2010年3月1日(月曜日) 昼間、シカゴの南郊外の私立小学校で、SOBのブルース授業を60分。小学生たちが生のブルースに触れるほのぼのとした光景に、こちらの頬も緩む。 オレたちが二週間滞在したアメリカ南部のサウス・カロライナの高校では、90分枠が9回のプログラムだった。そして最後の日に、仕上げのコンサートが全校生の前で披露される。 "Blues in the Schools"といっても唄とハーモニカが主体で、"G"のキーの簡単なシャッフル曲を全員で歌わせ、吹かせるのが目標のもの。普段は伴奏者としてギターのみが帯同するが、今回はバンド(SOBのギターが欠席で、現地在住の"Drink Small"が代役)付きなので、各楽器の指導もおこなわれた。 授業の前半は唄とハーモニカの全体講義、残りの時間で個別指導。当初は50名余と聞いていた受講生が、結果的に延べ80名以上となり、ビリーが用意した50個のハーモニカは初日に底をついて大混乱の毎日だった。 州都のコロンビアに在る"the Lower Richland High-School"は、1972年まで白人の生徒のみの高校だったが、今ではアフリカ系が95%以上を占める。 オレが受け持ったピアノ受講希望の生徒たちは20名を数え、3台しかないキーボードにみんなが群がった。といってもほとんどは鍵盤に触れたこともない者ばかりで、ビアンカの曲を教えろだとか、アリーシャ・キーみたいに弾きたいだの、教われば短期間で「弾ける」と勘違いしている生徒が多い。全員が黒人で、全員が教会のゴスペルで育っているから、センスは良いが、公立校の口喧しさは変わらず、"C"(ド)がどれなのかを覚えさせるのにも苦労する。 時間が限られているので、発表会に向けて最初の週末で8名に絞り、最後は4名を選抜した。その中のひとり、カモーニは校内でも有名なキーボード奏者で、オレの示す奏法を「おお、これ教会でも使えるわ」と目を輝かせる。全くの初心者だった、歩き方も態度もラップ好きのジャマールは、天性の運動神経が6連符を綺麗に粒を揃えて打つ。 教えるていることが、真綿に水が染み込むように実感するのは楽しい。だが、こいつらの中のリアリティは「ブルース」にない。日曜の教会や、流行のR&Bが彼らにとっての日常なのだ。だから日本人のオレから「ブルース」を教わることに違和感を覚えず、素直に耳を傾けるのだろう。 逆にいえば、それがオレにとっての違和感であり、ブルースの現在を表してもいた。そしてライブのない二週間(午後2時過ぎから6時頃までの拘束で、ほとんどをホテルのスイートルーム(!)で過ごし、土日は完全休日)は、バンクーバーの冬季五輪と重なってテレビ観戦に費やす時間が増える。 その内容すべてに首肯するわけではないが、教育としても商売としても"Blues in the Schools"に異議はない。ただ、現役奏者としては、忸怩たる思いで過ごした日々だった。オレはもっと現場で熱い演奏がしたいんじゃ! 今月のSOBのライブ(!)は、毎月曜のアーティスを除けば2本しかない。 2010年3月4日(木曜日) 元エディ・クリアウォーターのバンマスのMさんから、「某の録音で、1.2曲だけど$$$でイイかい?」と頼まれては断れない。っちゅうか、相場より格安でも断ったためしがない。突然の仕事は嬉しいし、録音は早くて楽だもの。ハーモニカと唄の某さんのことは知らなかったが、彼が以前からオレのファンだったというのでは尚更断れない。 アルバムはほとんど完成していて、ピアノの音を録れると出来上がりの状態だった。 某さんはオレの演奏を"Take 1"(一回目の演奏)から無邪気に喜ぶ。1.2曲の予定が3曲目に入る。彼はピアノの出来を絶賛しながら、少し気を遣い "I'll take care"(ちゃんとその分は払うからね、の意)と4曲目を試聴させた。頭の中では$$$掛ける4が素早く計算される。同時に自分を少し恥じた気持ちが生じた。