Easy Baby

(2001年7月2日記)


先週末に開かれたシカゴ・ブルース・フェス2001のせいも有ったのでしょうが、アメリカ中、いや世界中から訪れるシカゴ・ブルース・ファンで、足の踏み場にも困る位ごった返した筈のブルース・クラブ「SMOKE DADDY」も、今週末になってようやく一息を付いているようです。
ところでこの「SMOKE DADDY」。今の時代には珍しく、出演者がどこの誰であろうと客からカバー・チャージも取らずに、古き良きCHICAGO-BLUESに拘りを持ちながら、それをライブで聴かせ続けているのですから、全くいい根性をしていると言えます(笑)。いつまでこの調子で続けて行くつもりなのかは知りませんが、どうか頑張って貰いたいものです。

現在の「CHICAGO−BLUES」と言う言葉は、シカゴの街のイメージを示すキャッチ・フレーズの一つとなりました。シカゴ市長率いる商売人達の努力の甲斐もあってか、いつの間にか観光客集めの道具の一つとして担ぎ出されているようなところもあります、しかし、それを受けてか、シカゴ・ノース・サイドとダウン・タウン界隈にはこの10年位の内に20店とも30店とも言われるブルース・クラブが存在するようになりました。
昔の人にブルース・クラブの話を聞くと、大抵「15年、20年前にはサウス・サイドとウエスト・サイドに幾つか有っただけで、今のようにノース・サイドやダウン・タウン辺りにブルース・クラブが有ったなんて聞いた事が無かったよ(笑)」と、こんな具合です。
シカゴには多くのブルース・クラブが有りますが、殆どのクラブはここ10年位の歴史しかありません。

随分前にカナダに演奏で出掛けた時、長い間ブルース・クラブのオーナーだった男がこんな事を言っていました。
「70年代頃から80年代の中ごろ迄はブルース・クラブなんて言える物はアメリカ中でも数える程しか無かったものさ。若い連中は皆、生演奏を聴きながら女を口説くような面倒くさい事をするよりも、ディスコで女の尻を追いかけていた方が楽だったんだからな(笑)。あのジョン・リー・フッカーでさえバンドを雇えないものだから、自分の息子だったか?誰か?若造のキーボード・プレイヤーを連れて演奏していたものさ(笑)」。
実際、ぼくの経験からしてもアメリカ中に点在するブルース・クラブはどこも歴史が浅く、また洗練されていてレストラン・ビジネスとの2本立てのところが殆どでした。
そして、これがJAZZになるともっと悲惨です。何でって?クラブ・オーナーはJAZZ PLAYERに熱い演奏を要求しません。彼らはバンドに金を払う代わりに「タキシードをキチンと着て、演奏中は静かにしていてくれ」と指図している位ですからね(笑)。JAZZ CLUBなるものが殆ど存在しない昨今、ジャズ・マンは自由な演奏も禁止され、又、演奏活動を通して生活費を稼ぎ出す事も出来ないのですから...。同情します、全く。

これら観光地に近い新生ブルース・クラブののオーナー達は皆、投資家の役に立とうと軒並みカバー・チャージを高く設定して来ていています。従来ただのジューク・ジョイントだった筈の「仕事帰りにブルースを聴きながら、ビールを一杯」と言うような「ブルー・カラーの労務者の憩いの場」的な雰囲気は今ではもう微塵も感じられません。作業着にペンキを付けていたり、油まみれのヘルメットを被っていたりしたブルース好きなオジサン達は一体、どこへ行ってしまったのでしょうか?(笑)


Steve Cushing and Easy Baby

「Easy Baby(注1)って名前のハモニカ吹きのおじいさんと、いま演ってるんだけど、知ってる?」とドッグ・ハウス・ベース(ウッド・ベースの事)の江口さんから電話を貰ったのが11PM頃でした。彼曰く「面白いから、今から出ておいでよ(笑)」と言う誘いでした。新聞にもEasy Babyさんの事は何もでていませんでしたし、数日前にスティーブさんと会った時もEasy Babyさんについて何も言っていなかったので、これはどうもドラムスのスティーブ・クッシンさんが、「ああだ、こうだ」と言って連れ出して来たようです(笑)。スティーブさんは、ほんとにとぼけた人です。

