傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 29 [ 2005年3月 ]


Ariyo & Valerie at Rosa's Lounge
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2005年3月3日(木曜日)

昨年ノース・ウエスタン大学の院を卒業し帰国したT氏が、出張の帰りにシカゴへ立ち寄り顔を出してくれた。土産のマイルドセブン(オリジナル)が何より嬉しい。

ベースのヴィックが時間になっても姿を見せない。彼からの連絡もないのでトニーは代役に緊急連絡して、オレたちは仕方なくベース抜きのトリオ(ギター、ピアノ、ドラム)で始めた。

久し振りのアコースティックは心地良く、客も静かに聴き込んでいるので、適度な緊張感が楽しい。いつもの音量だとピアノを叩きまくらねばならないが、自分の指先の感覚で大小を調整できるので、フレーズもスムーズに出てくる。

30分ほどしてベースの代役のハーレンが現れた。思い起こせば、彼とジェームスとオレが揃ったのは、1988年のオーティス・ラッシュのヨーロッパ公演以来だ。かといってドラムがトニーではさしたる感慨も湧かず、アコースティックのセッティングのままバンドに代わったので、気が付けばピアノ音は極端に小さくなっていた。ロブは休みで音響係りが不在だったのでトニーに文句を言い、曲間に彼が懸命にP.A.をいらう。しかしピアノ音は上がらず最初のセットは終了した。

休憩中もトニーはステージの床に這いつくばり、必死に原因を探ろうと奮闘していた。セッションのジャマーの整理・呼び出しから、マネージャーとしての店の営業・管理、そして音響係りと、休みなく働いて気の毒に思うが、ピアノの底に取り付けられているピックアップ・マイクが不調だと、バンドの音量に対抗する術(すべ)はないので仕方がない。

数分後、彼がニタニタしながらピアノの下から顔を出した。手に持ったP.A.ケーブルの端をオレに突き出している。始めから繋がっていなかったのなら、ボリュームをいくら上げても音が聴こえるはずはない。コードをコンセントに差し込まずに電源が入らないとぼやく類のボケボケさ。そして今夜もオレはピアノの調律に苦労していた。


2005年3月5日(土曜日)

土曜日の昼間、それも午後12時にニックの自宅のベースメント(地下)でリハーサルをするなんて、オレたちがこの週末は暇であるという証しだ。

床へ入ったのが朝の8時だったので寝坊してしまい、ニック邸に着いたのは午後12時30分。しかしビリーしか来ていなかった。みんなが揃った1時頃からミーティングは始まる。えっ!?ミーティング?

最近のだらけた演奏に喝を入れ、また結束を固めるためにミーティングなんてビリーらしい。議論は沸騰して3時25分に会議終了ぉ。ニック練習場の使用時間は残り5分・・・。先週末ドラムのモーズがとちった曲のおさらいでそれも終了ぉ。

車に乗ってからチャールズへ電話。この間手伝った彼のCDの自分の演奏がとんでもなく気に入らない旨を告げ、オレがスタジオ代を支払っても良いからもう一度録音させてくれとお願いする。チャールズは3分で掛け直すといって2分で掛け直してきた。

『ダイジョウブヨ、アリチャン、ダイジョウブ』

その軽い日本語がオレを少し安心させたが、鍵盤の軽いキーボードを弾きこなせない欠点を露呈した演奏には違いない。今更悔やんでも仕方がないし、「まっ、いいかぁ」といった軽いノリも必要だと彼に習ったことなのでそのまま帰路に着く。

お家へ帰ってさすがに眠く、小一時間程眠ってからお子さまをお風呂にお連れしてドミノへピザを注文。クーポンでいつもの大判ハワイアン・ピザが利用出来るのか心配したが、$1安くなった上に2リットル入りコーラもくれて気持ち良く夕食を終え、録画したての映画を観賞。目蓋が再び重くなり始めた頃、今日一日何事もなく無事に過ごせたことを神様に感謝しようとして、何か気掛かりなことが心の底に澱んでいることを発見した。うっ!

ロザでは今晩、シュガー・ブルー(一年振りにヨーロッパから帰国)がカルロス・ジョンソン(神出鬼没)をバックに演奏していたんだった・・・。


2005年3月6日(日曜日)

暖っかぁいシカゴ、昨日は18℃で今日も10℃。

中西部最大の日本食料品店「ミツワ・マーケット・プレース」には、様々な日本語ミニコミ紙が置かれている。身近な話題から世界のニュースまで掲載されているので、買物に行く度に何種類かをもらってくるが、ある情報誌の記事が気に掛かった。

表題に大きく"Sweet Home Chicago"と書かれていたので、またブルースの話題かと思ったらブの字も出てこない。どうやらシカゴの魅力を紹介しているようなのだが、具体的な地域、建物や店の名はほとんど挙げず、美術館、博物館、映画館、ナイトクラブなどと大括りにしている。それらが充実していることと、人々が親切で街は清潔だから、世界中から訪れる人が増えていると結論付けていた。

確かにITバブルと呼ばれた頃の建設ラッシュでダウンタウンも様変わりしたが、南へ行くほど付け回す人は相変わらず多いし、道は埃だらけで空き地は暗く物騒だ。比較的安全だと思われるところでも、交差点では物乞いが信号待ちの車に寄ってくる。驚いたのは、そのほとんどが白人だということだ。オレにはシカゴから離れて郊外へ行くほど、親切な人や清潔な街並が現れてくる印象があった。

また筆者は、この10年で州外、国外からの移住者は増加し、シカゴは多国籍化、多文化、異文化都市(意味が良く分からない)となったとおっしゃるが、アメリカ自体が移民の国であり、都市部では常に国外からの移住者(不法移民も含めて)で溢れている。冷戦の終結で東欧から、自国の経済発展とドル安でアジア(顕著なのは韓国)からの渡航者は増えたが、それはどこの都市にも当てはまる現象ではないだろうか?

