「音楽をジャンル分けしたり、
         人々をカテゴライズしたりしないよ。私には壁がないんだ。」

オーティス・クレイ・インタヴュー


by Makoto Takahashi

      
1999年7月22日赤坂東急ホテルにて   
インタヴュワー:高橋 "Teacher" 誠
   

 このインタヴューは、ブルースマーケット誌1999年10月号に掲載されたオーティス・クレイ・インタヴューの全文です。Blues Market誌の妹尾美恵さんのご理解とご協力により、ここに発表できるはこびとなりました。
 この場所を提供して下さいました、BlueSlimの江戸川スリムさんにも一言お礼を申し上げたいと思います。また、オーティス・クレイのCD紹介のページも開設しましたので、参考にしていただきたいと思います。


 1978年に来日し、ライヴ・アルバムを残して以来、私たちの心に住み着いたあの歌声の持ち主、オーティス・クレイが、8年ぶりの来日を果たした。
 ラウンダーから、新作「ディス・タイム・アラウンド」も発表し、健在ぶりをアピールしたばかりのオーティス。この来日は、はじめて生のオーティスに触れる人にとっても、昔からのファンにとっても嬉しいものとなった。

 実直でフレンドリーなイメージそのままのオーティスは、地元シカゴでも精力的に社会活動に取り組んでいたことがわかったのは、私が1993年に当時活動していたバンドのメンバー達と共にシカゴの彼の自宅を訪問したときだった。

 47thストリートとマーティン・ルーサー・キング・ドライブ(旧サウス・パークウェイ)の南東の角。チェッカーボード・ラウンジのすぐ近くでもあり、ルー・ロウルズの「タバコ・ロード」「ワールド・オヴ・トラブル」などでも歌われた(ドラッグ・ストアーのウォルグリーンの前とレコードでは言っている。この店も向かいの建物に移った後閉店)この歴史的な場所は、ジェシー・ジャクスンたちによってオペレイション・ブレッド・バスケットという、貧困層に食べ物を配ろうという運動の発祥地でもある。

 オーティスと区長たちは、この「タバコ・ロード」のリーガル・シアター跡地に、「ルー・ロウルズ・シアター」を建設しようと長年努力している。これは、子供が安心して遊べる場所もなく、図書館も映画館もない、荒れ果てたこの地域に、これらすべてを備えたオアシスを作ろうという、十年来の計画。
 ルーツ・フェスティヴァルも、こうした活動の一環。そして今、これらの活動がようやく実を結びつつある。先ずは、この話題からきいてみよう。


SOUTHSIDE CHICAGO TODAY
 サウスサイドシカゴ〜ルーツ・フェスティヴァルとルー・ロウルズ・シアター

─ あなたの音楽や人生は、うまくいっていますか?

Otis Clay(以下、O.C.)すべてうまくいってるよ。

─ クリーニング屋さんをやってるってきいたのですけれど。

O.C.:ハハ!うん、ドライクリーニング業を営んでいるんだよ。うちは大きいからね(むかし二階建ての大きなレストランだった建物に一人で住んでいる)。
 今は、うちの一階にドライクリーニング店と、ブティックもあるんだよ。サーマック・ロード沿いにあるんだ、来たことあるよね。大分手を入れて店もできたし...。みんなもまたきてよ。

─ 素晴らしいですね。行きますよ!洗濯物を持っていこうかな。

O.C.:ハハハ、一時間サービスもあるよ。

─ あなたの最新アルバム'This Time Around'を楽しみましたよ。

O.C.:ありがとう!それから、これの(House of Bluesから出た'Songs of Rolling Stones' を見ながら)同じシリーズでね、ちょうどエリック・クラプトンのを終えたところで、もうすぐ、レッド・ゼッペリンのが出るんだ。「アフター・ラヴィング・ユー」(注:Since I've been loving youのこと)を歌ったよ。楽しかったよ。97年頃に出たジャニス・ジョプリンのもあるけれど、それがこのシリーズのはじまりだね。

─ 私が前に伺ったとき、93年に、区長のドロシー・ティルマンさんに紹介して下さいましたね。彼女は7月にルーツ・フェスティバルがあるからまたいらっしゃい、と言って下さったので、行ったのですが、残念ながらあなたはおられませんでしたね。

O.C.:そう、93年はアルバート・コリンズと私が一緒にツアーに出ていた年で、そのころはヨーロッパにいたんだよ。でも、私がその企画団体の議長だから、どのアーティストを出演させるかとか、準備など、すべてに携わったよ。今年は九年目で、おそらく、実際はシカゴ・ブルース・フェスティバルより大きくなったんじゃないかなあ。たくさんの人々が集まるんだ。

