夜の10時すぎに、高速道路I-90を走りながら見え隠れする銀行の電光掲示板に眼をやると、雪まみれになった [9] と言う数字が見えました。と言う事は摂氏で言うと-10度位かな?
別にここシカゴでは大騒ぎする程のこともありません。 登場したKENNY BROWNのバンドは3人。スライド・ギター&Vo.のKENNY BROWN。彼はエレキ・ギターと1958年製ギブソンのラップスティールギターを、今ではちょっと珍しいMusicmanアンプの2×12に繋いでいました。 演奏後、KENNY BROWNのメンバー達と雑談している時に聞いたのですが、彼は以前、R.L. バーンサイド(注6)と活動していたそうです。しかし、その
バーンサイドも高齢を理由にツアーを敬遠するようになり、ブッキングしても直前にキャンセルするような事もあったようです。現在ではバーンサイド自身がリタイアしてしまったようです。ぼくとしては、ちょっと惜しい気がしますが......。 江戸川スリムのお節介注釈 (注1) Kenny Brown - by 井村タケシ 90年代のブルース・シーンにおいて、R.L. バーンサイド、ジュニア・キンベロら北ミシシッピ・ブルースマンの「再発見」は実に衝撃的なものだった。それまでは地元のジューク・ジョイントや個人パーティー、または自分の家のポーチで主に演奏していた彼らが世に広まった発端は、ロバート・マギーとロバート・パーマーによるドキュメンタリー映画「ディープ・ブルース」(1993)。加えてミシシッピ州オックスフォードを拠点とするファットポッサム・レコードとロバート・パーマーの手によるジュニア・キンベロ(1998年死去)1992年作 "All Night Long"とR.L. バーンサイド1993年作 "Too Bad Jim"の成功により、更にノース・ミシシッピ・ブルースが注目を浴びるようになった。彼らの音楽の特徴は、同じリフを延々と弾き続ける事によって生み出される不思議なグルーブである。それは今日のハウスやミニマルやテクノ、またはパンク・ミュージックとある種通じるものがあった。そこに着目したパンクバンド、ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンとR.L. のコラボレーション盤"A Ass Pocket of Whiskey"(1996)、続く"Mr. Wizard"(1997)は、正にその「共通項」から生まれ出た異質のアルバムである。この二枚のアルバムによって、今までブルースとは無縁の若年層ロックファンにまでR.L. バーンサイドの名が知られることとなった。そのR.L. の傍で、30年間サイドマンとして活動してきた一人の白人ギタリストがいる。ステージ上でR.L. がいつも「俺のAdopted Son(養子)だ」というジョークと共に紹介する、その男こそがケニー・ブラウンである。 1953年の7月5日、アメリカ独立記念日の翌日にケニーはアラバマ州セルマの空軍基地で生まれた。彼が生まれて半年後、両親ハワード&パティ・ブラウンは故郷であるミシシッピ州に帰ることに決める。そして田舎町ネスビットにおいて、ブラウン家は数少ない白人家族の一つとして暮らしはじめた。そして5歳になった時、ケニーは自分の家の建っている丘から道一つ隔てた丘、その丘の向こうから流れてくる不思議な音楽を耳にすることになる。少年はポーチに腰掛けじっと耳を澄まし、丘の向こうから立ち昇る煙を眺める。横笛の陽気なメロディー、太鼓のリズム、そしてギターの音色。それはいつもラジオで聴いている音楽とは全く違うものだった。全く違う「言葉」で彼に話し掛けてきた。この黒人家族達のピクニックから聞こえてきた音楽が与えた強い衝撃が、後に彼をブルースへと導くきっかけとなる。ガス会社で働く父親は音楽とは縁がなく、弟のテリー、妹のアレクサも兄とは興味を異にしていた。母親は教会でピアノを弾いていたが、ブルースには関心がなかった。結局ブラウン家の中でブルースに興味を持ったのはケニーのみであった。 10歳の時、ケニーはコミックブックの裏表紙にあった広告「草花の種を売ってギターをもらおう!」を見つける。彼は自転車に乗って野菜と花の種を町中売りまわり、ポイントを稼いでとうとうそのプラスティック製のギターを手に入れてしまった。最初はレッスンを受けようとしたが、どうしても譜面を読むのが好きになれずやめてしまう。翌年母親から本物のKayギターをプレゼントされてからも、しばらく独学で習う日々が続いた。