傀儡 (くぐつ) のよしなしごと 50 [ 2006年12月 ]



Cover with snow
Photo by Ariyo

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2006年12月2日(土曜日)

希美人の2歳の誕生日。我が子の誕生日にも仕事を取るどん欲な父親は、それでも知人を招き誕生会を済ませて、ロザの3連ちゃん最終日に向かうのであった。

もうね、木曜日未明から金曜正午にかけて大雪警報が出ていたのに因果なもんよね。最低気温はマイナス十数℃だから大したことないけど、雪30センチは積もったもん。木曜がいつものジェームスとでしょ、昨日がフランスからのツアー中のハーピスト"Nico Wayne Toussaint"のお手伝いで、今晩がボブ・ストロジャーやウイリー・スミスたちとのまったり系だから、楽しみながらのんびり演奏できたし良かったけどね。

ただね、駐車場。アパートの駐車場の雪が凍って、ガチガチ、スベスベの状態。マキシちゃんを何度も切り返さないと、よその車にぶつけちゃうからまぁ大変。それでね、今晩帰ってきたら隣のスペースで数日休んでた車がないの。車体がすっぽり真綿に覆われていたから、それが退いたあとはアスファルトがむき出しで、そこだけ何か別天地って感じ。そのオアシスに10センチ四方の氷の塊がポツンと落ちてたんで、ねっ、よくあるでしょっ、蹴りたい誘惑。そおれっ、て右足がサッカーするの。

午前3時の極寒に、大地に深く打たれた杭の如くアスファルトに凍て付いた氷を蹴って足首を痛める。


2006年12月3日(日曜日)

それはひょんなことから決まってしまった。

ある日、このウェブの管理人さまのところへ名古屋の某広告代理店から連絡が入る。『ご担当者様』の宛名でクリスマス・イベントへの出演依頼。いつのまにやら管理人さまはジャーマネ、つまりオレの担当マネージャーへ格上げされたようだった。それなら『ついでに、また観たい』という青森方面からの希有なつぶやきを拾得された管理人さまは、段取り召された。その後ごちゃごちゃとして名古屋がトンでしまったにも拘らず、青森は単独でアリヨ招聘の快挙に出る。

家族と共に過ごすアメリカのクリスマスは、ほとんどのクラブが閉店するので、『よっしゃぁ、クリスマス休暇で帰国するぞぉ』と意気込むも、今からスムーズな日程で帰国便を押さえることなど出来ようはずはない。それでも旅行代理店のNのお陰で、20日午前7時発デトロイト乗り換え関空21日午後5時着のノースウエスト便の席を確保。僅か19時間の旅である。京都の実家へ3泊し24日に国内線で青森入り、25日にディナー・ショウ、26日帰米と慌ただしいが、米国査証面接も
含め今年3度目の帰国は小躍りするほど嬉しい。バンドには迷惑をかけるが、オレの代役としてバディ・ガイのキーボードのマーティを立ててやったので、奴にも恩を売ることができる。ふははは・・・、何より久し振りの自分が主役のツアーなのだ。

ということで、青森の皆さんには今年二度目となりますが宜しくお願い致します。


2006年12月4日(月曜日)

シアトルに住む妹のダンナ、つまりオレとは義兄弟のジョン(ジョナサン)が仕事で来訪した。前回(2005年10月22日参照)はギターのメルビンが演奏するロザへ連れて行ったが、今度はオレのレギュラー仕事が観たいというので、ジョンのビジネス・パートナーのジョーも一緒にアーティスへ案内する。

『そこは黒人街でも閑静な住宅地にあってセキュリティもしっかりしているし、ノースサイドの商業的なクラブと違い、地元の黒人たちのための店だから、ある意味、今のリアルなブルースが聴けるよ』

と説明していたので、店に入るや否や二人はちょっとした興奮状態に陥る。アーティスはいつもにも増して繁盛していたので、演奏も最初から盛り上がった。

休憩中にジョンを知り合いらに紹介する。ただの友人と義兄弟では、受け取り方が違うというもの。アリヨと自分は身内だという誇らしそうなジョンを見てオレも嬉しかった。明日は大事なプレゼンの日だから早く帰ると言っていたのに、結局閉店近くまで腰を据えていた二人。仕事仲間にジョンは鼻が高かったに違いない。ジョンが喜ぶと思って、ジョーには相当吹っかけてやったから。意外にブルース好きなジョーが出すミュージシャンの名前は、オレが一緒したりセッションした人ばかりだったんだもの。そして彼の一番好きなのがスティーヴィ・レイボーンだった。