観光スポットにいたっては「例をあげればきりがない」としながら例を挙げず、「とにかくたくさんある」と結んで上記の大括りが登場する始末。僅か文末にダウンタウン周辺の名所は登場するが、そこがどう魅力的なのかの説明はない。

およそ原稿用紙3枚半程度でシカゴの魅力を述べよといわれても困るが、これではあまりにも漠然とし過ぎていて、シカゴを別の都市と置き換えても通用するような内容に苦笑いしてしまった。

しかし圧巻は冒頭部分。シカゴ在住のアメリカ人は「シカゴのことを"Sweet Home Chicago" と呼ぶ」と断定されていた。"Windy City"や"Chi Town"と呼ばれるのは知っていたが、街が"Sweet Home Chicago"と呼ばれているとこを、オレはまったく聞いたことがない。ニューヨークが"Big Apple"でロサンゼルスが"L.A."は有名だろうが、街の愛称にその名前が付くのだろうか?

誰かがこのタイトルの歌を唄っていてみんながそう呼ぶようになったらしく、歌手名は定かではないとも宣う。えっ!?大ヒットした映画「ブルース・ブラザーズ」で認知されたのではなかったのか?マイケル・ジョーダン全盛期のシカゴ・ブルズのホームゲームでは、ハーフタイムショウに「ブルース・ブラザーズ」のソックリさんがいつも"Sweet Home Chicago"を唄っていたんだけど・・・。

そのようなエピソードなど、「たぶん、他の人も知らないと思う」と自信なさそうではある。"Sweet Home Chicago"の原曲が"Sweet Home Cocomo"って説はあるが、一般的にはロバート・ジョンソンじゃなかったでのしょうか?

うーむ、ひょっとしたらオレの思い違いかも知れない。シカゴの認識や解釈に食い違いが多過ぎるのだ。延べ10年近く住んでいるが英語も適当だし、オレはこの街のことを表面的にしか見ていなかったのかも知れない。このかたの方がいろんなことをご存知のような気がしてきた。

最後の署名にはアメリカ人っぽい名前にカッコ付で、「シカゴ生まれシカゴ育ち」とある。うーむ、お歳を知りたい・・・。


2005年3月8日(火曜日)

先週末の陽気はどこへいった?今晩のシカゴはマイナス9℃。でも部屋は暖かいので相変わらず夏の部屋着のまま。

前回の日記(3月6日付け)の"Sweet Home Chicago"の原曲に関する記述に対して、管理人様から「Kokomo Arnoldの"Old Original Kokomo Blues"が正確なタイトル」というご指摘を頂いたので、訂正してここに付記する。

しかし"Sweet Home Chicago"をカバーしているアルバムはすべて、原作にロバート・ジョンソン(1936年録音)と記してあったと記憶しているが、その場合著作権料はどこに納付されるのだろうか?

日本では著作者の死後50年、著作者が不明あるいは企業・団体などが所有している場合は、公表後50年を「著作権の有効(保護)期間」と定めているが、アメリカはそれぞれ70年と95年なので、やっぱりどこかへ納められているのだろう。当時のアフリカ系アメリカ人の置かれた状況を考えれば、それらの権利はレコード会社に帰属しているに違いない。

最近日本でようやく問題になってきた企業内の発明対価の算出もややこしいが、この著作権料も国や会社によって基準が違う。双方(所有者と使用者)の納得する割合が望まれるが、レコード会社との関係では一部の売れっ子を除いて、まだまだオレたちの方の分が悪い印象を持つ。

ブルース業界は所詮売り上げ(市場)が限られているので、良いものを出させて(レコーディングさせて)頂けるのであれば、オレは持ち出しをも厭わない。しかし市場の大きい業界の売れっ子が自分のレーベルを立ち上げているのをみると、宣伝費などを含めてもレコード会社の方が儲かっていると思うミュージシャンは多いのだろう。

何れにしても、インターネットで簡単に音源が手に入る時代になってしまったし、複製機の発達で同音質のコピーが容易になったので、レコード会社は立ち行かなくなるところが増えるのだろう。街のレコード屋さんは消滅しかけているし、アメリカのタワレコは随分前から銀行の管理下で営業していると聞く。

ってことは、作り手の不遇な時代に進んではいまいか?消費者本位といいながら「安かろう、悪かろう」のモノが量産されて、聴き手の利益にも反する状況が生まれないのだろうか?安易に作った音を、誰もが簡単にネット上で垂れ流せるからだ。『これいいですよ』と推薦してくれる、顔の見える店員さんがいないからだ。そして大手レコード会社は、ますます売れるものにしか金をかけないからだ。

確かにネットの利便性には目を見張るものがある。しかし、政治でいえば公安、右翼、宗教関係者が、『私は普通の人ですけど』と偽ってチャットや掲示板で活躍しているのを耳にすると、顔の見えない匿名性の脆弱さを慮(おもんぱか)るばかりだ。

氾濫する「情報を選別する力」の必要性がいわれて久しいが、情報に流される人が多いのも実際なのだ。音楽など理屈ではなく感性に訴えるもので、良いモノは人の心に必ず響くと信じたいし、それのみに貴重な労力を割きたいが、先ず耳にしてもらえなければ話もなにもあったものではない。

ミュージシャンが、音楽以外のああいったこと、こういったことを考えねばならない時代を疎ましく思う。


2005年3月12日(土曜日)

SOBは今月よっぽど暇らしい。先週に続いてリハが午後1時からニック邸地下にて。当初12時からと打診されてオレが文句を言い、1時間だけずらせたのだが、とんでもなく眠いことに変わりはない。