しかし12歳の時、隣の小作人小屋にベテランギタリストのジョー・キャリコットが越してきて彼に新たな道が拓ける。それからジョーが72歳で死ぬまでの5年間、ケニーはジョーの家のポーチで彼からレッスンを受け続けた。現在"スライドの達人"と呼ばれるケニーに、初めてスライド奏法を教えたのもジョーだった。ケニーはジョーが大好きだった。黒人老ギタリストにとっても、その白人少年の弟子が可愛かったに違いない。ジョーの奥さんによると彼の最後の言葉はケニーに宛てた伝言だったそうだ。「ケニー、気をつけて運転しろよ。いつまでもいい子でな」 この頃ケニーはボビー・レイ・ウォルトンからより詳しくスライドを学び、ボビーの友人でフレッド・マクダウエルと一緒に演っていたハーピスト、ジョニー・ウッドからもブルースの手ほどきを受けていた。しかしケニーにはジョーに代わる新たなギターの師が必要であった。そして近くの町コールドウォーターにて、彼に運命的な邂逅が訪れる。R.L. バーンサイドとの出会いである。18歳になったケニーと49歳のR.L. は出会ってすぐに打ち解け、それからは週に2、3日はR.L. の家のポーチで、仕事帰りに一緒に演奏するようになった。あまりに楽しくて、いつも夜中の2時頃までやめられない。R.L. はコンバインの運転手、ケニーは建設会社で働いていたので朝は早く、時には2、3時間しか寝られない日もあった。この頃からケニーは地元のジューク・ジョイント(黒人向けの大衆酒場)でたった一人の白人としてセッションに参加するようになり、多くの地元黒人ブルースメンと交友を深めるようになる。そしてついにR.L. はケニーをサイドマンとしてジューク・ジョイントやパーティーに連れて行くようになる。「Adopted Son」として。 ケニー、ジョー・キャリコット、そしてR.L. バーンサイドにまつわる奇妙な話がある。ジョーが唯一残したアルバムは1968年Arhoolieから出たコンピレーションアルバム"Mississippi Delta Blues"。ジョーは片面だけで、もう一方にはR.L. の初録音が収められていた。後年ケニーはそのレコードを友人の家でたまたま見つけて驚いたそうだ。自分の二人の師匠が偶然一枚のレコードで「競演」していたからだ。実は68年当時ケニーはまだR.L.と出会っていない。ジョーもR.L. と生前に一度も会ったことがない。そしてライナー・ノーツにはこう書いてあったそうだ。「・・・私がジョー・キャリコットの家を訪れた時、10歳位の白人少年が彼にギターを習っているところだった・・・」この3人を偶然結んだ一枚のアルバム。ケニーはそのアルバムに何か運命的なものは感じたという。 そして20年の歳月が流れる。ブルース・ワトソンとマシュー・ジョンソン創設の新興レーベル、ファット・ポッサム・レコードとの出会い、前述の「再発見」ムーブメント、1994年よりドラマーをR.L.の娘婿カルビン・ジャクソンから、カルビンの息子のセドリック・バーンサイド(当時まだ14歳)に代えたトリオでの全米・海外ツアー(日本も含む)、と1990年代になりR.L.とケニーをめぐる環境は大きく変わっていった。1990年代初期までは、自分の建設会社を経営しながらの音楽活動であったが、40歳の誕生日を機にケニーは音楽活動に専念する事を決意する。R.L.との活動と平行して、ジュニア・キンベロ、ポール"ワイン"ジョーンズ、セデル・デイビス、エリック・アンダーソン、そして彼の子供の頃からのアイドル、デール・ホーキンスなどの録音に参加。1996年にはそのデール・ホーキンスのプロデュースによって初ソロアルバム "Goin' Back To Mississippi"(Plum Tone Music)を発表する事になる。そのアルバムは配給こそ少なかったが、多くの人々から好意的に受け入れられた。 彼の海外とのコネクション、特にスウェーデンとの関係は興味深いものがある。それは1988年のKing Biscuit Festival(アーカンソー州へレナ)の帰りに、一人のヒッチハイカーを拾った事に由来する。彼はスウェーデン人のブルースファンで、以来何年か置きにケニーを訪ねるようになる。ある日彼からスウェーデンのブルースマガジンJeffersonが送られてきた。そこにはミシシッピのジュークジョイントを訪ねたファンによるレポートが載っていて、その中にケニーの事が書いてあった。それがきっかけで彼はスウェーデンを訪れることになり、1991年には第一回Amal Blues Festivalにモジョ・バフォードと出演した。