5月最後の月曜日と言えば、アメリカの数少ないナショナル・ホリデーの一つ、メモリアル・デーです。ぼくにとっては今回で12回目(13回目だったかな?)のメモリアル・デーとなる訳ですが、一体何を記念している祭日なのか未だによく知りません(注1)。
しかしこの祭日は、なかなか騒がしい祭日で、街のあちこちで退役軍人達が勝利宣言でもするかのようにパレードを行い、ミシガン湖やシカゴ・ダウンタウン上空にはジェット戦闘機が何機も黒い影を連ねて現れ、見物客はそのジェット戦闘機が轟音を轟かす度に喚声を上げる訳です。
まだ他国に攻め込まれ、蹂躙された事の無い幸せなこの国の国民は、戦勝気分をほんの少しでも味わう事で自分の国の強さを再確認しているのかも知れませんね(笑)。
巷では、今話題の映画「パール・ハーバー」が上映されています。日本軍のゼロ戦がアメリカ軍に落とされる度、映画館の観客は拍手を送るそうです(笑)。「日本は又いつ攻めてくるかもしれないぞ!油断するな!」と幾つものフィルターを通してメディアからある種の人達にだけ理解出来るメッセージを垂れ流しています。そんな中、肩身の狭い思いをしているのはぼくだけでしょうか?(笑)。
そんな折、オーティス・ラッシュさんが、ジャパン・ブルース・カーニバルに出場したと聞きました。随分前に健康面で体調を崩していると聞いていましたので、嬉しく思いました。本当におめでとうございます。
ぼくにとってのオーティス・ラッシュさんのイメージを一言で言えば、軽く聞こえるかもしれませんが、とにかく「カッコイイ!」の一言ですね。爪楊枝を噛みながら、スロー・ブルースを気だるく演奏している姿。ビリヤード台に向かう目線。いつも穏やかで、よく響く優しい声。カウボーイ・ハットにカウボーイ・スーツ...。このごろは黒の皮ベストがトレード・マークのようになっているようですが、個人的には、カウボーイ・スーツ姿が一番似合っているように思います。
オーティス・ラッシュさんを最初に観に出かけたのは89年の事でした。惜しまれながらも2年位前に閉店してしまった「B.L.U.E.S.
etc」でした(注2)。当時の「B.L.U.E.S. etc」のラインナップは、いま想い返して見ても大変なビック・ネーム揃いでした。週末になるとクラレンス
"ゲイトマウス" ブラウン、マット "ギター" マーフィー、ロウエル・フルソン、アルバート・キング、Jr.
ウェルズ...と毎週末やって来るのですから(笑)。それに付け加えて、ビリー・ブランチ & サンズ・オブ・ブルーズが毎週日曜日に演奏していました。彼らは恐らく7.8年間はレギュラー・バンドを続けていたでしょう。以来もう数え切れない程通いつめたものでした。
オーティスさんがシカゴで演奏する際は、大抵は「B.L.U.E.S. etc」で演奏する事が多かったものですから、以前はよくミシガン湖を見下ろす高級コンドミニアムにお住いのオーティス・ラッシュさん宅にお邪魔して、オーティスさんのアンプを運んだり、オーティスさんとマサキ・ラッシュ夫人の送迎やらお手伝いさせて頂いたものです。
いつだったか、オーティスさんのお宅に立ち寄った際、いろいろなギター・メーカーからオーティスさんの所へ届いたギターの一本をぼくが遊びで弾いていると「お前はギターが弾けるのか?」と訊かれた事がありました。ぼくは恐る恐る「いいえ。ぼくはハモニカを少しやります。しかし、あなたが弾くギターのようにハモニカが吹けたらいいなと思って、あなたの真似事をしていただけです」すると「弾いてみろ」と真顔で言うので弾いてみました。すると「ノー、そうじゃない。こうやるんだ。よく見ているんだ」と親切に弾いて見せてくれました。それから、しばらく経って「お前は、いい耳を持っている。もう、出来るようになったじゃないか。続けるんだ」と言われた事がありました。オーティスさんは普段静かなだけに、そう言う時はどこか怖いような気にさせられたものでした。
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Any Place I'm Going
(House Of Blues Music H.O.B. 51416 1343 2) |
以前、オーティスさんのレコーディングにお供した時のことですが、バンドの連中やコーラスの人達が、曲について「ああでもない、こうでもない」とやっていると、オーティスさんが静かに一言「こんな感じで出来るかい?」とコーラスの女の子に歌ってみせました。すると、スタジオ内が一瞬静まり返った後、全員「OK、それで行こう!」と言う事になった事がありました。それでその日のテイクは一発きり。ぼくは傍で見学していて、オーティスさんの事を「プロ・ブルース・マン」だと痛感したものでした。