みんなが持ち寄った、来週のフロリダの「フェスティバル用90分楽曲リスト」の比べっこのみの打ち合わせを30分ほどして、久し振りの本格的リハーサルが始まる。

なぜリハーサルでは音量のバランスが良いのか?ライブは生ものなので、そのときの各自の気の持ちようで変わるから、ということは言い訳にしか過ぎない。誰もが「自分が自分が」という主張エゴで前に出たがるからだ。B.B.キングのバンドメンバーが、彼より目立とうとするかぁ?アレサ・フランクリンの唄が聴こえないような演奏するかぁ?レイ・チャールズのピアノが聴こえなかったら客は帰るぞ。もっと人の音を聴きましょうね。

ある曲のある部分のある人の演奏にダメ出しが入りまくる。

『そこ、タッ、タタッタッ』
『えっ!?タッ、タタタタ』
『違うちがう!タッ、タタッタッ!』
『分ってる分かってるって、タッ、タタタタでしょ?』
『違うって!タッ、タタッタッ!のタタッタッって3回』
『えっ!?タッ、タタアァタ』
『いや、かず数えたらおかしくなるから・・・』
『大丈夫、3回でしょ?えっ、3回!?タタッタッ』
『そうそう、そうだけど、最初の一発が必要だから・・・』
『えっ、だからタッ、タタアァタでしょ?』
『こうこう、ほらっ聴いてっ、タッ、タタッタッ』
『だから一緒じゃない!タッ、タタアァタ、あれっ!?タッ、タタタタ、えっ!?』
『ねっ、だから先に覚えてからね、タッ、タタッタッ』
『・・・タッ、タタッタッ、ほらっ、合ってるでしょ!』
『ブッ!今初めて合ったって!』
『じゃ、そこみんなで一緒に演るよ』

(タッ、タタッタッタ)

もう帰らせてくれぇ・・・。


2005年3月14日(月曜日)

アーティスでビリーに出会うと開口一番、『ケニー・ニールのシスターが撃ち殺されたそうだ』と微妙に暗い声で彼は伝えた。どうして人は、それが不幸ごとであればあるほど、衝撃が大きければ大きい話題ほど、一件を知らないであろう相手に伝えるときにどこか得意げな表情を見せるのだろうか?いや、本人はきっと意識していまい。しかしビリーが「銃」「殺された」の言葉に力を込めたとき、こちらの反応を窺う気配が感じられた。

『えっ!?銃で撃たれたんですか?』
『そうだ、彼女の女友達も撃たれたが重症らしい、撃った男も重症だが生きているという』

ビリーは詳細を知っている訳ではなさそうだったが、女友達や犯人は怪我で彼女だけが死んだことを強調していた。ドラムのモーズが横から『おれも誰かから聞いてたけど、ルイジアナの地元"Baton Rouge"で撃たれたこと以外は知らないなぁ』と言う。そこからは、死んだ誰某も撃たれたんだ、某(なにがし)は殺した方だったとかの話題が続く。殺人は非日常的であっても日本とは件数が格段に違うので、知り合いには巻き込まれたか当事者が必ずいるのだ。

ケニーのシスターが姉なのか妹なのかを知りたくて、帰宅してからネットで調べてみると、Jackie Nealは37才で47才の彼の妹だった。

先週の木曜日の午後、地元のネールサロンでマニキュアを塗ってもらっていた彼女は、3ヶ月前に別れた元ボーイフレンドに撃ち殺された。最初『犯人も撃たれたが生きている』と聞かされて強盗か何かを想像し、警官にでも撃たれたかと勘違いしていたが、別れ話のこじれが原因のようだ。本人も死ぬ気だったらしく、床に横たわるジャッキーの屍に被さり自らに撃ち込んだという。元彼は大人しく物静かで、とてもそんなことをするような人間には見えなかったと関係者は口を揃えていた。

アメリカの銃による事件・事故は後を断たない。この間も4才の子供が、部屋に置いてあった拳銃で1才の赤ちゃんを撃ち殺した事件が報道されていたし、毎年のように起る乱射は日本でもお馴染みだ。銃が手に入りやすい社会が問題なのかも知れないが、例え規制をしたところで、この暴力的、攻撃的国民性が変わらない限り状況は同じに思える。

それでも先ず規制は必要に違いない。ところが、圧倒的世論に押されても銃規制の法案はいつも頓挫する。絶対悪の核兵器廃絶を実現できないのと同じで、人々の思念の深部には「持つ権利」「身を守る権利」が燻っているからだ。いくらライフル協会などのロビーストが暗躍したところで、みんなが本当に規制を望むのなら、議会制民主主義が最低限機能している国では、一定の民意が反映されぬはずはない。

国内が戦場になったことがないために、政策を変えるほどの反戦運動にはならないのと同じで、身近で切迫した問題としては捉えられず、あやふやで不条理な「権利」といった逆の理念に流されやすい。

事あれば相手が行動する前に攻撃する国の最先端と同様、街の警官も、たとえ相手が子供であっても先制して撃ってしまう。大抵が過剰とは責められず、無益な発砲が報道すらされない。底流には知らない人(人種差別や文化的無知も含め)への「猜疑心」「恐怖心」が横たわり、「権利」としての先制攻撃が潜在的に合意されているのだろう。

全国には2億5千万丁とも3億丁ともいわれる拳銃が氾濫し、その数は今も増え続けている。


2005年3月16日(水曜日)

いつもはセッション時に呼ばれても首を横に振り、『そのメンバーじゃ演奏する気にはなれないね』と黙していても悟らせるバディ・ガイの弟のフィルが、SOBがフルサポートするのを知り満を持して上がってきた。

丸山さんからギターを受け取った彼の表情は、「久し振りに演るかぁ」と上気した風に感じられ、一貫性のないフレーズをオレたちに仕掛けたかと思うと、兄にも似た野太く威勢の良いシャウトを気持ち良さそうに吐き出していた。

