愛する祖父の形見の数珠を、運転席のギアレバーに巻き付けていた。

しかし「数珠ビーズ」とは誰が教えたのだろう?数珠は英語で"Beads"になるので「ビーズビーズ」ではないか。(正確には"Praying Beads"、もしくは"Buddhistrosary"。こちらの人は「ロザリオ」の方が分かりやすいかも知れない)「数珠ビーズ」は語呂が良さそうだが、「お茶ティー」「着物ドレス」「畳みマット」などに通じる、日本人にとっては妙な言葉である。

キャサリンは4年前に宗旨を替えて仏教に興味を持ったらしい。キリスト教は、アフリカ系アメリカ人の奴隷の歴史を象徴する、精神的な基盤と感じるようになったからだと言う

アフリカではもともと各部族に各々の土着信仰があったはずだ。言語も習慣も違う人々を、肌の色だけで同じ農場に押し込め奴隷にした歴史と、キリスト教によって均一に救おうとする矛盾は、それが止揚された形で独自のゴスペル文化を生み出した。今ではアフリカ系アメリカ人の精神的アイデンティティとなったのがキリスト教だ。キリストは黒人だったという者までいるが、キャサリンは歴史の根源まで遡って逆らうことを選んだ。

座禅を中心にした修行の形態・目的などを説明すると、一層の興味を持って耳を傾けた。心を虚にする、何も思わない、何も感じない、無になる、そして煩悩を取り払い解脱し悟りを開く。どうすればその境地に達することができるのか、彼女は当然のように訊いてきた。

子供の頃から座禅の真似事はしていたが、瞬間でさえ、一度も悟りに達した覚えがない。習慣としての仏事は欠かさないし、仏さまを敬ってはいるが仏教徒ではなく、極楽浄土で祖先と会えるとも信じていない。煩悩だらけの人間で、その煩悩を正当化することしか考えていないのだ。しかしキャサリンの信心深さは真摯なようであった。

母の実家の寺を継ぐ再従兄弟から聞いた、僧堂での修行の様子を話そうとしていたら、彼女のアパートに着いてしまった。またゆっくりお話ししましょうと言って別れたが、ブルースって失恋だの金だのって、煩悩だらけの音楽ではなかっただろうか。

悟りを開いた仏教徒のキャサリンが唄うブルースって・・・、「迷い」があればその瞬間、良い音が出ていないのも事実ですが。


2005年4月10日(日曜日)

お客さんの黒人のおじいさんから『30分××ドルでブルースピアノを習いたい』と頼まれ、出稽古に行ってきた。

怪しげな風貌に警戒していたが、住まいはウエストサイドと思えない高級老人ホームで、ホースト・ラブと名乗った彼の瀟洒な部屋には、フェンダーのローズピアノやギブソンの335セミアコースティック・ギターが置いてあった。

78才になるホーストは市の職員として長年働き、今は年金で悠々と生活している。アラバマ出身で第二次世界大戦後にシカゴへ移り、シカゴブルース全盛期にはサウスサイドやウエストサイドのブルースクラブへ顔を出していた。フレディ・キングとは遊び友達だったが、彼の名声は死後に知ったと言う。

『あいつがいなくなると、ひとりでクラブへ行くのが億劫になったんだ』

他にも、リトル・ウォルターやエルモア・ジェームス、ハウリング・ウルフのライブへよくいき、ウルフからは『ピアノが弾けるのなら、一緒に演奏しろ』と誘われたが、臆病で結局ステージへは上がらなかった。

『30年以上も前、一度デルタ・フィッシュ・マーケットでドラムのサム・レイにステージへ上げられ、大恥をかいたことがあったんだ』
『恥って?』
『おれが演奏し始めたら間もなくサムが、ダダダダダダって叩いて曲を終わらせ、弾けるようになったらまた来いって言われた』
『それで、弾けるようになろうとしたんですか?』
『いや、練習が嫌いで直ぐに眠ってしまうんだ』
『何をどう練習すれば良いか、分からなかったんでしょう?』
『そうかも知れない。お前ならちゃんと教えてくれそうだし』