─ それは、アルバート・コリンズが癌で亡くなった年ですね。

O.C.:そう。実際、ツアーの最中に病気で倒れたんだよ。私たちはスイスのジェニバにいたんだ。フェスティヴァルの最中にね。ツアーの最終日だったよ。彼を病院に残したまま、私たちは帰国したんだよ。
 アルバートの音楽は大好きだよ。人間としても素晴らしい人さ。あのツアーの前まではお互いによく知らなかったけれど、とても親しくなれたよ。あの10月の彼が亡くなったのは、本当に惜しいことだったね。

ルー・ロウルズ劇場はもう完成しましたか?

O.C.:2000年の4月にオープンする予定だよ。もう基礎はできていて、建物も完成するから来年の4月だね。市も連邦もたくさん協力してくれているからね。基金はもう五百万ドルになっている。だから、もう資金的な問題は問題ないよ。
 今年のフェスティバルでは、ベティー・ライトがヘッドライナーでね。後はソウル・スターラーズとアイネス・アンドリュース!素晴らしかったよ。
 繰り返しになるけれど、私のプロジェクト、ルーツ・フェスティバルに是非来てね。毎年7月の第3ウィークエンドだよ。

─ 会場はどこですか?前に使っていたリーガル・シアターの跡地はルー・ロウルズ・シアターを作っている工事現場でしょう?

O.C.:そうだよ。マーティン・ルーサー・キング・ドライブ(昔のブルースに出てくるサウス・パークウェイ)を通行止めにして、この大通りの真ん中でやるんだよ。すごく広いんだ。20万人くらい集まるよ。ステージからずっと見渡すと、見渡す限り人でいっぱいさ。


by Makoto Takahashi

LOOK FOR EARLY 2000 !
 ソウル・スターラーズとの新しいプロジェクト

─ 誰かと一緒に歌いましたか?

O.C.:ソウル・スターラーズと一緒に歌ったよ。日本から帰ったら、私たちは一緒にアルバムを録音するんだよ。その他、デューク・エリントンのプロジェクトもあって、今年はデューク・エリントンの生誕百年だから、たくさんのアーティストが、記念プロジェクトをやっているけれど、私もやろうとしていて、彼が演奏したセイクレッド・ミュージック(聖歌)を歌おうと思うんだ。例えば「Come Sunday」のようなね。今度のツアーに一緒に来ているトランペットのバージス・ガードナーがアレンジを担当するんだ。
 どのレーベルからでるか?ソウル・スターラーズは、これはあくまでも可能性があるって言うだけなんだけれど、おそらくブラインド・ピッグから出すと思う。デューク・エリントンのは、他の人たちが担当しているからわからないけど、交渉中だよ。

─ 良いことが、本当にたくさん起こっていますね。

O.C.:良いことが起こっていて、とても嬉しいよ。

─ お家に、レコーディング施設もありましたね。

O.C.:そこで、ソウル・スターラーズも録音するんだよ。私の家がどんなに大きいか知っているでしょう?だから、ソウル・スターラーズが来て、みんな家に泊まって、食事をしたら隣の部屋へ行って録音するんだ。二階にスタジオやいろいろな設備もそろっているんだ。

─ 古い昔の歌も録音しますか?

O.C.:オリジナルの曲が多いよ。昔のソウル・スターラーズの歌もやるけれどね。基本的には、「ヘイ・ブラザー!」っていう歌があって、この歌が、アルバム全体のコンセプトになっているんだ。とても、心を揺り動かすような(インスピレーショナル)コンセプトをアルバムを準備する前に設定したんだ。ソウル・スターラーズをサム・クックがプロデュースしていた、SARレコード時代のやっていたことに近づきたいと思ったんだ。その時代こそ、彼らが素晴らしい音楽を創り出していた時代だからね。ソウル・スターラーズの新しいアルバムでは、そういうものを目指そうと思っているんだ。

STORY BEHIND A SONG
 「ホエン・ザ・ゲイト・スウィング・オープン」

─ そのころからサム・クックを個人的に知っていたのですか?