フィルはハープのソロ中であってもピアノを弾きまくれと指示するので、ビリーに聴こえないよう音を埋めるのが辛い。当然本人のギターソロのときも、スペースに隙間を空けないようにコロコロ入れねばならぬ。

ところがフィルは何やら落ち着かな気であった。ビリーのセンターマイクが気に入ったらしく、ギター位置から少し離れて立っていたので気が付かなかったのだろう。足下のハープ用のエフェクター(効果音を出す)を踏みまくって、ギターの音色が変わらないとじたばたしていた。

オレの真ん前の席ではいつも決まったグループが陣取り、その中でもタレントの上島竜平(ダチョウ倶楽部)似の黒人のおばさんが見入ってくれるが、あまりにもソックリなので笑いを堪えられず、中々そちらに顔を向けられない。それでも彼女は目が合うと満面の笑顔を返してくれるので、オレは俯いて照れくさそうにして見せると、それがまた受けるようになってしまった。

ブロンドの髪のクリスティーヌは肌が綺麗で歳も20代前半に見えるが、店内は暗いので、その怪しげな名前と共に本当のところはどうだか分からない。先々週『あなたキュートね』と告白されて以来気兼ねがなくなったのか、挨拶には必ずオレの右頬へキスをするようになった。少し恥ずかし気で、キスのあとはさっと自分の席へ戻るのが微笑ましい。

終演後機材を片付けているとクリスティーヌが寄ってきて、さよならの挨拶に軽くキスされた。3分前にもカウンターの前で別れのキスをしたばかりだったのに、酔っぱらっているのか、メンバーや馴染みの客を捕まえては方々(ほうぼう)でキスをしている。握手だけだと思ったのか、床の機材を仕舞うのにしゃがんだままでいた丸山さんなど、彼女が腰を折り曲げてキスをしたので少しフリーズ(固まった)したように見えた。

ひと通り挨拶を終えたので帰ると思っていると、またオレのところへ来て『もう帰るから』と素早く顔を近付けた。何らかの誘いと受け取ることができないのは、一連の行動にしつこさがなく、一方的に何かを言ってから直ぐに顔を背け、立ち止まらないからだ。それと、決して付き合っている訳ではないらしいが、浮き草のような男性と行動を共にしていることが多く、今晩もその男の腰が中々上がらないので、挨拶ごっこの暇つぶしをしているようだった。

車に積み込む最後の機材を運び出そうとしているとき、また彼女とすれ違ったのでキスされた。もうクリスティーヌがキス魔だということは分っていたので、彼女の容姿がマンガ映画「シュレック」のお姫さまソックリであっても、身体を接触する習慣のない日本人が女性からくっ付かれてドギマギしてしまう、悲しく虚しい甘美な葛藤があろうはずもない。お姫さまといっても、本来の姿の方だし・・・。


2005年3月17日(木曜日)

朝から雪が降り続いていた。3月に入ってからは「痛み」を伴うような寒い日はないので、雪で煙って見える窓外の景色に「季節外れ」を感じてしまう。

ハーモニカ・カーン(2003年2月8日参照)が逝ったらしい。去年まで彼と会わない月はなかったのに、今年に入って一度も姿を見たことがなかったからどうしているのだろうと思っていたが、病魔に蝕まれていたということだ。

稀有な大道芸人だった。殺人罪で26年間の収監を終えたあとのこの数年を、カーンは幸せに過ごすことが出来たのだろうか?

何をもって「ブルース」と感じるかは人によって違う。若い頃は『ブルースを演奏しています』『ブルースが好きです』と安易に語っていたが、人が余り演らない音楽をしている格好良さが先行していた。

心に訴える音楽は理屈ではなく、本質など量り知れないし、その人にとってそう感じるのであれば、感情や感性までをも否定するような究極の論理が成り立つとは考えない。対象とする言葉に対する捉え方や、高低ではない次元・質の違いであって、『アンタのはブルースじゃない』と言われれば、そうなのだろうと今は素直に受け入れてしまう。

これだけ「ブルース」とかかわって生きてきたのだから、そういった種の感性が少しは磨かれたと思うが、自分の演奏が良くなったかどうかとは関係のないことが憂鬱でもあるのだ。

カーンと出会ったときから「ブルース」を感じていた。彼の生い立ちや境遇を知る前から「ブルース」の深淵に触れていた。音楽家では決して紡(つむ)ぐとこのできない、吐き澱んだ空気の糸に絡まれていた。

オレの感じる「ブルース」が、またひとつ逝ってしまった。


2005年3月19日(土曜日)

SOBでフロリダ州タンパ・ベイのブルース・フェスティバルへ。

午前6時半のフライトに間に合うよう3時半にウチを出て、空港近くに住む旅行代理店のNに車を預けがてら送ってもらう。午前4時半に起こされるNに感謝。

タンパ行き搭乗ゲートは早朝にもかかわらず、リゾート地へのバカンス客でごった返している。春休みと週末が重なり、家族連れが大半のようだった。

アメリカ人の「お上りさん」的浮かれ具合が可笑しくも恥ずかしいのは、すでに彼(か)の地へ到着しているかの如くTシャツに短パン姿が目立つことだ。他もすべてが夏物の軽装の中、一泊でトンボ帰りするSOBの5人だけが、コートやジャンバーを手に持った暗い色の身なりなので異様に映る。日本からの冬のハワイ便なども、空港内ではすでに南国気分なのかも知れないが、同朋は人目を気にするので、露骨な格好は控えるものだ。