30分の約束が1時間半も長居してしまったのは、老人がひとつの事を覚える前に、『これはどう演ってるんだ』とCDを聴かせたりビデオを観せたりしたからだが、それでもオレは、丁寧にポイントを実演して彼を楽しませてあげた。

時折の「ブルース昔話」はブルースファンにとって憧れの時代だが、彼には当時の想い出・流行歌であり、模倣とは異次元の、気負いのないリアリティがある。オレの演奏にのって、南部訛の芯の通った掠れ声でホーストが口ずさむ曲は、その時代を切り取った哀楽が内在しているのだ。

ブルースとは縁のなかったはずの東洋人から、ブルースピアノを謙虚に習うアフリカ系の老人。なんて時代になってしまったのだろう。伝統芸能の行く手を象徴するかのような構図に寂しくなりながら、それでも老人のブルース感の息吹きを共有して、仕事で教えながら同時に趣味で教わっていた。

『もっともっと』とせがむホーストに、『食べ物でもたくさん出されたら食べ切れないでしょ?それに予定の30分はとおに過ぎてますから、今日はここまでにしておきましょう』と切り上げた。もっと遊びたかったが、仕事で来ているのでけじめは大切だ。

『それで、おれのダメージはどれくらいなんだ?』
『はっ、ダメージ?』
『ダメージさ、おれがお前に支払う値段だよ』
『ああ、30分××ドルで一時間以上レッスンしましたよね』

オレは意地悪そうに少し間を置いてみた。この年金暮しの老人から予定以上のお金をもらうつもりは端(はな)からない。

不安そうにこちらの顔色を窺う彼に笑いながら、『あなたが最初におっしゃった、30分のレッスン料で結構ですよ』と答えると、老人は新しい茶飲み友達を歓迎するように『何か冷たいモンでも飲んでいかんか?』と冷蔵庫を開けながら誘った。缶コーラをありがたく頂いて、予定があるのでお暇しますと告げる。

『それで次のレッスンはいつにする?』
『あなたが今日の宿題を終えたら連絡してください』
『日曜と火曜日が休みだと言ってたよな、明後日はどうだ?』
『ぐっ・・・明後日までに弾けるようになる量じゃないでしょ?』
『じゃぁ、来週はどうしてる?』
『いや、だからあなたが少しでも練習して、次のレッスンが必要だと思ったら連絡して欲しいんです。そのときにスケジュールを決めましょう』
『おれは火曜日でもいいんだが』
『・・・』

ホントに茶飲み友達が欲しかったのか?


2005年4月13日(水曜日)

週末以外のSOBのライブは、よっぽど酷い奏者でない限り、寛容なビリーがミュージシャンをセッションに上げている。ところがベースのニックは好き嫌いが激しく、そして一番の年寄りであることを理由に休憩したがるので、ここぞというときはオレにベースを渡す。

弾けるといってもたかが知れているが、ピアニストがベースを持ったので、バカにされたと思ったそのギタリストは一瞬ムッとした。すかさずドラムのモーズが『大丈夫、こいつはちゃんと弾くから』と言って曲は始まる。

大したことのないスイングとスローブルース。ピアノを習い始めたのは早かったが、ブルースはギターが先だった。だからそこらへんのべーシストよりはフレーズを知っているし、大音量になりがちなニックよりもバランスだけは自信がある。

ギタリストはオレの演奏に満足したのか、『いやー良かったよ』と言って握手を求めてきた。こいつもいつかベースの仕事を依頼してくるに違いない。

安い仕事でもバンドは最低限、ギター、ベース、ドラムの3人が必要だ。超安になると普通のミュージシャンは引き受けない。普段ピアニストとしては頼みにくい仕事でも、べーシストとしてなら値段を叩けると思われても仕方がない。

リハーサルをほとんどせず、ぶっつけ本番で演奏するこの世界は、演奏技術よりも、曲をどれだけ知っているかが優先されがちだ。そしてオレは、その人たちが好んで演る曲を良く知っていた。