でも、曲はオレのツボにハマったものばかりなので、某さんでなくても納得する演奏だったから、嫌悪は消えゆく。 スタジオ入りして、まだ40分しか経っていない。某さんは雑談の中で「癌で闘病中なんだよね」と何気なく言ってたし、曲数×4でなくても、ある程度まとまってもらえたらイイもんね、とエキストラのエキストラに付き合ってあげる。 満足げに見送る某さんがバックミラーから見えなくなると、受け取った金をポケットから出した。アメリカ人のようにその場で数えることが、オレはいまだにできない。ひぃ、ふぅ、みぃ・・・っと、$$$+ガソリン代ほどの増額。掛け算になってないやんけ!はっ、そういやMは電話で、「$$$/曲」とは明言してなかった。確かに。でも「ひと仕事まとめて録音代」のときはそう強調するし、曲単価(稀に時給)が常識の業界で仕事してきたオレが間違えるのは無理もない。 アメリカであろうが日本であろうが、契約書などを交わしていてでさえ、オレは最悪の場合を考える賢い人間なので、一瞬のショックの後、直ぐに気持ちは切り替わった。某さん、闘病中だものね。 夜のロザで、ベースのハーレンが「某の録音を手伝ってきたって?」と訊いた。えっ、録音済みだったベースはアンタだったの。「ちゃんと金貰ったぁ?」と苦虫を潰した顔を近づける。 「うっ、うん」 善意が自己完結していたハーレンに、一括と曲単価を間違えた話をする気にはなれなかった。 2010年3月8日(月曜日) 風の凪(な)いだ街は深い夜霧に包まれていた。 数十メートル先は霞み、高速出口の表示は直前に迫るまで現れない。少し速度を落とすと、前方を走る幾つかの赤い灯が遠ざかっていった。気が付くと周りの車の気配は完全に失せている。白濁に狭まった視界が、通い慣れた大動脈の5車線を、まるで森の道に迷ったかのように錯覚させ、オレは未知の世界へ引きずり込まれたい奇妙な妄想に駆られていた。 アーティスの周りも、人里離れた風情に深閑としている。搬入中のビリーに「幻想的でロマンチックな霧ですね」と同意を求めると、「そうかぁ、ドラキュラが出てきそうだが」と、いかにもアメリカ人らしい発想を示した。 それでもオレには、最近の映画のロマンチックなドラキュラしか思い浮かばなかった。 2010年3月13日(土曜日) 午後6時より、ネイヴィ・ピアの巨大なパーティルームでロブ・ストーンと宴会仕事。続いて入っているバディ・ガイさんのレジェンズでのSOBライブの搬入(10時半からセッティング開始)に慌てないよう、M(元ジョン・プライマーのハープ)をローディとして雇っていた。 金の掛かったパーティにはコーディネーターがいて、進行を掌(つかさど)る。ロブはオレの予定を知っているので、進行係に問い合わせてくれていたが要領をえず、9時頃には終わるという情報のみだった。 それでも演奏のあと直ぐに搬出できるとは限らず、パーティ会場から有料駐車場までがえらく遠いので、実際に現場を離れられる時間は読めなかった。ネイヴィ・ピアからレジェンズまで車で5分足らずだが、レジェンズ周辺の駐車事情を考えても手助けが居ると安心である。 サウンド・チェックから本番までは一時間以上あった。絢爛たるパーティにもかかわらず、正装する紳士淑女に混じって普段着の参加者も多いため、レセプション(別会場での食前酒とオードブルの立食パーティ)でのMの服装は気にならない。 ドラムのウイリー・へイズが、何ヶ所にも設けられた前菜のテーブルを一通り回ってから、「こんだけ何種類も食い物がありながら、腹の足しになりそうなモンはこれだけだぜ」と小皿を見せて悪態を吐いた。「(オレたちが演奏する本番前の)所詮取り合わせの軽いものばかりですからね。でも凝ったものも結構多いですよ」と応えるオレの横では、Mが数枚の小皿を手に黙々と口を動かしている。メインコースにありつけないオレも、次の仕事(終演は午前二時過ぎ)を考えると何でも良いから腹に溜めたかったが、前菜コーナーに幾度も足を向けるのは憚(はばか)られた。 