傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 82 [ 2009年11月 ]



Halloween...trick or treat
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2009年11月2日(月曜日)

そろそろアーティスへ出勤しようとしていたら、ベースのニック・チャールズから電話。

「今日、ビリーが用事で休むって」
「ふぅうん」
「いつもなら俺たちだけで演るじゃない。でも店は、バンドだけなら要らないって」
「ふぅうう、ん」
「じゃ、そういうことで」
「へいっ」

電話を切って数秒するとまた携帯が鳴った。

「おう、モーズ(ドラム)だけんど」
「今日、アーティスの仕事キャンセルなったから」
「ふぇい」
「あっ、もう誰かから聞いたのかぃ」
「ニックから」
「あっ、そっ。んじゃ、そういうこって」
「ふぇえい」

なんか分からんけど、休みがひとつもらえた・・・ダメじゃん。


2009年11月5日(木曜日)

サウス・サイドの79番街に在る、豪壮で歴史のありそうな"Regal Theater"でSOBが宴会仕事。

午後4時半が現場入りだったが、高速が混んでいて一時間半(普段は一時間ほど)も掛かり、ようやく着きかけた5時前にビリーから電話。

「アリヨ、今どこだ?」
「もう建物は見えています。大将は?」
「俺は着いたばっかりだが、誰も来てないってのは、どういうことなんだ!」
「まだ誰も来てないんですか?私ゃあと一分です」
「うむ」

3分後に到着すると、モーズを乗せたダンの車とニックのRVも同時に停まった。全員で手分けして機材(PA込み)を運ぶ。お前ら、ちゃんと時間を読んで家を出ろよ、とぶつくさ文句を垂れるビリーだが、アンタが一番近い(きっと6分以内)のに、なんで入り時間に来れなかったんでしょう。まさか、この時間ならもう搬入(PA込み)は終わっているだろうと、時間を読んでたんじゃないでしょうね。

宴会場は劇場ではなく玄関奥の広いカフェ。モザイク状に彩られたタイルの床や、ゴシック調の柱にレリーフで飾られた壁、ローマ風のプチ噴水など、まるで日本のバブル時代のリゾート・ホテルのコンコースみたいだが、こっちは本物っぽい重みがある。

宴会終了予定の8時半を回って、「またどこかでお会いしましょう」と最後の挨拶をするビリーから下院議員の某(なにがし)がマイクを奪って、「いや、素晴らしい演奏じゃないですか、もう少し演奏してもらいましょうよ、ねぇ、皆さん」と要らぬことをほざく。おいおい、オレはこれからロザでジャムのお相手。抜いたケーブルを不承不承(ふしょうぶしょう)繋ぎ直していると、すかさずビリーが「そうしたいのは山々なんですが、このピアニストは、これから遠いノース・サイドまで戻って演奏しなければならないんですよ」と強引に打ち止めた。エラい、大将!

そそくさ搬出し失敬しようとすると、「そんなに急いで、用事でもあるのか?」とビリーが訊いた。へっ?!レギュラー仕事のロザですが、あなたさっきアナウンスして・・・「あっ、お前、何、今日仕事断らなかったの?そうか、まだ間に合う時間か。ってことは、俺の言い訳は嘘じゃなかったんだ、へへへ」・・・オッサン知らないで言ってたのか、人をダシにして。

その日のロザはベースが6人。内アップライト・ベースが2人の妙な夜だった。


2009年11月7日(土曜日)

ボケのケーブル会社、コムキャスト。木曜日から、テレビもネットも繋がらない。昨日の3回目の問い合わせの電話にぶち切れた。

金曜日の午後は係の女性が、「お客様の地域は午後5時に復旧しますので、もうしばらくご辛抱ください」とマニュアル通りに、きっと笑ってない目の笑顔の早口で、頭を下げずに謝った。夜になってもケーブル回線は復旧していなかったので電話すると、昼とは別の女性に「あなたの地域は復旧しているはずですので、もう数時間待ってもらえますか。それでダメなら、またお掛け直しください」とはぐらかされたが、未明になっても繋がらなかったので、半分キレながら3 度目の電話を掛ける。

