傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 45 [ 2006年7月 ]


Nick in Memphis by Amtrak
Photo by Ariyo

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2006年7月1日(土曜日)

深夜4時過ぎ、車を取りに行く暗がりの道で、袖無しのチビTシャツをムキムキに身に着けたラテン系の男二人組に囲まれる。どう見ても、カツアゲか因縁付けに声を掛けたとしか思えない。この辺でぶっそうな話を聞いたことはなかったが・・・。

『あんた、さっきキングストン・マインズでキーボード弾いてただろ?』
『はぁ?』

ラテン系のクラブでおネェちゃんを漁っているのが似合いの二人なのに、どうしてブルースクラブにいたのだろうか?

『俺はさぁ、黒人どころか、アメリカにはブルースを弾けるピアニストがいなくなっちまって、ホンっとにがっかりしてたんだ』
『・・・』
『あんたがどこの国から来たかってことは問題じゃねぇ、俺はあんな演奏を観せてくれたあんたに感謝してんだ』
『それはそれは、どうもありがとうございます』
『いや、こっちがありがとうだよ』

相方も眉を寄せて、しきりに頷いている。組の幹部が気紛れで始めた絵画観賞に付き合わされて、さっぱり分からないとも言えないままに、取り敢えず相槌を打っておいた方が良さそうだと判断するに似ていた。

そしてマッチョ其の1は左手でオレの肩を抱き、もう一方の手を差し出した。

『その大切な手を大事にしてくれよ』

オレの右手が握手のためにマッチョ其の1のでかい掌に包まれる。グキッ!


2006年7月2日(日曜日)

今年に入って183日が経った。一年の丁度半分が過ぎたことになる。そして毎年この日は、オレの誕生日であった。


2006年7月3日(月曜日)

タクシーでアーティスへ来ていたメキシカンの客を、帰る方向が同じだったので送ってあげる。ところが、実際には同じ方向でも、一旦高速を降りねばならず、結局20分以上の遠回りになってしまった。

それも、彼の言う『チャイナタウンからちょっと西へ行ったところ』というのが、結構な怪しい場所で、夜中の3時にもかかわらず、赤信号で停まるとガラスクリーナーと窓拭き用具を持った黒人のオッサンが飛んで来たりする。

メキシカンの座る助手席側からオッサンがクリーナーの中身を噴霧するので、ワイパーを作動させながら必要ないという身振りをしていると、いつの間にかオレの側に別のオッサンが寄って来ていて、新たに噴霧しだした。首と手を左右に忙しく振りながら二人に対して拒否をし、信号に助けられて車を発進すると、間もなくメキシカンが口を開いた。

『俺はダウンタウンのビルでガードマンをやってるんだ。一度拳銃で撃たれたけど、別に死ぬのは怖くない。でも、用心はしなくちゃね。今のヤツだって、もし二人が組んでたら、最初の男に気を取られている間に運転席側から襲われてしまう。別にこの辺がそういった所だって言うんじゃないよ、俺はいつも用心してるってことさ』

オレはもちろん用心しているが、ドンパチの経験(2005年12月14日参照)に依っても程度に差があるだろう。要は、怪しいところには近付くなということだ。

彼を降ろして高速へ戻るために、初めての道を北上した。怪し気な交差点で停まることに抵抗感が芽生えている。それでもわざわざ窓を閉めることはない。

突然、嬌声が聞こえてきた。対抗車線側のガソリン・スタンドに、まるでプール帰りのような身なりの若い女性が数人立っている。スタンドは中央にキャッシャーの小さな島があり、夜中は支払い窓口だけで客とやりとりをするため、彼女たちは、自分たちが立ち入れない店内の男性従業員に向けて、外からキャッキャと言っているのだった。

そして超短パンにヒモビキニの金髪のオネェちゃんが、オレの車に気付く。信号は赤に変わったばかりで、しばらくは動けない。やがてオネェちゃんは腰をクネクネしたかと思うと首ヒモを外し、見事な胸部を露(あらわ)にして揺すり始めた。

もしもそれが何かの罠であって、誰かに助手席側から乗り込まれても気が付かなかっただろう。7月に入っても涼しく、夜はエアコンを入れずに運転しているが、ようやく夏本番だなと、オレは少し嬉しくなっていた。


2006年7月6日(木曜日)

木曜日のロザだがセッションはなしで、パイントップ・パーキンスの誕生日ライブが催された。オレはいつものように、93才の華やかな爺さんのバックアップ、つまり前座。

宣伝が行き届いていたのか、平日にもかかわらず客入りは上々で、最前列にはココ・テイラーまでがにこやかに座っている。

いつものギター、ジェームス・ホイラーにベースのボブ・ストロジャー、ドラムのウイリー・ビッグアイ・スミスという、「あの味」が出せる現シカゴブルース界最高のサポート陣容。ブルース以外は聴かなかった十代の頃を思い浮かべながら、憂(うれ)いの渦に抗(あらが)わない。「音の教科書」の中で襟を正されたオレは、充分に大人しくしていた。

