午後11時30分。もう、何十回と潜った黒い鉄格子入りの古いドアのところまで来ると、あの個性的で独特なハモニカの音が店のドア越しに聞こえて来ました。去年の春頃だったか、「シュガー・ブルーは、もう二度とROSA'Sでは演奏しない」と誰かが言っていましたが、どうやら新世紀になって復帰したようです。
歩道には汚れた雪が積み上げられていて、いつもより暖かいように思いましたが、日本のみなさんには、これでも真冬と言う事になるのでしょう(笑)。
今夜は、水曜日のROSA'Sに何となく立ち寄ってみました。
この前に彼の演奏を観たのは、去年の9月頃で、木曜レギュラーで入っている「ブルーバード・カフェ」のライブでした。
その夜は、驚いた事に全くのアコースティック・ライブ。シュガー・ブルー(注1)と牧野氏(注2)の二人きりでした。シュガーは、椅子に足を組んで座り、タバコ片手にハモニカを吹いていて、いつもよりはリラックスしているようでした。トレードマークの肩から掛けたハモニカホルダーは付けていませんが、グレーで大きめのハンチング帽は良く似合っています。少し痩せたかも知れませんね。
いつものようにアンプ(キース・リチャードから貰ったBOOGIE)は通さず、PAマイクを使っていましたが、優れたミュージシャンの常で、機材に関係無く演奏も音もいつものシュガー・ブルーでした。
相棒とも女房役とも呼ばれる牧野氏の方は、俯き加減で椅子に浅く腰掛け、いつも使っている69年製の黒のギブソン・レスポールを、メキシコ製だかのアコースティック・ギターに持ち替えて、ボトルネックを使ったスライドギターを披露していました。最近蓄え始めた鼻の下の髭が印象的です。しかし、アコースティック・ギターにボトルネックとは・・・。知り合って10年以上経ちますが、牧野氏のデルタブルースを、ぼくはこの夜初めて聴いた気がしました(笑)。
選曲は、ロバート・ジョンソン風(?)かJAZZ(?)。マディ・ウォーターズの「フーチー・クーチー・マン」「キャット・フィッシュ・ブルース」「ロングディスタンス・コール」「リトル・レッド・ルースター」に「フーズ・ビーン・トーキン」・・・。どれもぼく好みです。シュガー・ブルーさんの演奏は、機会がある度に観て来ていますが、その夜のこの二人は、今までとは一味も二味も違っていました。
シュガー・ブルーと牧野氏については、音楽的にも個人的にも各方面からいろいろ中傷される事もあると聞いていますが、それらに関しては人それぞれ。ここでは触れない事にします。
しかし、この二人位クレイジーな連中もブルース関係では珍しいと思います(笑)。バンドにしても音楽にしても、作っては壊し。観客をステージの上から罵り、演奏時間に平気で1時間も遅れてやって来て、店の女の子を口説いたり・・・(笑)。ここまでやられると、その音楽に対しての洗練されたクレイジーさも尊敬できるような気になります。ぼくのような凡人には、ここまでクレイジーにはなれませんから・・・(笑)。しかし、彼らのエピソードを聞いているとまるで映画か何かを観ているようです(笑)。
シュガー・ブルーさんは、85年にグラミー賞の何かの部門で受賞して、以後2度ほどノミネートされたと聞きました(注3)。誰かが言ってましたが、「グラミー賞にノミネートされるだけで、1000万円以上かかる」と。すると、シュガーさんは、軽く3000万円は必要だった訳です。しかし、どう考えてもシュガーさんにその支払い能力があるとは思えませんから、自分の実力だけでそこまで行った訳です。大手のレコーディング・ディールがあった訳でもないでしょうから、ただの「ハモニカ吹き」に3000万円も使う奴はいません・・・(笑)。
牧野氏にしても、15歳の時に既に日本でレコード・デビュー。15歳の子供が、ギターでメシを食っていた訳です(笑)。以後、ボストンのバークレイ音楽学校に留学し、その後90年にシュガー・ブルー・バンドに加入。日本公演も成功し、シュガー・ブルーの代表作と言われる「アブソリュートリー・ブルー(=Blue
Blazes)」「イン・ユア・アイズ」では、ギターリスト、音楽監督、アレンジを担当しています。余談になりますが、あのエリック・クラプトンでさえお世話になった、エンターテイメント関係では敏腕弁護士として知られる、ケニース・ジマンが牧野氏の為に動いて、日本人ブルース・ギターリストとしてはじめて、正式に特殊技能者ビザ(?)を取得できたとか・・・。牧野氏にジマン氏を雇う程の経済力があるとも思えませんから、それも、牧野氏の実力と言う事になるのでしょう(笑)。