一瞬ヤクザの事務所へ電話したのかと思った。その男は眠たそうに「ハぃいー、コムキャストの∞£ζ§pっす、いつもご利用頂きィありがとーございます。どーいったトラブルでしょおかぁ」と、それでも勢いだけはつけて呂律を回し、「お前、どこの誰じゃ、こんな時間に電話してくんなや」という怠惰な行間を匂わせる。オレは少し辛抱して木曜からの経過を説明した。

「ちょっと待ってくださいよぉ、オタクの電話番号は===っすね・・・えっとぉ、その地域、まだ作業中ですわ」
「でも、今日、正確には昨日、金曜日の午後5時に復旧するってオペレーターが言って以降、何の情報もないんだけど、いつ復旧するの」
「さぁ、知りませんねぇ」
「知らんって、アンタ何の説明にもなって(を遮るように)・・・」
「そんなこと言ったって、こっちにはオタクに話すことのできる情報がないんで(の途中から被るように言ってやった)・・・」
「アンタなぁ、こっちは木曜から3回目の電話を掛けとんじゃ、せめてどんな問題があるんか状況を(の途中から相手もムキになって)・・・」
「さぁ、どっかで断線してるんでしょ」
「断線って、ほなら見込みとかぐらい(キャッチボールが早くなる)・・・」
「だから言ってるっしょ、こっちはオタクに何時って言える情報が(の途中で)」
「ちょっと待てや、こら、アンタがオレの立場やったら、何日もテレビとインターネットが繋がらんかったら、何とかせえってキレるやろ(今度は言い切った)」
「ふん、(冷笑の鼻息)何日も繋がらないことってありますよ、俺の経験ではね」
「会社の人間がそれゆーか?それでも問い合わせとんにゃし、明日の朝また掛けろとか何とか言えるやろ」
「オタクもシツコイね、知らないっつってっだろ。何で俺が、いつ掛け直せってオタクに勧められんだよ。オタクが決めろよ」
「お前の名前、もう一遍ゆえや」
「はぁ?俺の名前ぇ、マークだよ」
「おっしゃぁ、マーク、また掛けたるわ」
「おう、この時間だったらいつもいるからな、掛けてこいよ。他になんか御用はないでしょうか?(マニュアル通りの最後の挨拶)」
「ないわぃ!」
「ありがとうご(当然途中でブッチ!)・・・」

結局昼に4度目の電話をした。穏やかな応対の男性はとても礼儀正しく、時おり「ご迷惑をお掛けして申し訳ございません」の言葉を挟んではオレの説明を最後まで聞き、ついでに彼(かの)オペレーターの非礼も丁寧に詫びてくれる。「おお、4回目で始めてまともな人("right person")に当たった」と言うと照れながらも素直に喜んでくれた。彼の態度には、マニュアルを越えた誠意が感じられる。明日技術者を派遣し、早急に対処してくれることを確約してくれてオレの気は済んだ。

夜"Park Forest"(ウチから南に80キロほど)のホール(定数300弱)でSOBの単独コンサート(実際はゾラ・ヤングがゲスト出演)。うぅうむ、月曜のアーティスは無料、週末でもシカゴのローカル・クラブなら$15で3セット観放題なのに、$25も出して人が来るんでしょうか・・・わっ、そこそこ来た。早い上がり(午後10時)に、想像した週末最低賃金の数倍を貰って、コムキャスト騒動を完全に忘れることができた。

しかし、テレビもネットもない生活は静かで時間にゆとりが持てる。携帯もなく、長距離電話(ましてや国際電話などめっそうもない)が高かった頃、人との通信を主に手紙でやり取りしていた時代が、ちょっぴり懐かしかったりする。


2009年11月8日(日曜日)

ケーブル・テレビにネットも午後には復旧。この数日は20℃前後の暖かさと、秋に気温がぶり返すインディアン・サマーで、街は人が溢れていた。

唄って吹く(ハーモニカ)歴史教師のロブ・ストーンと、午後6時半からのアコースティック・ライブ。ギターのマークを加えた3人が、アルコールを置いていない健全なカフェで、健全そうな客を相手に、健全に演って、午後8時前には健全に終了した。健全万歳!


