Ollie Nightingale Story Vol.1

IN MEMORY OF THE GREATEST BLUES SINGER, THE ONE AND ONLY
MR.OLLIE NIGHTINGALE ! (OLLIE BRAXTON HOSKINS)
SEPT.6,1936-OCT.26,1997


Ollie Get Down !
彼の最も気に入っていた写真。
Copyright(C) by Makoto Takahashi

高橋 'Teacher' 誠

序章
'I LOVE YOU, I LOVE YOU...'
「愛してるよ、愛してるよ」そういいながら、彼は息を引き取った。

「おい、ティーチャー、おまえが日本に帰ってから俺はほとんど死にそうだったんだぞ。」
といって、オリーは嬉しそうに笑う。
 1995年正月、私が帰国したあと、1年半後にメンフィスで再会したときのこと。腫瘍を取り去る手術したあとを見せ、まだ退院して間がないという。そして、ECKOレコーズの第一作の発売が決定し、日本で先行発売になるという。

「アルバムのタイトルは何て言うの?」
「'I DRINK YOUR BATH WATER, BABY'っていうんだ。ヘヘヘヘ。」
「ワッッハハハッハッハ!何?I DRINK YOUR BATH ROOM WATER, BABY?」
「違う!バスルーム(トイレ)の水じゃないよ、風呂の水だよ、ワッハハッハ!」
「今、タイトル曲'I DRINK YOUR BATH WATER, BABY'のテープを探しているんだけれど...、カヴァーにはね、あるきれいな女の子がバスタブに入っていて、俺はバスタブのふちに座ってるんだ。シャンペン・グラスを持って、タキシードを着てね。それで、タイトルがこう入っているんだ、'I DRINK YOUR BATH WATER, BABY'」
「ワイルドだね!」


I'll Drink Your Bath Water, Baby (EKO ECD 1001)

 しばらく、このアルバムのテープを聞きながら話しを楽しんだあと、お祝いをしよう、食事に出ようというと、

「何を着ていけばいい?」
「なんだっていいさ、カジュアルな服で。」
「俺は、カジュアルなものは何も持っていないんだ。」


プレイス・2Bの楽屋にて。
Copyright(C) by Makoto Takahashi

 黒のレザー・ジャケットを着て戻ってきたオリーは、「ティーチャー、おまえに見せたいものがあるんだ。俺の言う通りに行ってくれないか?」と言う。
行った先は、ビッグ・ママと呼ばれていた彼の長年のガール・フレンド、セレスティーン・ポークの家。その家に入ってすぐ、リビングルームの左側の壁に、以前私が撮った二人の写真が特大に引き伸ばされ、銀のフレームに入れられて掛かっていた。

「こんなにするほど喜んでくれていたのかい?」
「そうさ。本当に嬉しいよ。おまえがくれたこの写真をここまで大きくして飾るには100ドル以上かかったよ、でもそんなことは問題じゃない。さあ、掛けてくれ。コーヒーテーブルの上を見ろよ。」
「アルバムかい?いいね、見せてもらってもいいかい?あれ、ほとんど俺があげた写真じゃないか?」
「そうさ、おまえが撮ってくれた写真はみんな彼女が整理してここに置いてるんだよ。さあ、孫を紹介するよ。セレスティーンの孫ということは、俺の孫っていうことだよ。」

 彼女の目を幸せそう見つめながら言う。


オリーのお葬式プログラムより。
オリーとセレスティーンの写真は、彼の居間に飾られていたもの。

 それから、約2年後の1997年の10月末、悲しい連絡を受けた。
私のヒーローであり、敬愛する友人であったオリー・ナイチンゲールが急死したという。
 95年にもう一度会ったときのこと。8月に電話で話したときの明るい声がよみがえって頭の中をまわり続ける。そんなこと...。
そこにいるだけで絵になる男だった。とんでもなく素晴らしいシンガーだった。彼ほど涙を誘い、笑いを誘い、感情に直接語りかけてくる自然なストーリー・テラーはいなかった。どんなに笑わせても品格を失うことがない、そういう男だった。日常生活では底抜けにお人好しで人気者だった。長年の苦労の末、やっとジョン・ウォードとともにECKOをはじめることによって、コンスタントに作品を送り出せるようになり、それを心から喜んでいた。

