傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 71 [ 2008年9月 ]


Chicago Jazz Fes. George Freeman & Billy
Photo by Y

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2008年9月3日(水曜日)

バディ・ガイがMLBのカブスの試合で始球式に登場。以前ビリーもブルズか、W
ソックスの試合で、国家をハーモニカで吹いたのだから、ありふれた光景ではあ
るが、メジャーのスポーツのテレビ中継で知り合いを観ると不思議な感じ。


2008年9月4日(木曜日)

いつもはロザでだらだらとジャムの相手をする木曜日だが、ミシシッピー・ヒートというハーモニカおじさんのバンドの手伝いを、ハウス・オブ・ブルースで。ドラムがウィリー・スミスの息子のケニー、ギターが元SOBのカール・ウェザースビーと楽しい。

トイレで洗った手を備え付けの紙で拭いていると、「ヘィ、ユァサウンズ、グッ」と言って手を差し出す男がいる。個室から出たばかりの彼は、まだ洗面台にも近寄っていない。明らかに「大」の用を足した様子で、辺りには仄かな臭気さえ漂っている。オレは一瞬躊躇した後、右手を動かしていた。

力強く握り返す大きな手とオレの手の間には、ゴアゴアの手拭き紙がしっかりと挟まっていた。 


2008年9月5日(金曜日)

アパートの角の十字路に、背に白い帯の流れる小動物の死骸があった。昨日の夜中に、「一旦停止」の標識を守らない車にでも撥ねられたスカンクなのだろう。傍を通った人は、今でも臭気が強いと言った。

迂闊にも、オレが長い間タヌキ("Raccoon Dog")と間違えていたアライグマ("Raccoon")の礫死体はよく見かけるが、スカンクのは滅多にない。例え死骸であっても、轢いてしまうと、地上最強の臭いは洗っても中々取れない。 

「一旦停止不履行」の車に付着した、スカンクの臭い物質の効能が長く維持して欲しいと願うことを、昇天したスカンクへの鎮魂とした。


2008年9月6日(土曜日)

レジェンズでの野生児、クゥインタス・マコーミックの手伝いはもちろん前座なので、試合開始が午後9時半から。他のメンバーを当日まで知らなかったが、ベースのニック・チャールズやドラムの誰某(名前を覚えられない)がいて、元ヴァレリー・ウェリントン・バンドとなる。

前座の前座のジミー・ジョンソンが、アコースティック・ソロの後半にピアノを弾いていた。下手なのにグルーブがあり、ちょっぴり妬(ねた)む。セット交代のとき簡単なフレーズを教えて、僅かに溜飲を下げてやった。

しかしジミーは若く見える。

「アリヨは(見た目が)昔と変わらないなぁ」
「いや、私は若作りに苦労してます。アナタこそ、83年の晩夏に初めて"B.L.U.E.S."でお会いした頃とちっとも変わりませんよ」
「うむ、それはなアリヨ。俺は39歳で進行を止めたのだ」
「はぁ?」
「酒も煙草も止め、女性もホドホドにして、39歳で老いることを止めたのだよ」
「・・・・・・」

アンタは「ブリキの太鼓」か!

ところでメインはといえば、リーダーらしき年配のアフリカ系の歌・ギターの方(名前は忘れた)と、妙齢の白人女性3人(Key.B.Drm.)の珍しいユニットだった。ううう、こちらはアザラシのハーレムかい。


2008年9月13日(土曜日)

9月に入り、ビリーが二週間の単独ミシシッピー行(ブルース教室)に出ているので、SOBは月曜日のアーティス(大将抜き)のみの超暇なのだが、オレは5 種類のユニットが空き日にハマってくれて助かっていた。先週など、ハウス・オブ・ブルースで演った2本の内、ミシシッピー・ヒートのバンドは、ギターがカール・ウェザースビー(オレの喫煙仲間)、ドラムがケニー・スミスと楽しいユニット。しかし、カールがサポートなんて贅沢なこっちゃが。

今月のお得意様(4本頂戴)であるスイング&ロカビリーの「スペシャル20ズ」仕事に、名も知らぬ遠い北の町(家から100キロ程)の誰かの結婚パーティへ。

昨日からの大雨でシカゴ市内は大混乱。冠水した道が各所で通行止めとなっているのも知らない、いまだ熟睡中の午後2時半頃、SP20sのリーダー、モリーからの電話で起こされる。