2009年11月10日(火曜日)

明日が退役軍人の記念日ということで、幼稚園に通う息子が合衆国国旗の絵を描いてきた。いつもどこかと戦争しているこの国は、他国に錦の御旗(みはた)を立てては厭われることが多く、戦争嫌いな親としてはとても複雑な気持ちなのです。


2009年11月12日(木曜日)

ダウン・タウンのオシャレなマティーニ・パークで、火曜日にSP20sがホーン2管(サックスとトランペット)を入れて6時間(6セット)も演った印象が良過ぎて、今晩のロザでMJが引き連れた中途半端な 3管(サックス3本)に苦笑いする。

大体MJ軍団はいつも無断で上がってくる。トニーがそれを認めているのか、傍若無人ではないものの、ステージ脇に陣取っては呼ばれもしないのにぞろぞろと、またはバラバラに途中登場する。おまけに、ひそひそ話をしているつもりの地声が大きい人のように、本人らが考える以上に生音がでかい。

音量やソロ振りなど、しっかりとコントロールするメイン・ホストのジェームスをかいくぐって、唄の合間・切れ間に、誰彼なくフレーズを埋めたりソロを取り始めるものだから、一度ジェームスがキレて曲の途中で降りてしまった。さすがに軍団のひとりが「ひょっとして自分が何か悪さをしたのか」とオレに訊いてきたが、少し素人な二人に「おめえら、ジャムで腕を磨くんだ」「ほれオレに続け」「今だ、おめえ行ってこい」などと、MJが嗾(けしか)けていたのを知っている。

あのね、ここでのジャムのルールはこうこうでね、アナタがしたこれこれはこういう風に受け取られてねと優しく説明すると、それ以来MJ軍団とジェームスが混じることはなくなった。

それでも、いかにも出来そうな出で立ちの黒人管楽器隊が揃うと、おっ、と客は思うので、威風堂々とした彼らの振る舞いは変わらない。目を見張るようなソロや、ホーン・セクションとしてのパターンを瞬時に入れたりする技量・知識はないものの、相手構わず思うままに参加する積極性が衰えることはない。

オレの大好きな、リン・ジョーダンのサポート・メンバーであるMJに含むところはない。ただ、長いこと待ってようやくステージに上がれたと思ったら活躍の場がなく、演奏した気分もせず去っていくミュージシャンも多いのだ。

先週、ギターを抱えて一セット目が始まる前から来ていたA君は、終演間際になって「今日はもう時間がないんで」とトニーから告げられ、一言の不満を漏らすことなく笑顔で立ち去った。彼がどれだけ「弾けない」かは知らない。でもA君は今日も笑顔で来ていた。そしてギターを弾くこともなかった。


2009年11月14日(土曜日)

もう原始的なくらいの保守主義者(税金徴収と社会保障を最低にして、何でも自己責任の自由満載社会)であるJ君から、オレの出演した昔のテレビ番組がアップされてることを知らされる。ピアノの音はよく聴こえるが、姿はほとんど映っていなかった。

http://www.youtube.com/watch?v=SBadyk1DDKU

J君の一言。「アリヨ、80年代の髪型だね」。おい、収録は1988年や。


2009年11月16日(月曜日)

満天の星の輝きをかき寄せて地に降ろしたような、ダウン・タウンの摩天楼が近付いてくる。

「"World capital of the blues"(世界のブルースの首都)のシカゴよりお送りしてます」

"WXRT"のDJ、トム・マーカーのアナウンスに続いて、次の曲がカー・ラジオから流れてきた。ニック・モスのバンドをバックに、 ルリー・ベルが "I'm Ready" を唄いだす。

演奏者やDJをオレは知っている。そしてみんなもオレを知っていた。FMの音楽番組というよりは奇妙なローカル感が漂う。すべてが身近過ぎて、「ラジオに知りあいが出演してるぞ」といった感慨もない。この環境が当たり前になっているということは、それだけオレがここに根付いているということなのか。多分そうなのだろう。その日その日を懸命に生きていると、来(こ)し方を振り返ることもなければ、己(おの)が立場を深く考えることもない。

「世界のブルースの首都に根ざしている」との字面から受け取る華々しさと、その実態は違う。間口が広く敷居の低い、誰もが気軽に入り込める地味な社会に長く居続けているだけなのだ。そんな身の上でも「世界のブルース・ファン」にとっては憧れの対象に違いない。本場のブルースに触れることと、「ブルース・マン」と共演することだけを目標にシカゴへ来た若きオレは、今のオレを夢にも描かなかった。