人目を気にせずオードブルをガツガツ食べるMを恨めしく眺めていると、ギターのMさん(2010年3月4日参照)の声がした。「アペタイザー(前菜)だから小皿しかないのは仕方ないけど、盛り切れないんで参るよな」。レセプションでは、皿を置いて食べるように配置されたテーブルはない。配膳係が使用済みの皿やグラスを集める食器台代わりのテーブルには、Mより多い枚数の小皿が並んでいた。 7時40分から始まったロブのショウは8時20分に一旦終わる。そりゃ、「一旦」と思います。まだ一セット演ったばかりで9時まで間があるから。進行係がステージ脇でロブに何か伝えていた。そして彼がオレたちに合図する。「撤収ぅ!」。 ネイヴィ・ピアをあとにしたのは9時前だった。こりゃ、レジェンズの搬入に助けは要らんだろうというM自らの申告に依り、ローディは即時解雇。 時間に余裕があり、尚かつ店でもちゃんとしたものが食べられる(ミュージシャン割引付き)のに、何故か機を逸してしまったオレは、空腹を誤摩化すため水ばかり飲んでいた。ついに帰りの車中では4本目のペットボトルの蓋を開けていた。懐が暖まってもひもじいときはある。 2010年3月22日(月曜日) クラリネットを学校などで教えている、大阪から来駕中のSさんをアーティスへお連れした。 たまたま店へ遊びに来ていた、同じ大阪出身のサックス娘、Aちゃんを紹介したところ、同じ音大の同期ということが判明。その上、二人とも北摂(大阪北部)出身であった。 つまり同じ地域で育ち、ほとんど隣り合わせの小中高に通った同い年の娘二人は、同じ管楽器を専門に同じ大学へ進むが、ジャズとクラシックに別れていたため音大でも知り合うことはなく、地球の裏側でようやく巡り会ったということだ。 それをビリーに伝えると大将は大層感心して、「この二人はここで初めて会ったが、話していて同じ高校の同学年だということが分かった」と大袈裟にステージから紹介した。 いや、高校と違って音大・・・アンタ伝言ゲーム下手やな。 2010年3月26日(金曜日) 確定申告終了。といっても、出来上がった書類にサインしただけで、あとは税理士さんが電子申告してくれるのだが・・・。 かんぷきん、かんぷきん、ありがたや、ありがたや、あめりかさまの、びんぼうにんきゅうさいせいど。(2008年4月22日参照) 2010年3月29日(月曜日) 昨日のニンニク入りカレーで、食べてから20時間以上(不快臭は食後16時間でも消えないらしい。完全消去は18時間という説も)経っているのに、気のせいか口がまだ臭い。 大将が欠勤のアーティスに、大御所のロニー・ブルークス、エディ・C・キャンベル、そして88年オーティス・ラッシュ欧州ツアーメンバーのサム(ドラム)らが顔を見せた。 コロンビア人のアタラが、母国から遊びに来ていた親戚4人を連れていたが、初めての本場のアフリカンなブルース・クラブにみんな怖じ気づいている。ビリーがいない今晩は、アタラにとって知り合いはオレだけだし、よそ者が紛れ込んでしまったような疎外感は大昔に経験しているので、ラテンの皆様に店内のいろんな説明をしてあげた。 ほらっ、あそこの写真、マイケル・ジョーダンが写ってるでしょ、たまに店に遊びに来ていて・・・、隣の人がここのオーナーの旦那で元MBAの・・・、今流れている曲、あそこに座ってるエディの・・・、あっ、今度の曲は、私やあそこのサムがバックをしていたオーティスの・・・、「ブルース・ブラザーズ」って映画あったでしょ、あの「2」に出演していたのがロニーで・・・。 案内人の英語をアタラがスパニッシュに訳して、一同は感心すること頻り。オレたちの演奏を何度も観に来ているので、そんなことは知っていると思っていたツアコン(添乗員)のアタラが、一番感動していた。そして彼女のみが、上記の3名と次々にツーショットを撮っていた。
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