Little Arthur Duncan

(2000年12月10日記)


Junior & WABI 1993


12月9日は、ジュニア・ウェルズさんの誕生日でした。ぼくも同じ12月9日生まれなので、数年前までは、ジュニアさんの誕生日パーティーの噂を聞くと自分の誕生日パーティーみたいに思ったものです。

最後に彼と会ったのは、多分、彼の最後のヨーロピアン・ツアーとなった、97年の秋口、ドイツのブルース・フェスティバルの楽屋でのことでした。
ぼくは、イタズラ半分で10人位の行列が続いた廊下に一緒に並んで順番を待っていました。現地のファンは皆、手にジュニアのLP/CDやジュニアの若い頃のポスターを持っています。サインを貰う為です。ぼくだけが、手ブラでした。

やっと順番が来て、彼はぼくを見上げました。そして本当に驚いた顔をして「お前はここで何をしているんだ!?」と抱きついてきました。ずいぶん長い間会っていなかったのです。ぼくは「有名なブルースマンが、シカゴから来ていると聞いたので挨拶に来たんです」と笑いながら答えると、ジュニアは「さっきの、ハモニカの若造はお前だったのか?」と訊いてきました。「79丁目でうろついていた、あのベイビーがか!?」
因みにこちらでは、こう言う風な再会を「クロスロード」と言うそうです。(注1)

ジュニアさんのバンドは、ギターに確かヨーロピアンのアンディーと、もう一人のギターが白人のアメリカ人。どちらもかなり若手です。キーボードにジョニー・イグアナ、ドラムにウィリー・D。彼はこの後、ルーサー・アリソンに引き抜かれたと聞きました。それから、ベースが、黒人さんで、テナーサックスとトロンボーンとも黒人で...。みんな顔馴染の人達なのですが、名前がどうも思い出せません。
この頃のジュニア・バンドは、特に上もののメンバーの入れ替わりが激しく、固定メンバーだったギターのスティーブ・リサードさんが抜けた後、ギターだけでも7〜8人位入れ替わったのではないでしょうか?ぼくにもハッキリ判りません。

ジュニア・ウェルズさんは、ぼくがシカゴに来て最初の頃に知り合ったブルースマンの一人でした。と言うより、現在東京の中野で「Bright Brown」と言う店を経営している鈴木さんや、むかし阿佐ヶ谷で店をやっていたジョニーさん(現在、福島市でなまず亭を経営)に、シカゴのサウスサイドで、ルイス・マイヤーズさんに紹介されて、そのルイスさんのところにジュニアさんが、遊びに来ていて知り合って...。書いているとキリがなくなります(笑)。
とにかく、当時アメリカには、ぼくの知り合いも友人もいませんでした。特に英語で苦労したものです。
何も知らずにシカゴに渡ったぼくは、ジュニアさんが生きて活動していると知った時は「やった!」と感激したものです。シカゴに辿り着いて以来、何度観に出かけたか数えきれません。
しかし、彼のアルバム「Blues Hit Big Town」や「It's My Life, Baby」での演奏は昔の話で、この頃には、"Snatch It Back And Hold It"や"Hoodoo Man Blues"をリクエストしてもバンドさんがついて来れない状況でした。(笑)
ぼくの胸の奥の方には、今でも彼のハモニカの音と歌声が焼きついています。

因みに今夜も彼の誕生日パーティーが、ROSAで行われるようですが、ぼくはLittle Arthur Duncan(注2)のCDリリース・パーティーに行ってきました。土曜日の"Smoke Daddy"は、このウェストサイド・ブルースマンの生き残りを一目観ようと詰め掛けたブルースファンでいっぱいでした。
テールドラッガーと並ぶこの現役ダウンホーマーは、いつもと変わらずリトル・ウォルターの"You Got Go"やハウリン・ウルフの"How Many More Years"、ジミー・リード風のオリジナルなど、もう40年以上も昔の歌を現在も演奏しつづけています。
昔のハモニカプレイヤーには、ハモニカを上下逆に持ってプレイする人(音の低い方が右手に来る)が結構いますが、彼もその一人です。アンプは使わず、PAのマイクで吹き切るところも共通点です。ルイス・マイヤーズさんもそうだったように思います。

メンバーは、ギターにロッキン・ジョニーと、マディの何かのビデオ(注3)で共演していた事のあるリック・クレハー、ベースにこのバンドの仕掛人のカール・メイヤー、ドラムにツイスト・ターナーとアシュワード・ゲイツの姿も見えました。

リトル・アーサーは、ミシシッピーのプランテイション育ちだそうですが、幼馴染がなんとB.B.キングだそうです(笑)。


江戸川スリムのお節介注釈

(注1)クロスロード
同業者(この場合はハーピスト)が、長い間別々の活動をしていて、意外な場所や予期していない場所で一緒に仕事をした場合「クロスロード」と言うらしい。ただし、客とプレイヤーの関係ではこの言葉は使わない。

(注2)Little Arthur Duncan
1934年、ミシッシッピー州インディアノラの生まれ。文中にもあるようにB.B.キングと同じウッドボーン・プランテーションで少年期を過ごす。1950年代にシカゴのウエストサイドに移り住み、アール・フッカーなどと演奏をしていたが、シカゴ・ローカルのミュージシャンに留まっていた。
そんな彼を一躍有名にしたのが、キャノンボールから1997年に発売された「Blues Across America-The Chicago Scene」。その後、1999年にデルマークから、2000年にランダム・チャンスからそれぞれアルバムを発表し、現在でもコンスタントに活動している。
なお、1989年にブルース・キング・レコードから「Bad Reputation」というカセットが発売されているが、私は見たことも聴いたこともない。

Blues Across America
The Chicago Scene

(Cannonball CBD-29204)

Singin' With The Sun
(Delmark DE-733)

Live In Chicago
(Random Chance RCD-3)

(注3)マディの何かのビデオ
Muddy Waters "Maintenance Shop Blues" (YAZOO 508)にジョン・プライマーらと共に参加している。


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