いつもの月曜の夜は終わり、最後の機材を持ってアーティスから出ると、直ぐ脇にパトカーが一台停まっていた。車内の警官二人が手を挙げて見送っている。多分彼らは店の常連客で、オレが誰かを知っているのだろう。

ブルースの首都に根を下ろしている実感が、僅かだけ湧き上がった。


2009年11月18日(水曜日)

ウチの近所の片側二車線の道で、指示器を出して車線を変更しようとしたら、後方から猛スピードで飛び出してきたバカがいた。オレが自車線ギリギリの所で踏ん張ったため、相手は反対車線まではみ出したが、何事もなかったかのように疾走していく。制限速度が65km/hのところを85km/h程で遠ざかるアホは、前方の信号で左折した。その道は路面が綺麗なものの制限時速は50km/h弱となるため、頻繁にパトカーが張り込んでいる。うしうし、あのボケが捕まりゃ、ちょっと冷やっとしたオレの溜飲も下がる。それっ、追いかけてカスの末路を祈ろう。

黄色のライトが赤に変わるギリギリで左折したオレは、意外なものを見てちょっとガッカリした。両脇を閑静な住宅群とゴルフ場に挟まれたプラット通りを、暴走狂は時速48kmでしっかりと安全運転をしている。次の信号のあるリンカーン通りまでの長い間、ヤツはじっと我慢していた。リンカーン通りを南下する進路は奇遇にもオレと一緒で、幹線を選ばずプラットからリンカーンに抜けるのは、この辺りの土地勘があるに違いない。

背後にプチ・ストーカーがいるとはつゆ知らぬ運転者は、群れに紛れる羊然と、増えた車列に加わっていた。どれ、行(ゆ)き掛けの駄賃に顔だけは拝んでおくかと、他車の間を縫って横へ並んだ。えっ、ジョー!?(2009年11月14日参照

直ぐさま警笛を忙しく鳴らす。何事かと訝しげに振り向いた彼が破顔した。閉めた窓で聞こえなくとも、呵々大笑する声がする。そのジョーが突然下を向いてキョロキョロし始めた。携帯電話を探しているに違いない。そのとき、ジョーの前の車が徐行して、アジア系の顔がこちらを覗いた。オレがホーンを激しく叩き過ぎたためか、自分のことと勘違いしている。危ないっ!

僅か5分ばかりのオレだけのドラマは、起こったかも知れぬ二度の不幸な瞬間を凝縮させて笑い話となった。 


2009年11月23日(月曜日)

午前2時過ぎのアーティスの帰り道、反対車線で警官がセダンの乗用車を止めていた。

交通違反の摘発かと思ったが、防弾チョッキを身に着けた制服のひとりが、左手後方から拳銃を下に構えて指示をしている。運転手に対して、両手が見えるように窓から出せと言っているようだった。同僚の方は、パトカーの助手席側の開いたドアの影から援護の姿勢で、やっぱり拳銃を構えている。セダンに他の者がいるかどうかは分からなかった。

警察のマニュアルはどうなっているのだろう。深夜を過ぎているとはいえ、単なる交通違反容疑でも拳銃を抜くのだろうか。交通違反でも不審な車の発見でも、警官は停車を命じてパトカーから直ぐに降りない。先ず車種とナンバープレートを車載のコンピュータで照会してから、ようやく仰々しく出てくる。

何らかの容疑で手配中の車だったら、方々からサイレンが鳴り響いたに違いない。ということは、セダンの運転手は単なる挙動不審者(または挙動不審な運転)で、職務質問にあったってことだ。拳銃を向けられているのは、クスリ関係を疑われている。それも売人の方の。

運転手は素直に両手を突き出した。それでも攻撃される恐怖の消えない警官は、容易には近付かない。向けた人差し指を忙しなく動かし、肘を完全に出させようとしている。

すれ違い様によくそこまで観察し推理できたなとお思いだろうが、毎週通う地域への警戒心が洞察力を養っている。多少は減速したが、そこに留まり成り行きを見つめる気など毛頭ない。この後、細心の注意を払って同乗者の有無を確認し、人数が多ければ応援を要請して待つ。それから全員を降ろして車に手を突けさせ、車内と持ち物検査が続くのだろう。