「エデン(州間道路94号線)が通行止めになっているし、市内はものすごく混んでいるから、早い目に出発してね」

ブラインドを開けて外を見ると、いまだ降り止まぬ雨、雨、雨。

「パーティは屋外でしょ?こんな雨でも演るの?」
「もちろん!特大テントだから大丈夫だって。でも、ホッ、ッント、道路状況悪くて、スゴく、スゴォーく悪くて、向こうまでどれくらい掛かるか分からないから、余裕を持って家を出てね、ボクもしばらくしたら出るから」

昨夜、順路や所要時間をネットで調べていたが、高速の94号線が使えないとなると下道しかないし、94号線以外の行き方は不案内なので、一時間は余計にみておかないとならないか。入り時間の6時に着くためには・・・うっ、もう起きないと。

レイン・ポンチョをまとってキーボードを車に運び込む間に、ケースはドボドボになってしまった。雨脚は緩まない。主要道路に出ると、おお、確かに混んでいるわ。電話で起こされて助かった。

さてさて、先ずマックンでチーズ・バーガーとアイス・コーヒーを、小旅行のお供にと。確かこの道をずっと西へ西へ向かうと、ノース・ウエスタン道路に出るからっと、んん、今、94号線の北行き入口には何の表示もなかったような、こらっ、そこの車、もっと前詰めろ。ふむ、確かに南行きは通行止めだが、はて。

慌ててウチを出るとき、テレビのローカルニュースで「・・・市内は各所で通行止めとなっています。エデンでは、北行き方面がフォスターから先・・・まで・・・すので、北へ向かわれる方は高速を使わず、迂回路を・・・」とか言ってたような。「・・・まで」はトゥイ通りと言ったような、そしてこの道こそトゥイ。ここは一か八かと、車をぐるっと回して94号線北行き入口へ向けた。

94号線、通称エデンの南行き対向車線は、数珠つなぎの車が数キロに渡って雨に煙っていた。北行きは、トゥイから開通しているため、数台しか走っていない。いや待て、安心するのは早い。この先で一部通行止めなどがあり、面倒な迂回路に往生するやも知れぬ、と用心したものの、予習した行程より早く現場へ到着する。

パーティ会場の係員に誘導されて駐車場へ入ると、モリーのRV車が見えた。車内を覗くと、彼はシートを倒して眠っていた。仕方なくオレもマキシマの車内で横になる。屋外で予定の催しが、雨ですべてテント内となったため、搬入時間は大幅に延び、結局2時間も待たされてしまったが、オレは何故か一睡も出来なかった。


2008年9月15日(月曜日)

多分、野良猫かアライグマがくわえ込んだのだろう。アパートの緑多い庭の片隅に、内蔵を食い荒らされた轢死スカンク(2008年9月5日参照)が、死後十日も経つのに、まだ異臭を放っていた。


2008年9月16日(火曜日)

元ヴァレリー・ウェリントンのドラマー(元っていったい何人いるねん!)ツィスト・ターナーのスタジオでセッション仕事。オレには珍しくハモンド・オルガンも弾いて、4時間あまりで6トラックを録音する。注文の多いツィストの仕事は、簡単な演奏ほど難しい・・・。


2008年9月18日(木曜日)

唄って吹く歴史教師のロブとハウス・オブ・ブルース。今月は隔週でロザを休んで気が引ける。誰にってことはないが、ロザを休んでも、窓にはオレの写真が貼り出されているらしいし・・・。


2008年9月20日(土曜日)

オハイオ州のクリーブランドへSOBで小旅行。僅か6時間の行程ですがね。

昨日のSOBはレジェンズで、オレの帰宅が午前3時前。偉大な我がリーダーは、それでも今日の午前10時には出発すると、先発運転手としての自覚を高らかに宣言していた。

んんん!?座席が4列(2.3.3.3人掛)と長ぁい大型バンなのに、なぜにオレが最後列の荷物に挟まれたこの狭い空間で・・・えっと、メンバーが5人で、ビリーの彼女が助手席、まぁ彼女はCDを売ったり大将の世話をしたりで必要な方。えっと、モーズの隣の背の高い方は、SOB公認ダンサーで、つまりはモーズの彼女だけれど・・・して2列目ニックの横のひょろっとしたアンタは・・・おお、ローディ君のジュニア。お前、何で運転してないねん!

