William Clarke

(2001年3月31日記)


from LP " Rockin' The Boat"


もう3月もなかば。そろそろシカゴも暖かくなって来ました。ドイツで買った、たった$10の冬用のブーツにも手入れをして、新しい春用のスニーカーでも見に行こうと思っていた矢先に、雪が降ってきました。まぁ、もう馴れっこになっていますが、早いとここの重くて動き辛いコートからも開放されたいものです(笑)。
つい10日程前に見に行った、マーク・ハムエルさんの演奏を思い出しながら車を運転していると、ぼくの後ろを走っていたパトカーが、いきなり青い回転灯を回し始めました。ルーティーン・チェックと言う奴でしょう。ルーム・ミラーに写る回転灯の光は、いつ見ても嫌なものです。また誰かがこの辺りで悪さでもしたに違いありません。しかし、ぼくも慣れたもので、別に慌てもせず、必ず提示を求められる車の保険証を取り出しにかかりました。もう何年も整理していないダッシュ・ボードを開くとそこに保険証と一緒に懐かしいカセット・テープを見つけました。傷だらけのケース越しに「BLOWIN' LIKE HELL / William Clarke」と読めます。
オマワリさんの職務質問は毎度お馴染なので、ぼくはそれに機嫌よく答えて、難を逃れました。しかし、このカセット・テープ。これは、アリゲーター・レーベルのオリジナルです。なんと懐かしい(笑)。つい10年前まで、ぼくはCDプレイヤーもレコード・プレイヤーも持っていませんでしたから、よく中古レコード店で、中古カセット・テープを買って聴いていました(笑)。今はもう無いでしょうが、当時はジャズ、R&B、ソウル、ブルース、ファンクなどなど...。どんなジャンルの音楽でもレコードとカセットがありました。そして、カセットが中古になると殆どタダ状態で、有名・無名に関わらず$20も出せば、レコード10枚分以上のカセットが買えたものです(笑)。ぼくは、マディやリトル&ビッグ・ウォルター、アール・フッカーまで持っていましたから。実際、前出のマークさんやハワード・レビィさん、それからマッド・キャット・ルースさんなんかのレコードも中古カセットで見つけました。知ったと言った方がいいでしょうか?

ぼくが、最初にウィリアム・クラーク(注1)と言う名前を知ったのは、実はこのカセット・テープのお陰でした。いつもの調子で例の中古レコード店で偶然見つけました。ぼくの場合、ハモニカ・プレイヤーとの出会いは万事この調子です。有名・無名は問わず、ただ「ハモニカ・プレイヤーが録音されていれば買う」。これだけです(笑)。
しかし、このカセットは良く聴きました。特に彼のクロマチック・ハープの曲は、コピーをしました。11曲目のインスト曲"BLOWIN' LIKE HELL"です、素晴らしい曲だと思います。当時ぼくは、keyがCの16穴クロマチックしか持っていませんでした。又、それしか無いと思っていたのです。なぜなら、他の種類のクロマチック・ハープをステージで使用しているプレイヤーを見た事がありませんでしたから...。
それで取りあえず、上の曲をコピーしてみると、使い馴れていない半音レバーを多用しなければならない事が分かりました。ぼくが、それまでコピーしたブルース・マンのどのクロマチック・ハープの曲よりも複雑で難しい曲なのだと知り、この曲には随分長いあいだ苦労させられました(笑)。ぼくは「よく、この人(ウィリアム・クラーク)は、半音レバーを使いながらこんな演奏が出来るものだ!」と何度も何度も思ったものです。それでも時間が経ち、何とかコピーが出来るようになりました。しかし、どうしても彼のスピードについて行く事が出来ません。そんな時、新聞でウィリアム・クラークの名前を見つけて大喜びしたのを覚えています、チャンスがあれば何とか彼のクロマチック・ハープの秘密を聞き出してやろうと思ったからです。