また、ある夜「最近、ロードに出ていて忙しいそうじゃないか?調子はどうだ?」と訊かれましたので、ぼくは「そんな事もありません。未だに一晩25ドルで演奏するのも拒みません。ビルを払うのがやっとです」と答えました。すると「そうか、私も昔は25ドルで演奏していたものさ(笑)。しかし、昔セントルイス(ミズーリ州)で私のアンプ運びをやっていたアイク・ターナーや、私のバンドでセカンド・ギターを担当させていたスティーブ・ミラー(スティーブ・ミラー・バンド)なんかは、今じゃどうだ、私よりも大金を稼ぐようになった。当時、私は連中を一度も雇った覚えはなかったけどな(笑)」とこんな調子です(笑)。
オーティス・ラッシュさんとの会話はいつもこんな具合で、現在のロック界やブルース界のビッグ・ネーム達の名前が彼の口から何の飾り気もなく無造作に出てきたりします。ぼくは、ただただ「へぇー、そうでしたか!」と連発するだけでした(笑)。
オーティスさんを尊敬するミュージシャンも多岐に渡り、ジミー・ペイジやロバート・プラント(レッド・ツェッペリン)もブルース・クラブの楽屋にまで現れたりした事もありました(ぼくは、数人のボディ・ガードに守られてやって来たこの汚い格好に変装した2人の事を当時、全く知りませんでしたが...)。
それから、もう随分前になりますが、バディ・ガイの店で故アルバート・コリンズさんとバディ・ガイ & Jr. ウェルズ・バンド、それからオーティス・ラッシュさんのバンドによるビデオのライブ録音があった時には、ぼくもオーティスさんとマサキ・ラッシュ夫人と共にテーブルに同席させて頂きました。その夜のイベントの参加者でもありオーナーのバディ・ガイさんは、ぼく達がテーブルに着くのを待っていたかのようなタイミングで、ウェイトレス2人を従えてぼく達の座るテーブルにまで現れました。そして、バディさんは回りの観客の目を憚る事もなく「みなさん、よく来てくれました。今夜は大いに飲んで食べて下さい、今夜は全て私の奢りです(笑)!」と言って、オーティスさんに近づき昔話を始めていました。ぼくは、オーティス・ラッシュさんとマサキ・ラッシュ夫人のお供をしていてこう言う光景によく出くわしたものです。
ぼくは、オーティスさんの歌やギター・プレイについて、いまさら長々と書くつもりは毛頭ありません。オーティスさんは演奏が終わった後、サウンドや店のスタッフの一人一人にチップを手渡すのですよ!ぼくはオーティスさんの他にそんな事が出来るブルース・マンを見た事がありません。オーティスさんは、ぼくのような駆け出しがどうこう言えるようなプレイヤーとはスケールが違います(笑)。ただ言えるのは、オーティスさんの演奏にはブルーズが溢れ出ています。何度聴いても興奮させられます。何度繰り返し聴いても...。
ぼくはオーティスさんからいろいろな事で影響を受けています。例えばビリヤード。何故ぼくが、ビリヤードに凝り出したか?それは、オーティスさんとマサキ夫人からの影響です。ぼくは、二人にいつもヤッツケられてばかりでした。オーティスさんのバンク・ショットの切れとマサキ夫人の頭の回転の速さにはそう簡単には敵いませんが、また是非対戦させて頂きたいものです(笑)。
江戸川スリムのお節介注釈
(注1) Memorial Day
日本語にするとすれば「戦没者記念日」とでも言うべきか。南北戦争後、両軍の戦士の墓に春の花を飾ったのが始まりで、1868年に祖国防衛にあたった戦士の墓に、花を飾る布令が出され公休日となった。この日は各地で軍隊や退役軍人のパレードが有る。
また、普通の家庭の人々も亡くなった家族の墓参りのために親戚が集まり、各地の一般の墓地も、参拝者の飾った花で埋まる。ちょうど日本で言う「お盆」の様な性格も持ち合わせている。
私も初めてアメリカに行ったときに、何の記念日だかさっぱり判らなかった。
(注2) B.L.U.E.S. etc
全くの余談になるが、私がわびちゃんと初めて会ったのも、ここB.L.U.E.S. etc。J.W. ウイリアムスのステージにシットインして"Sweet
Black Angel"を歌っていた。その時の感想は「面白い(個性的な)歌い方をする人だなあ。ハープもダウンホームだなあ。珍しいタイプの人だなあ(笑)」。
その時は、声を掛けることもなかったが、10年後にホームページ運営のお手伝いをさせて貰うなんて想像もしていなかった。
オーティス・ラッシュさんの紹介については、今さら私がここで書くことはありません。充実したホームページが沢山ありますので、そちらを参考にして下さい。
Otis
Rush Disk Guide (ブルース銀座)
Otis
Rush Japan site
ALL YOUR LOVE BLUES CLUB
King Hand Delta
単身赴任さんのオーティス・ラッシュ・ライブレポート
厚木ファッツさんのオーティス・ラッシュ体験記
オーティス・ラッシュはこれを聴け!!(月刊ネスト)
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