20年程前に、一度だけベースの仕事をしたことがあった。当時在籍していたジミー・ロジャースバンドのべーシストが、自分の仕事でギターを弾くためにオレをベーシストに仕立てたのだ。当然ギャラは安かったが、ベースの依頼が増えて閉口した。それだけ底辺に巣食っていたということだ。しかし浮かれてベースの機材一式を揃える気もなく、仕事はすべて断わった。

今は気持ちに余裕があり、あの頃より曲に対応する力もあるので、依頼を引き受けるかも知れない。しかし本当の仕事ならやはり失礼なことだと思うので、実際のところはどうか分からない。セッションでギターが弾きたいと頼むことをいつも躊躇するのは、『やっぱりお前はピアノの方が良い』と言われることが癪だからだ。

最終セットで4人のハープ奏者が列をなし、ビリーが"Help"を吹き始めた。ニックが落ち着きなくオレの反応を窺う。仕方なくピアノを放棄し、ステージの前を横切ってベースを受け取ると、彼は自分のハーモニカを持って列の後ろへ並んだ。

オレはニックの、そのバカさ加減が羨ましい。


2005年4月14日(木曜日)

ジェームス・コットンバンドのベース、チャールズ・マックのソロCDには、ビリー・ブランチ、モリス・ジョン・バーンを始め、オレやキーボードのルーズベルト・ハッター・ピュリィフォイ、ドラムのブレディ・ウイリアムス、チャールズの兄のマーク(コットンバンド、ドラム)、ロザのロブ(リトル・ミルトンバンド、ギター)などが参加している。そのCDリリース・パーティとロザを掛け持ちして、シカゴの夜を駆け回る。

チャールズバンドにはG.O.というファンキーなキーボードがいるが、CD通りのお披露目をするためには鍵盤が2台必要なので、9時過ぎにキングストン・マインズへオレの機材を搬入する。10時半からの一セット目に録音した2曲を演奏。

僅かな出番でもチャールズが「アリヨコーナー」の如く守り立ててくれて、ひとりでの登・退場が面映い。特にステージを降りるとき、二人の女性コーラス以外からは様々な日本語が飛んできた。

『アリちゃん、ホントにありがとうねっ』
『アリガトウゴザイマス』
『スケベー』
『拍手をお願いします』

各々がマイクを使ったり、素の大声で叫んでいる。どうせ客には伝わらないが、意味を知っているだけに照れてしまう。マークのひとつ覚えの『スケべー』はそろそろ卒業して欲しいが、みんな滞日経験があり日本贔屓なのだ。

新宿ピットインの常連だったG.O.など、誰よりも発音がしっかりしている。チャールズのお陰で注目され、一杯拍手をもらっているのに、G.O.が連呼する『拍手を・・・』に促されて手を挙げ声援に応えていた、そんな自分がとても恥ずかしかった。

直ぐさま車に飛び乗りロザへ向かい、11時50分にはセッションのホストバンドの中にいた。ほとんど休憩なしで午前1時45分まで演奏し、2時15分にマインズへ舞い戻る。昼間に郊外の美容室へ髪を切りに行ったので、眠くて仕方がない。

2時半からの3セット目は「荒らしミュージシャン」で溢れ返る。オレはチコ・バンクスやドラムのプーキー(左利きだが右のドラムセットでも叩く)、ココ・テイラーバンドのドラムのリッキー(ベースを弾きに来る)と共に上がる予定だったが、予めチャールズに仕込んで、マインズの名物MCであるフランクをオレの位置へ上がらせる。ところが、この日登場した唯一の白人であるフランクがオレを呼び込んでしまった。

G.O.はオルガン音源を出すから一緒でも問題ないが、フランクはG.O.のキーボードでピアノ音源しか使わない。そしてオレの機材は、ピアノかエレピ音しかまともな音源はなかった。マインズのオーナーの息子で、ステージ上の責任者でもある彼の意向は無視できないし、チコも煽っているので、アリバイ作りのためだけにフランクの横へ身体を置いた。

二つのピアノ音がぶつかり合い、チコたちの恨めしそうな表情を横目に、フランクはご機嫌良さ気だった。いたたまれなくなって次の曲で降りる。フランクが『いいのか?』と言ったが、オレと共演して何を演りたかったのだろうか?