『昔(85年)テキサスのクラブでセッションしたことがある』
『ギョエェエ!』
『その後誘われた』
『ぐわぁああ!』
『でも断った』
『ぶひょひょっ』
『オレはジミー・ロジャース(当時)のピアニストだって言って』
『うわっしゃぁー』
『あんな大音量では一緒に演奏できないし、知らない人だったから(本当)』
『うぐぐぐ・・・』

事実は、スティヴィがジミーに『あのピアニストを使わせてくれないか』と頼んで、ジミーが断っただけ。あれだけ高名な人(とはあとから分かったけれど)なのに、彼からオレに『君はシカゴの音がしてるね、気に入ったよ』と挨拶してきた。今なら即座に名刺の20枚でも差し上げることだろうが、若造のオレは世の中を知らなさ過ぎた。大分あとになってスティーヴィのサポートは週給$900と知らされたのだが、月収$1.000(当時のレートでは約 \250.000)のジミーで満足していたから仕方がない。

仮にオレがスティヴィのバックをしたとしても、あの程度の技量では長く続いたとも思えない。声を掛けて貰えたという光栄な話に過ぎないのだ。でも上記の会話は大筋で嘘はないし、ジョーは目を剥き出して聞き入っている。そして我が義兄弟はニコニコと頷いていた。

本気にしてくれる人への自慢は気持ちの良いものかも知れないが、冷静になって考えると危ない橋である。『そんなに力のあるアンタが、何でいまだにローカルで演奏してるの?』という疑問にたどり着かれぬよう、祈るばかりだから。


2006年12月8日(金曜日)

SOBはノーザン・ミシガン大学のイベントへ、7時間のドライブで向かった。丸山さんの代わりにレギュラーとなりそうなジャイルズは、まだ別仕事などが残っており、そのまた代わりとしてココ・テイラーバンドのリーダーのヴィーノを連れて行く。

前座に出演したバンドの女性ハーモニカがオレを探していた。ようやく楽屋でつかまり、強烈に抱きしめられる。

『京都って知ってる?私そこから戻ったばかりなのよ』
『京都は故郷ですが』
『まぁ、嬉しい!私大津に住んでたの』
『滋賀県ですよ』
『でも京都の隣でしょ?琵琶湖のミシガン・ショウボートで唄ってたの』
『へぇ、琵琶湖とミシガン湖は姉妹湖ですもんね』
『ヨウコショ、ミシガンヘ』
『ようこそ、ですよ』
『それであの歌、なんて言ったかしら、毎晩唄ってたのよ』

合衆国北の果て、カナダの一歩手前の小さな街の一室で、見知らぬ白人女性にうる覚えの「琵琶湖周航の歌」を合唱させられる・・・。


2006年12月15日(金曜日)

昨日ホームシック・ジェームスが亡くなったらしい。年齢は100歳位だったらしい。その位の黒人の人は、本当のところがどうだか怪しいけれど、20数年前、オレは彼と数週間ほど共に暮らしていたから、もしホームシックの享年が100歳だとしたら、あの頃の彼は80歳前だったことになる。

1984年春。オレたちは一軒家の二階を借り、ミュージシャン5人で共同生活をしていた。それぞれの所属バンドが別の日系、アフリカ系、イタリア系、アイルランド系、ユダヤ系の人種の坩堝は、先ずトニーが息苦しさを覚え、オレを誘ってそこを飛び出した。閑静な大学街に見付けた瀟酒な2ベッドルームの穏やかな暮らしも、トニーが住居を兼ねたクラブを購入したために僅か半年間で終息する。

シカゴ市の北西にあるラテン系の多いその地域は、それほど危険でもないが、それほど安全でもないという、黒人街よりはまだまし程度の場所で、当時オレは大反対したが『ママも引っ越してくるし、アリヨも一緒に住もう』と誘われ、ひとり部屋をあてがわれた。開店準備の手伝いを、といってもまだ若いオレは、社会人として未熟でありながらミュージシャンの自我が強く、あまり自覚して手伝った記憶はない。