 オリーは人生の最期を愛するセレスティーンの腕の中で迎えた、彼女を見つめ、「愛してるよ、愛してるよ」と言いながら息を引き取ったという。共通の友人でメンフィスのプレイス・2Bというクラブの当時のオーナー、イモジーン・ミラーによると、死因は癌と肺炎の合併症だという。癌のために、あまり精力的に活動することができなくなっていた、その10月19日。オリーの母、グレンダ・ホスキンス・ジョーンズが亡くなる。24日金曜日に埋葬。寒い日だった。悲しみの内、無理をしたオリーはそのままメンフィス郊外の町、ジャーマンタウンのメソディスト病院にかつぎ込まれて、26日夕、5時25分に息を引き取った。母の死からちょうど一週間後だった。9月6日の誕生日に友人達が催したサプライズ・パーティーでは、既に元気がなくて歌えず、リー・ショット・ウィリアムズとビル・コーデイがかわりに歌ったという。

 葬儀は31日(金)マグノリア・ファースト・バプティスト・チャーチで行われ、ルーファス・トーマスやジョニー・テイラーらが弔辞を述べ、ジョニー、シャーリー・ブラウンやアリータ・ナイティンゲール、そしてオリーと共にディキシー・ナイチンゲールズにいたニール兄弟を含むパターソネイアーズがゴスペルを歌って彼の人生を讃えた。
 この一週間はBBキングズ・ブルーズ・クラブをはじめ、故アルバート・キングとオリーがレギュラーをしていて、メンフィスのミュージシャンの憩いの場となっていたプレイス2BラウンジやLD'Sなど、様々なクラブで彼を偲んで追悼コンサートが開かれ、その収益は遺族に渡された。「彼は生命保険に入っていなかったからね、まあ、俺達もほとんど誰も入ってないけどね。葬儀の費用や何かをこうやってみんなで助け合うのさ。」

 二月後、私と妻はメンフィスへ向かった。共通の友人達と会い、彼の眠るウェスト・テネシー退役軍人墓地を訪れるために。以前葬列をリードする仕事をしていて瀕死の重傷を追いながらも奇跡的に回復したミュージシャンのジェシー・ダッドスンが、詳しい道順を教えてくれる。「でもね、ニュース見たかい?今日その墓地のすぐそばまでフリー・ウェイが伸びたんだぜ。開通式をやっていただろう?それで行けば良いよ。」


西テネシー退役軍人墓地
Copyright(C) by Makoto Takahashi


 雪が降り始めていた。そのできたてのフリー・ウェイはがらがらだった。フォーレスト・ヒル・アイリーン・ロード4000番地。「ここに本当に大きな墓地があるの?って心配になるような小さな道」だと、ジェシーが言った通りの道沿いにその墓地はあった。雪化粧をした美しい墓地に、まったく人影はなかった。まったく同じ墓石が何千と並ぶ。管理事務所で場所を確かめ、再び車に乗る。Jの4864番。「Jセクションの9列目の左から6番目のマーカーよ。」という係官の言葉を繰り返しながら、オリーの埋葬されている場所を探す。


オリーの仮墓標
Copyright(C) by Makoto Takahashi

 私たちは、しばらく祈り、アメイズィング・グレイスを歌って町に戻った。その夜、オリーの根城だったプレイス2Bでは、ビル・コーデイが歌っていた。
 ビル・コーデイ。1993年の暮れ、ジェシー・ダットスン主催のアルバート・キング一周年記念コンサートに来て、オリーに紹介してもらったことが、復帰してECKOからアルバムを出すことにつながった。その直ぐ後、オリーの家で彼が何かをメモして私によこしたその紙は、ビル・コーデイの名刺だった。