友達のチャールズへの義理は果たせたが、マインズへ機材を搬出入しただけの忙しい夜だった。

アパートへ帰りシャワーを浴びると午前5時近い。明日は完全休養日。


2005年4月16日(土曜日)

シカゴの新しい住人になった Y さんを、SOBの出演するロザへご招待差し上げた。

オレが日本人女性と一緒にいると、紹介してくれと寄ってくる男は多い。関係者に『あの女性はアリヨの奥さんか、彼女か?』と確かめてから来るので、最低の礼儀は分っているようだ。それでも、話が弾まないことを「言葉が充分に通じないからだ」と勝手に解釈してしつこく居座ろうとするのは、女性に失礼だしみっともない。第一、そんな様子で何とかなるかも知れないと思う、根拠のない自信はどこからくるのだろうか?

白人美容師のTは、オレを間に挟んで話そうとするから閉口してしまう。結果、オレとTとの会話になってしまうからだ。困った顔のYさんを置いて席を離れるのは申し訳ないが、彼女は英語がまったく話せない訳でもないのでTに任せた。しばらくすると、所在なさ気だった丸山さんが二人の側に近付いている。きっと優しい彼は、見知らぬ日本人が顔見知りに迫られているところへ、助け舟を出そうとしたに違いない。すかさずオレが走り寄りYさんを紹介する。

『有吉さんの彼女?』

アンタもかぇ!

人の少なくなった最終セットの、ビリーを呼び込む前のオープニング演奏。客席を見遣ると、ようやくTの束縛から放たれたYさんの横に、大将がちょこんと腰掛けていた。

アンタもかぇ!

異性に興味のなくなったミュージシャンには、あまり魅力を感じないものである。


*註:ワタクシもビリーも丸山さんも、「彼らから」店内の女性を口説くことはなく、あくまで「お客さま接待」の一環としての行動であることをご理解ください。


2005年4月18日(月曜日)

アーティスには様々な物売りがやって来る。倒産した店から流れた服や靴、日曜雑貨などが驚くほど安い値段で売られているが、そのオッチャンはCDの複製を扱っていた。自分でコピーしたのか、誰かにさせているのかは分からない。オレたちの演奏の休憩中、バックを重そうに肩から下げ、CDを十枚ほど手に持って客席を回る。

小柄なオッチャンがカウンターから離れた席にちょこんと腰掛け、自腹を切ったビールを片手に大人しくも楽しそうにしているのは、良い子にしていて店で粘り易いようにするためと、ブルースが好きだからだろう。

機材を車に積み込んでいると、『アリィオ、北へ帰るのかい?』と声がした。いつも『はぁい』としか挨拶をしなかったから、オッチャンがオレの名前を知っていて少し驚く。

『これからキングストン・マインズまで行きたいんだが、どこかで降ろしてもらえないかい?』
『車を持ってなかったの?』
『87年製の古いフォードを持っていたんだけど、こないだ、朝の8時にダウンタウンで停めていたら盗まれちゃったんだよ。朝のラッシュ時だよ、物騒だわ』

