2006年9月1日(金曜日) 有名なジャズクラブ"Andy's"にSOBが出演。ウチらが店の雰囲気に合わせて静かに演奏するのは妙な感じだが、爆音の苦手なオレには結構楽しかったりする。 アンディズはダウンタウンに在るため観光客が多い。それなのにビリーはオレに「ウインディ・シティ」を唄わせた。数組の日本人客へのサービスの方向が逆だと声を荒げたいが、ステージで指名されドタバタを晒すことの方が余程見苦しいので従わざるをえない。『州外や海外からブルースの街へお越しになってわざわざ日本語の曲を聴きたくはないでしょうが自作の歌の内容はシカゴのことです』と前フリをする自分が情けなかった。 曲の最後に「ウインディ・シティ、ウインディ・シティ、シカゴ」と、ハーモニーにならない下手なメンバーのコーラスが入るが、今晩はいやに力強い。うっ、目の前のテーブルで韓国人グループが口ずさんでいるではないか。そしてバーのカウンターのアメリカ人までもが唄っている。みんな楽しそうであった。うう、意識が過剰なオレの方こそズレているのだろうか。でも、歌の内容を誰も訊かないので、複雑な気持ちに変わりはない。 2006年9月2日(土曜日) 昨日とは打って変わり、カルロス・ジョンソンとセント・チャールズのコード・オン・ブルースで緊張感のある演奏。ホント、手に汗かきながらの演奏なんて久し振りだった。それほどカルロスはメンバーの耳を彼の「音」に集中させる。大昔、初めて上田正樹さんと有山じゅんじさんの3人で仕事をし、当時まだ慣れていなかった譜面で演奏したとき以来の緊張だったかも知れない。いやいや、そんな緊張ならもっとあったろうが今日の質は少し違う。間違えずに弾かねばというのではなく、カルロスや彼のレギュラーメンバーのテンションに置いてかれないよう、ある種の静かな興奮を維持し続けねばならない、小手先の技術を超えた繊細な作業の持続に対するものだった。 ウチから遠い現場へ予定時間より少し遅れて入ると、カルロスのブッキングをするJさんが破顔で迎えてくれた。『シカゴ中のめぼしい鍵盤奏者へ連絡してみんなダメで、アナタは忙しいから無理と思ったけど最後に電話して引き受けてくれたから、本当に助かったわ』と喜ぶ。オレが忙しいから「最後」になったわけでないことは知っている。カルロスの音楽に必要なオルガンを弾かないから、最初から連絡順が下位なのだ。だから今まで何度も頼まれたのにいつも直前の連絡で断り続け、今回初めて「彼の仕事」に参加出来た。 エレピやストリング音なども駆使し、オルガン音源のないチャチな自前キーボードで2時間の一セットを何とか終える。んっ!?に、2時間?延々と続くギターソロは、多様なフレーズにバンドの音量のメリハリなどで飽きないが、もう2時間経ちましたか。そして休憩後の客席に人はほとんど残っておらず、オレたちは二セット目に一曲だけ演奏して電源を切った。 別れ際にカルロスは『また直ぐ連絡するよ』と言ったが、次に一緒できるのは当分先になりそうな気がしていた。 2006年9月8日(金曜日) ロブ・ストーンとハウス・オブ・ブルースで、夕方6時から午前2時までダブルのお仕事。多分70曲は演奏した。前半のパーティでは、機械関係のコンベンション中のため海外からのお客様、特に日本人の姿が目立つ。 休憩中、思いっきり日本人の方から、思いっきり日本人のオレは話しかけられた。 『リクエスト、オッケィイイ?』 ほへっ。ブルースバンドの、それもオーソドックスな古いシカゴスタイルのブルースしか演らんロブ様に、ジャズの名曲、5拍子のテイクファイブをとなっ・・・。 『あっ、一応リーダーに訊いてみます』 オヤジ、すかさずオレの手に札を握らせた。額を確認せずにロブへ直接渡し、リクエストの旨を伝える。 『ボクは演らないけど、アリヨ出来るだろ?じゃ、みんなを先導してよろしく』 オレの目の前にロブがかざしたピン札がヒラヒラと踊る・・・$100。 