「オリー、これコーデイの名刺じゃないか、いいのかい?」
「そうか?いいさ、もうメモはしてあるんだ。」

 さて、プレイス2Bに着くと、コーデイが1セット目のステージをはじめたところだった。ビルは、良いシンガーだが、ステージを絵の額縁と考えると、そこにいつもきれいに収まっているように思えた。オリーは、いつもその額縁から飛び出して来る感じだったのを思い出していると、イモジーン・ミラーが言う、「ここに帰ってきた限りは必ず歌って帰るのよ。ビルにもそう言っておいたからね。」クラブのドアを見ていると、今にもオリーが開けて入ってくるような気がしてくる。
 午前2時、バンドが私を呼ぶ。イモジーンが私の手を取って、ステージへ先導してくれる。オリーがお気に入りだった、「トラブル・イン・マインド」。
「12小節ブルース、スロー、キーはC!」オリーが、はじめて合わせるバンドに指示を出すときの口調が、耳の中に聞こえてくる。彼はいつもこの歌をEで歌っていたっけ。彼の死に際しての悲しみや何もできないもどかしさなど様々な感情が吹き出して、我を忘れて歌った。絶叫していたと、言った方がいいかも知れない。拍手の中、ステージを降りると、ビルがニヤニヤして私を出迎える。「オイ、若いの、ノドを大切にしろよ。」その時の私にはノドのことはまったく頭になかった。オリーの声が響いていた同じクラブに、オリーが歌っていた時と同じ緊張感(スリル)を取り戻したかっただけだった。

 サウス・バウンド・トレイン第二巻、今回は皆さんと共にオリー・ナイティンゲイルの人生を辿り、残された録音を聴くことによって、生涯歌い続けた彼の人生を祝いたいと思います。そして彼の声が、歌が、魂が、私たち一人ひとりの心に生き続けますように。


オリーのお墓にたたずむティーチャー。
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FROM BATESVILLE, MISSISSIPPI TO MEMPHIS, TENNESSEE : HIS GOSPEL ERAミシシッピ州ベイツヴィルからテネシー州メンフィスへ:ゴスペル時代

 1936年9月6日、オリーはミシシッピ州ベイツヴィルに生まれる。父はブラクストン・ウェブスター、母はグレンダ・ホスキンス・ジョーンズ。彼のミドルネームは、父のファースト・ネームから取られた。オリー・ブラクストン・ホスキンス。晩年に設立した彼の著作出版社ブラックスハウスの名前の由来は、このミドルネイムによる。親しい友人たちは、よく彼をオリー・Bと呼んでいた。綿花畑で、シェアクロッパーをしていた家族は、より良い生活を求めてメンフィスへ移り住む。

「ミシシッピでの少年時代は、どんな感じだったんだい?」
「素晴らしかったよ。みんな金は全然持っていなかったけれど、幸せだったよ。幼なじみの女の子と楽しくかけずりまわって遊んで、疲れたら家にでも納屋にでもに入って愛し合うのさ。」

 メンフィスで彼の家族が住んだのはディキシー・ホームズという、住宅地域だった。そこからオリーはレスター小学校を経て、メルローズ高校へ。歌が好きだった彼は、カーティス・ペインという友人と共に、ウェイサイド・トラヴェラー・ジュニア・ボーイズというゴスペル・カルテットを作って、いくつかの教会で歌っていたそうだが、このグループについては、これ以上のことはわかっていない。
 その後、彼は同じ地域に住んでいたウィリー・ニールとロイ・ニール兄弟と出会い、ゴスペル・ライター・ジュニア・ボーイズに参加する。彼らの義父は、イライジャ・ジョーンズ。ゴスペル・ライターズを30年代にはじめ、ゴスペル・ライター・ジュニア・ボーイズを1949年に作った彼らの指導者だった。ちなみに、このグループの女性版は、ゴスペル・ライター・ジュニア・ガールズで、後にソング・バーズ・オヴ・ザ・サウスとなる。


Gospel Writer Junior Boys (from the cover of Highwater LP 1002)


 メンフィスの教会や高校には優れた教育者がたくさんいた。ハーバート・ブルースター牧師と'HE'LL UNDERSTAND AND SAY WELL DONE'を書いたルーシー・E・キャンベル、そしてこのグループを直接指導したイライジャ・ジョーンズはその筆頭に数えられる。が、不思議なことに、多くのカルテット・シンガー達を育てたイライジャは、50年代半ばのちょうどこの頃、カルテット・シンギングの指導を突如止めてしまう。そしてまた不思議なことに、20年後の1976年、再び精力的な活動を開始するのだった。

 さて、イライジャの指導の元で力をつけてきた彼らは、初の黒人による黒人のためのラジオ局、WDIAに出演し、次第に人気を博するようになる。番組の企画で、彼らの新しい名前大募集コンテストを行った結果として、ディキシー・ナイティンゲイルズと改称する。当時、ディキシー・ハミングバーズとセンセイショナル・ナイティンゲイルズの曲を多くレパートリーにしていたことから、リスナーの一人が応募してきた名前だそうである。賞品ゴスペル・レコード25枚!


