2005年10月6日(木曜日) もうね、宿題(日記)をおくれ遅れに提出し続ける怠けた子ではなく、もうね、ホントに切れてしまって諦めました。 いろんな出来事が続き過ぎて、例えば17連チャン後の貴重な休日の火曜日(10/4)に郊外へ買物に出掛け、可愛いラグジュアリーカー・マキシちゃんの電池が切れて立ち往生し、ナマものを積んだままAAA(日本のJAF)が助けに来るまでイライラしてたり、翌日もし動かなかったらと心配して、いつもの近所の修理屋さんの裏へ持っていきエンジンを切ったら、助手席側の窓が開いていることに気付き、そして時遅く、マキシの電池は完全に切れてしまっていて電動窓も上がらず、それを開けたまま一晩放置するにはあまりにも危険で、トランクにはキーボード以外の、つまりスピーカーやアンプなどが積んであり、他にも大切なCD類やもろもろの、それより誰かにいたずらされたらと考えるだけでドキドキは募り、たまたま近くにあった24時間オープのWalgreenで黒いゴミ袋を買い、なんとか雨露だけはしのげるように処置したものの、心配で心配でほとんど眠ることも出来ず、翌朝6時半に行ったらそのままだったのでようやくホットし、『どうしたんだ!窓を割られたのか?』と、これまた別の心配をしてくれる修理屋のオヤジに説明し、近所とはいえ徒歩で片道15分の距離を一往復半して、結局ただの電池切れだけだったマキシちゃんを引き取って仕事(ジェネシス)へ出掛けたら、金曜日にSOB出演予定のアーカンソー・ヘレナの「ARKANSAS BLUES&HERITAGE FESTIVAL (旧名キングビスケット・ブルース・フェスティバル)」へ出発するのに、マネージャーがオレを同伴指名で、バンドとは別行動のマネージャー車で木曜日の朝出発すると聞かされ、急に腹痛に襲われ、それは翌日も続いて十二指腸潰瘍の気を感じ、救急に行く暇もなく薬屋で薬剤師お薦め品を買い求め、ほとんど寝不足のまま9時間の旅程の7時間以上を運転して、現地に到着後すぐにベットで爆睡していたら、夜中の3時頃だれかがドアをがちゃがちゃする音で寝覚め、覗き窓で覗いたら、後便でのんびり着いたギターの丸山さんで『鍵が合わないんですけど』と困られ、『ここベッドひとつしかないんですけど』とオレも困って、ベッドが二つ置いてあるモーズの部屋へ引っ越されて、オレは永遠に続くかと思った災難からようやく解放された。 2005年10月8日(土曜日) SOBマネージャーのM女史は、同時にオレの就労ビザの申請者なので、こちらが彼女のお世話をすることになる場合も多い。アーカンソー滞在中(宿泊先は川向こうのミシシッピー州だったが)は、バンドとは別行動の彼女にずっと付き添っていた気がする。 昨日のフェスでも、ビリーがオレにホテルの出発時間を伝え、それをオレからマネージャーに伝え、オレが彼女の車を運転して会場入りした。女性だからなのか運転手がオレだからなのか、M女史はゆるりと支度されたので、『アリヨは道を知ってるだろ?マドリンをよろしくな』とビリーたちは先に行ってしまった。通行止めされた会場入口では怪訝な表情のガードマンに駐車方法をオレが訊き、フェス係員にミュージシャンパス取得方法をオレが尋ねる。 『あの白い帽子をかぶった人が、パスや食事券を持っているらしいです』 と頼んで、彼女はようやく本分を果たしてくれた。 ミュージシャンのオレよりも荷物が3倍あって、その多くをオレが運ぶことは最初から分っていたし、黙っていてもオレに甘えられると踏んでいる。頼られていると錯覚し、大抵の場合赦してしまうのも、彼女にどこか魅力があるからなのだろう。ミュージシャンやフェス関係者用レストランが遠いからと、自腹で近くの屋台から食べ物を暢達しようとしたときには、『食事券で何かお持ちしましょうか?』と進んで申し出てしまった。 数千人規模のブルースフェスだが、スポンサーを募って入場無料で20年間続いている。その一回目からロバートJr.ロックウッドは出演しているため、演奏日でもないのに顔を見せると、カメラマンは駆け寄り関係者の敬意を一身に集めていた。その彼がオレを見付けると、目を細めてここへ座れと椅子を差し出す。相変わらず孫を扱うかのような態度に、何者かと見つめる周りの目を意識して鼻が高い。 20周年記念で、SOBには元メンバーのカール・ウェザースビーがゲスト出演した。愛嬌や媚びているのではない独特の笑顔は、ステージを華やかにする。