レギュラーのSOBでも、ビリー抜きでオレがファンクビート(8拍子)にアレンジした"Take Five"を演るときはあるが、みんな下手なのでいつもひとり腐っていた。それが、このユニットでオヤジの望む"Take Five"をですか? 『ええ、リーダーが演ると言っておりますので(チップは返しません)』 そしてオレたちは"Take Five"を何故かちゃんと演奏した後、『アリヨの"Take Four"も演っちゃおう』というロブの一声で、ファンク版"Take Five"も片付けた。安いバンドに$100の威力は凄い! 某財閥系機械メーカーのシカゴ支社の役職に就くMの言葉を思い出す。『コンベンションで受注しても、実際本契約のときは、その半分になっちゃうんだよね』 若い部下を従え陽気に酔って踊る$100オヤジの赤ら顔を見ながら、ちゃんと100台の本契約ができますようにと、オレは小さくお祈りしてあげた。 2006年9月13日(水曜日) ロブ・ストーン偉い!先週に引き続きお金になるお仕事を持ってきた。ネイビー・ピアでお昼のパーティ。今晩はビリーたちとレギュラーの演奏があるので、 軽くダブルで稼げます。 高さ数十メートルの天井のドーム型会場に、大きな円卓が50余り置かれている。何のパーティかは知らぬが、善男善女が集う豪華そうな宴。ダウンタウンから 湖へ伸びた突堤の、一番端にグランド・ボールルームはあった。東を望めば、何の障害もなく海のようなミシガン湖がパノラマで広がる。吹き付ける風が心地良 い・・・ん!?ちょっと強くないか。 お気に入りの黒スーツのアリヨ、車から機材を出そうとして、強風で勢い良く閉まったトランクの扉に頭を強(したた)か打ち付けられる。 2006年9月16日(土曜日) 昨日の夕方はオークパークの屋外フェスティバルでSOBと、時間もお手当も楽な演奏をしたけれど、今晩はサウスサイドのチェッカーボードで女性歌手のトレイシーと廉価演奏。 値段が安いからどうのこのうは言いたくないし、どうせ空いていたから引き受けたものの、演奏の質(この場合は唄い手)と演者の値段が比例しがちなことに、自分のいる位置を思い知らされる。ゲストで唄ったボビー・ジョーンズ(ゴスペルの有名歌手に顔が似ているから、そう名乗っている)のミュージシャンに対する扱いなど、まるで「バンドさん」で、つまりサポートへの敬意はなく、カラオケでも唄うようなステージング。不思議とそういう人からオレは重宝されるが、ベースのメルヴィンなどはキレる一歩手前だった。 このクラスのブルース、R&B業界は、リハーサルに金は出ないので即戦力が呼ばれる。だから曲を知らないと「お前なんでここに呼ばれた」の目で蔑まれ、特にベースの場合一番手を抜き難く目立つため、矢面に立たされやすい。その点オレなどのキーボードは、適当にフレーズを合わせていれば事足りるし、ここぞというときに前へ出ると得点は倍増する。 メルヴィンの名誉の為に説明すると、彼が演目の曲を知らなかったのではない。この日ボビーから信頼されていたジェームス某というギタリストとメルヴィンのコードがよくぶつかり、ギターに合わせて唄うボビーはメルヴィンを気に入らなかっただけだ。そしてオレはどっちつかずな演奏をしていたので、誰からも文句は出ず、八方美人振りを発揮できたというに過ぎなかった。 誰が正しいということはない。メルヴィンはオリジナル曲に忠実で、ジェームスはボビーのやり方(アレンジ)を知っていただけだ。それぞれのプライドがぶつかり合い、曲によっては成立しないバンド編成など、メンバーを選定したトレイシーに責任はある。リズムしか刻まず味を出せないドラムの若いボクなんて、彼女以外誰も面識はなかった。 ボビー・ブルーの曲を唄い込んでいたボビーは『ちょっと音を下げてくれ』と後ろを向いて指示を出した。みんな一様に下げたが、それでも彼にはメルヴィンの音が耳に障ったらしい。