2006年11月1日(日曜日) 一身上の都合により、本日付けをもちましてギターの丸山実さんが目出たくSOBを退団されました。 2006年11月7日(火曜日) 昼間ビリーから悲しい知らせがあった。Vini & DemonsのドラマーのEvanがラスベガスで死んだと言う。それも自殺らしい。 デイモンズではエバンと一番仲が良かった。フロリダの大学でドイツ語を教えていた彼は、4年前に地元のバンド全員でシカゴへ移り住む。毎週のようにロザへ現れ『スミチャン』と人なつこく巨躯を寄せてきた。言語学者らしく、そのたびに新しい日本語を完璧な発音で仕入れてくるので親しみが増す。オレたちはベー スのトムを伴って、寿司を食べに行ったりビリヤードをして遊んだ。 彼らはオーソドックスな白人ブルースバンドだが、一軒家を借りた共同生活でよく練習をし、まとまりのある演奏をしていた。しかし夢果ててバンドは分裂し、初めて出演の決まっていた昨年のシカゴ・ブルースフェスをキャンセルして、トムとハーモニカのスキボウはフロリダへ、エバンはリーダーのビーニとラスベガ スへ移住する。そこでの音楽生活も不遇だったらしく、『2週間程したらシカゴへ戻る』とエバンがオレにメールしてきたのが今年の始めだった。 まだ30歳を過ぎたばかりの、頭脳も明晰で前途ある人生だったはずなのに、遺書もない彼の自尽の理由は誰にも分からない。数ヶ月前に借金とクスリでこの世から逃げた、リトル・エドの元ギタリストとは違うはずだ。エバンと親しかった者の共通の思いだろうが、側に居て手を尽くせなかったビーニの気持ちを推し量ると空しさが増す。 人の死は自分の死を映してしまう。残った者が自らの人生を全うする努力をする他ない。 2006年11月16日(木曜日) 元ジュニア・ウェルズのアフリカ系ベース、ヴィック・ジャクソンは30歳半ばで、帰国した江口弘史の後がまとしてロザの木曜日に定着している。 彼がファンク好きなことは知っているが、古いブルースでも嫌な顔をせず、まじめに演奏する姿勢に好感が持てた。最近の若いリズム陣は、ストレートな曲にな ると単調で面白くないのか、要らぬテクニックを多用して味を消してしまうことが多いが、ヴィックは音数を減らしてじっと我慢する。 『俺はさぁ、音楽で食べていけるだけで嬉しいんだ。だからブルースクラブで演奏する意味も分かっているし、シンプルに弾くことなんてちっとも苦じゃない よ』 SOBの某に聞かせてやりたい。確か某も昔はそんなベースを弾いていたはずなのに、今では音数を間違えているのではと思うような塊を投げつけることが多 い。 帰り際、来週のサンクス・ギビングに店を閉めるロザは、『じゃ、二週間後ね』の言葉が飛び交った。ポーランド人ウエイトレスのマーガレットは、恋人とフロ リダへ旅行に出掛ける。オレはメキシコへSOBのツアーだと言うと、横から『おらぁ、ブラジルだぁ』とジェームスが応じた。思わず一同が振り向いた先のヴィックは、『年寄りの父親と一緒に暮らしてるだろ?七面鳥買ってきて食べてるよ』と溜息をつく。今年父親を亡くしたオレは、「孝行のしたい時分に親はな し」という言葉を思い出したが、ヴィックには黙っていた。 2006年11月18日(土曜日) 北へ60キロ以上も行った先で、 昼間ロブ・ストーンと結婚式の宴会仕事。夜ビリーたちと"B.L.U.E.S."にて午前2時半までたっぷりと。 前日の2時間に夕方30分の睡眠で、今日一日よく持ちました。 2006年11月20日(月曜日) 彼の身なりはちゃんとしている。落ち着いたベージュ色のダルブのスーツに剃り上げた頭は、黙って立っているとホワイトカラーの黒人ビジネスマンに見えない こともない。 年齢は40代前半か。先週の月曜日に初めて話しかけられた。 『お前の演奏はソウルが感じられる。最近のミュージシャンにはない情熱もある』 それはありがたいお言葉で。しかめっ面で何か飲めという誘いが少し強制的に聞こえて嫌な気はしたが、断ると角が立つのでオレンジジュースを所望した。 男がブランデーを頼んだので乾杯しようと待っていると、バーテンダーのリコはこれまでの飲み代も一緒に請求したようだ。彼はカウンターに両肘をついて、左手の二つ折りした紙幣から右手で$20札を一枚抜くと彼女の鼻先へ突き出した。仏頂面のリコは『$36だけど』と告げて男の札を取り上げると、首を傾けて少し揺すらせた。 剃り頭が一瞬だが狼狽したのをオレは見逃さなかった。サウスサイドの黒人バーで、ノースサイドのクラブのような値段を取るとは思っていなかったに違いない。それでもすぐ立ち直ったのか、じっとリコを見据えたまま不敵な笑みを浮かばせている。たまりかねたリコが『$20じゃ足りないのよ』と催促すると、『だからこれが見えないのか?』と応えた。突き出した右手は$20札をつまんでいたときのままだ。馬鹿にされたと思ったリコが顔を立て直した途端、彼は『俺の左手を見てみろよ』と言った。いつの間にか親指が別の紙幣から$20札を擦(す)り出していた。 乾杯はしても直ぐにその場を離れられないのは苦痛である。こちらの気持ちを忖度してくれる立派な御仁も多いが、この男はそうでない。手が折れるかと思う程の力強い握手だけではなく、オレを引き寄せたかと思うと顔をくっつけて、『俺は仏教に興味があるからお前のことは分かる』と某檀徒団体の名前を口にした。 あちこちの女性客に声を掛けていたのでゲイではないのだろう。ひとりで来店してきて寂しいのは分かるが、格好の付け方が気の毒に思えてならない。 