午前3時半まで営業しているマインズへは、今からだとバスや電車を乗り継いでいては間に合わない。

『そりゃ大変だねぇ、店までは無理だけど、ノースサイドのバス停で降ろしてあげるよ』
『いやぁありがとう、大助かりだわ』

オッチャンは助手席に乗り込むと、『アリィオは・・・て人知ってるかい?』と訊いてきた。

『さっき店に来ていたのに誰も紹介しなかった』
『えっ?表でオッチャンと話していた人?』
『ああ、今も大活躍するトップ40の有名バンド「・・・ダダ」のボーカルさ』
『・・・ダダ?悪いけど知らない』
『彼の兄弟は、メジャー映画の「グリーン・マイル」にも出演していた、ほらでっかい黒人が刑務所で・・・・・・していたあいつだよ。・・・は・・・ファミリーの出だよ』
『へぇー「グリーン・マイル」は有名だけど、映画は観てないなぁ』
『とにかく今日来ていた・・・は、すごい有名人なのに、誰もステージから紹介しなかた。彼はバーテンダーのエレインに対して、オレを知らないのかって失望していた』
『そりゃ有名な人でも分からないこともあるし、仕方がないよ。ビリーもモーズも知らないか、気が付かなかったんでしょう。そんなときは誰かが教えてあげなくちゃ』
『そうだな、それにしてもクラブやミュージシャンは冷たい』
『何が?』
『マイクで誰某が来ていますってひと言紹介するのに、一銭も掛からないんだよ。従業員も敬意を払っていないし』
『だから、みんなも知っていればちゃんと紹介もするし、それなりの敬意も払われるよ』
『そうかね・・・』

オッチャンは話を打ち切り、『音楽はないかね』と言ってオレにラジオを付けさせた。ホイットニー・ヒューストンが唄う、映画「ボディ・ガード」の主題歌、"I Will Always Love You"が流れ、オッチャンは陽気に口ずさむ。さすがに発音は素晴らしいが音程は取れていない。

にこやかに見えるが、オッチャンの心が沈んでいるのは確かだ。店内での行儀やオレへの気の使い方は、彼の営業態度であり、長年の行商で身に付けたものだ。「・・・」って人も「・・・ダダ」ってバンドも知らなかったが、『店やミュージシャンが冷たい』というのは、オッチャンへ対しての言葉に違いない。

高速から降りて直ぐの、マインズへ通じる道のバス停でオッチャンを降ろすと、彼は後部座席からバックを引きずり出しながら、『ホントに大助かりだったよ。さっきまでサウスの87番街にいたのが信じられないくらいだ』と大仰にお礼を述べた。

車をUターンさせ、バックミラーで暗いバス停に立ちすくむオッチャンを確認する。車内には路上生活者の臭いに似た汗臭さが漂っていたが、嫌な気はしなかった。大切な車を盗られ、汗だくでバスや電車を利用しているのだろう。オッチャンも生きることに必死なのだ。

遠回りになっても、マインズまで直接送ってあげれば良かったと、オレは少し後悔し始めていた。


2005年4月19日(火曜日)

深夜にケーブルテレビのチャンネルをあちこち回していたら、懐かしい80年代のシカゴの風景が出てきた。"Next of Kin"(パトリック・スウェイジ主演、邦題は「復讐は我が胸に」)という暗い映画なのだが、突然見覚えのあるクラブ内に切り替わる。外観は別の店を映していたので気が付かなかったが、今はなくなってしまったサウスサイドの「チェッカーボード・ラウンジ」だった。

スウェイジ扮する刑事たちが、ある男を探して怪しげなクラブへ乗り込む設定なのだが、そこに巣食うギャングのボスを観て吹き出してしまう。た、大将!?

ビリー・ブランチ出演の映画を初めて観たのは、日本のテレビで放映された「ベビーシッター・アドベンチャー」(原題、"Adventures in babysitting")だった。そのときも偶然で驚いたが、アルバート・コリンズの肩ごしに顔を覗かせたビリーの台詞は"Yea!"。しかし今回はもっと長い言葉が待っていた。

"You came to wrong place. Who's you looking for ?"

カ、硬い。表情もどこか強張っていてボスの凄みはなく、オレが椅子に腰掛けていたら、きっとずり落ちたことだろう。

そういや以前に、「ベビーシッター・・・」を日本で観たと話したら、『ちゃんと台詞のある映画にも出たぞ』と胸を反らせた。

『何回言ってもなかなか"OK"は出なかったけど』

ジョン・アーヴィン監督、諦めたか・・・。


2005年4月23日(土曜日)

あはは・・・雪 
雨混じりに吹雪いてる

インディアナのカジノでデュオの仕事
ミシガン湖沿いの駐車場で
搬出に手が凍える 

そろそろシカゴも冬か・・・こらっ


2005年4月24日(日曜日)