O.C.:そのころはまだだよ。サムに出会ったのは後だよ。ソウル・スターラーズのリロイ・クルームをよく知っていて、私たちはとても親しいんだ。彼はフロリダに住んでいるから、私はそこまで出かけていって、一週間泊まって、アイディアを寄せ合ってソウル・スターラーズのアルバムの準備をしたよ。
 さて、話はもどってサム・クックがソウル・スターラーズをプロデュースしていたころは、私はひとりの熱狂的な崇拝者にすぎなかったんだ。サムは本当に心に広い人で、みんな彼を愛していたよ。私が知り合うことができた最初のマティネー(注:50年代以前に使われた今で言うスーパースターを指す言葉)だった。彼に会う、ということ自体が心を揺り動かされるような経験だったよ。亡くなってから35年たった今でも、影響を与え続けてくれているんだ。嬉しいことだよ。
 私はセンセーショナル・ナイティンゲールズにいたんだけれど、ソウル・スターラーズとは親しくて、いつだって私の大好きなグループのひとつさ。私のライブ・アルバムに「ヒズ・プレシャス・ラヴ」が入っているでしょう?あれはソウル・スターラーズの曲だよ。それから、私の一番ヒットしたゴスペル・ソングの「ホウェン・ザ・ゲイト・スウィング・オープン」も昔のソウル・スターラーズの歌だし、私のヴァージョンのもとのアイディアになったものだよ。

─ ジョニー・テイラーが歌ったヴァージョンですね。なんと美しい。

O.C.:そう!ハハハ。

─ この間、マイティー・クラウズ・オヴ・ジョイの「ホウェン・ザ・ゲイト・スウィング・オープン」を聴いていたら、セカンド・リードはジョー・ラゴーンだけれど、ファースト・リードは分からなかったんですよ。

O.C.:えーと、多分ジミー・ジョーンズだよ、間違っていなければ。ジミー・ジョーンズっていっても、(ハーモナイズィング・フォーの)ベース・シンガーのジミー・ジョーンズじゃないよ。いま誰だか見せてあげるよ。(ベスト・オヴ・マイティー・クラズ・オヴ・ジョイpt.1の表紙の赤いジャケットを着て6人で写っている右下の人を指さして)これがジミー・ジョーンズだよ。
 CDあるの?ちょっと聴かせて?そう、ジミー・ジョーンズだよ!間違いないよ。ジミーは、後にこのグループをやめて、牧師さんになったんだ。テキサスに住んでいてね。どういういきさつか知らないけれど、数年前に亡くなったんだ。まだ若かったのにね。ジミーとジョーはよく似ていてね、素晴らしかったよ。


by Makoto Takahashi

─ マイティーと親しくして、シカゴに来るとよくステージで一緒に歌ったっていう記事を読んだことがあるけれど、どんな歌を一緒に歌いましたか?

O.C.:「ホウェン・ザ・ゲイト・スウィング・オープン」だよ。ワッハハハハハ!自分で録音する何年も前からこの歌を歌ってきたよ。マイティーのメンバー達とはいつも会っていたし、会う度に私は、なぜかこの歌を歌っていたなあ。理由をよく考えてみるとね、ジョニー・テイラーがこの歌をソウル・スターラーズで録音したんだけれど、彼がやめてから入ったのは、ジミー・アウトラーでね。
 ジミーと私を...、たくさんの人が、今でもだよ、私がジミー・アウトラーだと思っているくらいなんだよ。すごくよく似てたからね。それだけじゃなくて、兄弟みたいに親しかったんだ。だから、「ヒズ・プレシャス・ラヴ」を歌い、後に「ホウェン・ザ・ゲイト・スウィング・オープン」を録音したのは、ジミー・アウトラーの思い出があるから、彼を記念して歌いたかったんだ。
 ジミーとリロイ・クルームと私とは、とても仲が良かったんだ。今度のアルバムには、アーサー・クルームも入っているけれど、アーサーと私はセンセイショナル・ナイティンゲイルズでも一緒だったから、クルーム兄弟とはとても親しいんだよ。そこで、こうしてまた集まってアルバムを作ることができるのは嬉しいことだね。2000年の初め頃に出ると思うから楽しみにしていてね、その前になるかも知れないけれど。

I WAS ALWAYS WITH THE OLDER GROUPS
 ゴスペル時代〜センセイショナル・ナイティンゲイルズとゴスペル・ソングバーズ

─ センセイショナル・ナイティンゲイルズにいたときのことを話して下さい。例えば、どのようなトレイニングがあったかとか。

O.C.:グループに入ったときには、もう自分が歌うハーモニーは知っていたんだよ。
嬉しいことにその前にいたグループでも、いつでも他の人たちは皆私より、ずっと年上で、たくさん学んだよ。12才の時からグループで歌い始めていつだって他のメンバーは私の父ぐらいの年だったから、たくさん教えてくれたよ、ハーモニーやいろいろなことをね。だからナイティンゲイルズに入った時、とても楽だったんだよ。
 私の目標はプロフェッショナルなゴスペル・シンガーになることだったし、ずっとナイティンゲイルズを聴いて育ったんだからね。だから興奮したよ。歌は全部知っていたし、リハーサルもいらなかった。彼らがある日曜日にシカゴに来て、こう言ったんだよ。「来週の日曜日にデトロイトにきなさい」って。だから一週間考えてデトロイトに行って一緒に歌い始めたんだよ。彼らの歌は全部知ってたからね。

─ 彼らはどうやってあなたを見つけたのですか?