近年のブルースバンドは、ギターで引っ張る形が一番自然なのかも知れない。 大トリはボビー・ブルー・ブランドではなく、ジェームス・コットンだった。格からすれば逆のような気もするが、ボビー・ブルーの登場する、8時45分から10時までの時間帯が一番盛り上がるのだろう。我が朋友、コットンバンドのマック兄弟がはしゃぐ頃には、観客もまばらになっていた。気温も摂氏10度前後と肌寒く、彼らに悪く思いながらも、終演を待たずにホテルへ引き上げてしまう。 それにしても、ステージ脇に大型のツアーバスで乗り付けたボビー・ブルーは、両脇を従者に抱えられ、ようやく舞台へ上がるほど弱っていた。バンドもキーボード不在で、ホーン隊など音をしょっちゅう外している。タイロン・デイビスといいリトル・ミルトンといい、管楽器を揃えた本格的R&Bの大物が、今年は二人も逝去してしまっただけに、ボビー・ブルーだけではなく、元気のないバンドにも失望してしまった。 かのM女史はカール君と先に宿舎へ戻ってしまったため、今朝の出発時間を相談していなかった。ビリー組はチェックアウトを遅らせるらしいが油断は禁物と、マック兄弟たちとも遊ばず早くに床へ着いたのが幸いして、朝10時に女史からの電話で起こされ『30分で出るわよ』と言われても慌てなかった。 かつてロバート・ジョンソンが悪魔に魂を売った場所という、「クロスロード」へ続く61号線を逆方向のシカゴへ向かう。一面に広がる綿畑は、まだ収穫の終わっていないところが残っていて、雪が降り積もった様に白くくすんでいた。 ミシシッピー州出身で綿摘みの経験のあるモーズやニックが、『刺(とげ)が痛くて、摘んでも摘んでも一杯にならないし、真夏の陽で肌は焼けるし、労賃は信じられないほど安い』と笑っていたのを思い出す。機械で収穫している今も、ハリケーンの被害で知られたように、南部の人々の貧しさは変わらない。 隣に座る黒人女性が『このコットンフィールドを見ると胸が締め付けられるの。私の上の世代が、どういう暮らしを強いられてきたかを想うと涙が出るわ』という言葉を聞きながら、その遺産の一部であるブルースという文化を享受しているオレは、1.000キロ近い道のりを、ミシシッピー、テネシー、アーカンソー、ミズーリ、イリノイと、ひとりで運転し通しても苦にはならなかった。 黒人女性をエスコートして南部を旅する日本人の姿は、奇異と映ったに違いない。それでも、ロックウッドに可愛がられているのと同様、オレは誇らしく思っている。 2005年10月9日(日曜日) 金銭的には幸い、肉体的には不幸にも休みがほとんどなく、来駕されるお客さまをあちこちのクラブへご案内する暇(いとま)はなかったが、今日の休みに夕方からH嬢らを連れ回すことができた。なんせ日本から、「マイルドセブン・オリジナル10」を4カートンも運んで頂いたのだから、本皮仕様のラグジュアリー・マキシちゃんを駆りまくった。 サウスサイドのブルース・ミュージアム(チェス・レコードスタジオ跡)を皮切りに、チャイナタウン、湖越しにダウンタウンを眺められるプラネタリウムの突堤、南の郊外「ジェネシス」でバンス・ケリーと、名物のチキンウイングや揚げ魚に揚げエビ、北上してバディガイの店「レジェンド」でカール・ウェザースビー、「ブルース」でレス某に、最後は向いの「キングストン・マインズ」でリンゼィ・アレキサンダーとチャーリー・ラブ。 一般には社内販売とか社内割り引きにあたる、ミュージシャン特別「顔」割り引きが利いて、4軒のクラブを三人で回り、取られた入場料は「レジェンド」の『お前はタダでお前の客の二人のみ半額でどうだ』『ありがとうごぜぇます、ダンナ、へっへっへっ』で$5×2=$10のみ。 門前の守衛がオレを知らず、『私は某(なにがし)というピアノ弾きでございますが、何卒ご便宜のほどを』とか自ら名乗るのは嫌なので、『はいっ、いくらいくらね』とか言われれば支払う心づもりをしているのだが、幸いなことにすべての店で顔が知られていた。普段仕事している職場なのだから当然なことではあるのだが、やはり小心な傀儡(くぐつ)は演奏以外で訪れることが少ないので、いつもドキドキしてしまうということだ。 プライベートで他人が演奏しているところへ顔を出すというのは、顔を出された側は嬉しいに違いなく、それも遠方からのお客を連れてきたとなると、『ほぉ、オレの演奏を聴かせたかったのだな』と微妙に勘違いされて一石何鳥にもなり得る。