これは想像ではなく、進行中の現実なのだ。時間が時間とはいえ、警官が銃を出す(2007年5月14日参照)場面に遭遇することは、さすがに多くない。しかし、事あれば彼ら(警官だけでなく相手も)は躊躇なく撃つ。

この場合、警官が白人で不審者が黒人であることは関係ない。肌の色への偏見が助長するのは、自己防衛の本能が枷(かせ)となって過剰に反応する「程度」の問題であっても、そこに配属される警官の危険度に変わりはないからだ。

アメリカの都会には薬物と銃の蔓延する地域が必ず存在している。ここに住んで実感する「貧富の格差の先進国」は、その元凶を生み出す構造を変えない限り、現場の人間の緊張感は緩和されないのだろう。

罪もないのに不審者と主観で判断され、銃を突き付けられたあと放免されても、職務だからと謝罪はない。だからオレは、この辺りの夜の道でパトカーに出会うと、疑われはしまいかと緊張したりする。


2009年11月25日(水曜日)

ローザスでは日・月に加え、最近水曜も定休日となった。誰をブッキングしても客が増えないというのが理由だった。本来ならサンクス・ギビングは営業しないので、ローザスの木曜ジャムはお休みだが、祝日前だから人は来るとのトニーの読みで、臨時開店した今日に振り替えられる。

冷たい小雨で濡れた道を走る車の速度は落ちない。明日の日を楽しみに、みんなが家路を急いでいる。だから、帰る前にちょっと立ち寄ったというような人ばかりで、誰も腰を落ち着けない。結局、聴衆総数は普段と変わりなく見えたが、来店しては直ぐに席を立つ状態が最後まで続き、フロアーの従業員としては忙しくないままだっただろう。 

気が付くと見知らぬエプロン女性が、隅の方で所在なげに立っている。トニーに誰?と訊くと、「来年の水曜日に店を開けるとしても、もう増員しない」とだけ答えたので、オレは気になっていることを訊ねた。

「ところで来月のクリスマス・イブは木曜日だけど休むでしょ、23日の水曜日はどうする?」
「・・・」


2009年11月28日(土曜日)

ドラムのケニー・スミスの結婚パーティにSP20'sで。

花嫁の関係か、参列者は大半が白人。ミュージシャンも、ケニーと父親のウィリー・スミス、その盟友でありジミー・ロジャース時代のオレのツアー同室者だった、ベースのボブ・ストロジャーの3人以外は全員白人(オレとSP20'sのギターのショウジ君は除く)。

ケニーは若いがオヤジの影響からか、伝統的なシカゴスタイルのシャッフル中心のドラムを叩く。そして、そのコアなブルースの演奏者には白人が多く、仕事関係での招待客となると、(色分けするつもりはないが)上記の如くになったのだろう。

大体がアフリカ系のコミュニティでは、シカゴ・ブルースに対する親しみはあっても、その奏者への敬意は少ない。B.B.やボビー・ブルークラスになると別だが、マディの系譜に属するブルースは、同時代の黒人にとってもポップな音楽ではなかったのかも知れない。

それでも " I am a Blues ! " と本人がステージで言って、「うん、うん、その通り!」と頷ける僅かな人がボブやウィリーで、重ねた歳に混じり気のない黄金期のシカゴ・ブルースの魂を刻み込んだ音が、今もマニアの胸を衝き続けている。だから、彼らに憧れてブルースを演り始めた、ここに集った非アフリカ系のミュージシャンはみな、彼らを敬い、彼らと一緒に演奏することを喜び、嫡流(ちゃくりゅう)であるケニーに期待する。

名士である花嫁の親が、どこまで彼の生き方を理解しているかは分からない。家族を持つということは、経済的にも一定の責任を持たねばならず、伴侶の白人家庭やその周りの人々を納得させるのは容易でなかったはずだ。

ケニーは気負うことなく、偉ぶるでもなく、友人・親族からの新たな門出の祝福にマイクを持って応えた。普段は物静かな彼が熱唱する。今後も父親の歩みを辿るとは限らない。しかし、ウィリー・スミスの息子であり、その出自に感謝する誇り高い唄だった。


2009年11月30日(月曜日)

まっさらのキーボード(YAMAHA CP-33)の筆下ろし。アンプのセッティングに慣れず、せっかく3種類もあるピアノ音を使いこなせない。

「弘法筆を択ばず」だが、筆が弘法を択んでたりして。