とにかくこの二人、どう考えても普通じゃない訳です(笑)。もう、何度もバンドを作っては潰し、いろいろあってお互い口汚く罵り合ってケンカはしても、最後に残ったのがこの二人きり。ハモニカにギター、そんな感じがしました(笑)。
ROSA'sでのライブは、客足も疎らでいつもの水曜日と変わりありませんでした。バンドのメンバーは、ベースにジェシー
"スリム" クロス。彼は、歌もやります。ドラムにブレイディー・ウィリアムス。そしてギターが牧野氏。選曲は「リトル・レッド・ルースター」「グット・モーニング・スクールガール」などのカヴァーを中心に、オリジナルの「リップ・サービス・イズ・ライ」などを混ぜ合わせた構成になっていました。この「リップ・サービス・イズ・ライ」は、シュガーと牧野氏の合作という事です。なかなかムードのある曲です。
ぼくがシュガーさんに「最近どうしてますか?ラジオを聞いていたら、あなたのようなハモニカの音が女性ボーカルのバックで聞こえてましたが?」と訊くと「えーと、それは、シャメキア・コープランドだろう」と言っていました。シュガーさんは、いつも洒落が効いています。以前シュガーさんが、ウィリー・ディクソンと冬のコロラドへツアーに出かけた話には驚きましたが、ちょこちょこスタジオからも演奏依頼があるのでしょう。
牧野氏との会話の中での話ですが、随分前に「俺は、アルバート・キングだが、お前は、牧野か?」と聞き覚えの無い声で電話があったそうです。それで牧野氏は、てっきり友人のギターリスト、ハーブ・ウォーカーの悪戯だと思い、つべこべ言っていると、いきなりマネージャーだと言う人が電話に出て「あなたは、ギタープレイヤーのMr.アルバート・キングを知らないのですか?彼は、あなたにニューヨークに来てほしいと言っています。あなたのスケジュールを教えて下さい」と言われたそうです。アルバート・キングからの演奏依頼だった訳です(笑)。
結果的には、スケジュールの関係でアルバート・キングとの共演は実現しなかったそうですが・・・。しかし、勿体ない話です(笑)。
江戸川スリムのお節介注釈
(注1) Sugar Blue
10穴ハープに革命を起こした男、シュガー・ブルーについては、すでに様々な場で語られているので、いまさら書くこともないが、新しいファンのために簡単なバイオを記しておこう。
本名ジェームス・ホワイティング。1949年12月16日ニューヨークのハーレムの生まれ。ハモニカを手にしたのは10歳の頃だが、本格的にレッスンを始めたのはそれから2年ほど後にボブ・ディランのハモニカを聴いてからだという。その後、独学で練習を繰り返すが、スティービー・ワンダーがクロマチックを使っていることを知らずに10穴でコピーしていたという。これらの練習が彼の驚異的なテクニックを生み出す元となったのだろう。
70年代にはいくつかのレコーディングに参加したが、注目を浴びたのはパリに移住した後の1978年、ローリング・ストーンズの"Miss
You"(アルバム「Some Girls」)でのプレイであった。Spiveyのアルバムでのシュガーのプレイを聴いたミック・ジャガーが彼の才能を見抜き、スタジオに呼んだという逸話も残されている。
その後、2枚のソロ・アルバムを発表するも彼の魅力を十分に伝えることが出来なかった。1984年にはコンピレーション・ライブ・アルバム「Blues
Explosion」でグラミー賞ベスト・トラディッショナル・ブルース・レコーディング賞を獲得するが、依然として満足のいくアルバムを発表するレコード会社は現れず、その実力に反して「無名」のままであった。
しかし、我らがキング・レコードが1993年に充実作を制作(偉い!)。同社からは2枚のアルバムを発表し、現在ではAlligatorに引き継がれ発売されている。これらのアルバムは彼の魅力を最大限に引き出していが、願わくば前2作を越えるアルバムをそろそろ発表してもらいたいところである。
なお彼は、過去3回来日公演を果たしている。
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Sugar Blue
From Paris To Chicago
(EPM FCD 5520) |
Sugar Blue
Blue Blazes
(Alligator ALCD-4819) |
Sugar Blue
In Your Eyes
(Alligator ALCD-4831) |
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V.A.
N.Y Really Has The Blues!