場所は「フィッツジェラルド」(注2)。シカゴの西の郊外に位置するこのライブ・ハウスは、ぼくも2度ほど演奏しに行った事があります。ブッキングもちゃんとしていて音楽全般オール・ジャンルの店です。また歴史もあって、若かりしスティービー・レイ・ボーンも世間に名前が知れ渡る前は何度もここでプレイしたとサウンド・マンが言っていました。
余談になりますが、カナダのトロントに演奏に行った時に知り合った人に、以前ライブ・ハウスを経営していたと言う人がいて、その人の話によると映画「BLUES BROTHERS」が上映される以前は、ロードを生活の支えにしていたブルース・マン達にとっては、大変辛く長い冬の時代だったそうです。彼の店にもジョン・リー・フッカーやウィリー・ディクソン、マディ・ウォータースまで演奏に来たそうです。そんな中、若いブルース・バンドがオースティン(テキサス州)からやって来たそうです。それが前出のスティービー・レイ・ボーン達だったのです。彼等の演奏は素晴らしく観客も大変喜んだそうですが、週末の演奏で一晩$600の契約だったとか。信じられない話です。それが、映画「BLUES BROTHERS」の大ヒットでそれまで地道に活動して来たブルース・マン達にも脚光が浴び、スティービー・レイ・ボーン達は、一躍スーパー・スターになったと言っていました。
ぼくは、スティービー・レイ・ボーンの事は余り知りませんでしたが、後日、偶然「チケットが余ったから」と連れて行って貰ったエリック・クラプトンのコンサートで、前座出演していたロバート・クレイとスティービー・レイ・ボーンを観る機会がありました。 どのバンドも初めて見るバンドでしたが、雪の無いスキー場の傾斜を利用した観客席には3万人とも言われる観客が詰め掛けていました。エリック・クラプトンのバンドもロバート・クレイのバンドも素晴らしかったのは言うまでもありません。ホーン・セクションやコーラスを入れた大所帯で広いステージにそれぞれメンバー同士、広い間隔を空けてショウ・アップされていました。それに引き換え、スティービー・レイ・ボーン達は大きな広いステージにたったの4人だけ。それもステージの真中にこじんまりと、メンバー同士肩を触れ合わせるようにして演奏していました。それを見ていてぼくは「この連中、ブルースの人達だったのか?」と思ったのを今でもハッキリ覚えています。普段ブルース・クラブのような小さ目のステージで演奏しているのでしょうか。自然とお互いメンバーの音をモニターに頼らず、自分の耳で聴いて演奏する癖がついて来るのも当たり前です。要するに相手の音を聴きたければ近づく、デカければ離れると言う事です。このコンサートは、ウィスコンシン州のイースト・トロイと言う小さな街で行われました。91年だったと思います。このコンサートが、スティービー・レイ・ボーンの最後のコンサートとなったと後で聞きました(注3)。彼のギターは3つあったバンドの中で、一番音もデカく情熱的なプレイをしていて観客にも大受けでした。残念です。

さて、話を元に戻しましょう。

90年の春。ウィリアム・クラークがシカゴに演奏に来たのはこの時が最初だったと思います。恐らくアリゲーター・レーベルから発売された「BLOWIN' LIKE HELL」のプロモーション・ツアーも兼ねていたでしょう。「フィッツジェラルド」の店内に入ると、四方の薄暗い壁一面に"BLOWIN' LIKE HELL ウィリアム・クラーク"のポスターが、貼ってありました(演奏が終わる頃には全てのポスターは、客に剥がされ、ウィリアム・クラークは、観客のサイン責めに遭う羽目になるのですが...)。
観客は、この場所にしては結構入っていました。店内に流れるBGMが途切れたと思っていると、何の前触れも無くウィリアム・クラークと彼のメンバーが姿を現し、いきなり演奏を始めました。黒い髪をポマードか何かでオール・バックにしていて黒い大きめのサン・グラスに髭面。黒のスーツ。黒ずくめです。機材類は4×10インチ・スピーカーの59年辺りのフェンダー・ベースマンにJT−30。バンドは、4ピース。ギターにアレックス・シュルツ(注4)。彼は3,4年前にシカゴに暫く住んでいたようですが、今はどうしているのでしょうか?ドラムは、エディ・クラーク。ベース・プレイヤーはもう覚えていません。
演奏曲は「ロリポップ・ママ」で始まり、CDからの曲が殆どでした。どれももう、ぼくには聴き覚えのある曲ばかりです。彼に対するライブでの印象は、とにかく歌がいい、ハモニカは衝撃的かつ斬新でイミテイターと言うよりパアイオニアーと言いたい。自己の音楽観をちゃんと持っていて自信もちゃんと持っている。大げさに見えない観客へのパフォーマンス。こんなとこでしょうか?
曲目が進みスウィングの曲が始まると我慢できない観客の一組がダンスを始めました。それを待っていたとばかり、あちらこちらでも、ダンス大会が始まっています。
ライブの後半になってやっと"BLOWIN' LIKE HELL"の演奏を始めました。しかし、百聞は一見に如かずとはいいますが、ぼくがあんなに苦労して半音レバーを多用してコピーしたこの曲で、彼は殆どレバーを使っていませんでした。要するにC以外のkeyのクロマチック・ハープで演奏していただけなのでした。それに彼は16穴では無く12穴の小さい方を使っていました。そうと分かれば、あんな苦労はしなくて良かった訳です(笑)。しかし、彼のお陰でブルース・バンドで使用するクロマチック・ハープの本当の意味での面白さを知りました。特に、トーンやタイム。ジャズやクラッシック音楽でクロマチック・ハープをプレイする人にとっては、ブルースで使用するクロマチック・ハープの使い方に反感を持つ人もいるかと思います。スケールや音階、コードも知らずに、ただ同じスケールの中で同じ事をしているように見えるでしょうから(笑)。しかし大目に見て下さい。やってみると思うほど簡単でもないのです(笑)。