O.C.:僕はゴスペル・ソングバーズで歌っていたのは知ってるでしょう?ナイティンゲイルズはシカゴのグループじゃないけれど、アーサー・クルームはシカゴの人で、彼が私を知っていたからね。メンバーのホレス・トンプスンが徴兵になったときに、アーサーが、シカゴにいる歌えるやつを知っているよっていうことになって、彼らが、ゴスペル・ソングバーズの結成何周年かパーティーに来てくれて、私に入るように言ってくれたんだよ。

─ でも、その頃ももうゴスペル・ソングバーズで結構うまく行ってたんでしょう?

O.C.:そう!素晴らしかったよ。でもそんなに演奏旅行に出られたわけじゃないんだ。結構旅行はしたけれどね。でも、ナイティンゲイルズはいつも演奏旅行をしているロード・グループだったから、入りたかったよ。
 これがゴスペル・ソングバーズのCD(CD紹介のページを参照)だね。(ジャケットを指さして)私はここにいて、隣にキャッシュ・マッコールがいてね。とても良いグループだったよ。

─ ずっとこのグループを聴きたいと思っていたけれど、とても嬉しいですよ。このCDを聴いてどう思いましたか?

O.C.:驚いたよ。レコードは本当にたいへん手に入りにくいよね。だから、これでみんなに聴いてもらえて嬉しいよ。

─ アウトテイクまで入っていましたよね。「アイ・ビリーヴ」と「イフ・アイ・クド・ヒア・マイ・マザー」大好きですよ。

O.C.:私もすっかり忘れていたよ。録音したのは。キャッシュ・マッコールと私はこれらの歌はいつも歌っていたけれど、CDを手にした時でさえ、録音したのは全然思い出せなかった。でも、聴いてからはすべての記憶が戻ってきたよ。

─ キャッシュ・マッコールとはどうやって知り合ったのですか?

O.C.:ウーン、昔日曜の朝のゴスペル・ラジオ番組によく出ていて、毎週日曜日にラジオ局へ通っていたんだけれど、そのころ私たちが入っていたグループは、ホーリー・ワンダーズっていうんだ。その頃、あんまりギターはうまくなかったから、やめないでがんばるんだ、弾き続けるんだって応援していたのが私だったんだよ。
 彼は素晴らしいギタリストになったよね。それがあったきっかけだね。その頃はあまりうまくなかったから、ギター・プレイヤーとしては、あまり長くそのグループにはいなかったけれどね。1959年か60年かなあ、その頃からずっと親しいんだ。


by Makoto Takahashi

I TOLD WILLIE, 'I WANNA RECORD,' HE SAID, 'COME ON DOWN!'
 
最新アルバム「ディス・タイム・アラウンド」

─ 今度のアルバムでもまた「ザッツ・ハウ・イット・イズ」を弾いていますよね。良い曲だし、良い録音ですね。

O.C.:うん、彼は後に曲を書くようになってね。ギターもとてもうまくなってね。いっしょにワンダフル・レコーズ在籍していたんだよ。だから長い付き合いだね。

─ 今でも近くに住んでいますか?

O.C.:メンフィスに住んでるんだよ。もう5〜6年になるかな。
 このアルバムができたのは、メンフィスに住んでいる彼が、ウィリー・ミッチェルのスタジオにいる私に「ユー・ネヴァー・ミス・ユア・ウォーター」を持ってきてくれたんだよ。そこで彼に、ねえ、いろんな人たちがいつも「ザッツ・ハウ・イット・イズ」をまた録音してよっていうんだっていうんだよって言ったら「良いね、録音しようよって」言ってくれたんだ。フラッシュ・バックみたいだったね、30年経って、また録音し直しているんだからね。
 メンフィスは大好きだよ。いい人達がたくさんいるよ。もう、何年になるかな、25年かな?メンフィスで録音するようになってからね。ウィリー・ミッチェルと私は父と子のような関係だしね。このアルバムの準備をするときも彼とお互いに電話し合って、音楽や音楽の世界でどんなことが起こっているかとかについて語り合って、録音したいなあって言ったら、ウィリーは「じゃあ、来いよ」って言ってくれたんだ。私は録音にかかる費用についても何にも心配する必要はなかったよ。ただ、メンフィスに行って録音すれば良かったんだ。私たちはこんな風なんだよ。そして、もちろん昔からのミュージシャン達をみんな呼んでね...。ティーニー・ホッジスは参加しなかったけれど、その他のハイ・リズムはみんな録音に参加してくれたよ。ホーン(管楽器)・プレイヤーたちも呼んでね。

