Kenny Brown and 井村タケシ

(2003年2月1日記)

夜の10時すぎに、高速道路I-90を走りながら見え隠れする銀行の電光掲示板に眼をやると、雪まみれになった [9] と言う数字が見えました。と言う事は摂氏で言うと-10度位かな? 別にここシカゴでは大騒ぎする程のこともありません。
それから、この月曜日はアメリカ黒人の自由の為に勇気を持って戦い、そして暗殺された、故マーティン・ルーサー・キング牧師の誕生日な訳ですが、こちらアメリカではそれも、同じく別に大騒ぎする程の目立った休日でもありません(笑)。
と、そんなことを考えながら、高速道路を下りるとやがて目的地の「DOUBLE DOOR」に着きました。
実はこの店、シカゴでは結構いつも話題になるライブ・ハウスなのです。と言うのも地球一有名で偉大なロック・バンドROLLING STONESのワールド・ツアーの初日はいつもシカゴから始まるそうで、ワールド・ツアーの前日にはこのライブ・ハウスにROLLING STONESが皆揃って飛び入りを果たすとか。ROLLIG STONESとシカゴと言う街にはそれは深くて長い繋がりがあるわけです。しかし、恥ずかしい事にぼくは今夜この店に初めてやって来ました。

店に入るなり顔じゅうピアスで穴だらけの若い男と、セキュリティー・ガードなのか(?)お相撲さんか(?)と間違えるほど大きな男が「今夜はバンドが3つだよ。$10だよ」って声をかけてきました。ぼくは「バンドには興味が無いんです。外があんまり寒いんで、ただ、バー・カウンターの端に座らせてくださいな。一杯やりたいだけなんです」と冷やかしながら、名前を告げて、中へ入れてもらいました。
ステージでは、バンジョー、アコースティック・ギター、ドラムとウッド・ベースという4人編成のブルー・グラスとカントリーとロック・ミュージックをどうにかした?ようなバンドが良い感じで演奏をしていました。ブルー・グラスも進化しているんです。

今日のお目当てはKENNY BROWN (注1)。恥ずかしながら、ぼくには全く馴染みのない人の名前です。ノース・ミシシッピーからやって来たそうです。
その彼らのベース・プレイヤーから連絡を貰ったのは、1週間位前でした。現在このKENNY BROWNとの活動をメインにしてメンフィスに住み音楽活動を続けている、ベース・プレイヤーのタケシ・イムラさんからでした。彼に会って「あれは、いつだったかな?」と訊いてみると「4年前です。ビール・ストリートで......」と返って来ました。それで思い出しました。

その頃、ルイジアナのラリー・ガーナーさんのレコーディングに参加するために、シカゴのディック・シャーマン(プロデューサー)さんと二人でメンフィスのスタジオに入った時分でした。しかし、考えてみるとそれも、もう、随分前の話になります。
ディックさんは、ぼくを乗せてルート57をメンフィスに向け8時間も南下する間いろいろなブルース・マンに纏わるエピソードを聞かせてくれたものです。
例えば、マジック・サムがライブをする時に彼はディックさんのところにギターを借りにきたとか、アルバート・コリンズの録音風景やその時アルバート・コリンズが使っていたフェンダー社のスーパー・リバーブ・アンプを所有しているとか、オーティス・ラッシュさんが4×10ミュージック・マンのアンプからどうしてBoogieのアンプに鞍換えしたのか、とか(笑)。
しかし、ぼくが一番よく覚えているのは、あの静かに語るディックさんは、結構スピード狂だと言う事でした。ディックさんはどれほどトヨタ車の性能は優れているかを語り4時間位走った頃、お巡りさんにスピード違反で止められてしまいました。結局、結構な金額になる違反切符を切られましたが、しかし、その時も彼は静かに「心配はいらないんだ、これも必要経費にするから......」と洩らした事です(大笑)。おっと、逸れてしまいました。