このライブ以後、ぼくは彼を2度観に行きました。彼が観客に対してするパフォーマンスにこんなのがありました。彼がハモニカ・ソロを演奏中に、バンド全体の音をギリギリまで落とさせて、自分はステージの真中で両膝をついて何コーラスも左手だけでハモニカを吹き続けます。そのうち、演奏を続けながら空いた右手でステージの床をドンドン叩いて(プロレスでのレフリーがカウントする感じ)観客の関心を引き、最後に拍手を貰うと言う具合です(笑)。
そんな彼の他界を知ったのは、ヨーロッパ・ツアー中、ロンドンの宿泊先でフル・イングリッシュ・ブレック・ファーストを頂いている時でした。ロンドンは大抵曇っている日が多い気がしますが、その日は朝から大きな古い窓一杯に朝の光が差し込んでいました。当時のボス、ラリー・ガーナーさんが「オイ、先週ウィリアム・クラークが死んだんだってよ。お前、ハモニカ吹きだから知り合いだろ?」と。あれは確か96年だったと思います。何とも残念な事でした。死因は何だったのでしょう?聞きそびれてしまいました。あんなエネルギッシュな大男のどこに病気など入り込めたのでしょう(注5)。



from LP " Rockin' The Boat"

L.Aのハモサ・ビーチからサクラメントまでツアーをしている途中のモンタレーで、こんな話を聞きました。ぼくが壁に貼ってあるウィリアム・クラークの写真を指さして「この人は、ここでよくプレイするのですか?」と質問すると、その店のマネージャーらしき人は「ああ、この男は、西海岸じゃトップ・プレイヤーさ。しかし、困っちまうのが、全くこっちの都合などお構い無し。イキナリ電話を掛けて来て、電話に出ると、挨拶も無しで“ウィリアム・クラークだ。明日、行く”って言った切りこっちの返事も聞かない内に電話を切っちゃうんだ(笑)。だからこっちは、当日のバンドさんには、いろいろ言ってキャンセルして貰うんだけどね(笑)。それで、当日、どこで知ったのか客はちゃんと入るし、本人は、ちゃんと時間にはスーツ着てやって来るんだから(笑)」