─ そういえば、今度のホーンのアレンジは、メンフィス・スタイルっていうより、ミシシッピ州ジャクスンのスタイルに近いような感じがするんですけれど。例えばロニー・ラヴジョイがやりそうな。

O.C.:そうかなあ、ある面ではそうかもね。でも、メンフィスで生まれたのと同じようなスタイルには他の誰も演奏しようとしないよ、だってそれはメンフィスそのものだからね。ジャクスンにいって録音しているメンフィスのホーン・プレイヤーもいるし、私のCDのホーンは、典型的なメンフィス風だと思うな。
 今度のCDのホーン・アレインジメントはスタックスで活躍していたレスター・スネルがやったことが(昔との)違いかなあ。でも言ってみれば結局、サザン・サウンドなんだよね。

IN ALL MY MUSIC I'D LIKE TO HAVE A MESSAGE
 ゴスペルもブルースも歌うということ

─ (ハイの)ハワードと私が一緒に聖書を読んだりしていると、いつも「メーン、ティーチャー、昔はよくオーティスとこうして聖書を読んだものだよ」っていましたよ。

O.C.:うん。ハワードと私はとても親しくて、どんなことがあっても、連絡をとり続けているよ。

─ ハワードがカナダのテレビに出演したあなたのビデオを見せてくれて、「ゴスペルとラヴ・ソングとを両方歌うことについてどう思う?」という質問に、あなたは「ゴスペルを歌うときは心からサンキュー・ジーザスって歌うし、ラヴ・ソングを歌うときは、サンキュー・ベイビーって同じように心から歌うんだよ」って答えていました。

O.C.:そう、とても似ているんだよ。私のショーでは、心を揺り動かす(ゴスペルの)歌も歌うし。両方とも歌うよ。私の音楽のすべてに、メッセージを盛り込みたいといつも思っているしね。

─ 美しい愛のメッセージ?

O.C.:もちろん。日常の生活の中に生きていく、役に立つメッセージだよ。だからゴスペルを歌うときも、大きな違いはないんだよ。直接(神のメッセージを)表現するけれどね。だからといって、そのどちらかをやることによって誰かが「アラ、あの人あんな歌を歌うわ」なんてね、そんな問題じゃないんだよ。
 私はどの歌を歌っていても、私の歌う音楽が好きだし、これは自分の音楽をコントロールできるようになった後に...、一緒に働くことでウィリー・ミッチェルから、たくさんのことを学び、そのおかげで後にプロデュースすることをはじめられたんだ。私が良いプロデユーサーでいられるのは、彼というもっとも優れたプロデューサーの一人と働くことができたからだね。

─ (ハイのベースの)リロイとハワードはピッタリだね。リロイは他の様々なドラマーとも演奏するけれど、ハワードと演奏するときだけ、気持ちよさそうに頭を揺するんですよ。

O.C.:ずいぶん長い間一緒に演奏しているからね。このハイ・リズム・セクションについて、これだけは分かっている必要があるよ。彼らが本気になったら、熱くなったらね、誰も敵わないよ。彼らにまさるリズム・セクションは他にいないよ。バッチリ決まるんだ。素晴らしいリズム・セクションさ。83年の私のライブ・アルバム聴いたでしょう?(CD紹介のページを参照)たくさんのオーヴァー・ダビングも何もいらない。ただ、ライブで演奏したものをそのままレコードやCDにしてあれなんだよ。


by Makoto Takahashi

WAXHAW, MISSISSIPPI WHERE I COME FROM
   〜GOING TO CHICAGO AND MEET CHARLES BRIDGES

 ミシシッピーでの少年時代〜フェイマス・ブルー・ジェイ・シンガーズへの加入

─ あなたが生まれたのはミシシッピーのワクショーって言う町でしょう?

O.C.:町じゃないよ。

─ 村?