それでそのメンフィスのビール・ストリートに暇潰しがてら、夜になると皆でJAMでも何でも、とにかく飛び入りに出かけた時、その内のSam Taylorというケニー・ブラウンの従兄弟のバンドにベースで参加していたタケシ・イムラさんを見かけたのでした。太くて、スムースなラインが印象的でした。彼がメンフィスに住むようになったキッカケはやはりブルースだったそうです。
出身地の姫路時代からブルースが好きだったタケシ・イムラさんは、阪神大震災がきっかけで渡米。2年ほど先にメンフィスに来ていた志水アキラ氏を通じてアール・フッカーのドラマーで知られるボビー・リトル(注2)と知り合い、彼のバンドのザ・カウンツ・オブ・リズムで2年半程を過ごし、現在のルーム・メートでもあるメンフィスでは有名なハモニカ吹きのビリー・ギブソン(注3)らと活動していたそうです。


登場したKENNY BROWNのバンドは3人。スライド・ギター&Vo.のKENNY BROWN。彼はエレキ・ギターと1958年製ギブソンのラップスティールギターを、今ではちょっと珍しいMusicmanアンプの2×12に繋いでいました。
ドラムのセドリック・バーンサイド(R.L. バーンサイドの孫)はフルのドラム・セットの中で顔も隠れてしまうほどです。それからタケシさんはベース・プレイヤーには人気のあるMusicmanの黒のスティングレー・ベースでした。彼らはとてもシンプルな編成です。一体、どんな音を出すのか?と思っていると夜中の12時からやっと演奏が始まりました。マディの「キャット・フィッシュ・ブルース」や「ルイジアナ・ブルース」やらマジック・サム辺りの「ブギ」と50年代、60年代のシカゴ・ブルースの名曲を基盤にしていましたが、全くスローダウンはさせずにミシシッピー調(?)の強烈なデルタ・ブルースのビートを攻撃的にスピーディーに、そしてドラムとベースとスライドが音を埋め尽くす....。
これが、ぼくの感想でした。しかし、それでいて全然耳障りな気もしません。彼らはぼくにとって、確かに新しいブルースのスタイルでした。彼らとジャムして思ったのですが、随分昔、ぼくは、アーカンソーかどこかで、ジェームス・サン・トーマスさん(注4)やセデル・デイヴィスさん(注5)というカントリー・ブルースのギター・プレイヤーとジャムをした時に感じた物と同じ物に触れた気がしました。何とも言いようの無い昂揚感のある感触です。

演奏後、KENNY BROWNのメンバー達と雑談している時に聞いたのですが、彼は以前、R.L. バーンサイド(注6)と活動していたそうです。しかし、その バーンサイドも高齢を理由にツアーを敬遠するようになり、ブッキングしても直前にキャンセルするような事もあったようです。現在ではバーンサイド自身がリタイアしてしまったようです。ぼくとしては、ちょっと惜しい気がしますが......。
2月からはジョージア"で活躍していると言う「ワイドスプレッド・パニック」というバンドのキーボード・プレイヤー、ジョジョ・ハーマンがKENNY BROWNと同じレコード・レーベル「ファット・ポッサム」と契約したとかで、そのジョジョ・ハーマンとルーサー&コディ・ディキンソン兄弟 (ノース・ミシシッピ・オールスターズ)にC・ドーグ(ベース)を加えた四人組ユニット「スマイリング・アサシン」の4週間 (20都市)ツアーに前座として同行するそうです。

ぼくが別れ際、タケシさんに「どんな、プレイヤーになりたいのか?」と訊くと、彼は「別に目標はありません。自分に出来る事は限られている。その中で自分のプレイをするだけです。」と返ってきました、まるでオリンピック選手のような答えでしたが、1970年生まれにしては、なかなか好感が持てる青年です。もしかすると、これが、彼がメンフィスで覚えた一番大切な事だったのかも知れません(笑)。