それでも明け方までひとり黙々と壁のニス、ペンキ塗りをしていると、表のドアを叩く音がした。出てみるとホームシック・ジェームスがスーツケースをぶら下げて『よぉ、アリヨっ』と立っている。さっそく彼の奥さんであるトニーのママを起こし、再び作業を続けていると、二階からママの怒鳴る声が聞こえてきた。ある程度の年齢になってからトニーを頼り渡米してきたため、彼女の英語はイタリア訛がひどく聞き取り難かったが、『どこ行ってたのよ、この宿六ぅ!いままで何の連絡もしないで、今更のこのこ戻ってきて!アンタなんてねぇ○●の××だよ』の如き怒りであったことは容易に理解できた。

夫婦喧嘩は犬も喰わぬという先人の言い付け通り聞かぬ振りをしていたが、やがて階段をバタバタと降りる音がして、多分イタリア婦人の血気とはこういうものであろうという、両の掌の攻撃を背に受けながらホームシックが逃げてくる。シンナー様の臭気を避けるために付けていたカラス天狗の口のマスクを額に上げて、オレはきょとんと突っ立って成り行きを見守るしかなかった。そして宿六はついに捕まり、ママの両手が彼の首を掴んで揺すり始めると、ホームシックは二本の指を立てて、オレに『ピース、ピース』と小さく叫んだ。さすがに放ってはおけず、まぁまぁと間へ入ったが、まるで吉本新喜劇のような場面に笑みさえこぼれた。

その年の冬に開店したクラブは、実質オーナーのトニーではなく、ホームシック・ジェームスの法律上の妻であるママの名前を取って「ローザス・ラウンジ」とした。結局ホームシックは居着かず、拠点を南部へ移してしまったが、若者の多い繁華街から離れているにもかかわらず、「ロザ」が20数年続いているのは大したものである。

今年はオレと所縁のあったブルースマンが何人も鬼籍に入られた。ロックウッド、ボニー・リー、ウイリー・ケント、ジョニー・ダラー・・・ん!?もっといたような気がするけど、多すぎて今年だったかどうか覚えていない。皆さんが天寿を全うされたと信じています。


2006年12月18日(月曜日)

先週末の土曜日は、バディ・ガイズ・レジェンズで演奏。

スロー・ブルースのピアノ・ソロ、ビリーが煽りオレが立ち上がってダカダカダカと連打し、バカッと音を落としてカンカラカンカラカンカラと弾(はじ)けるところの一歩手前。聴衆の歓声がいつもよりギャースカ聞こえてきたので顔を上げると、ステージ中央でバディ・ガイがマイクを持ってこちらを眺めてる。うっ!一瞬カンカラのマが外れ、スカッと不発に。オヤジ、機嫌良く唄い出すが、アンタが誰であれオレのソロを邪魔する奴は嫌い・・・と小さく力なく呟く。

そして今日は、「ローリング・石」たらなんたらの有名ロックバンドの曲、"Miss You"でハーモニカを吹いているシュガー・ブルーがアーティスに現れた。オレの芸能人ビザ取得の推薦人のひとりで、グラミー受賞者。80年代に彼とデュオでピアノバーに出演していて、左手が鍛えられた。今はヨーロッパへ移住してしまったが、モト牧野氏がシュガーのバンドリーダーとして活躍していたのは有名。元メイヴィス・ステイプルのベースの江口弘史氏も所属していたことがある。

シュガー・ブルーとビリーは腐れ縁。シカゴの二大ハーピスととして互いを意識するも、相容れぬことが多く、複雑な人間模様だった。みんな歳を取ったのか、離れていて寂しいのか、シュガーはご機嫌で、ビリーも訪ねてきてくれたことを感謝して、何度も抱き合っていた。ドラムのモーズが『シュガー、お前ちょっと太ったな』と余計なことを口走る。彼は唇の端を引き、脇を締め、両手の人差し指をモーズに向けて抗議の意を示したが目は笑っていた。やはり丸くなっている。

淀むことのない饒舌なハープに好き嫌いは分かれようが、シュガーはやっぱりシュガーだった。音の粒ひとつひとつに個性が表出し、張りとリズムが溢れている。そしてオレのソロに目を細めて聴き入り、オレたちの常套句である『サウンズ、グッ』を投げかける。