O.C.:村でもないよ。ワッハハハハ!何でも屋が一軒あるだけのいなかだったよ。WAXHAWで、ワクスホーっていうんだ。ワクス・ホー、(カウボーイのかけ声の)ヒー・ホー見たいに発音するんだよ、ハハハハ。
 そこを出たのは11才の時だったなあ。もちろん、それまでも他の町へ行ったことはあったけれど、引っ越したのはその時だった。私は10人兄弟の末っ子でね。大きな家族だったよ。いまでもその辺に住んでる家族もいてね。今でも時々かえるよ。インスピレイションをもらいに行くんだよ。昔懐かしい場所がどんなだったかを再確認に、感じに行くんだよ。クラークスデイルの45マイルくらい南で、ヘレナまでは50マイルくらいかな。
 ラジオはナッシュビルのWLACを聴いていたなあ、そしてメンフィスのWDIA。昼の間WDIAを聴き、夜はWLACを聴いていたよ。WDIAを聴き始めるまでは、聞ける音楽は大分限られていたよ。
 WDIAが聞けるようになって嬉しかったけれど、それまではあまり、黒人音楽は聴けなかったんだ。ソニーボーイ・ウィリアムスンはよく聴いたよ。KFFA!キング・ビスケット・タイム!でも、たった15分の番組でね。短すぎるよ。WDIAが聞けるようになって、音楽がずっと楽しかったから、大きな変化だったよ。
 教会のプログラムだってそんなにあったわけじゃなかったよ。WDIAには「ブレス・マイボーンズ」ウェイドの番組があって、結構ゴスペル聴けたよ。ディキシー・ハミングバーズの大ファンだったよ。もちろんソウル・スターラーズもね。ファイブ・ブラインド・ボーイズはミシシッピもアラバマも...。
 たくさんのグループがあったけれど、こういうグループが大好きだった。そう、センセイショナル・ナイティンゲイルズもね。ジュリアス・チークス!うん、ファンだったよ。「ベリーイング・グラウンド」とか、良い歌がたくさんあった。

ブルージェイズ(フェイマス・ブルージェイ・シンガーズ)にもいたことがあるんでしょう?

O.C.:うん。ブルージェイズにいたよ。このグループはじめてロード(コンサート・ツアー)に出たんだ。最初のプロの仕事だったよ。18才の時さ。すごく興奮したよ!へへ。

─ (このグループの元々のリーダー)チャールズ・ブリッジズに会ったことは?

O.C.:彼も当時のブルージェイズにいたんだよ。オリジナル・メンバーは彼一人だけでね、みんなシカゴに住んでいて、残りのメンバーは仕事を持っていたりして...。
 こう言い換えるね。当時私はゴールデンジュビレアーズっていうグループにいたんだよ。このグループのほとんどのメンバーが、チャールズ・ブリッジズをリーダーにしてブルージェイズになったんだよ。これが、私の音楽人生の道を舗装してくれたといえる経験だったよ。だって、ブルージェイズではあらゆる種類の音楽を歌ったからね。ブロードウェイ風の歌も、ゴールデン・ゲイト・カルテットの歌も。彼らはバラエティー・シンガーズ(いろいろな種類の歌を歌う人たち)として有名だったんだ。
 これが、私の音楽へのアプローチを広げてくれたんだ。たくさん好きな歌があったなあ。バーバーショップ風ハーモニーもやったし、'Not a Soul'(誰もいない)と'Old Gang of Mine'とか、(歌いはじめる)「♪いつもの角には誰もいない、これはかなりはっきりした兆候、あのウェディング・ベルが僕の子供時代からの仲間をチリジリにしようとしてる♪」ブロードウェイ風だよね。
 トゥイストも人気があったから歌ったよ。学校やホテルや、いろいろなところで歌ったなあ、童謡の'Old McDonald Had a Farm'までね。幼稚園でだって歌ったよ。子供達が退屈しないように考えて子供の歌もたくさん覚えたよ。ゴスペルでは、スターラーズやディキシー・ハミングバーズも歌ったな。