江戸川スリムのお節介注釈

(注1) Kenny Brown - by 井村タケシ

90年代のブルース・シーンにおいて、R.L. バーンサイド、ジュニア・キンベロら北ミシシッピ・ブルースマンの「再発見」は実に衝撃的なものだった。それまでは地元のジューク・ジョイントや個人パーティー、または自分の家のポーチで主に演奏していた彼らが世に広まった発端は、ロバート・マギーとロバート・パーマーによるドキュメンタリー映画「ディープ・ブルース」(1993)。加えてミシシッピ州オックスフォードを拠点とするファットポッサム・レコードとロバート・パーマーの手によるジュニア・キンベロ(1998年死去)1992年作 "All Night Long"とR.L. バーンサイド1993年作 "Too Bad Jim"の成功により、更にノース・ミシシッピ・ブルースが注目を浴びるようになった。彼らの音楽の特徴は、同じリフを延々と弾き続ける事によって生み出される不思議なグルーブである。それは今日のハウスやミニマルやテクノ、またはパンク・ミュージックとある種通じるものがあった。そこに着目したパンクバンド、ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンとR.L. のコラボレーション盤"A Ass Pocket of Whiskey"(1996)、続く"Mr. Wizard"(1997)は、正にその「共通項」から生まれ出た異質のアルバムである。この二枚のアルバムによって、今までブルースとは無縁の若年層ロックファンにまでR.L. バーンサイドの名が知られることとなった。そのR.L. の傍で、30年間サイドマンとして活動してきた一人の白人ギタリストがいる。ステージ上でR.L. がいつも「俺のAdopted Son(養子)だ」というジョークと共に紹介する、その男こそがケニー・ブラウンである。

1953年の7月5日、アメリカ独立記念日の翌日にケニーはアラバマ州セルマの空軍基地で生まれた。彼が生まれて半年後、両親ハワード&パティ・ブラウンは故郷であるミシシッピ州に帰ることに決める。そして田舎町ネスビットにおいて、ブラウン家は数少ない白人家族の一つとして暮らしはじめた。そして5歳になった時、ケニーは自分の家の建っている丘から道一つ隔てた丘、その丘の向こうから流れてくる不思議な音楽を耳にすることになる。少年はポーチに腰掛けじっと耳を澄まし、丘の向こうから立ち昇る煙を眺める。横笛の陽気なメロディー、太鼓のリズム、そしてギターの音色。それはいつもラジオで聴いている音楽とは全く違うものだった。全く違う「言葉」で彼に話し掛けてきた。この黒人家族達のピクニックから聞こえてきた音楽が与えた強い衝撃が、後に彼をブルースへと導くきっかけとなる。ガス会社で働く父親は音楽とは縁がなく、弟のテリー、妹のアレクサも兄とは興味を異にしていた。母親は教会でピアノを弾いていたが、ブルースには関心がなかった。結局ブラウン家の中でブルースに興味を持ったのはケニーのみであった。

10歳の時、ケニーはコミックブックの裏表紙にあった広告「草花の種を売ってギターをもらおう!」を見つける。彼は自転車に乗って野菜と花の種を町中売りまわり、ポイントを稼いでとうとうそのプラスティック製のギターを手に入れてしまった。最初はレッスンを受けようとしたが、どうしても譜面を読むのが好きになれずやめてしまう。翌年母親から本物のKayギターをプレゼントされてからも、しばらく独学で習う日々が続いた。しかし12歳の時、隣の小作人小屋にベテランギタリストのジョー・キャリコットが越してきて彼に新たな道が拓ける。それからジョーが72歳で死ぬまでの5年間、ケニーはジョーの家のポーチで彼からレッスンを受け続けた。現在"スライドの達人"と呼ばれるケニーに、初めてスライド奏法を教えたのもジョーだった。ケニーはジョーが大好きだった。黒人老ギタリストにとっても、その白人少年の弟子が可愛かったに違いない。ジョーの奥さんによると彼の最後の言葉はケニーに宛てた伝言だったそうだ。「ケニー、気をつけて運転しろよ。いつまでもいい子でな」