表でタバコを吸っていると、外の駐車場からぞろぞろと剥き出し姿で空港入りする家族を何組も見掛けた。コートや上着は車のトランクかスーツケースの中へ仕舞って、出来るだけ荷物にならないように考えたのかも知れないが、春とはいえ気温は0℃前後のシカゴでTシャツ、短パン姿を見ると、合理主義・効率主義を越えて頭がおかしいのではないかと疑ってしまう。家からそのなりで出てきたのであれば、彼らが戻ったその日のシカゴが大雪の厳寒であることを祈るばかりである。

満員のためメンバーはバラバラの座席指定となっていた。搭乗券に印された番号は左右3列後方の窓際。飛行機の尻尾からも乗り込ませろと言いたくなるほど待たされて、ようやく辿り着くと、真ん中の席には4才くらいの男の子がぽつんと独り座っていた。チケット購入が遅かったのか、母親らしき女性は列の反対側の真ん中から『大人しくしてなさい』とか何とか言っている。

『ボク可愛いね、オジサン窓際だから席を替わってあげようか?』ってなことも頭をかすめたが、口を吐(つ)いたのは『お母さんと一緒に座りたいでしょ?』だった。子供は健気に頷く。母親は喜びよりも安堵の表情で感謝を述べ、オレの席にどかっと座った。えっ!?お前が座るんかぇ?暫くして気付いたのか、子供からせがまれたのか、母と子の位置はようやく替わった。あほか!

そして母の元座席の両側には、女学生らしき金髪姉妹が乗り込んできた。家族でのバカンスなど小金持ちの一家に違いない。甘やかされて丸まると肥え太った二人に挟まれたオジサンは、肘掛けに一度も肘を乗せぬまま真ん中で縮こまっていた。

2時間半後、間もなく到着のアナウンスと共に、地上の気温が機長より伝えられる。『タンパ・ベイの只今の気温54°F(約12℃)』と聞いて、隣の風船が『えっ!?』と落胆の音を吹き出し絶句した。彼女の妄想など容易に想像できる。MTVなどで垂れ流される水着の浜辺イベント、ムキムキ・マッチョ男、パステルカラー(それはマイアミ)の世界。家族の目を盗んだアバンチュールは、誰もが持つ健全な夢。

しかし暖かいといってもフロリダは泳ぐにはまだ寒い。オレはお天気専門局で週間気温を確かめてきたから知っているが、日中の最高でも25℃、今晩など5℃近くまで気温は下がる。常夏を望むのならハワイへ行け!ハワイへ行くほどの金持ではなかったようだ。状況を知らずにのぼせ上がることを「お上りさん」という。

高級一歩手前(3星半)のホテルに一室ずつ割り当てられた我々は、数時間の休憩の後会場へ向かった。シャツにジャケットのオレの隣で、薄手の長袖シャツ一枚の丸山さんがぽつりと呟いた。

『フロリダって寒いんですね』
『・・・上着持って来いひんかったん?オレらが演る夕方にはもっと涼しくなるよ』

第11回タンパ・ベイ・ブルース・フェスティバル、金土日3日間の主要な出演者は、"Jimmie Vaughan"、"Robert Cray"、"Coco Montoya"、"Little Feat"、"ShemekiaCopeland"。

オレたちは中日(なかび)の土曜日、ロバート・クレイの前のサボイ・ブラウンの手前の出番。有料($25)で5千人以上入るフェスティバルのトリはまだ手が届かないだろうが、トリ前を取れないなんて、そこがビリーの格、知名度の半端なところ。本人が一番忸怩たる思いであろう。それでも控室用に大型のキャンピングカーが一台充てがわれ、飲み物・食べ物も揃っていて気分がよろしい。

サウンドチェックはないものの、バンド間の転換時間が充分取ってある。機材指定にステージ裏のトラックへ連れて行かれ、『どれでも好きなものを選んでください』と、まるで特等に当たった景品選びの子供のような気分で嬉しい。ローランドのRD700を選択。

唄いたくはなかったのに、後半の丸山さんの曲後でビリーが「アイコ・アイコ」を振ってきた。5千人のアメリカ人を前にして、ひとコーラスだけある日本語の部分だけは気分が良いが、クラブのだらだら3セットではなく、持ち時間が90分しかないのにオレが唄うこともなかろう。ステージを終えてどこか消化不良だった。ブルース・フェスティバルといってもロック色が強く、前の方に陣取ったコアなブルースファンには受けたが、冷静に見て会場全体では上滑りしていたからだ。

ロック色を織りまぜたビリーのハープも、こういうところではどこかが弱いか何かが足りないのだろう。来場者の多くは、早弾きや「ギュイーン」と鳴るギター中心に聴きたいのかも知れない。そして有名人目当て、ロバート・クレイの登場で会場は別次元となっていた。

しかしビリーはオレの見解とはまったく違っていたようだ。演り終えた充実感と手応えを感じていて、『アリヨの出す(新曲・アレンジなどの)宿題をちゃんとやるから、これからも頑張ろう』と機嫌良く上気している。少し複雑な気分のまま、ビリー以外の4人で、会場を囲んだ食べ物や土産などの屋台を巡り、様々な客から声を掛けられているウチに、気持ちは楽しむ方向へと変わっていった。家族の土産に$5のウサギの毛皮の敷物を購入する。その横では、丸山さんが相変わらず凍えていた。

半月は天井に昇り、雲ひとつない夜空に星影を薄く残している。見渡せば、一方のヨットハーバーを望むアパート・ホテル群が立ち並んでいる。リゾート地の大きなフェスティバルに出演した実感が湧いてきていた。


2005年3月20日(日曜日)

今朝は午前6時20分のフライトに間に合うよう5時にホテルを出て、8時過ぎ(フロリダとは1時間時差があるので、行きより時間を得する)にオヘア到着。Nに預けた車を引き取りがてら迎えに来てもらった。休日の早朝で彼には迷惑な時間だが、こちらは大いに助かる。