'I'VE GOTTA FIND A WAY'
 「アイヴ・ガッタ・ファインド・ア・ウェイ」

─ 初来日のライブ盤の最初で「アイヴ・ガッタ・ファインド・ア・ウェイ」を歌ったときにハロルド・バラージの思い出を紹介していますよね。

O.C.:そう。とても良い友だちだった。お兄さんのような感じだね。たくさん教わったよ。
 人生の節々で出会う、大切なことを教えてくれる人。素晴らしいシンガーだったけれど、死ぬのが早すぎたね。彼の「アイヴ・ガッタ・ファインド・ア・ウェイ」が一番素晴らしいヴァージョンだね。今だってあの歌を聴くのが大好きだよ。
 知ってると思うけれど、彼は私がワンダフルに録音した最初の歌、「フレイム・イン・ユア・ハート」の共作者で、共同プロデューサーだった。正式な最初のレコードはゴスペル・ソングバーズだったけれど、セキュラー(世俗の)なレコードでは、このレコードが最初だったから、とても嬉しくて、レコード・ホップをやりたかったんだ。レコード・ホップって知ってる?これはDJが開くんだけれど、レコードのプロモーションになるんだよ。大きなホールでやるんだ。ほとんどは月曜日か水曜日にね。 DJはレコードをかけるんだけれど、いつもゲストが来るんだ。そこにゲストで歌うわけだよ。
 私たちはその日スタジオにいて、私はセーターを着てたんだよ。ハロルド・バラージはいつもシャープに決めていてね。彼は私を見て、「おまえはオレの歌をそんなセーターを着て歌ったりしないだろうな。」っていうんだ。そして彼は自分のネクタイをはずし、シャツを脱いで、私にくれたんだ。「これを着て歌えよって。」これは、私の大好きなハロルド・バラージのエピソードだよ。

ONEDER-FUL AND HI RECORDS
ワンダフルとハイ・レコーズ

─ 他にもあなたの歌をたくさん作ったソング・ライターがいますよね、例えばドン・ブライアントだとか...

O.C.:ドンは、ハイのソング・ライターでもあり、アーティストでもあったよね。彼とアン・ピープルズが結婚してね、素晴らしいアーティストだよ。たくさん楽しんだよ。
 みんな一緒にいてね。ハイは、ワンダフルとよく似ていて、いろんな人たちが来ていて、アイディアを出し合って音楽を作っていくんだ。ドンが来て、「ねえ、聴いて欲しい歌があるんだ」っていう具合だね。素晴らしい歌を書いたよ。彼自身ものすごく良いシンガーだよ。いつまでも消えない種類の友情を築き上げたよ。今でもそれは変わらないよ。メンフィスに行くといつも会うよ。
 ワンダフルの社長のジョージ・リナーは私の父のような存在だったんだ。そして、ハイに行ったら、ウィリー・ミッチェルとは父子のような特別な関係で、どんな問題も乗り越えられる、永続的な関係だね。これはワンダフルのジョージ・リナーとも同じだった。音楽を生み出す必要がある時に、支えになってくれるんだ。いつだって、「オイ、やりたいことを、やりたいようにやれよ」ってね。ハハハハ。こういうふうに物事が動いて行くんだよ。


by Makoto Takahashi

MUSIC RICHES THE HEART
 音楽が心を豊かにしてくれるんだよ

─ あなたのような音楽を聴く人たちは、レコード屋さんにいって、ソウルだとかR&B、ブルースという所をさがしてCDを買うけれど、こうしたジャンル分けをどう思いますか?

O.C.:ジャンル分け(カテゴリー)っていうのは、音楽を知らないヤツらがやることだよ。
 私は録音するときに、「このタイプの音楽のレコードを作ろう」なんて、思わないよ。感じるままに音楽を作り、録音するんだ。「やりたいことを、やりたいようにやれよ」さ。そうすればうまくいくんだ。
 音楽をカテゴライズ(ジャンル分け)したり、人々をカテゴライズしたりしなよ。言いたいのは、それがユニヴァーサル(普遍的)な人生に対する姿勢なんだよ。音楽だって普遍的なものだよ。言葉の壁だってないし、人種の壁だってないんだ。
 私は音楽に忠実なんだ。私には壁がないんだ。この新しいアルバムのことでもいろんな人が、「ホエン・ハーツ・グロウン・コールド」はカントリー・ソングみたいだなっていうけれどね、私は好きなんだよ。私はこの歌が好きなんだよ、それだけでいいんだ。私は音楽をこういう風に聴いて育ったんだよ。
 音楽をジャンル分けした人たちは、音楽の人種分けもしたんだ。いいかい、ここが肝心なところだからね。昔は、エルビス・プレスリーにはたくさんの黒人のファンがいたよ。ジェリー・リー・ルイスにだってそうさ。それなのに、音楽産業のヤツらが集まって音楽を人種分けをしてしまったから、彼らにはもう黒人のファンがいなくなったし、黒人アーティストの白人のファンもいなくなってしまったんだよ。この音楽はこれ、あの音楽はあれってわける人たちは、人間にだってそれをやっていることになるんだ。例えば、君たちは日本人だから、日本の音楽を聴くべきで、他の何も聴くべきじゃないなんてね。
 1978年を思い起こすと、日本に行くっていう話をもらったとき、「エ〜?なに〜?」って言ったんだよ。信じられなかったんだ。日本の人たちが黒人の音楽を聴くなんてね。私のアタマはまだ第二次世界大戦で起こったことに引っかかったままだったんだよ。だって、日本や日本の人たちについてはそれしか知らなかったんだからね。音楽が心を開いてくれて、全然違う世界を見せくれるんだよ。だって音楽は、繰り返すけれど、普遍的なものなんだよ。垣根はないんだ。

─ あなたの音楽を好きな人たちは、あなたの誠実さや熱意を感じていますよ、心の中からまっすぐ出てくる...