この頃ケニーはボビー・レイ・ウォルトンからより詳しくスライドを学び、ボビーの友人でフレッド・マクダウエルと一緒に演っていたハーピスト、ジョニー・ウッドからもブルースの手ほどきを受けていた。しかしケニーにはジョーに代わる新たなギターの師が必要であった。そして近くの町コールドウォーターにて、彼に運命的な邂逅が訪れる。R.L. バーンサイドとの出会いである。18歳になったケニーと49歳のR.L. は出会ってすぐに打ち解け、それからは週に2、3日はR.L. の家のポーチで、仕事帰りに一緒に演奏するようになった。あまりに楽しくて、いつも夜中の2時頃までやめられない。R.L. はコンバインの運転手、ケニーは建設会社で働いていたので朝は早く、時には2、3時間しか寝られない日もあった。この頃からケニーは地元のジューク・ジョイント(黒人向けの大衆酒場)でたった一人の白人としてセッションに参加するようになり、多くの地元黒人ブルースメンと交友を深めるようになる。そしてついにR.L. はケニーをサイドマンとしてジューク・ジョイントやパーティーに連れて行くようになる。「Adopted Son」として。  

ケニー、ジョー・キャリコット、そしてR.L. バーンサイドにまつわる奇妙な話がある。ジョーが唯一残したアルバムは1968年Arhoolieから出たコンピレーションアルバム"Mississippi Delta Blues"。ジョーは片面だけで、もう一方にはR.L. の初録音が収められていた。後年ケニーはそのレコードを友人の家でたまたま見つけて驚いたそうだ。自分の二人の師匠が偶然一枚のレコードで「競演」していたからだ。実は68年当時ケニーはまだR.L.と出会っていない。ジョーもR.L. と生前に一度も会ったことがない。そしてライナー・ノーツにはこう書いてあったそうだ。「・・・私がジョー・キャリコットの家を訪れた時、10歳位の白人少年が彼にギターを習っているところだった・・・」この3人を偶然結んだ一枚のアルバム。ケニーはそのアルバムに何か運命的なものは感じたという。

そして20年の歳月が流れる。ブルース・ワトソンとマシュー・ジョンソン創設の新興レーベル、ファット・ポッサム・レコードとの出会い、前述の「再発見」ムーブメント、1994年よりドラマーをR.L.の娘婿カルビン・ジャクソンから、カルビンの息子のセドリック・バーンサイド(当時まだ14歳)に代えたトリオでの全米・海外ツアー(日本も含む)、と1990年代になりR.L.とケニーをめぐる環境は大きく変わっていった。1990年代初期までは、自分の建設会社を経営しながらの音楽活動であったが、40歳の誕生日を機にケニーは音楽活動に専念する事を決意する。R.L.との活動と平行して、ジュニア・キンベロ、ポール"ワイン"ジョーンズ、セデル・デイビス、エリック・アンダーソン、そして彼の子供の頃からのアイドル、デール・ホーキンスなどの録音に参加。1996年にはそのデール・ホーキンスのプロデュースによって初ソロアルバム "Goin' Back To Mississippi"(Plum Tone Music)を発表する事になる。そのアルバムは配給こそ少なかったが、多くの人々から好意的に受け入れられた。

彼の海外とのコネクション、特にスウェーデンとの関係は興味深いものがある。それは1988年のKing Biscuit Festival(アーカンソー州へレナ)の帰りに、一人のヒッチハイカーを拾った事に由来する。彼はスウェーデン人のブルースファンで、以来何年か置きにケニーを訪ねるようになる。ある日彼からスウェーデンのブルースマガジンJeffersonが送られてきた。そこにはミシシッピのジュークジョイントを訪ねたファンによるレポートが載っていて、その中にケニーの事が書いてあった。それがきっかけで彼はスウェーデンを訪れることになり、1991年には第一回Amal Blues Festivalにモジョ・バフォードと出演した。ケニーはそのフェスティバルに1993年、2001年、そして2002年と出演している。