Dixie Nightingales (from the liner of ZU-ZAZZ ZCD 2019)

 当時のラジオの放送は、コマーシャルも含め、ライヴだったが、時に、それらのグループの人気のある歌を、放送中にレコード盤に録音して、繰り返し使われることがあったという。その音源は、ほとんどWDIAの引っ越しの際に、誤って捨てられてしまったということだが、一部が後にLP化され、日本ではCD化もされた。それが「ブレス・マイ・ボーンズ:メンフィス・ゴスペル・ラジオ、ザ・フィフティーズ」(P-VINE PCD-2527)で、ディキシー・ナイティンゲールズの'IN MY SAVIOR'S CARE'で50年代前半、すなわち、彼の10代後半の歌声が聴ける。


Bless My Bones (P-VINE PCD 2527)

 オリーの声は、歌の後半、バック・コーラスの旋律が変わるところ(1分49秒)から最後までの高い声のリード。このグループの録音は、WDIAのテスト・プレスは後3曲、他にペパーというレーベルに2曲、ナッシュボロに6曲ほど残されているが、私は聴いたことがない、残念!CD化の日を夢見ています。

 18才でオリーは3つ年下のロウズィー・リー・ジョーンズと結婚。彼女が12才の時にオリーが歌うのを見て、一目惚れをしたのだそう。ダイアン、ラシェール、ヴェニカと三人の娘に恵まれたころ、召集令状が来る。彼の配属先は厨房だった!後にザビアという息子が生まれるが、父オリーの作る料理、特にスウィート・ポテト・パイは忘れ得ぬ思い出だったそう。

 ASSASSINATION(暗殺)という、ケネディー暗殺をテーマにした曲を63年に書いたオリーは、ナッシュボロの社長、アーニー・ヤングに録音を申し入れるが、ゴスペルのマーケットで、このような歌が受け入れられるかどうか、と尻込みして断られる。「あの歌はナッシュボロで出すにはヒップすぎたんだ。」
 そして、スタックス傘下のチャリス・レーベルに移籍。録音されたものは、何故かKEEP ON TRYINGという一曲を除いて、すべてCD化されている。'DISTURB MY SOUL:GOSPEL FROM CHALICE(ACE CDSXD086)と、'FREE AT LAST:GOSPEL QUARTETS FROM STAX RECORDS' CHALICE LABEL(SPECIALTY SPCD-7067-2)という、二種類のまったく同内容だけれど、ちょっと音質が後者の方がいいし、解説もクリス・スミスが書いたものに、後者の方にはロブ・バウマンが書き加えをしている。特にその部分が生き生きしている。オリー本人への取材も行っている。


Free at Last (SPECIALTY SPCD-7067-2)


 時代とスタックス・レコーディング・スタジオという場所と、メンフィスという非常にヒップなサウンドを好む土地柄を反映してか、チャリス・レーベルのアレンジはソウルに近い。ブッカ・T&MGズのメンバーがバックを務めているとも、アイザック・ヘイズがオルガンを弾いているとも言われているが、確かなのは、バーケイズのカール・カニングハムがドラムを叩き、前述のASSASSINATIONで、ショットガンの音を模して、効果的なステアをきかせていること。この歌でのオリーの悲しみのこもったヴォーカルは特筆に値するだろう。