見知った客が問うてきた。『アリヨは93才になっても、パイントップみたいに弾いていられると思う?』

なんて間抜けな質問なのだろう。そりゃあ、あんなに高齢でそこそこ弾ければ凄いとは思うけれど、それはまったく別の話で、音楽としては聴き辛いところが多い。「何歳なのに」なんて、「日本人なのに」という色眼鏡と変わりなく、「女性なのに」「子供なのに」といった、まるで見せ物的発想には辟易とする。何歳であろうが、パイントップがパイントップの演奏をするところが凄いのだ。

『私の目標は、93才まで生きているってことです』


2006年7月7日(金曜日)

今日は七夕。昼に美容室で髪を切る。夜はSOBでロザ。


2006年7月13日(木曜日)

ロザでの出演前、いつものようにピアノ調律の自己満足的真似事をしていると、手に持った「地球の歩き方・シカゴ編」を振りかざしながら、オレより年上の日本人女性がステージへ寄ってきた。『来たわよぉ』と親し気におっしゃったので、はて、知り合いかと考えたが思い当たらない。はてな印を頭上に冠させて『こんにちは』と挨拶すると、彼女は『この本にアナタが載ってたから観に来たの』と応えた。

医学系の学会で日本より来駕されたその女性は医学博士で、「歩き方」を読み、日本人が異国で活躍してるのが嬉しくて訪ねて来たと言う。研究仲間のアメリカ人医師数名を伴っていた。そしてそのグループは一セット目が終わると速やかにお帰りになっていった。

オレは彼女たちに、「異国で活躍」しているところを観て貰えたのであろうか・・・?


2006年7月14日(金曜日)

イタリアン・レストランでご馳走になる。某レコード会社が或件の打ち上げとオレの永住権取得祝い、及びO夫人とオレの誕生日会を兼ね、関係者を招待した宴席に家族ごと連ねてもらったのだ。ごちそうさまでした。


2006年7月15日(土曜日)

J.W.ウイリアムスのお呼び。南の郊外の遠いところで夕方の暑い時間に3時間。ココ・テイラーのツアーから戻ったばかりのシュン菊田が一緒。意外なことに、彼との仕事は初めてだった。

演奏は気温36℃を越す野外。いつもJは『オレのショウはさ、ジーパンやTシャツはさ、イカンの。だから、スラックスやシャツを着てね、できれば黒で』と言っているので、オレは黒ずくめの格好をして、キャンプ場のような現場で場違いな汗だく搬入作業。そこへ現れたJはジーンズにTシャツおまけにサンダル姿だった。おい!

しかし、演奏後搬出を終え車内で涼むまでは、ひと時たりとも汗の流れぬことはない。特に後半は陽当たりが良くなって、西日が気持ち良かったんですもの。夜にSOBが待つレジェンズへ向かう頃には、海水浴で疲れ切ったように、身体は火照ってましたわ。

午後1時に自宅を出て戻ったのが明朝の3時過ぎ。日本のサラリーマンにとっては普段の拘束時間なのだろうが、怠けもののミュージシャンは、毎日なら死にます。


2006年7月16日(日曜日)

ついに日中の気温は39℃になってしまった。そして、北の郊外エバンストンの湖沿いの公園でSOBが演奏。

「民俗芸術祭」で世界中の土産、食べ物のテントが並び、2カ所のステージでは様々なジャンルの民俗音楽が繰り広げられる。のどかなのどかな猛暑の休日。そして、暑苦しいブルースはウチらのみ。

夏はフェスが多いものだが、暑い昼間の野外が続く。昨日の轍は踏むまいとアロハで現場へ。さすがに下も短パンという訳にはいかず、スラックスで革靴。そして、ビリーは大将の権限でサンダルだった。そして、ニックも大年寄り(バンド最年長)の権限でサンダルだった。

ニュースでは、子供や年配の人は、華氏110度(摂氏43度ちょっと)を上回ると表へは出ないでくださいと言っていたらしい。そして、オレたちはその寸前をうろついていた。


2006年7月17日(月曜日)

アーティスから戻って、そのまま荷造りをしていたのでまったく寝ていない。あと1時間でウチを出て空港へ向かう、そのギリギリまで宿題の日記(先月分)更新を頑張る。でも、もうすぐ日本公演・・・わーいい、美味しいもの一杯食べて、アレ買って、それからええっと・・・いや、イカン!日記書かんと。帰米はこんどの日曜日。


2006年7月23日(日曜日)

楽しかった日本公演(但し青森市のみ)からシカゴへ戻る。青森市商工会青年部のみなさんをはじめ、いらしてくださったみなさん、ありがとうございました。

明日夕方レッスンのあとアーティス、そして翌日にはイタリアへ。この夏は、取れたばかりのグリーンカードが大活躍ですわ、おほほほ。


2006年7月31日(月曜日)

楽しかったイタリア中部公演から戻る。

4日目のサレルノ(1988年のオーティス・ラッシュのツアー以来の懐かしい所)を除いて宿泊は田舎ばっかり。でもコンサート会場は城跡の中だったり教会前の広場だったり。毎日がイタ飯三昧の日々だった。

お世話してくれたルカ君をはじめ、イタリアのみなさん、ありがとうございました。