可哀想なのは新メンバー(いつまで言われてるのか!)のダン君、唯一3人掛けに3人で座っている。それもモーズの隣で肩を寄せ合って。道理で、車内エアコンが効き過ぎて何人かはジャケットを羽織っているのに、互いの体温(といってもほとんどはモーズ)で暖め合って、半袖Tシャツのままでおるわけやね。オレはデンと腰を落ち着け、いつ代役運転手に指名されても良いように、iPodを用意すると、さっさと睡眠体勢に入っていた。

うとうととしていると、減速する気配に目が覚めたが、高速道路の路肩に停めようとするのは尋常でない。はっと直ぐに事情が飲み込めた。荷台に溢れた荷物の隙間から後ろを窺うと、青色の天井灯を点滅させているインディアナ州の特殊自動車が、怒ったような鼻先を向けている。間もなく、ハイウエイ・パトロールの若いシェリフの近付くのが、スモークが貼られた窓越しに見えた。

「大分、急いでおられたようですね」
「ああ、俺たちはバンドで、クリーブランドの仕事へ向かっているところだから・・・」

いつもの威勢の良い大将の声が沈み込んでいる。官憲は免許証と車両の書類を受け取りながら、助手席の窓から鋭いまなざしで車内を見やり言った。「後ろの方達はちゃんとシートベルトをしてますか?」。モーズの彼女が大慌てでシートベルトを探し出し、「みんなちゃんとするのよ」と模範を示す。つられて全員がごそごそし始めたが、オレは動かなかった。

確かに、安全のためには後部座席でもシートベルトの着用が必要だ。でも今は停まっているし、アカデミィを出て何年も経たないように見えるこいつが、権力を傘にねちねち運転手を責めようとするのが目に見えていたからだ。

大体が、文言は丁寧だが語気に「叱り」が入っているし、明らかに怒っている。若いから張り切るのも分かるが、相手が下手に出ているのをいいことに、すっかり権力者としての横暴を楽しむインディアナ・ポリスの下賎さが垣間見える。彼らは、州外からの運転手は出廷が面倒で裁判で争わないことを知っているから、少しの違反も見逃さないという風評を思い出した。

「あなた、どれくらいのスピードで走っていたか分かりますか?」
「どれくらいのスピードだったんだい?」
「あなたに訊いているんです」
「でも君は知ってるんだろ?教えてくれよ」
「私があなたに訊いているんですよっ!」

ビリーはすっかり萎縮していた。警官はネイティブ・インディアンかアジア系が少し入ったような風貌だったが、他州の、それも仕事へ向かう途中で、アフリカ系アメリカ人が楯突くと碌なことにならないことを大将は知っているのだ。これが日本でなら「なんじゃ、こらぁ、その言い方ぁ!」とオレはキレるだろうが、ビリーはじっと堪えていた。

「えっとぉ、・・・くらい?」
「えっ?聞こえませんよ、もっとはっきり言ってください」
「80マイル(130キロ/時弱)かな」
「ここの制限時速は知ってますか?」
「ああ、ええと70マイル(110キロちょい)」
「あなたが出してたスピードは87マイル(約140キロ)です!みなさんの安全はあなたの運転(2008年8月23日参照)に掛かってるんですから、気を付けてくださいよ」
「・・・・・・」

オレは慌ててシートベルトを腰にしっかりと巻き付けた。


2008年9月22日(月曜日)

イスラエルからアーティスへ遊びに来たその若者は、自分の名前を明瞭に「イタイ」と言った。

「あははは・・・それモロに日本語で『痛い』やん」
「うん、知ってる。イスラエルで誰かがボクに教えてくれた」
「でも人に対して使うと、俗語になってくるよ」

「イタイーーー」は、芸人が主に女性への陰口として使う隠語(「イタイ女」「タレをカク」など)の認識をオレは持っていたが、テレビの影響からか、最近の若者の間では楽屋言葉も広まり一般的となっている。