ぼくは、車の中でいろいろとEasy Babyのことを思い浮かべていたのですが、恐らく昔「ロウ・ブロウ」とか何とか言う、シカゴのハモニカ吹きを集めたオムニバス盤に何曲か録音していたと思うのですが、どっちにしてもこう言う御時世ですから、こう言うタイプのプレイヤーに御目にかかるのは極めて稀です。しかし、こう言う言い方をすると誤解を受けるかもしれませんが、未だに活動していたとは思ってもいませんでした。

「SMOKE DADDY」に着いたのは11:30PMを少し回った頃で、店ではもう既に2セット目の演奏が始まっていました。今夜集まった連中は、一体どこでEasy Babyさんの事を聞き付けたのかでしょうか。彼らは、何の前触れも無く現れた、この黄金期のシカゴ・ブルース・シーンを生き抜いてきた大老のハモニカ吹きに熱い眼差しを向けている最中でした。
Easy Babyさんの髪は総白髪で、黒人さん特有の縮れ毛と鼻の下に蓄えたやはり白いマスターチは観る人に好印象を与えています。身長は165cm位ですが横幅はたっぷりあり、目が痛くなるような真っ赤なシャツにサスペンダーも良く似合っていました。
ぼくはEasy Babyさんの若い頃の武勇伝、遊び人振りを聞いていましたので、ブルース・マンに有り勝ちな、もう少し崩れた感じなのかな?と思っていましたが、ぼくの目の前にいるこの人の健康的な笑顔と性質の良さそうな容姿からは想像も付きません。

今夜のバンド・メンバーは、ドラムスにスティーブ・クッシンさん、ウッド・ベースには上でも紹介した江口ヒロシさん、それからこの手のシカゴ・ブルース・プレイヤーとしてはとても長いキャリアもあり実力共に定評のあるイリノイ・スリムさん(注2)がギターでした。
彼は上記のスティーブ(ドラム)さんやデイブ・ウォールドマン(ハモニカ)さん達と70年代頃からシカゴで活動を共にして来て、故ビッグ・スモーキー・スマザーズさんや故ビッグ“ゴールデン”ウィーラーさんらのプロジェクトでは影に日向にと貢献してきたプレイヤーです。
また、イリノイ・スリムさんは、長い間アルコール依存症の為に苦しみ入退院を繰り返して来たそうですが、ここ数年は健康も取り戻した様子で、この夜のギター・ソロはこれまでの印象からは想像も出来ない程、縦横無人な職人芸を見せてくれました。彼はギター・プレイヤーとしては目立つプレイヤーとは言えませんが、裏方としての仕事人的なギター・プレーで着実な活動を続けて来ています。


Easy Baby and Illinois Slim

この夜、Easy Babyさんは70歳を越える老人とは思えない、力強いハモニカ・プレイとサニー・ボーイ・ウィリアムソンIIを思わせる、あの細かいビブラートの利いた渋い声で、定番「スウィート・ホーム・シカゴ」や有名なスロー・ブルース「ソー・ロング」などの名曲をダウンホーム・フィーリングたっぷりで歌い上げ、シャッフルの曲ではハモニカ・ソロまで披露してくれました。ただ残念だったのは、Easy Babyさんも高齢のために足が少し弱り、1時間のセットのうち、4-5曲にしか登場しなかったことです。それでも、いつも思う事ですが、往年のブルース・マン達の歌声には本当に力強い、芯の強さがあります。きっとハモニカでのあの力強さや、粘りもこの辺に秘密があるのかもしれませんね(笑)。