ケニーはそのフェスティバルに1993年、2001年、そして2002年と出演している。 現在ケニーは、ミシシッピ州ポッツキャンプにある牧場に住んでいる。1999年に以前のバックバンドを解散し、新しくセドリック・バーンサイドと日本人ベーシスト、タケシ・イムラのトリオでソロ活動を始めたケ二ー。2000年9月から始まったファット・ポッサムでの新作レコーディングも2002年9月にようやく終え、そして2003年2月11日、遂に新譜"Stingray"が誕生した。自らのトリオに加え多くの友人達がゲスト参加した新作には、ケニー・ブラウンの魅力がぎっしりと詰まっている。 最後に、2002年のMemphis In May Music Festival でのボニー・レイットのインタビューを引用したい。 「メンフィス・エリアで誰と一緒に演奏してみたいですか、ボニー?」 「そうね、苗字は忘れたけどミシシッピのケニーってギタリストと演りたいわね。ほら、スライド・ギターの上手な・・・」 イムラ タケシ 2/12/2003 (一部Big City Blues誌 2002Feb./Mar.号 "Kenny Brown /Blues in his soul" by Jo Ann Korczynska、及び"Children of the Blues: 49 Musicians Shaping a New Blues Tradition" by Art Tipaldi /Backbeat Books /San Francisco / Feb. 2002のKenny Brownの項より筆者訳出)
(注2) Bobby Little - by 井村タケシ 本名Ronald Bluster。1938年、アラバマ州ジェファーソン郡出身。 イムラ タケシ 2/12/2003
(注3) Billy Gibson - by 井村タケシ メンフィスは「ブルースの故郷」と呼ばれている。ビールストリートを訪れた旅行者は、その意味を肌で感じることができるであろう。しかしこの街から、多くの素晴らしいジャズ・ミュージシャンが誕生したことはあまり知られていない。ブルーノートからデビューしたピアニスト、フィーナス・ニューボーンJr. を始め、彼の弟カルビン・ニューボーン、ジミー・ランスフォード、ジョージ・コールマン、フランク・ストロジャー、ブッカー・リトルなど枚挙にいとまがない。そしていま、ビリー・ギブソンの登場である。彼自身はこれら偉大なジャズメンと一緒にされるのを躊躇するかもしれない。しかし彼には疑いようのない才能がある。独特のボーカル・スタイル、そしてピート・ぺダーソン直伝のハーモニカを武器に、彼は確実にジャズ・ミュージシャンとしてのキャリアを築きあげている。 ミシシッピ州クリントンで生まれ育ったビリーは、幼い頃からハーモニカを吹き始めた。「安かったし、とにかく簡単に音が出せたからな」彼は笑いながら回顧する。高校卒業後ビリーはクラークスデールに向かい、そこでブルース・ギタリスト、ジョニー・ビリントンとドラマー、ボビー・リトルのバンド、ミッドナイターズで演奏するようになる。「ボビーとジョニーには色々教えてもらったよ。ミュージシャンとしてどう生きていくかをね」 1990年代初期、ビリーはミシシッピを後にしメンフィスへ、そしてビールストリートへと活動の場を求めた。「ビールストリートは"ブルース大学"だよ」長年ビールストリートの多くのクラブで演奏しつづけた彼はそう語る。「客寄せ、マネージメント、バンドの扱い方・・・若いミュージシャンにはそこで見ること、聞くことすべてが勉強になる。だからミュージシャンにとって大学みたいなところさ」 メンフィスでビリーはジャズ・ハーモニカ・プレイヤーの草分け的存在、ピート・ぺダーソンに師事するようになる。ビリーはピートから、いかにジャズをハーモニカで表現するかを学ぶ。「彼のお陰で新しい世界が拓けた。僕は演奏者としてもっと自分の楽器に、ハーモニカに”近づき”たかったのさ。ピートの下でそういう事を学べたのは、僕にとって素晴らしい経験だったよ」 ビリーは1994年にインディペンデント・レーベル、ノース・マグノリア・ミュージック・カンパニーを興し、以後数多くの地元ミュージシャンのアルバムをプロデュースした。例えばボビー・リトル、ジェイソン・リッチ、ミカエル・サンタナ、エディー・セバロスなどがそれに含まれる。1996年には初のソロ・アルバム"Billy Gibson"を発表。このアルバムではブルースとジャズの割合が半々であったが、続くインストルメンタルアルバム、"In A Memphis Tone"(1997)では更にジャズ色が強くなった。