Nをアパートへ送ってうだうだしていると、数分の距離に在るミツワの開店時間になっている。昨日は数時間しか眠っていないが、無理をしてでも行かねばならぬ。

刺身コーナーでフェアー発見。大好物のブリとハマチが安い!我が身へのお疲れさまの労いに、手頃な塊を両方買い求める。それぞれを切ってみると、ハマチが11切れ、ブリが7切れになった。合計で$12しないのだから日本より割安な気がする。

夜の食卓は、脂ぎってブリと見紛うような見事なハマチと、それ以上に甘いブリで、何ともいえぬ至福の時を過ごした。

新鮮なブリと次に巡り合えるのはいつのことだろう?オレの中の米産牛肉解禁の日よりは先になるのだろうか・・・。


2005年3月23日(水曜日)

フロリダから戻って以来、何か身体がだるいと思っていたら咳も出始めた。本格的な風邪にならなきゃいいがと願う。でも嫌な予感もしている。

ここ最近のジェネシスが盛況なのか、SOBのときだけ盛況なのか、今晩はテーブルと椅子のセットが4組も増えていた。

店はシカゴからかなり南に位置するが隣のインディアナ州とは近いので、SOBが演奏する水曜日は州外からの客も多い。それがいつまで続くか不安だが、とにかく今は毎週のように客が増えているのでマネージャーも強気になったのだろう。フロアーを埋め尽くすテーブルと椅子に客がまばらでは格好悪いが、幸い空いた席がないほどに埋まってオレを驚かせた。

郊外に在るといってもジェネシスは歴(れっき)とした黒人クラブで、初めての白人客は少し身構えているように思える。それでも親しみ易い雰囲気に馴染むと、「気軽に黒人音楽を楽しめる安全なクラブ」が口コミで広がっていくのだろう、白人客の来店が増えていた。

両者とも意識してはいるが、互いに気を使い合っているのが微笑ましい。だから市内のノースサイドの白人クラブで見かけるような馬鹿騒ぎを起こす客も皆無で、彼らがステージ前の一等席を陣取ることもない。

機材のセッティングをしていると、まだ空きの多い席を選びかねている白人の4人組に気付いた。年配の金髪女性がど真ん中のテーブルを指差したが、その旦那さんらしき人が首を横に振っている。もう一人の男性が隅っこのテーブルに座って手招きしたので、仕方なしに全員が腰を落ち着けたように見えた。筋肉の塊のお尻をしたウエイトレスが注文を取りに行き、顔と指を中央方向へ向けると、全員が立ち上がってそちらへ移動する。4人が座り直したテーブルは、最初に女性が座ろうとしたテーブルのひとつ後ろだった。

ウエイトレスに何故彼らは席を移動したのかを尋ねると、『せっかくショウを観に来てまだ席も一杯空いているのに、端の方へ座っているなんておかしいじゃない。だからもっと真ん中の席へ座ったらって勧めたのよ』と答えた。

黒人がマジョリティ(多数)の場での白人の気の使い方は、表面的にせよ相手の文化や風習・価値観を尊重する、非常に上品で慎ましやかなものがあり、敬意に溢れている。多数者や未知のモノに対する恐怖心があるのだろう。しかし、およそ黒人クラブに来店するようなブルースを愛する人々は最低限、黒人の歴史や置かれてきた立場を知っており、その知識や経験の作用するところも大きい。

アメリカ人はあまりにも外の世界を知らない。『戦争で対戦国が世界地図のどこに在るかを知ったわ』と嘯(うそぶ)く芸能人もいる。国内でさえ、人種間の軋轢を住み分けによって回避しているに過ぎず、「身を守るための銃を持つ権利」を変えようとしないのは、銃規制されればいつか黒人が襲って来るのではないかという、白人の馬鹿げた風説まであるほどだ。

ところが武力も含めた強圧的な対外政策となると、アメリカ国民といった脆弱な理由から、唯一絶対の正義の側で政府を支持し、世界と対峙するのだ。

同じ黒人クラブのアーティスである日、白人女性というだけで蔑視し喧嘩を売った黒人女性が、クラブと客の総意で店をたたき出された。そこには成熟した一定の社会性が存在する。しかし世界に対しては国益、企業益を剥き出しにしても、我が身のことと関知する人は少ない。

フロリダからの帰途、空港のセキュリティが厳しく、あまりにも長蛇の列にうんざりしたメンバーの一人が、これ見よがしに『ブッシュのせいでこんなになっちまった』と言った。『でも、クリントンのときにテロの口実を与えたんでしたよね』とオレが言うと黙ってしまう。あちら側ではなく、こちら側の現象面しか見ないからだ。

こうなりゃ早くアフリカ系にマジョリティを取ってもらって、もっと国内の矛盾へ目を向けるよう、国民の意識に変わってもらわなけりゃと、民族間の出生率を調べて驚く。もちろん白人に比べて黒人の方が大きいと思って期待したが、その差は僅かだった。それよりもヒスパニックの子だくさんは、白人の4割り増し。そして2000年度の統計では、人口比率でヒスパニック系とアフリカ系が拮抗している。何を指して何系と述べるかといった純粋性において異論はあろうが、どの統計評価を見ても、将来ヒスパニック(とくにメキシカン)の勢力が、今にも増して大きくなることは間違いなさそうだった。

9.11テロから数日後のシカゴ市内では、車にアメリカ国旗を掲げ、勇ましく走り回る多くのヒスパニック系の若者を目撃したが、あのメキシカン(2001年 8月30日参照)はオレに優しかった。個人的な印象から、肌の色で政治や民主主義の成熟度を推量ろうとすることに、そもそもの無理がある。政界のWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)の終焉がアメリカ人の価値観を変える、少なくとも多様性を発揮するきっかけになれば良い。