最後にスティーブ・クッシンさんがEasy Babyさんとの出会いを語ってくれました。
「あれは70年代の終わり頃だったかな?おれが、まだマジック・スリムのところでドラムを叩いていた頃さ。ウエスト・サイドでのギグに予定よりも早く店に着くと、俺達が演奏するはずの店からバンドの演奏が聞こえてくるので覗いて見ると、Easy BabyがドラムをやりながらBLUESを歌っていたんだ。ギターは確か、ジミー・リー・ロビンソンともう一人は誰だったかな?とにかく、連中はたった3人。ドラムにギターが2本だった。いい音出していたよ。それで俺が近づいて行くとEasy Babyが俺にドラムを叩けとドラム・セットから立ち上がったんだ。以来、俺はその店には早めに出て行ってEasy Babyの代わりにドラムをやるようになったのさ(笑)。そうすれば、Easy Babyはハモニカと歌に専念できるだろ」(笑)。


江戸川スリムのお節介注釈

(注1)Easy Baby
本名アレックス・ランドル。1934年8月3日にメンフィスに生まれる。
叔父さんの影響でハープを始め、製材所に勤める傍らバンド活動を開始。当時知り合ったブルースマンは、ジェイムス・コットン、ウィリー・ジョンスン、ジョー・ヒル・ルイスなどがいる。
1956年にシカゴに出てきて、リトル・ウォルターの世話を受けながらハモニカの腕を上げていったようだ。
当時の彼のバンドには、スモーキー・スマザーズ、ジョジョ・ウィリアムス、ウィリー・スミスらが参加していた。その後、1962年からは、ギターのビッグ・ギター・レッド(大好き!)と組み、ウエストサイドを中心に演奏を続けていたが、その時は主にドラムを担当していたという。
そんな彼に初録音の機会がやってきたのは、1975年3月のことだ。スティーヴ・ウィスナーのプロデュースのもとで、ビッグ・レッド、マック・トンプソン、エディ・ペインらと共に、"Good Morning Mr. Blues"を録音し、バレルハウスからのLP「Bring Me Another Harf A Pint」に収録された。
同年11月には、ボブ・コリトアとジム・オニールが総監督、スティーヴ・ウィスナーがセッション・プロデューサーを務め、再び"Good Morning Mr. Blues"をほぼ同じメンバーで録音。こちらの方は、ルースター(P-VINE)から発売された「Low Blows」に収録されている。
そして1977年3月に、ジョージ・ポーラスのもとでフル・アルバムを録音。バックのメンバーは、エディ・テイラー、マック・トンプソン、カンサス・シティ・レッド。特に何がどうって訳でもないアルバムだが、長年ゲットーで演奏し続けてきた「臭さ」みたいなものを感じさせ、チープではあるが妙にリアルなアルバムである。私はLPで持っていたが、P-VINEからCD化されたときは「こんな地味なアルバムが...」と、心底驚いたものである。
その後の彼は、話題に上ることもなくなり、クラブで演奏することもなくなっていたという。
「とっくに亡くなっているのだろう」と思っていたら、先日届いたビッグ・シティ・ブルース誌に掲載された、マックスウェル・ストリートでの集合写真に彼の名前を発見!それに続いて今回のレポートである。
いやー、お元気だったのね。
ちなみに、Easy Babyという一風変わった芸名は、ヴァレッタ・ディラードの"Easy, Easy Baby"から取られたとのこと。

Easy Baby
"Sweet Home Chicago Blues"

(P-VINE PCD-5206)

V.A.
Bring Me Another Half-a-Pint!

(Barrelhouse LP-09)

V.A.
Low Blows

(P-VINE PCD-5250)

(注2)Illinois Slim
詳しい経歴は不明だが、エディ・テイラー門下生の一人で、The Icecream Manのオリジナル・メンバーとして有名。そのことからも判るように、シカゴ・ブルースの古き良き伝統を今に伝える一人だ。
しばらく名前を聞かなかったが、昨年The Smokedaddy Bandの一員としてアルバムを発表した。

Otis Smokey Smothers
Got My Eyes On You

(Red Beans LP RB009)

V.A.
It's Great To Be Right

(Red Lightnin' LTD-1983)

The Smokedaddy Band
feat Billy Flynn

(Easy Baby EB-400)


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