(SPIVEY LP-1018) |
The Rolling Stones
Some Girls
(Rolling Stone CK-40449) |
Willie Dixon
Hidden Charms
(Bug/Capitol CDP-7 90595 2) |
ゲストで参加の作品は、この他にも多数あり。
(注2) 牧野氏
日本が誇るギターリスト/ミュージカル・ディレクターの牧野元昭氏をここで紹介できることを光栄に思う。彼は10年以上シカゴを中心に素晴らしい仕事をしてきたにもかかわらず、余りにも話題にのぼることが少なかったし、彼こそもっと多くの人に注目していただきたい本物の音楽家だからである。
1956年、東京に生まれた牧野氏は慶應義塾高校在学中からプロ・ミュージシャンとして活動を開始し、ハイ・ファイ・セット、杉真理、タケカワ・ユキヒデ、荒井(現・松任谷)由美など(セッション・ギタリスト時代の共演者を全てあげていたら、スペースがなくなってしまう)とのセッションでギターを担当してきた。1976年にHigh
Timesに参加するも、1年後に脱退。その後彼は、なんと山田流篳曲家の故桜井英顕氏の門下生となり、ジャンルにこだわらない即興音楽へと彼の興味は移っていった。尺八のクリストファー・ブレズデル氏との共演や東京キッド・ブラザースの世界公演への参加、上田力セッションへの参加など幅広い活動を行った後、1986年にはバークリー音楽大学に学費免除の特待生として留学。バークリー時代に菊田俊介氏にB.B.キングのレコードを紹介し、菊田氏をブルースの世界へと導いたのは有名な話だ。
1989年、バークリーを卒業した彼は、シカゴに移りシュガー・ブルーと運命の出会いを果たす。以降彼は、シュガーに全幅の信頼を寄せられ、プレイヤーとしてはもちろん、作曲・アレンジなど全ての面でシュガー・バンドを支えてきた。その仕事ぶりはシュガーの2枚のアルバムを聴いていただければ、充分に分かっていただけると思う。
さらに彼は、日本人としては異例とも言えるワーキング・ヴィザを取得しているが、そのために多くのミュージシャンや音楽関係者が推薦状を書いている。この話だけでも、いかに現地のミュージシャンに信頼され、そしてその実力が認められているかがわかるであろう。
また、シカゴ・ブルース・フェスティバルのメイン会場であるペトリロ・ミュージック・シェルに2回(1996年にシュガー・ブルー・バンド、2000年にゾラ・ヤング・バンド)も出演したことも特筆する事項であろう。フェスに行かれた方なら分かると思うが、会場となるグラント・パークには6つのステージがあり、5つの小さなステージでは、午前中から同時並行して様々なミュージシャンが出演している。しかしペトリロだけは別格で、夕刻からステージが始まり、フェスのトリを務める「大物」だけがその舞台に立てるのである。そこに2回も出演するのは並大抵のことではないことは分かっていただけるであろう。
シュガーとのセッションの合間を縫って、ジャズやファンク、フュージョン・バンドなどにも参加し、ジャンルを飛び越えた活動も繰り広げている牧野氏。幸いにも私は何度か彼のプレイを見る機会を持てたが、多岐にわたる活動で培った、まさに独創的な彼のプレイに引きずり込まれ、時間が経つのを忘れてしまった。それは、素晴らしいものに出逢えた至福の時であった。
最後に、シカゴでも3本の指に入る名ギターリストのカルロス・ジョンソンが、2000年4月に牧野氏と共演をした後に話したコメントを紹介しておこう。
「モト(牧野氏のニックネーム)が演奏すると、いつもお客さんが喜ぶんだ。彼の音楽にはブルース・スピリットがあって、さらにブルース以外の何か特別な魅力があるからだろうね。今日は、一緒に演奏できて興奮したよ」
カルロスと牧野氏が一緒にプレイをする。想像しただけで、血圧が上がりそうである。
牧野氏のワーキング・ヴィザ取得のための推薦状の一部。
左から、ココ・テイラー、サン・シールズ、Rosa'sのトニー。
(注3)グラミー賞にノミネート
1978年にローリング・ストーンズの"Some Girls"が、アルバム・オブ・ザ・イヤーにノミネート。前述したように、1984年に"Blues
Explosion"が、ベスト・トラディッショナル・ブルース・レコーディングを受賞。さらに1988年にウイリー・ディクソンの"Hidden
Charms"で、同じくベスト・トラディッショナル・ブルース・レコーディングで受賞している。その他にもノミネート作品があるかも知れないが、調べられなかった。ご存知の方はご一報を!
Special Thanks to Mr. bluemoon
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