このアルバムではチャーリー・ウッドのオルガンとビリーのクロマティック・ハーモニカの音色がうまく作用しあい、独特の雰囲気を醸し出している。師匠ピート・ぺダーソンとの共演でも遜色なく吹ききり、ビリーにとって一つの区切りとなる作品であった。 しかし1997年になると、彼はまた違った道を歩み始める。四人組ロック・ブルースバンド、ジャンクヤードメンを結成し地元レーベル、インサイド・サウンドと契約することになったのである。同レーベルから"Scrapheap Full Of Blues"(1998)、"Keep on Workin'"(1999)の二枚を発表し、キング・ビスケット・ブルースフェスティバル、メンフィス・イン・メイ・ミュージック・フェスティバルへの出演を含め、南部を中心にツアーにまわる日々が三年間続く。この間にビリーはノース・マグノリア・ミュージックをやめてしまう。人気の高いジャンクヤードメンであったが、諸事情により2000年にあえなく解散してしまった。 "The Nearness of You"。彼の2001年にリリースした新譜はセンチメンタルな空気の漂うジャズアルバムの良作である。現在30代であるビリーは、ボーカリスト&ハープ・プレイヤーとして第一線で活躍するミュージシャンに成長した。1999年にはハーモニカ・メーカーの老舗、ホーナーの認定アーティストに加えられ、更にその年から4年連続でMemphis Premier Player Awards by the National Academy of Recording Art & Science(グラミー賞の地方セクション)の年間ベスト・ハーモニカ・プレイヤーにノミネートされる。そして今年2002年にはとうとうその賞を受賞するに到った。ビリーは自身のジャズ・トリオやいくつかのブルース・バンドで演奏する傍ら、インサイド・サウンドにおいてプロデューサーとしても精力的に活動している。元キャンド・ヒートのベーシスト、リチャード・ハイト(2001年死去)と元ヤードバーズのドラマー、ジム・マッカーティーによるMcCarty-Hite Projectの"Weekend in Memphis"(2000)の共同プロデュースを手がけ、現在も幾つかのプロジェクトに携わっている。このように、突出したハーモニカ・プレイヤーというだけではなく、ミュージシャンとして常により良い音楽を---自分の為だけでなく、他のミュージシャン達の為にも----ビリー・ギブソンは創りだそうとしている。 ------以上はインサイド・サウンド発行のオフィシャル・バイオグラフィーに僕が一部加筆したものである。僕が最初に彼に出会ったのは1994年、最初にメンフィスを訪れた時だ。当時彼は、ビールストリートにあるブルース・シティ・カフェで毎週水曜日に行われていたジャム・セッションのホストをしていた。そこで友人のアキラ君が紹介してくれたのが最初だった。1996年にこちらに移り住んでからは、ボビー・リトルのバンドで約一年半ほど一緒に活動した。1997年の一年間はルームメイトでもあった。その後3年近く疎遠になり、たまに単発の仕事で会うぐらいの仲だったのだが、昨年2001年よりまたルームメイトになって今に到る。方向性の違いから一緒にやることも無くなったが、彼の更なる活躍を友人として切に願っている。 イムラ タケシ 2/12/2003
(注4) James "Son" Thomas 1926年、ミシシッピー生まれ。1968年が初録音という遅咲きのブルースマンだ。ミシシッピー・デルタのディープなブルースを今に伝える貴重なブルースマンとして人気が高かったが、1993年に死亡。 (注5) CeDell Davis 1927年、ヘレナ生まれ。小児麻痺が原因で指が変形しており、そのためにバター・ナイフを弦に滑らせるという変則的な奏法を生み出した。ロバート・ナイトホークと活動を共にしたり、キング・ビスケット・タイムに出演するなどの経歴を持つが、こちらも初録音は1976年と遅咲き。1990年代以降、ファット・ポッサムやファスト・ホースからアルバムを発売し、根強い人気を保っている。 (注6) R.L. Burnside 1926年、ミシシッピー生まれ。ミシシッピーでもデルタから遠く離れたヒル・カントリーと呼ばれるノース・ミシシッピーの出身で、長い間近所の人たちのためだけに演奏を続けてきた。 |
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