壁際には、常連である何組かの白人グループが静かに聴いている。かの白人4人組も肩の力を抜いて楽しんでいた。夫婦ものに見えたカップルは、ついにステージ前で踊り出した。その二人に別の黒人女性が交わる。そして二人のアジア人がバンドのトップ下を占めている。シカゴ郊外の小さなクラブに、未来の世界の平和な光景があった。


2005年3月26日(土曜日)

木曜日のロザは、演奏中からふうふうげほげほしていた。熱があるのは分っていたが、計るのが恐ろしく、週末が休みなのを幸いにずっと寝ている。


2005年3月27日(日曜日)

生まれて初めてヒップホップ系のアルバムを買った。

『もう本来のブルースなんて存在しない。オレたちが憧れた黒人文化としてのブルースは過去のモノで、黒人の若者が今の生活を唄うラップにこそブルースのコアが受け継がれている、リアリティがあるんだ。だから、ブルースファンならヒップホップを聴くべきだ』

元ブルースマニアの友人は会う度に口煩く説いた。それが『何故聴かないの?聴きなさいよ』になり、最後には『ラップが分からなきゃ本当のブルースファンじゃない!』とまで宣言されては、『ハイ、ワタシハブルースファンデハアリマセン』と言う他ない。

確かに社会は変遷し、ブルースと呼ばれる文化自体は形骸化してしまった。「奴隷の引きずり」も薄れ、大統領にアフリカ系の人が選ばれる日も近い。それでも、時代時代の黒人コミュニティの側から溢れ出る、生活・社会・世の中に対する不満や鬱憤を表出した叫びは、音楽形態を引き継ぎながらも新しく創造され、常に世界をリードしている。底流には脈々とブルースの魂が息づき、その本流がラップなのだろう。

彼の話は単純で、理屈はよく理解できる。どこで何をしていようが、今は嫌でもヒップホップ系が耳に流れ込んでくる。MTVなんて、もうほとんどがラップだし、街の若者は肌の色関係なく、ほとんどがヒップホップ系ファッションで身なりを整えている。韓国人2世の若い弁護士が唄うカラオケは、英語が完璧でラップスキルも高いから格好良い。駐在日本人の中学生の息子は一見ガリ勉風だが、部屋にこもってCDでラップ三昧らしい。

しかし、音楽である。良いと感じなければ、面白くなければ、楽しくなければ聴く気にはなれない。理屈だけでは楽しめないのだ。

シカゴに住んでいたこともあるこの友人は、ラップが分かるらしい。オレより英語が苦手だが、歌詞やニュアンスを理解するための語学習熟に精を出した話は聞かない。音楽評論はもっぱら日本の専門誌しか読まず、膨大な蔵盤をいつじっくりと聴き込んでいるのか分からないし、MDウォークマンなどを持っているのも見たことがなかった。

それでも彼は、オレよりは本当のブルースを理解しているのだろう。だから、厳しくダメ出しをしてこちらを腐らせてくれる。オレの好きなミュージシャンを貶(けな)して、人の嗜好も否定してくれる。きっとハーモニカ・カーンを観ても何も感じないのだろう。『知らないなら教えてあげましょう、こっちの方が知ってんだから』という、およそ人に対する敬意を感じない態度にはいつも辟易としていた。

だから車のFMからそれが流れてきた時、先ず彼の顔を思い出した。唄と歌詞がオレの琴線をかき鳴らし、心をかき乱し、この人のアルバムを欲しいと思った。そこに内奥するブルースは分からない。ただその曲に惹かれ、唄い手をもっと知りたいと思っただけだ。その純粋性こそが音楽に対する愛情ではないのだろうか。

ただし彼(か)の人は非アフリカ系売れっ子なので、『エリック・クラプトン聴いてブルースファンだって言ってるのと同じじゃねぇか』と友人は宣うに違いない。でもオレはヒップホップファンになったわけじゃないし・・・。


2005年3月29日(火曜日)

ある荷物を届けるために、元教え子K子のアパートへ初めて足を踏み入れた。

ノースサイドに在って唯一黒人街の雰囲気漂うアップタウン。『昼間から目がとろんとした人とか結構居ますよ』と聞いていたので、ビルの中へ入って饐(す)え臭くても驚かなかったが、10階建てで一台しかない鈍なエレベーターの壁に張り付けられた看板を彼女が指差し、『これ最近付けられたんですけど、何かあったんですかね?』と訊いたので、エレベーターと同じくらいのんびりしたK子の幸せな脳中に恐れ入った。

"Drug Free, Gun Free, Community"

これを別の日本人に話したら、『えっ、薬や銃が自由に持てるの?』と言われた。アホ、逆や!

最近の嫌煙傾向は、全米中の公共の建物に"Smoke Free Building"のサインを表示させている。この場合の"Free"は「〜から解放される」の意なので「建物内禁煙」、上記の看板は「薬や銃のない共同体」の意味になる。

つまりK子のアパートには薬中毒の人や、何かの恐怖から身を守ろうと銃を持ってうろつく人が目に余るため、オーナー側が「禁止だから止めてね」と教えているのだ。「レイプ・殺人禁止」の看板でないだけましかも知れない。


2005年3月30日(水曜日)

裁判所から召還状が届いていた。一瞬吃驚したが、"Juror"と呼ばれる陪審員の候補に選ばれたようだった。

アメリカの裁判は判事(裁判官)が審理を指揮するが、判決は12人の陪審員の評決で決まる陪審制である。その大切な陪審員は、この地域の場合シカゴ市を含むクック郡の住民の中から、毎回無作為に挙げられた候補者の中から選ばれる。大抵は選挙人名簿から有資格者がリストアップされるが、オレは選挙人登録をしていない(できない)ので、運転免許証所有者の名簿か何かから抽出されたのだろう。