現在ケニーは、ミシシッピ州ポッツキャンプにある牧場に住んでいる。1999年に以前のバックバンドを解散し、新しくセドリック・バーンサイドと日本人ベーシスト、タケシ・イムラのトリオでソロ活動を始めたケ二ー。2000年9月から始まったファット・ポッサムでの新作レコーディングも2002年9月にようやく終え、そして2003年2月11日、遂に新譜"Stingray"が誕生した。自らのトリオに加え多くの友人達がゲスト参加した新作には、ケニー・ブラウンの魅力がぎっしりと詰まっている。

最後に、2002年のMemphis In May Music Festival でのボニー・レイットのインタビューを引用したい。

「メンフィス・エリアで誰と一緒に演奏してみたいですか、ボニー?」

「そうね、苗字は忘れたけどミシシッピのケニーってギタリストと演りたいわね。ほら、スライド・ギターの上手な・・・」

イムラ タケシ 2/12/2003 

(一部Big City Blues誌 2002Feb./Mar.号 "Kenny Brown /Blues in his soul" by Jo Ann Korczynska、及び"Children of the Blues: 49 Musicians Shaping a New Blues Tradition" by Art Tipaldi /Backbeat Books /San Francisco / Feb. 2002のKenny Brownの項より筆者訳出)

Goin Back to Mississippi
(Plumtone PT 711)

Stingray
(Fat Possum 80344)

その他の参加作品

Too Bad Jim / RL Burnside (Fat Possum)
Sad Days, Lonely Nights / Jr. Kimbrough (Fat Possum)
Mule / Paul "Wine" Jones (Fat Possum)
Ass Pocket of Whiskey / RL Burnside & Jon Spencer (Fat Possum)
Mr.Wizard / RL Burnside (Fat Possum)
Some Things Just Haven'tWorked Out / Jr. Kimbrough (Fat Possum)
Mucho Mojo / Various Artists (Fat Possum)
The Horror of it All / Cedell Davis (Fat Possum)
Born in Louisiana / Dale Hawkins (Goofin)
Come On In / RL Burnside (Fat Possum)
Not The Same Old Blues Crap / Various Artists (Fat Possum)
God Knows I Tried / Jr. Kimbrough (Fat Possum)
Wildcat Tamer / Dale Hawkins (Mystic Music)
Tangled Up In Blues / Compilation (House of Blues)
You Can't Relive the Past / Eric Anderson (Appleseed)
Wish I Was in Heaven Setting Down / RL. Burnside (Fat Possum)
Burnside on Burnside / R.L.Burnside (FatPossum)

(注2) Bobby Little - by 井村タケシ

本名Ronald Bluster。1938年、アラバマ州ジェファーソン郡出身。
十代をカルフォルニアで過ごしDoo-Wopシンガーとして音楽の世界に。軍隊退役後1950年代にシカゴに移り、Earl Hookerの伝説のバンドThe Roadmastersにドラマーとして参加。他のメンバーにはA.C. Reed、Bobby Fields、Moose John、Ernie Johnson、Jack Meyersがいた。
その頃Fred Below、Odie Payne、S.P. Learyなど当時シカゴで活躍していたドラマーに師事する。
華やかなキャリアが約束されていたにもかかわらず、彼は1960年代にシカゴを去りミシシッピ州に移る。以来グリーンビルのラジオ局WESYで20年間DJとして人気を博す傍らプロモーターとしても活躍する。
1990年代に入ってギタリストJohnnie Billingtonと若きハーピストBilly Gibsonとバンドを結成したのを機にカムバック。
1995年にはBilly Gibsonの主宰するNorth Magnolia Musicより"Bobby Little featuring The Counts of Rhythm"を発表。メンフィスを拠点に精力的に活動するもセカンド・アルバム製作中にBilly Gibsonと決別しアルバムも完成しなかった。
その後2000年までメンフィスで細々と活動を続けるが、結局アラバマの弟のところへと去っていく。彼のドラムセットはBilly Gibsonの家の物置に残されたままである。
ちなみにBobby Littleという名はMagic Samから与えられたという。「Earl Hookerを階段から突き落とした男」として一部で伝説になっているが、本人曰く「あれは事故だった」そうだ。
「でもEarlは金払いが悪かったんでよく喧嘩はしたな(笑)」