アメリカ人はストレートに「ハイ、イイエ」を言うというが、おべっかやお愛想は日本人と変わらない。特にミュージシャンから褒められても、仕事がくるまではその言葉を信じてはいけない。少なくとも名前を覚えてもらえない間は、ただの挨拶だと知るべきだ。

ある日イタリアから遊びにきたギタリストに、『アリヨがシカゴで一番のブルース・ピアニストだと聞いた』と言われた。ヨーロッパで彼と演奏したシュガー・ブルーが言ったという。こういうことなのだ。分かったシュガー、お前の言葉を信じよう。いつかオレとデュオの録音がしたいと言っていたことを信じよう。

明日には発つというシュガーに今回の滞在目的を訊くと、『新しいアルバムのマスターリング(音質などの最終調整)だったんだよ』と答えた。・・・レコーディング呼べよな。


2006年12月28日(木曜日)

喪中につき新年のご挨拶は控えさせて頂きます。どうか来年も宜しくお願い致します。

青森でのクリスマス・ソロ・ディナーショウを終え、火曜日にシカゴへ帰ってきた。青森の皆さん、大変お世話になりありがとうございました。

戻った翌日から仕事は詰まっており、大晦日、正月もなく来週末までは休みなし。日本で活動していたとき、大晦日の掛け持ちイベントは楽しい儲け時だったが、こっちの歳時感はオレたちと的が外れていて肩透かし。お盆と正月の国民的二大イベントのない風土に暮らす、どこか旅行中的生活に、地に根付かない足下のふらつきを覚える。

それにしても、某米航空会社の客室乗務員の仕事ぶりにはあきれる。通路側に座るのが好きだから仕方ないが、太っていて動きが機敏でなく、肘掛けに乗せていた腕をワゴンに当てたり、足の激痛で目覚めたら、ちょっとだけ通路に出ていた膝頭を、やっぱりワゴンで当てられていたりしたことはまだしも、とにかく態度が横柄なんじゃ!

エコノミー席の定員数の割に少ないトイレのドアが壊れていたことを告げると、"I don't know"と答えられた。いや、壊れてるっちゅうねん。何が、『知りません』じゃ、こらっ。こういうときにオレらが普段使ってる"I don't know"は、『自分の責任外のことで、私には関係ありません』って突き放した感じ。いや、そうでなくても、このおばはんはそうだった。側でやり取りを聞いていたあきれ顔の中国系乗客の脇を通り抜け、彼女はさっさと自分の仕事へと戻っていった。こんなとき殊更目くじらを立てても疲れるだけであるから、かの中国系と苦笑いして済ませるしかない。

寝ている者を起こすつもりかというような、がさつな接客で飲み物を配られ、そして目覚めたついでに『水をコップ半分だけ氷なしでください』とお願いして、『おお、これが水の表面張力の力』と驚嘆するほど満杯に入れられ、揺れてこぼされる。昔日本のテレビで観た、付け鼻に金髪カツラのお笑い芸人のコントを思い出した。その時は放送作家のセンスのなさを馬鹿にしたが、現実はもっと面白くない。

空のコップ回収に気の遠くなるような時間が費やされることを案じて、オレは一気に飲み干し、彼女が反対側の乗客の応接をしているとき、ワゴンから少しはみ出ている下から三番目の引き出しの中へコップをそっと仕舞ってやった。そこには清涼飲料水の空き缶や他のゴミが見えたからだ。ところがその奥に各種の飲み物が詰まっているらしく、彼女は三番目を勢い良く引き出した。その途端オレのコップは床へ落ちて彼女が拾い上げる。『アンタ、勝手にここへ捨てないでね!』と叱られるかと、一瞬ドキッとしたが、金髪はコップを持ったまま飲み物探しを始めた。まぁ、己の能力のいっぱい一杯に働いていると、何故に今、空のコップがそこに在るかってこと、気付かんわな。

安心してもうひと寝入りとばかり深く座り直した途端、振り向いた彼女と目が合った。何か小言が飛んでくるかと身構えたが、僅か30秒ほど前の給仕を忘失された顔で訊ねられる。

『アナタ飲み物は要らないの?』

小心なオレは震える声で答えた。『ハ、ハイ、今は要りません』

日系の航空会社の経営陣のみなさん。いつも満席で飛ばさないで、もっとシカゴ線を増便してくださいな。