O.C.:音楽が心を豊かにしてくれるんだよ。日本はね、これはいま私が日本にいるから言うんじゃないんだよ、事実だから言うんだけれど、日本が私の人生をひっくり返してくれたんだ。ここでの出来事が、私の世界の他の地域全部をひっくり返してくれたんだよ。
 私のライブアルバムは、今でも、まるで昨日録音したもののように売れ続けているよ。きっと、これは日本の人たちの精神性の高さのおかげだと思うんだ。ここでのコンサートでは、精神的、霊的な高まりがとても強いんだよ。だから、こういうことが起こるんだと思う。世界中の人たち(ミュージシャン?)が言うんだ、日本に行ったら、きっと特別なことが起こるよって。これは事実だよ。私の人生は、日本に来ることですっかりかわってしまったんだ。

AFTERMATH
 インタヴューを終えて

 与えられた約1時間の間に、よくぞここまで話してくれました!オーティス・クレイ!
 また是非来て下さいね!今回の来日では、本人の歌は力強く、心を動かすほど良かったけれど、ミュージシャンたちの多くが、オーティスの出すサインがわからなかったり、曲を知らなかったりで、見ていて気の毒なほどでした。今度はもっと気心の知れたミュージシャンを連れて、息の合った演奏をバックにのびのびと歌って欲しいと思います!

 このインタヴューに臨んだ妹尾さんと江戸川スリムさんと私が、最後にサインをお願いしようと、それぞれの鞄から出したLPは、3人とも「オーティス!ライブ」。
 インタヴューの最後の話題とピッタリとあって、いい落ちになりました。

─ このレコードが僕の人生を変えてくれたんですよ。
O.C.:私の人生も変えてくれたよ...。


by Makoto Takahashi


このインタヴューの中に出てきたアーティストや話題に上がったアーティストの作品をいくつかご紹介します。

1.Lou Rawls:The Legendary Lou Rawls (BlueNote CDP7-983062)
「タバコ・ロード」「ワールド・オヴ・トラブル」「デッド・エンド・ストリート」では、彼が育ったシカゴ・サウス・サイドの様子を生き生きと語っています。

2.The Soul Stirers:Heaven Is My Home (Specialty SPCD-7040-2)
ジョニー・テイラーの「ホエン・ザ・ゲイト〜」が聴けます!

3.The Mighty Clouds of Joy:The Best of ~ vol.2 (MCA MCAD-22050)
ジョー・ラゴーンとジミー・ジョンズの「ホエン・ザ・ゲイト〜」

4.Sam Cooke's SAR Records Story (abkco 2231-2)
ソウル・スターラーズのジミー・アウトラーが聴けます!

5.The Sensational Nightingales:The Best of~ (MCA MCAD-22044)
ジュリアス・チークスの「ベリイング・グラウンド」!

6.Can't Stop Singing! (PBS/WARNER BROS.9-47396-2)
これは、ブルー・ジェイズで歌っていたという、バーバーショップ・スタイルの曲、「ウェディング・ベルズ・アー・ブレイキング・アップ・ザット・オルド・ギャング・オヴ・マイン」が聴けます。このCDはSPEBSQSAという団体の毎年行われるコンテストの様子を集めたもの。
 SPEBSQSA?「アメリカに於けるバーバーショップ・スィンギングを保存し、普及させる会」だって!いいなあ。

7.「アカペラ・ゴスペルの神髄」(P-VINE PCD5544/55)
チャールズ・ブリッジスのフェイマス・ブルージェイ・スィンガーズが聴けます!

8.BIRMINGHAM JUBILEE SINGERS VOL1 & 2 (DOCUMENT DOCD5355/5356)
チャールズ・ブリッジスのさらに古い録音が聴けます! 


by Makoto Takahashi


Home South Bound Train Blues Market誌 高橋 誠

1999 by Makoto Takahashi

Web Master : Hiroshi 'Edogawa Slim' Takahashi