そして男は今晩もクールに現れると、清算のときに現金ではなくクレジットカードを颯爽と出す。ところがカードは使用不能と判明し、今度は露骨に狼狽していた。 2006年11月22日(水曜日) オレを孫のように可愛がってくれていたロックウッドが、昨日91歳で亡くなった。 脳卒中で倒れたのは知らされていたけれど、ロックウッドのスポンサーのひとりでもある医者のポールと先週電話で話したときには、『奇跡が起きない限り演奏は無理だが、様態は安定している』と言っていたので、落ち着いたら時間を作って見舞いに行こうと考えていたのに、まさかこんなあっけなく逝去されるとは思っていなかった。 日本でのブルースブームに火を付けたロバート・Jr. ロックウッド&エイシズの初来日は、オレがまだ高校へ入ったばかりの頃だった。ブルースを教わったクラブの先輩から神様が来ると言われたが、既にチケットは完売で、その後出たライブアルバムを何度も聴いてギターをコピーした。それから10年後にエイシズのメンバーと演奏し、それが切っ掛けでジミー・ロジャースのツアーバンドで全米を廻るなんて夢にも思わない。ましてや、ロックウッドと一緒に来日公演(Disc guide参照)するなんて誰が想像できただろう。 クリーブランドを終の住処とする翁とは、それほど長い時間を共有したとはいえない。にもかかわらず会えばいつも破顔で迎え、『少し太ったな』『その無精髭はどうした』とか、ひと言を付け加える。久し振りの再会となったアーカンソー州ヘレナのフェスでは、挨拶するビリーらをよそにして手招き抱きしめてくれた。記者やカメラマン、ファンたちに囲まれていても、オレを見つけると椅子を差し出し横に座らせる。こいつは何者だと訝(いぶか)しがる周囲の目に照れながらも誇らしかった。ツアー先でロックウッドと会ったというミュージシャンからは、『たまには電話しろとアリヨに伝えてくれ』とよく聞かされた。 ロックウッドが歴史的に偉大な人物と分かってはいても、オレに対する接し様が好々爺で、決して畏怖感を抱いたことがなかった。それでも一度だけ魂を打ち震わされたことがある。 一昨年の年明けだから、もう3年近く経つ。P-VINE発行の雑誌、BSR(ブルース&ソウル・レコーズ)の「子弟対談」という取材で初めてロックウッド邸を訪れた(2004年1月28日参照)。数時間のインタビューは滞りなく終わり、ロバート・ジョンソンの大きなポスターの貼られた居間で歓談(Diary2004年3月写真参照)していると、ロックウッドは後妻のマリーに『こいつはギターも弾くんだ』と告げた。オレはソファに置かれたアコースティック・ギターを手にして、『初めて私があなたのギターをコピーをしたのはこの曲ですよ』と"Take a little walk with me"を奏でる。ククク・・・と笑いながら聴いていたロックウッドがオレからギターを取り上げ、『ワシが初めてロバート・ジョンソンから教わったのはこの曲だ』と"Sweet home chicago"を弾き始めた。 "Sweet home chicago"を、ロバート・Jr. ロックウッドがオレだけに聴かせている。彼がオレを見ながら唄っている。その頭上には、ロックウッドの義理の父親だったロバート・ジョンソンがいる。ロックウッドはロバート・ジョンソンと重なり、ブルースの系譜の、それも直系の本流がオレの血に流れ込んでくる。眼前にクロスロードが現れ、ミシシッピーの赤土に立つロバート・ジョンソンや、サニーボーイと旅する若いロックウッドがいる。 総毛立ち、感情の襞が揺れ出した。ブルースの歴史の重みに耐えられず、指先から肩、身体全体が小刻みに震えてくる。オレは泣き出したいのを懸命に堪えて、ようやくロックウッドの肩を掴み『もう十分です』と懇願して、彼は演奏を止めた。僅か3コーラスだったのに、あれ以上演奏が続いていたら号泣していた。自分の演奏はブルースという音楽の形だけであって、その魂とはほど遠い。神の前での懺悔に等しい瞬間だった。 同行していた唯一の目撃者である、カメラマンのO君はどう感じたのだろう。ひ弱な精神に映る幻影、幻聴だったかも知れないのだ。あれから自分の演奏が変わったかどうかは分からない。別の時代に日本人として日本で育ったオレが彼らに同化できるとは思えないし、しようとも思わない。これからも好きな音を紡(つむ)いでいきたいだけだ。ただ伝説の人々との尊い瞬間が、自分だけにしか触れられない感性の宝玉となる。 あと2時間で初めてのメキシコへ向かう。 2006年11月27日(月曜日) 初めてのメキシコは、メキシコシティに5泊しフェスティバル3回クラブ1回の演奏。ダウンタウンの旧市街地を毎日4-5時間歩き回るほど気に入ってしまった。 しかしオヘア空港の掃除のおばちゃん、空港内禁煙なので入り口の外で煙草を吸っていると、『アンタもっと扉から離れて吸いなさいよ』と追い立てる。へいへいと素直に従って移動すると、箒とちり取りを手にした彼女が文句を加えた。 『灰皿置いてないんだからね、吸い殻はそこの側溝に捨ててよ』 こっちは丹念に火を消してからゴミ入れへ捨てているのに、ポイ捨てを咎めるのならともかく側溝へ捨てろとは何事かと、網の目の鉄蓋がされた排水溝を覗くと、そこは大量の吸い殻の溜まった巨大な灰皿と化していた。これは誰が掃除する???てゆーか、外での喫煙を許可しているのなら、灰皿を置けよ。
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