イムラ タケシ 2/12/2003

Earl Hooker
Blue Guitar

(P-Vine PCD-54045)

Earl Hooker
Play Your Guitar, Mr. Hooker

(Black Top CDBT 1093)

Bobby Little
The Counts Of Rhythm
(North Magnolia Music NMMC 002)

(注3) Billy Gibson - by 井村タケシ

メンフィスは「ブルースの故郷」と呼ばれている。ビールストリートを訪れた旅行者は、その意味を肌で感じることができるであろう。しかしこの街から、多くの素晴らしいジャズ・ミュージシャンが誕生したことはあまり知られていない。ブルーノートからデビューしたピアニスト、フィーナス・ニューボーンJr. を始め、彼の弟カルビン・ニューボーン、ジミー・ランスフォード、ジョージ・コールマン、フランク・ストロジャー、ブッカー・リトルなど枚挙にいとまがない。そしていま、ビリー・ギブソンの登場である。彼自身はこれら偉大なジャズメンと一緒にされるのを躊躇するかもしれない。しかし彼には疑いようのない才能がある。独特のボーカル・スタイル、そしてピート・ぺダーソン直伝のハーモニカを武器に、彼は確実にジャズ・ミュージシャンとしてのキャリアを築きあげている。

ミシシッピ州クリントンで生まれ育ったビリーは、幼い頃からハーモニカを吹き始めた。「安かったし、とにかく簡単に音が出せたからな」彼は笑いながら回顧する。高校卒業後ビリーはクラークスデールに向かい、そこでブルース・ギタリスト、ジョニー・ビリントンとドラマー、ボビー・リトルのバンド、ミッドナイターズで演奏するようになる。「ボビーとジョニーには色々教えてもらったよ。ミュージシャンとしてどう生きていくかをね」

1990年代初期、ビリーはミシシッピを後にしメンフィスへ、そしてビールストリートへと活動の場を求めた。「ビールストリートは"ブルース大学"だよ」長年ビールストリートの多くのクラブで演奏しつづけた彼はそう語る。「客寄せ、マネージメント、バンドの扱い方・・・若いミュージシャンにはそこで見ること、聞くことすべてが勉強になる。だからミュージシャンにとって大学みたいなところさ」

メンフィスでビリーはジャズ・ハーモニカ・プレイヤーの草分け的存在、ピート・ぺダーソンに師事するようになる。ビリーはピートから、いかにジャズをハーモニカで表現するかを学ぶ。「彼のお陰で新しい世界が拓けた。僕は演奏者としてもっと自分の楽器に、ハーモニカに”近づき”たかったのさ。ピートの下でそういう事を学べたのは、僕にとって素晴らしい経験だったよ」

ビリーは1994年にインディペンデント・レーベル、ノース・マグノリア・ミュージック・カンパニーを興し、以後数多くの地元ミュージシャンのアルバムをプロデュースした。例えばボビー・リトル、ジェイソン・リッチ、ミカエル・サンタナ、エディー・セバロスなどがそれに含まれる。1996年には初のソロ・アルバム"Billy Gibson"を発表。このアルバムではブルースとジャズの割合が半々であったが、続くインストルメンタルアルバム、"In A Memphis Tone"(1997)では更にジャズ色が強くなった。このアルバムではチャーリー・ウッドのオルガンとビリーのクロマティック・ハーモニカの音色がうまく作用しあい、独特の雰囲気を醸し出している。師匠ピート・ぺダーソンとの共演でも遜色なく吹ききり、ビリーにとって一つの区切りとなる作品であった。