「どういうこと?」
「身体とか心の痛みにつながる大失敗や、悲惨な状況とかは、その話や状態の中身を『イタイ』で表すけど、例えば『イタイ奴』って言うと、可哀想になるような勘違いとか、場を読めない言動とか、一緒にいてこっちが恥ずかしくなるような、おかしな、狂った、扱い難い奴という、凄く悪い意味になる」
「えっ!?じゃぁ、ボクの名前をフルネームで言うと良くない?」
「そりゃあ、日本で名乗ると笑われるわな、あはは・・・苗字は何て言うの?」

イタイ君はパスポートを見せながら、彼の名と同じく明瞭な音でファミリー・ネームを発した。

「綴りは"Aliyol"だけど、アリヨって発音するんだ。『イタイ・アリヨ』がフルネームだよ」

・・・いや、オレはイタイ人間やないし・・・。


2008年9月30日(火曜日)

ダウンタウンのオシャレなラウンジ風クラブ、「マティーニ・パーク」でスペシャル20ズ。40分を4ステージという、楽なのかしんどいのか分からないシステムのこの店は、だから休憩が多い。

この冬に京都で滞在したという客と話が盛り上がる。オレが中学生の頃デートに行きまくった、岡崎公園の某旅館に宿泊したと聞いては尚更だった。

南禅寺の境内を二人乗りチャリで走り回り、疎水脇の茶店(当時の中学生では考えられない保護者なしの入店だった)のかき氷一杯で4時間ねばり、平安神宮の鳥居脇で待ち合わせた右京区(あたしゃ左京区ね)のS中学生との密会を本命の親衛隊(当時の中学生ではありがちな、やんちゃ女子だった)のひとりに見付かりチクられ、京都アリーナのスケートリンクで声掛けまくり、学生優待券の京都市美術館でムンクし北斎し雪舟し、国立近代美術館でシュールし、京都会館第一ホール内のイベントに潜り込み、O中学のやんちゃ坊らに的を掛けられ、図書館で受験勉強という名の暖を取り、ハードケース(当時の中学生では考えられないプロっぽさだった)に足を乗せてフォーク・ギター(当時の中学生では考えられない早弾きとアルペジオだった)でS・Gを奏で、五木寛之の住むマンション(武徳殿前)に引っ越して来た女子転校生から間取りを訊き出し(当時の中学生では考えられない建築マニアだった)連れ出し、その親から不審がられ、動物園の猿山に見入り、誰も利用しない丸太町通の陸橋から大文字山を眺め、金のない、ただぶらつくだけの、夢とロマンの岡崎地区だったのである。

かの客に名刺を渡すと、彼は日本語で「アリガトウゴザイマシタ」と言った。「えっ、もう帰るんですか?」と問うと、「いえ、名刺を頂いたお礼ですよ」と答える。「それだったら『ありがとうございます』ですよ」と教えると、「『マシタ・マス』の使い分けが難しい」と男性は顔をしかめた。確かに時勢は難しい。オレも意識せずに大間違いな英語を使っているに違いないと思うと、「お前何年アメリカに住んでいるんだ」と別のオレが叱った。


2008年9月31日(水曜日の未明)

もちろん9月は30日までしかないが、ここに書き記したかった。友人・知人から、「めんたんぴん」のギタリストで金沢在住の飛田一男氏の訃報が続々と入ってきている。

入道さんとの縁で飛田さんと知り合い、金子マリさんやジョニー吉永さん、つのだひろさんや世紀魔 IIのエース清水君(スッピンで引きずり出す)などと演奏をした。久し振りの「春一番」コンサートでは、「めんたんぴん」に混じってステージへ上がった。

兼六園の秋の夜間公開で、霞ヶ池に浮かぶ内橋亭で3日間のピアノ・ソロを演ったときには、既に病院で闘病中だったが、回復した後、アリヨズ・シャッフル&シャッフル・ホーンズという8人編成のバンドを北陸に呼んでくれたのも彼だ。

飛田さんは最期までロック小僧で、ブルースマンのまま、天寿を全うされたと信じている。遠い地からではありますが、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌。