傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 70 [ 2008年8月 ]



Lake Genive, Wisconsin
Photo by Y

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2008年8月3日(日曜日)

H.O.B.のバック・ポーチ・ステージ(要するにレストラン部のしょぼい方)でロブ・ストーンと。今日のメンツは、よくよく考えると古き良き日の忘れ形見。オーティス・ラッシュ、サム・レイ、ジミー・ロジャース、ジュニア・ウエルズらの元メンバーたち。

ロブがアナウンスする。
「次の曲は、『キング・オブ・シカゴ・ブルース』の・・・さぁ誰のことでしょう?最初に正解した人には、私のCDをプレゼント」
「エリック・クラプトン!」
「ブーッ!」
「スティーヴィー・レイボーンッ!」
「ブッ、ブゥウーッ!」
「ジミー・ヘンドリックス!」
「ブッ・・・お、お前らなぁ・・・」

*答えは「シカゴ・ブルース界の父」とも呼ばれてる人ですが、上のやり取りで笑えなかったら、その名前を聞いても意味がないので伏せときます。ただ、「日本が世界に誇るホームラン王といえば」と問われ、「イチローぉ」「松井ぃ」「清原ぁ」と答えるに等しいアホらしさであることは確かです。


2008年8月4日(月曜日)

大雨。雨合羽(Rain Pancho)を着て機材を搬入するが、分厚いパットの入ったYAMAHAの布製キーボード・ケースがボッタボタのアーティス。

ブルース史に燦然と輝く名声を持つ故某氏の息子のピアニストBが、早速タバコをタカってきた。こいつの手癖が悪いのは評判で、ライターを渡すと必ず自分のポケットに入れるから、一々「返せ」というのも面倒で、貸すライターには紐でも付けておきたい。

アフリカ系アメリカ人社会を、「相互扶助の共同体」と書いたのは誰だったろう。B.B.やココ・テイラーらが扶助に寄与しているのは有名だが、大金持ちのオープラ・ウィンフリィーは違うとよく聞く。違うから大金持ちになったのか、大金持ちだから違うと言われるのかは分からない。彼女の事務所のスタッフが白人だらけだからかも知れないが、88年のシカゴ・トリビューン紙のパーティで、オレが彼女と一緒に仕事したときと今では、顔が違っているのは確かだ。

ベースのニックの真上にあるファンから雨水が漏れ出した。目の前に置いた8個のエフェクター・セットの上に、ポタポタ垂れている。おいおい、グッ、ウイィーンてオーバー・ドライブするギタリストでも、大概2.3個でしょう。

日頃から「ピヨン・ピヨン」「ブオン・ブオン」「プチューン・プチューン」などの音を作っている彼も、それらを外すと、まるで化粧を落とした年増、いやいや、風呂場の窓を開けてエコーのなくなった鼻歌、いやいや、マフラーを純正に戻した暴走車、いやいや、ナイロン弦ガット・ギターを持たせたジミヘン、いやいや、とにかく、ちょっと元気がなくなってしまった。

ベーシストであるチャカ・カーンの元旦那は、「チャカの名字は俺と結婚して付いた」ことを唯一の自慢にするが、親や元嫁やエフェクターに頼らず、みんな「素」で頑張ろうね。


2008年8月9日(土曜日)

ユタ州の "Big Bear Lake" でブルース・フェスティバル。SOBにカール・ウェザーズビー、闘病から戻ったケニー・ニールなどが出演。

周りを山に囲まれた広い牧草地にステージが組まれている。オレたちが出演する頃には、すっかり寒くなっていて、ジャケットを着ていても震えた。

出番が済んで、ステージ脇に折り畳み椅子を出し、振る舞われたBBQサンドを頬張っていると、スタッフの女性がが「あなた日本人?」と訊いた。先住民族系の顔立ちをしていたから気が付かなかったが、父親がアメリカ人の日系二世だと言う。日本語は全く話せないが、こんな田舎にも故国所縁の人が住んでいるのかと嬉しくなった。

「高校のときは、パーティなどがあると、母がよく着物を着せてくれたの。でも着付けが難しくて、それに窮屈だから、結婚してからは着る機会がないの。子供が大きくなったら、着物姿を見せてやりたいわ」「私の旦那はアメリカ人よ。だから息子は四分の一が日本人の血」「親が私には日本の名前をくれなかったから、息子のミドルネームには、日本の名前を入れたの、イサムって」

その指差す先で、10歳くらいの可愛い男の子がサンドバギーを上手に乗りこなしている。彼女はTシャツをめくって左上腕部をむき出すと、肩に近いところに彫られた入れ墨を見せた。「漢字よ」

彫師は漢字が得意ではなかったのだろう、そこには、小学生が丁寧に書きかましたという字体の、5cm四方ほどの「勇」があった。広大な荒れ地のユタに生きていくことを決めた母の、息子を溺愛する印にしてはどこか果無い。

「ここにも漢字を彫ってるの」。彼女が示した両足のアキレス腱の上にも、「勇」と同じ大きさ、拙さの漢字が一字ずつ見えた。

「右」「左」

「ねっ、ライト、レフトよ。分かりやすいでしょ?」
「・・・何が?」


2008年8月17日(日曜日)

カナダ・カルガリーからSOB+カール君の移動日。

まぁ今月は、綺麗に全週末が埋まっている。それ以外に、日曜日や火曜日も忙しいから、んっ!?・・・夏を遊べないぞ。大体が先週に続いて寒いカナダへ飛ばされて、フェスでは、長袖シャツにジャケットでも凍えてたっちゅうねん!

お迎えの「豪華改造ピックアップ・トラック超ロング・ストレッチ・リムジン」は、朝の5時にホテルの玄関前で待っていた。カナダから空路で合衆国へ戻るときは、入国審査はカナダ側空港内で行われ、こちらの空港は国内ターミナルへの到着となる。大将に「チェックインやセキュリティ・ゲート、出国・入国の審査で混むから、早く出ましょうよ」とオレが具申して決まった時間だが、それでもあまり余裕がないと思っていたら案の定、エア・カナダのカウンターが長蛇の列。

セルフ・チェックインの機械を前に、荷物を置きパスポートなどを取り出していると、後ろから覗き込む人影があった。SOBのドラム兼MCのモーズは、こういうことが苦手で、ちなみにベースのニックもそうなのだが、奇しくも二人は同郷ミシシッピー出身の63と64歳。オレが異邦人であっても、頼ってくれる。「一緒にやったげよ」。

航空券を取得後は、エア・カナダのカウンターで荷物を預けるため列に並ぶ。税関申告カードに必要事項を記入していると、モーズが訊いてくる。「ここはオレの住所でよかったよな?」「そう」「飛行機は何便だった?」「AC580」「ここは?」「オレたちは家族じゃないから 0」誰かが何か叫んでいる声がする。

「えっと、ここは」「あんたの居住国、U.S.A.でしょ」「えっ?US・・・」「あんたの国でしょ、U!S!A!」「そうそう、U.S.A.」やっぱり誰かが大声で呼んでいる。「シカゴ・オヘアへご出発の方いらっしゃいませんかぁ」「Yea!」。

驚いた周りの客が一斉にこちらを振り返った。えっ!?気付くと、オレ一人が手を挙げている。睡眠不足でハイになっていたから声もデカかったが、メンバーはみんな、カード記入に忙しく、呼ばれていることに誰も気付かなかったらしい。後ろでニックが「アリヨ、恥ずかしい」と笑った。

搭乗までの時間が迫っていたため、案内のお姉さんに連れられ、瞬く間にカウンターの先頭へ。荷物がなくなり身軽になると、直ぐに合衆国入国審査の列。横のモーズはまだカードとにらめっこしている。ざっと目を通してやると、間違いが見付かった。

「ここ、ほれっ、U.S.A.ですよ」
「んっ、何でっ!ちゃんとU.S.A.って書いたじゃない」
「書いてませんよ、よく見てくださいよ」
「えっ、ほらっ、U.S.A.って・・・」
(まだ言うか)
「U.S.A.ですっ!」
「だから・・・あっ!」

「U.A.S.」って、一体どこの国やねん・・・。


2008年8月23日(土曜日)

今朝の9時頃、女性歌手のデロレスから連絡が入り、ココ・テイラーのバンドの事故を知った。幸い誰も命に別状はないらしいが、飛行機移動だったココを除き、車内の全員が眠っていたため、何が起こったのかは誰も知らないと言う。眠っていた車内の全員とは、運転手も含まれるらしい。 

どんな演奏をするか知らない、会ったこともない、誰がバックかも分からない、ただ「ミシシッピー・ヒート」という名前だけは知っているという不安な仕事で、インディアナ州のラフィエットのフェスに向かう。

オレ一人で片道200キロ以上を往復するため、ココ・バンドの二の舞にならぬよう、居眠り運転だけは避けねばと思うほど目の力が入って、余計に眠くなってしまった。

現場で「ミシシッピー・ヒート」のメンバーと合流して、5人の内の二人が知り合いと分かり少し安心する。その上リーダーは随分前からオレを知っていたらしく、念願が叶ったと喜んでくれたので、もうちょっと安心する。一緒に演奏を初めて、ぐっと安心する。終わって褒められて、オレの態度は随分とデカくなっていた。

「アリヨがビリーのレギュラーなのは分かっているけど、スケジュールが合えば、これからもよろしくお願いします」と乞われて、胸を前に突き出し「うむ」と言う。


2008年8月25日(月曜日)

ハーモニカの鈴木楽器の担当者を連れて、後輩ピアニスト(最近はオルガンも手がけている)のTがアーティスへ来た。鈴木楽器の営業と技術者の若い二人は誠実そうで好感が持てた。詳細は知らないが、ビリーは彼らと何がしかの協力をしていくのだろう。両者の関係発展をお祈り致します。

久し振りにオレの生音を聴くTは、さすがに自分の腕が上がったのか、先輩の演奏への感想を聞かせてはくれなかった。ただ「最近、日記更新してないじゃないですかぁ、ネタは一杯あるんでしょう、お願いしますよ」とお叱りを受ける。オレは叩頭するしかなかった。


2008年8月26日(火曜日)

ハーレイ・ダビットソンの中規模なフェスでSOBが演奏。自宅から100キロほど北西に離れた町へのんびりと向かう。午前中、バディ・ガイの弟のフィル・ガイの葬儀に参列したので眠い。

会場へ着くと、周りはみさなんご自慢の大型バイクがずらりと並んでいた。ゲート毎に「バンド・メンバーです」と説明しては、車両乗り入れ禁止用の柵を動かしてもらう。今は大人しいけど昔は暴れたよ、って顔の人々ばかりなのは想像通りで、若者の姿はほとんど見ない。

係員に誘導され、場違いなマキシマで人垣をかき分けてゆくのは快い。ステージ裏に停めて機材を搬入すると、別の係員から「ハイ、ここはスペースがないから、車専用の駐車場へ移動してください」と告げられた。

500メートル以上も離れた駐車場への順路、ただ退出するというこちらの気の持ちようからなのか、「あっ、スミマセンね、今ここから出るところですから」と、どこか卑屈な面持ちで人の波を押しやるのであった。


2008年8月27日(水曜日)

でたぁ、久し振りの電話セールス。

「・・・まで一分間、¢1.7でしょ、すごくやしゅいでしょ、しょいでね・・・」
偏見でも何でもなく、経験上、インドの若い男性の英語の発音と見受ける。
「はあぁ?」
「いえね、・・・まで一分間・・・」
「あなた誰と話したいんすか?」
「シュミット・アリョーシさん」
「須美人、本人が話してます」
「しょいでね、・・・だと・・・一分間、¢1.7・・・」
「スイマせん、あなたが何言ってるか分かりません」
「あっ、しょっと待ってね」
奥でモゴモゴと話す声が聞こえた。そして間もなく、男性と余り変わらぬ発音の女性が電話口に出る。

「あっ、スミマセン、ミスター・アリョヨーシさん?イマァ・・・電話会社と契約すると、インドまで一分間¢7で掛けられるんですよ」
「はぁ?」
「ですから、一分7セント・・・」
「誰がぁ?」
「アナタがです」
「何処へ?」
「インドにです」
「インドの誰に?」
「・・・」
「"Do Not Call" プログラム(登録された番号にセールス目的で電話すると、処罰の対象となる)に登録してるんだけれどね」
「・・・プツッ・・・プー・プー・プー」


2008年8月28日(木曜日)

いつものように、午後九時過ぎにローザス・ラウンジの扉を開けると、従業員も含めた20人余の人々は、大型テレビの画面に釘付けになっていた。アメリカ大統領選の民主党候補である、バラック・オバマの指名受託演説が始まろうとしている。

トニーの奥さんは弁護士で、かつてオバマさんと同じ事務所で働いていた関係から、彼が上院選に出馬したときのキャンペーン・パーティでオレも演奏したことがある。

そのときの写真が、巨大な紙へシルクスクリーン様に印刷され壁に貼られている。ビリーとオバマ、ジェームスとオバマ、ステージでのオバマ・・・はっ、オレと一緒のがない。この人、将来絶対大物になると思ったのに、「オレもオレも」が嫌で無理をしなかったのが悔やまれる。

そのオバマさんがこんなに早く登り詰めようとは思わなかった。シカゴでは強い民主党だが、ブルースが被抑圧者のアフリカ系文化である関係からか、業界自体が民主党を押している印象で、ロザの店内はさながら党支部パーティの感があった。

オバマさんの語り口は穏やかなのに、その中低音の効いた声が滑らかに発せられると、内容に対する理解を超えた感情の襞が震えてしまう。彼がアフリカ系であることや、市民派弁護士として社会的弱者のために活動してきたという、オレの「認識」がそうさせることは否めない。

「マケイン氏も『変える』と言いますが、彼はブッシュ政治の90%を議会において支持してきました。私たちは残り10%の『変化』を期待しなければいけないのでしょうか」

店内は沸点に近い盛り上がりを見せた。逆にオレは醒めてきている。そうなることは分かっていた。オバマさんの言う「変化」の具体的概念は、大統領に近付くにつれ少しずつ「変化」していたし、それは所詮、二大政党の枠内での「変化」しか望めないものだったからだ。

この国の政治によって世界が変わることをアメリカ人は知っていても、実感はないだろう。中東での平和な結婚式に投下爆弾が炸裂する話だけではない。中南米の人々の貧富の差が広がったり、アフリカで餓死する人が減ったり、飛行機代の半分以上の燃料代を追加させられたり、田畑がなくなったり、核の脅威が広がったり、CO2が削減されたり、クジラが増えたり、海兵隊員に乱暴される心配がなくなったり、電話代が安くなったり、コンビニ内郵便局が出来たり、オレの CDが店頭から消えたりしても、自国内の生活以外のことには関心がないだろうし、想像力さえ働かせない。

そんなことはどこの国の人々でも同じことなのだが、問題は、良くも悪くも世の人々の暮らしやすさは、この国が世界に及ぼす、圧力も含めたリーダーシップに依るところが少なくないということなのだ。施政者ではなく米国民にとって、自国の利益と世界の利益が常に相対する自覚がないから、普通の国の人々と同じように、自らの生活にとっての政治しか考えないし、そのためのリーダーを選ぼうとする。

日本の首相が誰になろうが、消費税が上がったり、隣国との関係が一時的に悪化しても、モスクワの地価が高騰したり、メキシコの村でデモが過激になることはない。大統領が議会や国民を説得して、物を生まない投機への規制や監視を強めたり、エネルギー政策を見直すだけで、ロシアの石油成金が横着することもなかったかも知れないし、トウモロコシが買い占められることも防げただろう。

もちろん単純な図式で世界が動いてはいないし、オレの事実誤認もあるだろうが、大袈裟に言えば、「アメリカ人の利益と人類の利益が合致」する政治を世界は待っているのだ。それは国益という名の一部企業や金持ちのためではなく、平和で貧困のない生活への願いを託せる指導者の出現であり、だからこそオバマさんは国際的に圧倒的な人気がある。それでも大統領に選ばれるための政策には、国民の理解・支持という点で大きな制約がある。彼の政策スタッフの大半は、クリントン元大統領の政権スタッフとかなりがだぶっているのだ。

某紙ワシントン支局N記者の、「結局この国は、他国への干渉政策のスタンスは変わらないんですよね」という言葉を思い出した。イラク戦争に反対したオバマさんは、アフガンへは積極介入すると言う。

気が付くと、さっきまで傍に居たポーランドやフランス出身の知り合いの姿が見えない。常連客の彼らも今日のプチ集会を知らなかったらしく、表でブラブラしていた。

少々の溜め息まじりのオレを認めて、フランス人のGが顔を近づけ「アメリカ!アメリカ!に辟易するね」と気持ちを汲んだ。

アメリカは偉大な国だ。オレたちが大好きな文化も含めて、唯一の超大国が、世界の政治・経済や安全に大きな影響を与える。文句なしに偉大な国だと思う。だから本当に「変わって」欲しいと心から思う。


2008年8月29日(金曜日)

シカゴ・ジャズフェスにSOBで出演。湖への突き当たり、ジャクソン・ステージの真裏に車を停められるなんて最高ぉ、ビバ・フェスティバル!いや、フェスはいつもこうなんだけれど。

"Jazz has the Blues" featuring George Freeman, Ari Brown, Corey Wilkes and Billy Branch.

「あのね、オレとダンを割愛してでもソロの割り振りを考えないと、時間無くなってしまいますよ。ましてやベースのニックのソロが入ると、余計混乱しますからね」

と釘を刺しておいたのに、人の良いリーダーは或る曲でドラムを除く全員に回してしまった。ゲストのジャズ人3名にウチが4名・・・そのためか一時間で5曲しか演れなかった。まぁ、ジャズ・フェスってことで客からもお咎(とが)めなし。

夜「マインズに穴が空いたから頼まれたんだけど演る?」とマネージャーより電話。

「いつ?」
「今晩」
「何時から」(分かり切ったことを訊いている)
「10時半、少々遅れても良いわよ

時計は午後10時10分前。速攻断る。


2008年8月30日(土曜日)

ギャラの関係から、老舗であるBLUESでのSOBの出演は年に2.3回で、今日はその貴重な出演日。

昨日は疲れていて、マインズの代役を断り、気が付けばカウチで寝ていた。それも十時間以上。目が覚めたら午後5時。時計を見て一瞬「おっ、起きるにはまだ早いな」と思ったが、カウチで寝ていることを知って、慌てて起床する。首を肩が凝って頭が痛い。おウチの人、誰か起こしてくださいな・・・と辺りを見回したが誰もいない。ベッドルームに移動して、7時過ぎまでもう一度寝る。

「俺とビリーは昨日演ったよ。それがさぁ、カルロス(ジョンソン)が来て、ベースがフェルトン(元SOBでマイルス・デイビスのアルバムに参加している)だったわ。盛り上がったよぉ」

はぁ、4人ですかぁ。モーズのニコニコ顔は、いつもより多く分け前があったってことね。