陪審員は国民の義務なので、選定の日に出席しなかったり、指名されても拒否すると罰金が課せられる。法廷侮辱罪に問われることもあるそうだ。そのかわり日当が付く。州・群により異なるが、クック郡は16ドルらしい。陪審免除は極めて限定されているので、ほとんどの人は仕事や個人的な予定をキャンセルして、泣く泣く陪審義務に服するようだ。

選定は数十人から数百人の候補者一人ずつに対し、原告、被告の両方の代理人(検事や弁護士)が予備尋問(質問)をし、双方にとって偏見がなく公正・中立と思われる人が指名される。しかし実際は忌避回数(相手が選んでもこちらに不利と思えば拒否できる)が限られていて、自分側に有利そうな人を選ぶ作業となりがちだ。それは陪審員によって判決が大きく左右されるからであって、大きな裁判では陪審員選びのコンサルタントまでいるくらい、この手続きは重要な行程になる。

「社会の公平な断面図」となる、陪審員構成に反映されねばならない住民の民族比率(白人、黒人、アジア人)も、地域により違うから、裁判地によって判決(例えば黒人に有利だったり不利だったり)が異なることもある。

ついこの間、ジョン・グリシャム原作(『陪審員評決』)、ジョン・キューザック主演の映画、"Runaway Jury"(邦題『ニューオーリンズ・トライアル/陪審評決』)を観たばかりだった。

映画は、ある訴訟の陪審員になろうとキューザックがいろいろ策動して候補者になり、指名された後は他の陪審員からの信頼を得て裁判の結果を手中にしようとする、法廷もののサスペンス。見所のひとつは、CIA並の情報で陪審員の生活や思想をあぶり出す、被告側の裁判コンサルタントのジーン・ハックマンと、意図を見抜かれまいと裏をかくキューザックの心理戦。

だからオレは、召喚状を見たときは少し興奮してしまった。

日本でも戦前・戦時中の一時期、陪審制の裁判がおこなわれていたらしいが、「お上(職業的裁判官)が正しい」「普通民には任せられない」といった風土や国民の意識から、何となくなくなった。

確かに裁かれる側からすれば、『お前がオレの運命を決めるのかぁ・・・』といった、恐ろしい疑念に苛まれるかも知れないが、我が国では、国や大企業を相手にした訴訟で、国民の常識が反映されない官僚的な判決が多過ぎるように感じる。感情に流され易い側面はあるものの、国民が司法に参加できる制度は民主主義にとって不可欠のものだ。陪審法までがなくなったわけではないので、制度の優位性を生かし、運用の欠陥を補って復活させて欲しいと願っていた。

だからオレにとってこの召喚状は、本格的な陪審員に選ばれる可能性のある招待状なのだ。

うーむ、誰かがどこかからすでにオレの生活を覗いているに違いない。日頃の言動には気を配ろう。映画のキューザックのように、選ばれ易い性格作りもせねばなるまい。一体どんな訴訟なのだろう?推理サスペンスの如き殺人事件も面白そうだが、行政や大企業の根幹を揺るがすような裁判なら、大手柄だぞ!

タバコ訴訟で何兆円もの懲罰的賠償金はやり過ぎだが、なり振り構わぬ儲け主義のところは懲らしめてやらねばならない。横暴な行政に対しても大鉈を振るってやれ。金がなくて大した弁護士を雇えなかった弱い人でも、オレがついているから心配ない。正義を貫いてやる。・・・おっと、ここでこんなことを書いていること自体、ヤツらに知られてはまずいではないか、慎まねばならない。

夢の招待状の裏側を見ると囲みに3段の質問があり、下には小さな字で「上記の質問にひとつでもNOがあれば連絡してください」とあった。

・あなたは合衆国市民ですか はい いいえ
・あなたはクック群の住民ですか はい いいえ
・あなたは英語が理解できますか はい いいえ

うっ・・・オレはアメリカ市民ではなかった。


2005年3月31日(木曜日)

昨日は75°F(約24°C)って、先々週のフロリダやん・・・、今日は少しばかり涼しい。

ビリーでキングストン・マインズの仕事が入っていたので、ロザへの出席はお休み。もう、SOBだれだれ、ずるずる。平日なので客入りも影響しているのだろうが、最初の数曲はスムーズに流れるのに、みんな緊張感とか集中力とかが保てない。昼間も仕事をしていて疲れきったMさんなど、本番15分前にギリギリ飛び込んで来た。そしてみなさんが大音量となってメリハリは効かない。

その喧しい一番前の席で、ひとり盛り上がって純粋に楽しんでいる御仁がいらっしゃった。英語が堪能そうなのと髭面の風貌で意識してはいなかったが、話し掛けられて純粋な同胞と知る。南半球のオーストラリアから、シカゴで催されている学会出席のためにはるばるいらっしゃったらしい。

豪傑に見えて繊細で聞き上手の彼は、オレの話しを愉快そうに聞いてくれた。およそ初対面の人への内容ではなかったが、楽しそうに聞いてくれた。へろへろに酔っているようで、どこかでしっかりと見据えている不思議な人だった。自信があるのだろう。能力とか地位とか、そういった世俗的なことではなく、もっと根源的な「生きてきた」自信のようなものを感じた。だから愚痴のような話も面白いのだろう。

今日のオレは不満だらけで、演奏を、音楽を楽しめたのだろうか?バンドへの不満であっても、それはすべて己に跳ね返ってくる。演奏能力への不満であり、結局は境遇への、生活への不満であるのだ。

再びシカゴの住人となって4年近くが過ぎた。オレは満足しているのだろうか?目指すところへ寄っているのだろうか?そろそろ何かを変えなければいけないという焦りだけで、ぬるま湯はますますぬるくなるばかりに思える。