わーい、わーい、すっかり週休二日制となったお仕事サイクルの楽しい休日。「ミツワ何とか祭」で、大阪の何とかってたこ焼き屋さんが実演販売にやって来ている、今日が最終日。先週から楽しみにしていたので、朝早く(オレには早朝の午後1時)に起床して3時には中西部最大の日本食料品店ミツワへ御到着。

さすがに入り口付近から人でごったがえしている。催し物コーナーのメインは、上州名物・焼き饅頭。醤油を焼く香ばしい香が空腹の心を惹き付ける。うっ、イカンイカン、たこ焼きが先、浮気は禁物。すべての買物を終えてから、たこ焼き持ってエルフ(大鹿)のいる公園で食べる計画のはずである。

うっ、ハマチ安売り。脂テカテカのブリ状のハマチがそこそこ安い、今日の夕飯決定。うわっ、中華三昧の生冷麺が並んでる。正価でもカートへポイね。缶コーヒーのBOSSは温泉旅館の自販機で買ったつもりで2缶(約185円/缶)入れてっと、今日は日本の食パンは要らないから、えっと、あっ、いつの間に誰かがムース・ポッキーとロイヤルミルクティ・ポッキーをオレのカートへ入れてやがる、でもひと箱$2だから許す。蕎麦にマヨネーズに酢豚の素にブタの薄切りに日本のキュウリにレンコンにこんにゃくにお揚げにあれにこれにそれに・・・へはっ!?$63越えてますぅ・・・。でも今からたこ焼きですもん、今日はちょっと贅沢にね。

えっと、たこ焼きコーナーはっと・・・ほにゃっ、福井直送の駅弁「越前かにめし」コーナー、あっ、売り子さんはYちゃんとFちゃんだ!ひとつくださいな・・・(えっ$11.95、約1.300円)・・・あの、たこ焼きどこで売ってるの?えっ、今日は12時で店仕舞い?オレに電話しようと思ったけど・・・寝てるとこ起こすの悪いから止めたぁ?で、オレはここまで我慢して結局食べれずぅ?・・・「かにめし」ひとつくださいな。

こうなりゃ入り口の焼き饅頭も買ってやれ!はい、その大きな3っつ一串で$3のあんこ入りをください。

ううう・・・エルフが柵からあんなに遠くで、いてもいなくても分からない。そして焼き饅頭・・・味噌醤油とアンコはオレの口に合わない、しかも餅と思いきや、まるで焼きパン。かにめし、越前ガニたっぷりで美味しゅうございました。でも、子供用の弁当箱みたいな容器が小さくて、食べ終わりの物悲しいことこの上なし。


2005年4月27日(水曜日)

6連チャン初日。午後4時過ぎに空港へ知り合い夫婦を迎えに行き、アパートの近所のモーテルを紹介して荷物だけを下ろさせジェネシスへお連れする。マイルドセブン・オリジナル10を2カートン運んでくれたので、頑張って接待するのは当たり前。自宅へ戻ったのは午前2時前だけど、めっちゃ疲れました。

その若いカップルはニューオリンズのジャスフェスを目指して、去年の夏(2004年8月2日参照)オレが辿った道を南下するというので、山岸さんに連絡した。

『・・・へぃ・・・』
『アリヨですけど』
『おっ、どない?』
『実は知り合いが大阪から来てて、しかじか、かくかくの』
『そうか、ワシその日はマグノリアとどこどこで、次がパパグロでどこどこ』

一般人にとっては真夜中の一番寝入った時刻だが、ミュージシャンにはまだまだ宵の口。しかし今日の山岸っさんはどこかテンションが低い。

『ワシ、10数連チャンの真只中やねん。3本演った今日はめちゃ疲れた』
『・・・ガチャ』

6連チャンは忙しからず。


2005年4月30日(土曜日)

オーティス・ラッシュの70才の誕生日の昨日、胡蝶蘭を贈ったら、オーティス本人からお礼のメールが届いてびっくりした。多分奥様が代打ちしたのだろうが、高価そうな壷と共に、リビングに飾られた花を写した写真が添えてあり、少し恐縮してしまう。まだ老け込む歳ではないので頑張って欲しい。