 このCDで未発表を含む9曲を聴けるようになったことは、大変嬉しい。SOMEBODY CALLING MY NAMEをオリー風にアレンジしたHUSH HUSH。深い悲しみをたたえたTHERE'S NOT A FRIEND。そしてI DON'T KNOWなど、当時シングルで発表されたものの他に、未発表だったものは、スローブルースのようなNAIL PRINT, ALL I NEED IS SUNSHINE IN MY LIFE。 ほとんどがオリーのモノローグで静かで美しいサーモネット(小説教風)のTHIS IS OUR PRAYER, 後にALL I FEEL IS LOVEとして生まれ変わる素晴らしいバラードのIT COMES AT THE END OF THE RACEの4曲。特にこの最後の曲は、一体何故お蔵入りしたのだろう?不思議なことに、この当時の録音が、イギリスのZU-ZAZZのコンピレーション'THE ASSASSINATION' (ZU-ZAZZ ZCD 2019)の中に4曲含まれていて、4曲中3曲までがチャリスで出されたものと同じ曲で、ライナーにもチャリスへ録音したものだと書かれているが、すべて別テイク!アカペラ・ゴスペル・シンギングが好きな人には、こちらの方がおすすめ。特に、チャリスの方に入っていない、ディスコグラフィーにも載っていないSAFETY ZONEでは、オリーの歌を特徴づける躍動感を堪能できる。私の愛聴曲。


The Assassination (ZU-ZAZZ ZCD 2019)

 このレコーディングの別ヴァージョンがどのような経緯によるのかをオリーにきこうとしたことがあるが、CDがどんどん出されても、本人に知らされもせず、ギャラも入ることがない状況に対する怒りで爆発してしまって、細かいことは教えてくれなかった。もちろん、彼のアタッシュケースには、これらのCDも入っていた。

「ティーチャー、こっち(プレイス2Bのドレッシング・ルーム)へ来い。缶詰のソーセージ食うか?」
「オリー、それ好きだね。タバスコかけるんだろう?」
「ゴスペルの時代にな、ヴァンに乗ってどこへでも行くから、旅行中は車の中じゃ火が使えないだろう?だから、こうしてタバスコをかけて辛くして、暖かい食べ物の替わりにしてたんだ。そうしたツアーはやらなくなったけれど、こいつを食う習慣は抜けないんだ。」
「方々に巡業に出ていたんだね。この間行った蛍がとんでるようなところにも、ゴスペル時代に来たって言ってたね。」
「どこへでも行ったさ。で、どこへいっても日曜の朝のWDIAの俺達の番組の時間には帰って来なきゃいけないんだ。それは大変だったよ。」
「それでゴスペルやめたの?」
「そうさ、やはり巡業の帰りだった。ヘトヘトで、そんなに働いてもポケットは空っぽさ。もうこんなのごめんだ!俺はセキュラー(世俗の)・ミュージックに転向するぞ!って宣言したんだ。」

 そこで、このグループはオリー・アンド・ザ・ナイティンゲイルズとなって、スタックスからデビューすることになる。この宣言は、スタックスのアル・ベルからの執拗なセキュラー・ミュージックへの転向勧告に応えてのことだった。


Disturb My Soul (ACE(Stax) CDSXD 086)

 このディキシー・ナイティンゲイルズには、テンプテーションズのデイヴィッド・ラフィンが在籍していたという。

「ああ。しばらくいて、デトロイトへ行ってしまったよ。」
「録音はしなかったんでしょう?」
「ああ、してないよ。でもな、ティーチャー。彼が俺のグループにいたときにやってたことは、テンプテーションズで彼がやってたこととは、較べものにならないくらい凄かったよ。」
「そんなに凄かったの?」
「オー、メン。」

 93年のある日、プレイス2Bに、セントルイスから来たという女性が来ていた。「彼女は、俺を手伝ってくれてるんだよ。俺は今、ミュージカルを書いているんだ。ファイヴ・ハート・ビーツのゴスペル・グループ版のようなミュージカルをね。暇を見つけてセントルイスの彼女のところに行って、彼女にタイプしてもらってるんだ。」オリーは夢を見るように言った。「昔みたいにね、一緒にこの仕事に取り組んで、疲れたら愛し合ってね、しばらく眠ってまた取り組むのさ。そしてまた疲れたら愛し合って...その繰り返しさ。旧き良き時代のようにね。」

(続く)


オリーのお葬式プログラムより。左ページ右上にティーチャー夫妻とオリーの写真が。


Home South Bound Train 高橋 誠

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