しかし1997年になると、彼はまた違った道を歩み始める。四人組ロック・ブルースバンド、ジャンクヤードメンを結成し地元レーベル、インサイド・サウンドと契約することになったのである。同レーベルから"Scrapheap Full Of Blues"(1998)、"Keep on Workin'"(1999)の二枚を発表し、キング・ビスケット・ブルースフェスティバル、メンフィス・イン・メイ・ミュージック・フェスティバルへの出演を含め、南部を中心にツアーにまわる日々が三年間続く。この間にビリーはノース・マグノリア・ミュージックをやめてしまう。人気の高いジャンクヤードメンであったが、諸事情により2000年にあえなく解散してしまった。

"The Nearness of You"。彼の2001年にリリースした新譜はセンチメンタルな空気の漂うジャズアルバムの良作である。現在30代であるビリーは、ボーカリスト&ハープ・プレイヤーとして第一線で活躍するミュージシャンに成長した。1999年にはハーモニカ・メーカーの老舗、ホーナーの認定アーティストに加えられ、更にその年から4年連続でMemphis Premier Player Awards by the National Academy of Recording Art & Science(グラミー賞の地方セクション)の年間ベスト・ハーモニカ・プレイヤーにノミネートされる。そして今年2002年にはとうとうその賞を受賞するに到った。ビリーは自身のジャズ・トリオやいくつかのブルース・バンドで演奏する傍ら、インサイド・サウンドにおいてプロデューサーとしても精力的に活動している。元キャンド・ヒートのベーシスト、リチャード・ハイト(2001年死去)と元ヤードバーズのドラマー、ジム・マッカーティーによるMcCarty-Hite Projectの"Weekend in Memphis"(2000)の共同プロデュースを手がけ、現在も幾つかのプロジェクトに携わっている。このように、突出したハーモニカ・プレイヤーというだけではなく、ミュージシャンとして常により良い音楽を---自分の為だけでなく、他のミュージシャン達の為にも----ビリー・ギブソンは創りだそうとしている。

------以上はインサイド・サウンド発行のオフィシャル・バイオグラフィーに僕が一部加筆したものである。僕が最初に彼に出会ったのは1994年、最初にメンフィスを訪れた時だ。当時彼は、ビールストリートにあるブルース・シティ・カフェで毎週水曜日に行われていたジャム・セッションのホストをしていた。そこで友人のアキラ君が紹介してくれたのが最初だった。1996年にこちらに移り住んでからは、ボビー・リトルのバンドで約一年半ほど一緒に活動した。1997年の一年間はルームメイトでもあった。その後3年近く疎遠になり、たまに単発の仕事で会うぐらいの仲だったのだが、昨年2001年よりまたルームメイトになって今に到る。方向性の違いから一緒にやることも無くなったが、彼の更なる活躍を友人として切に願っている。

イムラ タケシ 2/12/2003

Billy Gibson
(North Magnolia Music)

In A Memphis Tone
(North Magnolia Music)

The Nearness Of You
(Inside SOU-0000512)

(注4) James "Son" Thomas

1926年、ミシシッピー生まれ。1968年が初録音という遅咲きのブルースマンだ。ミシシッピー・デルタのディープなブルースを今に伝える貴重なブルースマンとして人気が高かったが、1993年に死亡。

(注5) CeDell Davis

1927年、ヘレナ生まれ。小児麻痺が原因で指が変形しており、そのためにバター・ナイフを弦に滑らせるという変則的な奏法を生み出した。ロバート・ナイトホークと活動を共にしたり、キング・ビスケット・タイムに出演するなどの経歴を持つが、こちらも初録音は1976年と遅咲き。1990年代以降、ファット・ポッサムやファスト・ホースからアルバムを発売し、根強い人気を保っている。
一緒に演奏したWABI氏によると、ハモニカの音がかき消されるほどエネルギッシュなヴォーカルだったそうだ。

(注6) R.L. Burnside

1926年、ミシシッピー生まれ。ミシシッピーでもデルタから遠く離れたヒル・カントリーと呼ばれるノース・ミシシッピーの出身で、長い間近所の人たちのためだけに演奏を続けてきた。
1968年に初録音を行い、ファット・ポッサムでブレイクした後も、ファイフ・バンドの流れをくむ独特なリズムでワンコード・ブルースを演奏し続ける。


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