キングストン・マインズでSOBの二日目。80年代からマインズで働くメキシカンのカルロスが、オレの子供の写真を欲しがっていたので持っていった。

アメリカ人の子供好き(2005年2月7日参照)は、ときに本当かと疑いたくなるようなおべっかもあるが、他人の子供の写真まで欲しがるのはよっぽどのことなのだろう。出産間近には『生まれたら直ぐ電話しろ』と言い、カルロスは希美人の誕生を我がことのように喜んでくれた。互いの連絡先を知っているほどの仲でもない。彼はオレの第一期シカゴ時代(83-88年)を知る、古い顔見知りに過ぎないのだ。

ドアマンとして働いていたカルロスは、セキュリティの役も兼ねていた。年齢チェック、入場料の徴収、トラブルの処理など、昔はのんびりしていたので、営業時間の長い(午後8時から午前4時までー土曜日は午前5時まで)マインズでも、二人いれば足りていた。

ところが90年代の好景気にも助けられて繁昌し、店が拡張された今は、入り口横にチケット売り場の窓口を設け、ドアマンは、主にセキュリティとしての色合いが濃くなっていく。だから週末のマインズは、専用のTシャツを身に付けた4-5人のセキュリティが、ハンドトーキーを持って店内の客の整理にあたっている。その内のひとりが交替でドアに立つのだから、セキュリティがドアマンを兼ねているといった方が正しい。

店には店のルールがあり、セキュリティがそのルールを客に啓蒙する。その場所には立つなとか、そこを通るなとか、そこで踊るなとか、ビデオは録るなとか、そこではタバコを吸うなとかの店のルールを、愛想のない態度で知らせている。従わない場合は強制力(叩き出される)も行使されるので、その態度が威圧的なほど、客は最初の注意で素直に従った方が得なことを知る。セキュリティの指示はお願いではなく命令であり、店という閉塞された小さな社会の秩序を守る、彼らは権力者なのだ。

およそマインズほどそれを徹底しているブルースクラブはない。ドアに立つ彼らがその裁量で、認知されていない自称ミュージシャンや、顔見知りをタダで入場させたり、通路を塞ぎウエイトレスを働きにくくする客を放っておいたり、ミュージシャンに迷惑をかけるたりすることのないよう、保全方針を徹底させているのだろう。セキュリティの体格は大型化し、常にしかめっ面で店内に配置されている。

一度、気の強いカルロスが、店の前に佇んでいた男を駆逐しようと息巻いていた。『オレが市の歩道に立っていようが、お前に迷惑をかける訳じゃあるまいし、オレの自由だ』と反撃されて、『ここからここまでは店の歩道で貴様が歩くことも許されないのだ、店の前を通るな!立ち止まるな!』とカルロスは怒っている。

店内は私有地でも歩道は公道であって、もしもその男が、店を出てきた客や入店しようとする客に迷惑を掛ければ、公力で排除するのは警察の仕事であるはずだ。明らかにカルロスの勇み足なのだが、見た目に押しの効かない小柄な彼が、いっぱいいっぱいになっているのを見るのは忍びなかった。セキュリティとして同様のことが別にあったのかも知れない。最近はカウンター内でバーテンダーを補助して氷を運んだり、グラスを洗ったりの、裏方仕事に廻されてしまっていた。どことなく他の従業員とも距離を置いていて、黙々と働く彼が気弱になっているように思える。

カウンター越しにカルロスを捉まえて写真の入った封筒を渡すと、彼は嬉しそうに受け取り、中身も見ず少し離れた棚のところへ走り寄り、置かれた自分の荷物の中へ仕舞い込んだ。その仕種が、まるで宝物を人に知られないように、こそこそと隠した風に見えて、カルロスの置かれた立場を案じてしまった。権力を剥奪されても、馴染んだ職場にしがみついている境遇が、オレに対してでさえ媚びているように感じることと重なって悲しくなる。

カルロスがどこに住み、どんな暮らしをしているかは分からない。昔馴染みのオレの初めての子の誕生を喜び、その写真をどんな気持ちで見つめるのだろう。写真に映ったわが子の笑顔が、彼を癒し、励ましてくれることを願って止まない。