特にオレは滅多に顔を出さないから、あちらこちらで喜ばれていることを知り、今日は閉まっている「ローザス・ランウンジ」が入っていれば、もっと「良い顔」ができたのにと内心悔しがりもしていた。聴かせたいミュージシャンもいれば、見せたい店もあるということだ。 とにかくH嬢とそのお友達は喜んでくれたようだし、オレも他バンドのミュージシャンたちと親交を暖めることができた。しかし一晩で何軒ものブルースクラブを梯子できる街なんて、世界中にどれほど存在するだろうか?やはりシカゴはブルース・キャピタルであるということだ。 いやそんなことよりも、『次いきましょう、ワタシのお友達がやってるお店なの、いい子いるわよ』とひとつの店に落ち着かず、お客を引き連れ何軒もクラブを廻る、銀座や新地のママとオレをどこかで重ねていた。人を案内することに託(かこ)つけて、結構自分も楽しんだということである。 2005年10月15日(土曜日) なんかずっと忙しかったから、今週のように現場が4本しかないと、金銭的には辛いが肉体的には嬉しい。ダウンタウンのミシガン湖岸に建つ自然博物館での、500人規模のパーティも楽勝と思いきや、SOBで45分×3本の営業仕事なので坦々と演奏して終えたが、搬出入に難儀する。 博物館や水族館、動物園などでのパーティは多いが、元来食堂などの施設を使用するのではなく、ケータリング(出前)の料理、飲み物、備品などが運ばれるので、今晩のように大規模な宴会になると、運搬用エレベーターは長い列でほとんど使えなくなってしまう。 オレは20キロ以上あるキーボードを抱え、駐車場から7-80メートルの搬入口でエレベーターを諦め、脇の階段を登り、通路をぐるりと抜けて再び別の階段を登って、ようやく3階の会場へ着いた。ステージは中央寄りで更に50メートルほどを運ぶ。それで腰を傷めてしまった。まだ右手の腱鞘炎は完治していないのに、これで腰をダメにしてしまうと堪らない。先に到着していたベースのニックも、仮設ステージの縁に腰掛けぐったりとしている。 『腰をイワセテしまった・・・』 ニックは大型のスピーカー・ユニット2台を持ってきていた。彼もエレベーターは使えなかったらしい。搬入口へ戻ると、車のないモーズとドラムセット、自分の機材、PAなどを積んだビリーの車が停まっていた。オレは自車まで戻り、車輪の二つ付いたハンドトラックにキーボード・ラックと折り畳み式ピアノ椅子を乗せ、肩にアンプを担いで同じコースを辿る。階段をガタゴチャいわせてステージまで来ると、手はしびれ、額には汗が流れていた。スーツとネクタイ指定だったため、首が窮屈で余計に身体が重い。 残りの機材は、35キロもあるスピーカー・ユニット。さすがに階段で登るのは辛いので、混乱するエレベーター前へ向かうと、3台の大型4輪カート(荷車)を調達して機材を積み、最前列に陣取るビリーとモーズの姿があった。その後ろには、出前宴会係たちに付き添われる、大量の料理や飲み物が列をなしている。大将がどうやって交渉したのかは分からない。とにかく、それでようやくエレベーターを使うことが出来た。 搬出時は宴会係が撤収に殺到するので、エレベーターホールにさえ近寄ることも出来ない。長くてハンドトラックに乗せられないキーボードを置き、搬入とは逆順序で機材を階段より運ぶ。さて最後のキーボードをどうしようかと会場へ戻ると、宴会係に占有されて手に入らなかったはずのカートが2台待っていた。その上ビリーは、裏口のエレベーターから出られると言う。博物館の雑用員に手配させたらしい。 才覚なのだろう。チェックインの混雑する空港でも、遅れてきたビリーがポーター(荷物運搬係)と交渉して先にゲートの中へ入っているときがある。その押しの強さをもっとステージで生かせて欲しいのだが、今日も合計5曲しか唄わなかった。バンドメンバーに押しを利かせてどうする! 搬入口とは反対側の出口に車を回してキーボードを受け取り、彼らの機材積み込みを丸山さんと共に手伝う。こんなことなら他の機材も慌てて自力で運ぶのではなかったと思っていると、ビリーが『アーティスでパーティがあるんだが、お前たちも来ないか?』と誘った。ニックの姿はとうにない。そしてパーティなどあろうはずもない。明日アーティスで別のライブがあるモーズのドラムセットと、店を倉庫代わりにしているSOBの自前PAを戻しに行かねばならないのだ。 