演奏もそうでしたが、この一事を取ってみてもこの故ウィリアム・クラークと言う男のスケールの大きさが分かって貰えれば幸いです。


江戸川スリムのお節介注釈

(注1) William Clarke

1951年3月29日、カリフォルニア州イングルウッド出身。
ローリング・ストーンズのレコードを聴き、ブルースに興味を持つようになる。始めはギターとドラムをプレイしていたが、17歳の時にハーモニカに転向。ビッグ・ウォルター、ジェームス・コットン、Jr. ウェルズ、サニーボーイIIなどがアイドルだったという。
同時期、彼はジャック・マクダフやジミー・マクグリフなどのジャズ・オルガン奏者の演奏を好んで聴いていたという。後年彼は「これらの音楽は、私のスタイルに重要な影響を与えた。ジーン・アモンズ、リン・ホープなどのサックス奏者とのトリオから繰り出されるスウィングしてリズミカルなグルーブに、シカゴのハーピストのスタイルを混ぜ合わせたのが、今の私のスタイルだ」と語っている。
1969年にはLAに出てきて、多くのブルースマン達と演奏し、腕前を上げていった。なかでも特に影響を受けたのがジョージ・スミスであり、ジョージが1983年に他界するまで、良き先生で良く友人であり続けた。
1978年から80年代にかけて、いくつかのレコードを発売するも、ウエスト・コースト以外では無名であった彼だが、1990年にアリゲーターから「Blowin' Like Hell」を発表するや、全世界にその名前を広めた。アリゲーターからは計4枚のアルバムを発売するが、1996年に45歳の若さで他界してしまった。
ちなみに彼は、ハーモニカの名手でもあったが、20年のキャリアを持つ熟練した機械工でもあったそうだ。

Rockin' The Boat !
(Rivera LP RR-503)

Tip Of The Top
(King Ace KACD-1063)

Blowin' Like Hell
(Alligator ALCD-4788)

Serious Intentions
(Alligator ALCD-4806)

Groove Time
(Alligator ALCD-4827)

The Haed Way
(Alligator ALCD-4842)
その他、EP / LP が数枚あり。

(注2) FitzGerald's

シカゴのダウンタウンから、アイゼンハワー・エクスプレスウェイを西に行ったところにあるライブ・ハウス。店のホームページを見てもらえれば分かるが、たまに大物が出演するのでシカゴに行った際には要チェックだ。ちなみに私は、ゲイトマウス・ブラウンをここで見た。ただし、移動には車が必要。

(注3) スティービー・レイ・ボーンの最後のコンサート

1990年8月26日。シカゴから80マイルほど北上した、ウィスコンシン州イースト・トロイにあるスキー場「アルパイン・ヴァレー」で、エリック・クラプトン、ロバート・クレイ、スティーヴィー・レイ・ヴォーンが出演したコンサートが行われた。酒とドラッグを克服したスティービーは、精力的に活動を再開したばかりであった。
コンサートも終盤にさしかかり、霧が立ちこめてきたステージには、クラプトン、クレイ、スティーヴィーの他にジミー・ヴォーンとバディ・ガイが呼ばれ、ブルース・セッションが始まった。最後の曲"Sweet Home Chicago"でのスティーヴィーのプレイは、バディをして「鳥肌が立った」と言わせるほど素晴らしいものであったという。
ステージが終了し、スティーヴィーはクラプトンのマネージャーらと共にヘリコプターに乗り込み、午前12時40分に「アルパイン・ヴァレー」のゴルフ・コースからシカゴに向かって飛び立った。しかし、その機体は数秒後には濃霧の山肌に激突したのである。
その機体が発見されたのは、6時間後の午前6時50分であった。

(注4) Alex Schultz

1954年マンハッタン生まれのギター/ベース・プレイヤー。日本のファンには、ロッド・ピアッツァ & マイティ・フライヤーズの元ギタリストと言った方が通りがいいかもしれない。
有名なファッション・デザイナーを母に持ち、中流階級の家で育った彼は、10歳の頃にはギターを始め、マイク・ブルームフィールド、エリック・クラプトン、ジミ・ヘンドリックスらがアイドルであったという。バークリーでジャズを習った後に、ニューヨークに戻り、ロックやポップスのバンドを経験し、1979年にLAに移住。バックアップ・ミュージシャンとしての録音は数多くある。
しかし、マイティ・フライヤーズを辞めたことは聞いていたが、まさかシカゴに住んでいたとは知らなかった。で、いったい今はどこにいるのでしょうか?

(注5) ウィリアム・クラークの死因

1996年3月、インディアナポリスのクラブで倒れたクラークは、充血性心不全と診断された。徹底的な養生を行い、60ポンドの体重を落とした彼だが、ツアーは止めることはせず、夏から秋にかけて全米中のクラブを廻る生活を続けていた。
 ギグの直前に再び倒れたクラークは、カリフォルニア州フリスノの病院に入院し、緊急手術を受けたが、11月3日に短い生涯を閉じた。死因は出血潰瘍とその合併症であった。


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