『おい、ベース、音を下げろと言ってるんだ』と、マイクを通して訴える。ブルース・クイーン、ココ・テイラーのレギュラーベースとして活躍するメルヴィンにとっては、耐えられない屈辱だったに違いない。彼の顔は一瞬で紅潮し、オレを見つめて目を丸く見開くと音量をゼロにした。オレは笑いを必死に堪えて俯いていた。 2006年9月23日(土曜日) ジョニー・ウインターの思い出は、85年のシカゴ・ブルースフェティバルにまで遡る。 出演中のロバート・ジュニア・ロックウッドをホテルに訪ね、エレベーターでジョニーと一緒になった。乗り合わせ何も話さないのは失礼な気がして、彼が会釈を返したのを機に『ジミー・ロジャースのピアニストでアリヨと申します』と自己紹介した。驚いたことに彼は『おお、君が日本人のピアニストか、ジミーから噂は聞いていたよ』と応え、『さっきフェスの会場で、このトロフィの受賞セレモニーがあったんだ』と顔をほころばす。オレの眼前に差し出された高さ25センチ程の黄金色の像には、グラミー賞と印されていた。開襟されたシャツから見える、白い胸毛に透けた十字架の入れ墨がとても印象に残っている。 そのジョニー・ウインターの前座をSOBが務めるはずだった。ところがレジェンズから直前に連絡が入り、オレたちがトリを持つことになってしまう。ジョニーの次の目的地への移動の都合と想像されたが、彼の体調も思わしく見えなかったので本当のところは分からない。トリなら少なくとも2時間は演奏するが、前座なら1時間足らずで終わる。マネージャーのM女史は『SOBの前座をジョニーがするんだからねぇ、アンタたちも偉くなったもんだわ』と言葉を浮かせたが、ジョニーが終わった後どれほどの人が残っているのかが心配だった。 ステージ中央の椅子に座るやせ細った身体は、背筋をピンと伸ばしているせいか病弱には見えない。しかし、その唄とギターは往年の演奏とまでは言い難かった。それでも、70年代に遡ったかのような元ヒッピー風のファンからは、『ジョニーィッ!ジョニーィッ!』の声援が、あちらこちらから競い合うように飛ぶ。彼らにはいつまでもアイドルなのだ。 ステージ横に居続けることが息苦しくなり二階の楽屋へ上がると、落ち着いた表情のビリーが『ローリング・ストーンズもそうだったけど、ファンにとっては、彼が存在しているだけで嬉しいもんなんだろうよ』と解説した。『しかし、ストーンズはサポートに最高のミュージシャンを揃えている。コンサートツアーばかりのジョニーがクラブで演ることは珍しいが・・・』と、その後を言い淀む。みんながジョニーに気を遣っていたに違いない。今思うとオレは無意識のうちに彼をわざわざ避けるような位置取りをして、最後まで顔を合わせようとはしなかった。 オレたちの前座は80分程演奏し、そのうちジョニーは70分間存在していた。そしてアンコールに応えることもなく、彼は店の真ん前に停められたツアー用キャンピングカーへ直行したらしい。その順路だったのだろう、裏口になる階段下からは、ビリーの大きな声が元気に聞こえてきた。 『俺ビリー・ブランチってんだけど、アンタのアルバムでハープも吹いてるよ』 ジョニーが大将とどれほど立ち話をしたかは分からない。ビリーと比して彼の声はまったく聞こえてはこなかった。 窓のカーテンを少し開き下を覗くと、キャンピングカーのドア前にジョニー詣での人々がアルバムやポスターを手に列をなしている。呼ばれた順に中へ入れるようだった。ファンの熱狂振りを目の当たりにすると、サービスのしがいもあるのだろう。オレは少し心が和らぎ、どこかでホッとしていた。 結局ほとんどの客は残っていて、いつもと変わらぬSOBの演奏が続く。ただ、前代未聞の前座が走り去っていった異次元の空間が、その余韻として人々を立ち去り難くさせていたのかも知れなかった。
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