『あっ、私、今日は充分運搬で働きましたので結構です』 愛想笑いか、愛嬌か、天然なのか分からない笑顔で丸山さんは何か言っていたが、メンバーで一番若い彼が、運搬では一番働いていることを知っている。『お疲れさまでした』と小声で呟くと、オレは腰を摩りながら車へ乗り込んだ。 暗いミシガン湖は、波打ち際の白い泡立ちしか見えない。深夜近くで光りの量が弱くなったビル群沿いに、レイクショアー通りを北へ向かう。快進撃のシカゴ・ホワイトソックスを応援する「GO SOX」と、窓の灯りをマスゲームに見立てている2棟の高層ビルを眺めながら、今日ホワイトソックスは勝っただろうかと思いを馳せていた。 2005年10月19日(水曜日) ここ一週間ほど、SOBの丸山さんのギターアンプの調子が悪い。肝心なところで「ビヨーッピー」とかのノイズが発生して、彼は手の平でアンプの頭をバシッとする。先週末は、自分のソロパート丸ごとバシバシ叩いていた。 丸山さんはそんなときでも慌てない。いつも変わらぬ笑顔で悠然と対処する姿に、人間の大きさを感じることさえある。ところが今晩のジェネシスでは調子良く聴こえたので修理したのかと思っていたら、予備のアンプだったそうだ。道理で音量が抑えられていたはずだ。 客もまばらになった最終セットで、ドラムのモーズが丸山さんの後ろをドラムバチで指し示し笑っていた。それに気付いた彼がこちらへズボンのお尻を向けると、割れ目が15センチほど裂けている。『しゃがんだらバリっていっちゃったんですよ、ちょっと太っちゃって』と屈託のない笑顔で説明した。 ローカルクラブとはいえ、華やかであるはずのステージでお尻から白い裂け目を晒していても動じない彼を、オレは密かに羨ましく思った。 2005年10月21日(金曜日) あるパーティでいきなり登場し、誰かのために「ハッピー・バースデー」を唄った小柄なアフリカ系のおばさんが異常に上手かったので、『唄、お上手ですね。どちらかで唄われてるんですか?』と失礼なことを訊いてしまった。 『あなたのことは何度か観てるし、あなたのお母さんがローザズ・ラウンジにお見えになったとき、私、あなたのことをすごく誉めてたのよ。覚えてない?』 いつかではなく、いつでもお願い致します。 おばさんがお仕事されている方々: 2005年10月22日(土曜日) なぜカモメのジョナサンが有名になったのかは知らない。ただ、シアトルに住む妹の旦那のジョナサンは、常日頃ジョンと呼んでくれと言っている。その夫婦が14ヶ月の息子を連れシカゴを訪れた。ウチの息子とは、初めて対面する従兄弟同士になる。 昼間、ハウス・オブ・ブルースでロブ・ストーンとパーティの仕事があり、疲れていたが、彼らの滞在する二日間に演奏を聴かせる機会がなかったので、子供を同伴できないオレの職場のひとつのロザへ、ジョンだけを連れ出した。 店の入口の右手には60インチほどの大型テレビが天上から吊るされており、普段は切っているが、ホワイトソックスがワールド・シリーズに進出しているとあって、さすがに中継している。週末でそこそこの入りの客たちは、ステージとは反対側を向いて観戦を楽しんでいた。 カウンターの空いている席へジョンを促していると、オレを見付けたロザママが飛んで来た。 『もう10時過ぎているのに、メルビン(テイラー)がまだ来ないのよ。ひとりで何か演ってくれない?』 乗り気がなかったのは疲れているからだけではない。メルビンのファンは全員がギターファンに違いなく、ピアノをひとりで弾いても詮のないように思えた。野球観戦しているから尚更である。それでも引き受けたのは、ママの頼みだけではなく、ジョンに実演奏を観せる良い機会だったからだ。 乏しい拍手が耳に入ると余計疲れるので、音を休めず、メドレーで次々と弾き続ける。客の何人かは足で拍子を取ったり、身体を揺すったりしているが、案の定ほとんどは聴いていない。オレも試合経過が気に掛かったし、メルビンが来たら直ぐに降りようと何度も振り返った。しかし、彼は試合が終わるまで現れないことを知っていた。 20分ほど経ったとき、大きな拍手が突然沸き起こり、ソックスが勝ったことを知る。そして間もなく、悪びれる様子もなく、どこかで試合を観るか聴いていたであろうアホのメルビンが姿を見せた。 我が義理の兄弟は握手でオレを迎えたが、振り返る度にジョンの後頭部しか目に入らなかったことは言わなかった。
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